今回の久野那美の挑戦は、映像による再演とリメイク。映像の前後に10分から15分程度の演劇パートを加えたことで作品自体がどういう形で姿を変えるのか。すでに完成したはずのものが、別の角度からスポットを当て、姿をかえていく。そして新しい作品へと生まれ変わる瞬間に立ち会うこととなる。だからこれは安易で単純な記録映像の上映会ではない。
作品がどういうかたちで進化していくのか、舞台から目が離せない。彼女の代表作から4作品がチョイスされた。いずれも傑作ぞろいだ。特に昨年の『点転』は、僕たちが見た大阪公演ではなく、埼玉での上演作品で、空間が変わればこんなにも作品が変化していくのかと驚かされた。狭い空間で上演された作品が、広い空間で再演されたとき、まるで別作品のような印象を受けた。さらにそれに追加されたお芝居は、本編である作品の別角度からのエピソードを前面に押し出すことで作品全体がまるで別の様相を呈する驚きの展開だ。
この作品だけではない。4作品とも映像の前後には追加パートが演劇として上演されるというスタイルだが、いずれもそれぞれの工夫が施されてある。しかも、今回は久野さんが書いた台本を彼女自身ではなく中村一規に演出を依頼した。敢えて自分が手掛けないことの意味はどこにあるのか、さらには追加したシーンと本編はどういう形で融合していくのか、そのへんもまた、興味深い。映像と演劇の世界が融合ではなく異化することで作品世界は思いもしない方向へと広がる可能性を秘めて、見たことのある作品が見たこともないものへと変貌した。
他の3作品は『行き止まりの遁走曲(フーガ)』『パノラマビールの夜』『話すのなら今ここにないもののことを話したかった。今ここにないものの話ばかりしようと思った(客席編)』の3作品。いずれもオリジナルも今回のリメイクも素晴らしい作品である。そんな4作品を1日で見ることができた。これは思いもしない素晴らしい体験だった。
これらの作品については後日別項で書く予定だ。(ただし『行き止まりの遁走曲(フーガ)+』は、諸事情ゆえ100分の上演時間のうち60分しか見れなかったので書けない。残念。)
『行き止まりの遁走曲(フーガ)+』は、オリジナルの芝居を映画として、作品内に取り込み、その完成披露試写会会場での上映前と上映後の風景を芝居として見せた作品だ。映画として描かれた虚構と、実際の映画の中で描かれた公園閉鎖の日の事実。そのドキュメントの対比。さらには距離を置いて、公園スタッフが映画として完成した作品を見たこと。ひとつの現実がいくつものフィルターを通し、見直されていく。そこにあったものは、何だったのかが描かれる。 これもちゃんと見たかった。