こういうSF映画はめったにない。従来のハリウッド映画はこういう作り方を一切しないし、出来ないからだ。観客のニーズに応えなくては十分な興行成績があげられないとプロデューサーが勝手に判断する。監督の意向は汲まれることはない。SF映画史の金字塔リドリー・スコットの『ブレードランナー』の闘いの記録を思い出せばいい。いくものバージョンが公開され、最終版に至るまでの奇跡は目撃できる。(キューブリック『2001年宇宙の旅』は別格)
今回のヴィルヌーブの映画は内省的な作品で派手なビジュアルの戦闘シーンでアドレナリンを全開させることもなく、感動を盛り上げることもなく、淡々と静かなトーンを最後まで貫く。(スピルバーグの『未知との遭遇』ですら、派手な作り方をした。攻撃的宇宙人との遭遇を描くティム・バートン『マーズアタック』なんてマンガだったし。)
主人公の言語学者(モード・アダムス、ではなくエイミー・アダムス)は、人類の存亡を賭けた戦いに対して、学者としての矜持を失うことなく、(ヒーローにはならない、ということだ)冷静に対象物(宇宙人ね)と向き合う。学者らしくゆっくりと時間をかけて、ひとつひとつの積み上げから、真理にたどり着こうとする。ギャレス・エドワーズの『モンスターズ』(2本とも面白かった!)に登場したタコ型宇宙生物とよく似たエイリアンとのコンタクトを通して、人類がこの世界を(同時に、宇宙を)救うために何が出来るのかを問う。これはこんなにも地味な映画なのに、壮大なスケールの物語なのである。
しかし、派手な戦闘シーンは皆無。『宇宙戦争』じゃないのだから、それはない。この思いの外、地味な映画に戸惑う観客も多数いたはずだ。しかし、この映画のメッセージは、誰もの心に確かなものとして届く。たとえ、あなたの未来に希望はないとしても、その未来にむけて、全力で生きていくことに意味がある。そうして得たものは、必ずあなたの「未来」を作る。