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いつもの桃園会なら、もっと曖昧な形でストーリーを進めて行くところなのだが、今回は、明確なストーリーラインを提示する。顔が変わる、という話の基本部分も、ストレートに表現する。2人1役というやりかたは、従来の深津作品ならありえない。芝居の中で、はっきり顔が変わるのだ。深津台本ならこの設定でもそんな見せ方はたぶんしないだろう。
B級遊撃隊の佃典彦さんの書き下ろし台本を得て、いつもの自分のやり方ではなく、とてもわかりやすい芝居を目指した。ラストのあっけなさにも、驚いた。そこまでの展開からすると、もっと明確な答えを出すのか、と思ったのに、まるで途中で投げてしまったような印象を与える。妻が帰ってきて、みんなの顔は変わってしまって、でもそれを受け入れていく。新学期も始まる。
芝居は、育児ノイローゼを中心に、近親相姦も絡めて、10年間、ずっと2人で暮らしてきた夫婦に子供が出来て、仕事と家事、育児の両立の中で、壊れていく妻を描く。そんな話を、はたもとようこさんを主演に、不条理劇のスタイルで綴る。
外部の血を入れたことで、桃園会の世界がまた一段と濃いものになった。深津さんの描く世界の輪郭が明確になっていくことで、桃園会という集団の表現がよりクリアなものとして提示されたように思える。それは佃さんに台本を依頼したことの勝利なのだが、もうひとつ、芝居の中心に魚灯の武田暁さんを配した功績も大きい。彼女の天真爛漫な笑顔は、従来の桃園会にはなかったものだ。彼女とペアとなり、2人1役に挑んだ橋本健司さんもまた、彼女に引っ張られて今までの桃園会にはなかった不思議なオーラーを発していく。2人が演じるこの赤ん坊を、芝居の中心にしっかり位置付けたことで、心を壊していくヒロインのドラマはストレートに僕らの胸に届くこととなった。
しかし、ここでいうストレートとは芝居自体の持つ屈折したものをそのまま伝えるという意味で、この作品の底にはいつもの深津作品と同じものが流れている。人の心の奥に潜む闇に根を下ろして、混沌とした闇に蠢くドロドロしたものを、顔が変わっていくというとてもわかりやすい仕掛けを通して描いていく。自分を見失い壊れていく、そんな妻をなんとかして取り戻そうとする夫もまた、実は妻以上に壊れている。
すべての人物を2人1役で演じていくこの芝居の提示するものは一見明確すぎる。だが、いきなり不意打ちのように終るラストは、明確な答えに向かっていくかに見えたドラマの展開をあざ笑うように、僕たちの感情も宙ぶらりんにする。鮮やかな幕切れだ。
B級遊撃隊の佃典彦さんの書き下ろし台本を得て、いつもの自分のやり方ではなく、とてもわかりやすい芝居を目指した。ラストのあっけなさにも、驚いた。そこまでの展開からすると、もっと明確な答えを出すのか、と思ったのに、まるで途中で投げてしまったような印象を与える。妻が帰ってきて、みんなの顔は変わってしまって、でもそれを受け入れていく。新学期も始まる。
芝居は、育児ノイローゼを中心に、近親相姦も絡めて、10年間、ずっと2人で暮らしてきた夫婦に子供が出来て、仕事と家事、育児の両立の中で、壊れていく妻を描く。そんな話を、はたもとようこさんを主演に、不条理劇のスタイルで綴る。
外部の血を入れたことで、桃園会の世界がまた一段と濃いものになった。深津さんの描く世界の輪郭が明確になっていくことで、桃園会という集団の表現がよりクリアなものとして提示されたように思える。それは佃さんに台本を依頼したことの勝利なのだが、もうひとつ、芝居の中心に魚灯の武田暁さんを配した功績も大きい。彼女の天真爛漫な笑顔は、従来の桃園会にはなかったものだ。彼女とペアとなり、2人1役に挑んだ橋本健司さんもまた、彼女に引っ張られて今までの桃園会にはなかった不思議なオーラーを発していく。2人が演じるこの赤ん坊を、芝居の中心にしっかり位置付けたことで、心を壊していくヒロインのドラマはストレートに僕らの胸に届くこととなった。
しかし、ここでいうストレートとは芝居自体の持つ屈折したものをそのまま伝えるという意味で、この作品の底にはいつもの深津作品と同じものが流れている。人の心の奥に潜む闇に根を下ろして、混沌とした闇に蠢くドロドロしたものを、顔が変わっていくというとてもわかりやすい仕掛けを通して描いていく。自分を見失い壊れていく、そんな妻をなんとかして取り戻そうとする夫もまた、実は妻以上に壊れている。
すべての人物を2人1役で演じていくこの芝居の提示するものは一見明確すぎる。だが、いきなり不意打ちのように終るラストは、明確な答えに向かっていくかに見えたドラマの展開をあざ笑うように、僕たちの感情も宙ぶらりんにする。鮮やかな幕切れだ。