習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『ぼくたちの家族』

2014-05-30 21:08:15 | 映画
こんなにも救いようのない話をよくぞまぁ、映画化したものだと驚く。母親の病気(脳種痘)によってそれまでバラバラだった家族が再びひとつになるというような話は今までもよくあったパターンだ。先日の『サクラサク』もそうだろう。だが、この映画はそんな単純なお話ではない。母親の脳に腫瘍が出来てそれにより記憶障害を引き起こすのみならず、1週間の命だと宣告された家族が、彼女のために奮闘する姿を描きながら、家族というのは何なのかを改めて考えさせられる。そんな映画なのだが、話自体はこの先どこに向かうのかを宙吊りにしたまま、終わる。この映画の目的はそこにはないからだ。難病ものの映画なら枚挙に暇はない。これはそんなタイプの映画ではない。

病気を通して、家族がそれまでお互いに無関心だったのに、向き合わざる得なくなる。ふたりの息子は家を出て、独立している。下の子はまだ大学生だが下宿している。上の子は働いているし、もう結婚もしている。大きな家は夫婦だけ。夫は妻には無関心。妻はそんな夫に不満はあるけど、とりあえずどうこうする気はない。今のとりあえずの安定の上に安住するつもりだった。だが、そんなもの砂上の楼閣でしかない。ある日、記憶障害になり、医者に行くと、もう治療は不可能だ、と言われる。ありえない。表面的には元気だし、体にも異常は感じられない。寝耳に水である。実感が湧かないまま、それを受け入れるしかない。映画は彼女の惨い姿は見せない。というか、そういう事態には今はなっていないからだ。だが、彼女の命はカウントダウンしていく。緊急入院、いくつもの検査、手術が続く。

そんな事態にうろたえながらも対応していくしかない。母の死、というまるでリアルではないものを、受け止めるしかない。彼女自身も自分の体の異常に戸惑い、とんでもない事態が進行していることを、薄々感じる。それでも凛として、家族を信じてたたずむ。そうするしかない。

事態を深刻に受け止め、翻弄されながらも、目の前の事態と向き合い、生きていく家族の1週間の戦いが、まるでドキュメンタリーのように描かれる。これだけドラマチックなお話なのに、映画はそれを劇的には見せない。事実の羅列のように淡々と描くばかりだ。裕福そうに見えた家族の実情は火の車で、母親の発病のもと、まず彼らが心配せざる得ないことが治療費の問題であるというシビアなストーリー展開には驚く。映画は普通ならそういう部分をすっ飛ばして見せたがるはずなのに、この映画はあえてそういう側面から切り出そうとする。家族の崩壊はこの発病に始まるのではなく、20年くらい前に遡り、当時中学生だった兄のひきこもりに原因がある、という。そこから徐々に家族の瓦解は起きていたのだと。そんなぁ、と思わず叫びたくなる。そんな古傷を今さら突きつけられても戸惑うしかない。この映画は、いろんな意味で見ていて気分がどんどん塞いでいく映画だ。だが、こんな現実から目を逸らせない。

今、自分自身が、痴ほう症になりつつありそのうち介護を必要とする母親を抱えている。そんなどうしようもない現実の前で、おろおろしているだけ。そんな時なのに、映画の中でまで、こんなのを見たくはない、という気もした。だが、石井裕也はこの映画を通して、とことんまで突き詰めて家族の在り方に迫る。これは僕たちみんなの問題なのだ。このしんどさの先にある未来に手を差し伸べるささやかなラストに確かな光を感じる。答えなんかない。だが、僕たちは逃げない。


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