渡辺美里の同名曲にインスパイアされたこの映画は、かなり微妙な出来だが、こういう映画が作られるのは歓迎だ。この映画としてのスケールの小ささが、反対に映画というものの奥行きを示すことになる。映画なら、こんなことも可能なのだ。自主映画のような軽やかさがこの映画の身上である。思い付きをそのまま即、映画化した、って感じだ。でも、そのフットワークの軽さが普通ならありえないこの映画を実現可能にした。
話には穴だらけである。もう少し考えてから映画化したら、と思うくらいだ。でも、そんなことをしていたら、この素敵な思い付きに、作者が飽きてしまう。だから、鉄は熱いうちに打て、である。こういうのって昔の歌謡映画のノリだと思う。70年代まで生息した「アイドル映画」ってこんな感じだった。安直で、ファンの子しか見に行かないような映画。でも、その中に時々きらりと光るものがある作品が生まれる。桜田淳子の『スプーン一杯の幸せ』(監督は広瀬襄)とか、郷ひろみの『さらば夏の光よ』(監督は山根成之)とか、そんな松竹映画を思い出す。もちろん森谷司郎監督の『放課後』とか、『赤頭巾ちゃん、気をつけて』という東宝青春映画もそうだ。
さて、想い出話はどうでもいい。この映画の話をしよう。
主人公は37歳の風采の上がらないサラリーマン(宮脇康文)。ある日、彼のところに可愛い中学生の女の子(寺島咲)がやってくる。普通なら気持ちが悪いから、付き合ったりはしないはずだが、彼女に請われるまま、デートをする。そして、神戸まで連れて行かれることになる。中年が少女を拉致するのではなく、少女が、である。まぁ、ついていく方もついていく方だが。映画だから、彼には下心はない。まぁ、このへんがこの映画の限界だろう。それが悪いというのではなく、こういう嘘に説得力がないのだ。作りが甘い。
お話の世界に引き込むための装置が機能しないまま、強引に話は展開していく。観客は嘘臭い話を承知でついて行かざる得ない。それはあまりいい気分ではない。こういうファンタジーは観客を心地よく誘わなくてはならないのに。
彼女に誘われて、20年以上前の記憶をたどる旅に出る。中学時代まで彼は関西で暮らしていた。ここで暮らしていたのだ。2人は彼が在籍していた西宮の中学校に行く。そこは同時に彼女が今通う学校でもある。彼がこの女の子についていく事となるきっかけは、その制服にあった。なつかしい制服に身を包んだ少女が、彼の中の『何か』を呼び覚ますのだ。夏休みの中学に忍び込んで、想い出の教室で過ごす午後のひととき。(でも、今時部外者はそう簡単には学校に忍び込めませんが)
映画はここから彼の閉ざされた想い出の世界に入り込む。なんだか気恥ずかしいような初恋物語だが、でも、けっこう生々しい展開もあり、驚く。15歳の頃、何を思い何を考え生きてきたのか。子どもなりにそれはそれで一生懸命だった時間を、慈しむように描く。ここが納得できたならこれは傑作になったかもしれない。ただの感傷に流されない映画にして欲しかった。
15歳の少年の限界と、彼なりの誠実さがきちんと描かれたなら、この切ない映画は忘れられない映画になったはずだ。少年時代の時間をただ2人のドラマとして閉ざした状態で描くのではなく、『あの頃』をちゃんと描くことで、映画は力を持ったはずだ。15歳の少女の傷みと決意が少年の側からしか描かれない。しかも、そこに作る側の覚悟が感じられない。その結果大事な部分が流されるだけで処理されていく。映画としては致命的だ。この作品の緩さがこういう結果を生んだのだ。
忘れていた記憶を通してなんとなく流されていくている『今』という時間を大事にしようと思う。このなんでもない映画に感動させられたかった。たったひとつをちゃんと描いたなら、あとはどうでもいい。そこが何とも残念だ。
話には穴だらけである。もう少し考えてから映画化したら、と思うくらいだ。でも、そんなことをしていたら、この素敵な思い付きに、作者が飽きてしまう。だから、鉄は熱いうちに打て、である。こういうのって昔の歌謡映画のノリだと思う。70年代まで生息した「アイドル映画」ってこんな感じだった。安直で、ファンの子しか見に行かないような映画。でも、その中に時々きらりと光るものがある作品が生まれる。桜田淳子の『スプーン一杯の幸せ』(監督は広瀬襄)とか、郷ひろみの『さらば夏の光よ』(監督は山根成之)とか、そんな松竹映画を思い出す。もちろん森谷司郎監督の『放課後』とか、『赤頭巾ちゃん、気をつけて』という東宝青春映画もそうだ。
さて、想い出話はどうでもいい。この映画の話をしよう。
主人公は37歳の風采の上がらないサラリーマン(宮脇康文)。ある日、彼のところに可愛い中学生の女の子(寺島咲)がやってくる。普通なら気持ちが悪いから、付き合ったりはしないはずだが、彼女に請われるまま、デートをする。そして、神戸まで連れて行かれることになる。中年が少女を拉致するのではなく、少女が、である。まぁ、ついていく方もついていく方だが。映画だから、彼には下心はない。まぁ、このへんがこの映画の限界だろう。それが悪いというのではなく、こういう嘘に説得力がないのだ。作りが甘い。
お話の世界に引き込むための装置が機能しないまま、強引に話は展開していく。観客は嘘臭い話を承知でついて行かざる得ない。それはあまりいい気分ではない。こういうファンタジーは観客を心地よく誘わなくてはならないのに。
彼女に誘われて、20年以上前の記憶をたどる旅に出る。中学時代まで彼は関西で暮らしていた。ここで暮らしていたのだ。2人は彼が在籍していた西宮の中学校に行く。そこは同時に彼女が今通う学校でもある。彼がこの女の子についていく事となるきっかけは、その制服にあった。なつかしい制服に身を包んだ少女が、彼の中の『何か』を呼び覚ますのだ。夏休みの中学に忍び込んで、想い出の教室で過ごす午後のひととき。(でも、今時部外者はそう簡単には学校に忍び込めませんが)
映画はここから彼の閉ざされた想い出の世界に入り込む。なんだか気恥ずかしいような初恋物語だが、でも、けっこう生々しい展開もあり、驚く。15歳の頃、何を思い何を考え生きてきたのか。子どもなりにそれはそれで一生懸命だった時間を、慈しむように描く。ここが納得できたならこれは傑作になったかもしれない。ただの感傷に流されない映画にして欲しかった。
15歳の少年の限界と、彼なりの誠実さがきちんと描かれたなら、この切ない映画は忘れられない映画になったはずだ。少年時代の時間をただ2人のドラマとして閉ざした状態で描くのではなく、『あの頃』をちゃんと描くことで、映画は力を持ったはずだ。15歳の少女の傷みと決意が少年の側からしか描かれない。しかも、そこに作る側の覚悟が感じられない。その結果大事な部分が流されるだけで処理されていく。映画としては致命的だ。この作品の緩さがこういう結果を生んだのだ。
忘れていた記憶を通してなんとなく流されていくている『今』という時間を大事にしようと思う。このなんでもない映画に感動させられたかった。たったひとつをちゃんと描いたなら、あとはどうでもいい。そこが何とも残念だ。