芝居の後、講評係のメンバーとしゃべっていたら、客出しを終えた箕面高校のチームがやってきて、「アドバイスをお願いします」と言われてしまった。本当はこういうのって苦手なのだが、なんだか彼らが初々しく、嬉しい気分にさせられた。
僕たち4人で、順に簡単なコメントをする。本番の講評会は後日あるのだが、終演後の昂揚した気分のなかで彼らと向きあえて楽しかった。
本番直後の幸福感に包まれた彼らを前にして、この「ささやかだけど気持ちのいい芝居」について、一言ずつ感想を述べる。その時、僕らは大人と子供ではなく、受けとめ手と表現者としてそこに対峙し、同じ目線で1本の芝居をしゃべることになる。この瞬間が好きだから、僕は芝居を見ているんだなぁ、と改めて思う。
ひとつ失敗したことをここに書いておこう。ラストのキャスト紹介で、「死者1を演じましたXXです」というのを聞いて頭が真っ白になった。「ええっ! あの3人は」と思うと、あまりのことにのけぞってしまったのだ。そりゃないよ、と驚く。そのことがあまりにショックで感想を述べた後に直接聞いてしまった。
「死者だったんだね、あの3人は」
「ええ、彼女たちは使者ですが」
更に僕。
「あの子たちも死んでたんだ」
彼らは僕が何を聞いてるのかわからない。
「というか、3人は主人公が見た幻で、」
当然、話は噛み合わない。
まぁ。僕は使者を死者と勘違いしてたのですね。後でパンフのキャスト表を見て、そのことに気付く。なんとも恥ずかしかった。
だが、あの廃校になった雨並高校に出る幽霊は自殺したヒロインのハルだけではなく、彼女を虐めた3人、更にはそれを見ていた周囲のクラスメートたちをも含めたみんなであってもいいと思う。
芝居としての膨らみはそこから生じる。ひとつの誤解が作品世界をさらに大きなものにしていく。そんなことを思った。ハルの死が引き金になり、ひとつの高校が死んでいく、という壮大なスケールのドラマをこの小さな芝居はその背後に孕み持っていたのである。
作り手は幼くてそこまで考えていなかったはずだが、彼(作、演出を担当した高橋涼太くん)の作ろうとしたドラマの中にはそれだけの可能性があったのだ。ビー玉に願かけをするという発想からスタートしたこの芝居は、そんなさまざまな可能性を内包する。
僕たち4人で、順に簡単なコメントをする。本番の講評会は後日あるのだが、終演後の昂揚した気分のなかで彼らと向きあえて楽しかった。
本番直後の幸福感に包まれた彼らを前にして、この「ささやかだけど気持ちのいい芝居」について、一言ずつ感想を述べる。その時、僕らは大人と子供ではなく、受けとめ手と表現者としてそこに対峙し、同じ目線で1本の芝居をしゃべることになる。この瞬間が好きだから、僕は芝居を見ているんだなぁ、と改めて思う。
ひとつ失敗したことをここに書いておこう。ラストのキャスト紹介で、「死者1を演じましたXXです」というのを聞いて頭が真っ白になった。「ええっ! あの3人は」と思うと、あまりのことにのけぞってしまったのだ。そりゃないよ、と驚く。そのことがあまりにショックで感想を述べた後に直接聞いてしまった。
「死者だったんだね、あの3人は」
「ええ、彼女たちは使者ですが」
更に僕。
「あの子たちも死んでたんだ」
彼らは僕が何を聞いてるのかわからない。
「というか、3人は主人公が見た幻で、」
当然、話は噛み合わない。
まぁ。僕は使者を死者と勘違いしてたのですね。後でパンフのキャスト表を見て、そのことに気付く。なんとも恥ずかしかった。
だが、あの廃校になった雨並高校に出る幽霊は自殺したヒロインのハルだけではなく、彼女を虐めた3人、更にはそれを見ていた周囲のクラスメートたちをも含めたみんなであってもいいと思う。
芝居としての膨らみはそこから生じる。ひとつの誤解が作品世界をさらに大きなものにしていく。そんなことを思った。ハルの死が引き金になり、ひとつの高校が死んでいく、という壮大なスケールのドラマをこの小さな芝居はその背後に孕み持っていたのである。
作り手は幼くてそこまで考えていなかったはずだが、彼(作、演出を担当した高橋涼太くん)の作ろうとしたドラマの中にはそれだけの可能性があったのだ。ビー玉に願かけをするという発想からスタートしたこの芝居は、そんなさまざまな可能性を内包する。