2011年、最後の1本はワン・ビン監督初の劇映画『無言歌』にした。ストイックでとてもいい映画だった。ただ、余りに重く、暗過ぎて、見終えた瞬間は、ちょっとへこんだ。ここには映画を見るということの快感はない。まるで苦行のような映画である。でも、それは当然のことだろう。僕たち観客は、その痛みに耐えるべきだ。
これまでずっとドキュメンタリーを撮ってきたワン・ビンが、その従来のスタイルそのままで、劇映画に挑戦している。忠実に再現された1960年のゴビ砂漠、右派収容所での生活を、そのまま一切感情を交えることなくドキュメントしていく。主人公たちに寄り添うことなく、距離を置いたままで、ラストまで、感情の起伏を排したタッチで冷徹にとらえていく映画だ。
そこに作り手の覚悟のほどがうかがえる。甘っちょろいセンチメンタルはない。もちろん登場人物である彼らが感情的になったりするシーンは当然ある。飢餓のための苦しみ、飢えと病から死んで行くのだから、静かにそれを受け入れていくばかりではない。ある男が戻したゲロを、ほかの男が食べるシーンがある。あまりのことに、見ていて気分が悪くなる。でも、これもまた事実なのだろう。それをセンセーショナルに描くことはない。ただ淡々と見せるばかりだ。
栄養失調から、ほとんど動くことも出来ず、砂漠の地下溝のようなところでの暮らしを強いられて、不毛な強制労働から、身体を壊す。映画はこれ以上淡々とした描写はないだろ、と思わせるくらいに一切感情を交えない。そっけない描写に徹する。彼らがどんな人物で、どんな生き方をしてきたのか、なんて語られない。ドラマチックな要素は一切排して、ただ、今、目の前に起きている事実をカメラで捉えていく。デジタルの映像の冷たさがこの映画の姿勢を援護する。フイルムで撮られたならこうはならないだろう。
人間が、人間であることをすべて剥ぎ取られて、家畜以下の生活を強いられていく様子を延々と見せられ、心が殺伐としていく。終盤になって、夫に会うため上海からやってきた妻が、彼の死を知り、遺体を捜し出そうとするエピソードがある。彼女は、この映画に登場する唯一の女だ。映画は彼女の姿を追う。彼女の怒り、悲しみが、それまで諦めと無気力しか、描いてこなかったこの映画に変化を与える。圧巻だ。
人間が、人間であることの意味を問いかける。人間性すら剥奪され、それでも生き、そして死んでいくだけの人々の姿をひたすら見せられる。ワン・ビンは何も語らない。僕たちはここに見たことを、そのまま受け止めるしかない。それはこんなにも重く、苦しい。そのあまりの厳しさに圧倒され、言葉もでない。
これまでずっとドキュメンタリーを撮ってきたワン・ビンが、その従来のスタイルそのままで、劇映画に挑戦している。忠実に再現された1960年のゴビ砂漠、右派収容所での生活を、そのまま一切感情を交えることなくドキュメントしていく。主人公たちに寄り添うことなく、距離を置いたままで、ラストまで、感情の起伏を排したタッチで冷徹にとらえていく映画だ。
そこに作り手の覚悟のほどがうかがえる。甘っちょろいセンチメンタルはない。もちろん登場人物である彼らが感情的になったりするシーンは当然ある。飢餓のための苦しみ、飢えと病から死んで行くのだから、静かにそれを受け入れていくばかりではない。ある男が戻したゲロを、ほかの男が食べるシーンがある。あまりのことに、見ていて気分が悪くなる。でも、これもまた事実なのだろう。それをセンセーショナルに描くことはない。ただ淡々と見せるばかりだ。
栄養失調から、ほとんど動くことも出来ず、砂漠の地下溝のようなところでの暮らしを強いられて、不毛な強制労働から、身体を壊す。映画はこれ以上淡々とした描写はないだろ、と思わせるくらいに一切感情を交えない。そっけない描写に徹する。彼らがどんな人物で、どんな生き方をしてきたのか、なんて語られない。ドラマチックな要素は一切排して、ただ、今、目の前に起きている事実をカメラで捉えていく。デジタルの映像の冷たさがこの映画の姿勢を援護する。フイルムで撮られたならこうはならないだろう。
人間が、人間であることをすべて剥ぎ取られて、家畜以下の生活を強いられていく様子を延々と見せられ、心が殺伐としていく。終盤になって、夫に会うため上海からやってきた妻が、彼の死を知り、遺体を捜し出そうとするエピソードがある。彼女は、この映画に登場する唯一の女だ。映画は彼女の姿を追う。彼女の怒り、悲しみが、それまで諦めと無気力しか、描いてこなかったこの映画に変化を与える。圧巻だ。
人間が、人間であることの意味を問いかける。人間性すら剥奪され、それでも生き、そして死んでいくだけの人々の姿をひたすら見せられる。ワン・ビンは何も語らない。僕たちはここに見たことを、そのまま受け止めるしかない。それはこんなにも重く、苦しい。そのあまりの厳しさに圧倒され、言葉もでない。