この作品の正式タイトルは『話すのなら、今ここにないもののことを話したかった。今ここにないものの話ばかりしようと思った《客席編》』だ。長いから覚えられない。(まぁ、タイトルを覚える必要はないのだけど)でも、このタイトルは素晴らしい。この芝居の本質を的確に表現してある。そこにはもどかしいくらいに大切なものがある。でも、それが何なのか、よくわからない。でも、そのわからなさがとてもいいと思う。よくわからない感動に包まれて、この作品の余韻に浸っていた。
見終えた後、近くの定食屋で、日替わりメニューである「エビチリ、豚汁」の定食を食べて、少し時間があるからテーブルで、この芝居のメモを取っていた。不思議な芝居である。終わった後、次の上映までの10分ほど、で書いたのは以下のような文章だ。
劇が始まらない劇という不条理。舞台の幕は閉じられたまま、客席にいるひとりだけの客と舞台袖から出てきたこのお芝居のキャストである男が、舞台の前で上演時間が過ぎているのに、いっこうに始まらない芝居を待ち続け、この劇について話始める。彼女はこの芝居の初演を見た、と言う。彼女にとって芝居を見るのはそれが初めての体験だった、と語る。そして、今日が芝居を観る2回目だ、とも。
映像で上映されるこの芝居を見た後、スクリーンの後ろから顔を出した人たち(舞台の手前にも2人いる)、要するにこの芝居の配信動画を見ていた人たちが、ネット上でこの芝居のことを話し始める。ここからは、もちろんライブの演劇として描かれていくのだ。もともと不思議なスタイルによる作品がさらにこの上映+上演というスタイルにより、不条理と混沌が深まる。何が現実なのか、わからなくなってくる。
映像パートのラストでそれまでこの芝居では使われることのなかった舞台上に唯一の観客であった彼女が入って行く。そして、照明もない真っ暗な舞台のその闇の奥へと消えていく姿を見送った後に続く劇パートのあっけらかんとしたやりとりが、その異質なテイストゆえ、これはなんだろう、という不思議さと、なんでもいいや、という投げやりな気分を倍増させていく。オリジナル部分はもちろん久野さんの演出で、追加した部分は中村さんによる演出で、この両者が1本の作品の中に混在することで、作品の夢のような感触は深まる。あっという間のような永遠のようなたった1時間だ。異質な感触が相乗効果を発揮する。
と、ここまで10分ほどで書いたところで、次回の上映が始まる時間が迫ってきた。結局よくわからないことがこんなにも心地よく、そんな時間のなかでまどろんでいた。芝居を見た後、受付にいる久野さんと少しお話して、ご飯を食べた後しばらくひとりでぼんやりして、また、再び劇場に向かう。そんな時間のすべてがなんだか夢のようで、それがこの不思議な1日の始まりであった。