このアニメーション映画は衝撃的だ。なぜアニメなのか、と見ながらも思ってしまう。わざわざアニメーションにしなくても、実写で充分表現できるはずだ。だが、作者であるアリ・フォルマンは、これをわざわざアニメにする。そして見続けるうちにその答えを知ることになる。アニメーションだから可能だったことが、わかる。
アニメであることで、リアルから遠くなるのは必定のことだ。だって、アニメなのである。だが、この映画はただ戦場の実体を我々観客に知らせることが目的ではない。とても現実とは思えないものを捉えようとする。そのためには、実はアニメーションというスタイルはとても有効なのだ。
現実だったことが、なぜか記憶から遠くなり忘れている。それを取り戻すための旅が描かれる。戦場であったことを、取材を通して、追体験する。彼もちゃんと戦場にいたのだから、実際は、追確認なのだが、忘却の彼方に沈んでいたものは、そう簡単には浮上してきてくれない。
現実とも幻想とも定かではない風景が甦ってくる。その奇妙な体験が綴られていく。まるで夢の中の風景のようにあやういものが、そこから浮かび上がってくる。それをアニメで表現する。それがこの映画の意図だ。タイトルである戦場でワルツを踊りながら、敵兵の前に出ていく男の姿が描かれるシーンはその夢幻的な描写が美しい。人が死んでいくのに、である。なのに、敢えてそんなふうに書いてしまう。不謹慎のそしりは免れきれないが、それはそれで事実なのだ。
現実にあったことが、なぜか記憶から抜け落ち、それを甦らせるために旅だったのに、誰もがそれぞれの欠落を抱えていることを知ることになる。ゆがめられたそれぞれの記憶をたどることで行き着くことが出来る真実、それが描かれる。82年、レバノン。パレスチナの虐殺。消し去りたい記憶。アニメーションという手段に拘る秘密は見終えたときに明確になる。考えてみれば確かに凄い映画なのだ。静かな映画は声高に何かを語ろうとはしない。語らないことで感じられるものがある。ここに描かれた歴史の断片は重い。しかも、僕たちはそんな事実を知ることもなく生きてきた。
アニメであることで、リアルから遠くなるのは必定のことだ。だって、アニメなのである。だが、この映画はただ戦場の実体を我々観客に知らせることが目的ではない。とても現実とは思えないものを捉えようとする。そのためには、実はアニメーションというスタイルはとても有効なのだ。
現実だったことが、なぜか記憶から遠くなり忘れている。それを取り戻すための旅が描かれる。戦場であったことを、取材を通して、追体験する。彼もちゃんと戦場にいたのだから、実際は、追確認なのだが、忘却の彼方に沈んでいたものは、そう簡単には浮上してきてくれない。
現実とも幻想とも定かではない風景が甦ってくる。その奇妙な体験が綴られていく。まるで夢の中の風景のようにあやういものが、そこから浮かび上がってくる。それをアニメで表現する。それがこの映画の意図だ。タイトルである戦場でワルツを踊りながら、敵兵の前に出ていく男の姿が描かれるシーンはその夢幻的な描写が美しい。人が死んでいくのに、である。なのに、敢えてそんなふうに書いてしまう。不謹慎のそしりは免れきれないが、それはそれで事実なのだ。
現実にあったことが、なぜか記憶から抜け落ち、それを甦らせるために旅だったのに、誰もがそれぞれの欠落を抱えていることを知ることになる。ゆがめられたそれぞれの記憶をたどることで行き着くことが出来る真実、それが描かれる。82年、レバノン。パレスチナの虐殺。消し去りたい記憶。アニメーションという手段に拘る秘密は見終えたときに明確になる。考えてみれば確かに凄い映画なのだ。静かな映画は声高に何かを語ろうとはしない。語らないことで感じられるものがある。ここに描かれた歴史の断片は重い。しかも、僕たちはそんな事実を知ることもなく生きてきた。