ミヒャエル・ハネケのデビュー作から、『ピアニスト』に至るまでの作品からセレクトして、5本がリリースされた。今まで日本で紹介されることがなかった彼の作品は、過激すぎて、とても劇場で商売できるようなものではない。
DVDリリースされた今回の作品だって、コアなファン以外誰一人レンタルすらしない、というのが現状である。この3ヶ月間我が家の近所のツタヤで、ただの1度すらレンタルされているのを見た事がない。3本ずつ全体で15本の入荷されたのにである。だいたいハネケを入荷すること自体が、このツタヤは間違えている。もちろんそのおかげで、こうして僕はハネケを見ることができたのだ。心から感謝している。
オーストリアからフランスに移っての第1作『コード・アンノウン』から見始めた。そのあまりのタッチに戸惑いと不安は隠せない。今まで見てきた劇場公開作とは、一味違う過激さ。これを劇場にかける勇気ある配給業者なんていまい。
どうでもいいことを(もちろんハネケにとっては大事なことだろうが)いつまでも見せ、大事なことはさりげなく一瞬で済ます。それは今回の2本に共通することだ。ワンシーン、ワンカットでいきなりフェードアウトする。ストーリーまで分断し、断続的に見せられるので、頭の中でうまく整理できないまま、そんな暇もなく流れていく。いくつものエピソードは交錯しないまま、ラストを迎えて、ここでもいきなり終わる。聾唖の子供たちは最初と最後に出てきてそれが全体の象徴となっているが、それ以上のものはない。
『コード・アンノウン』を見た時、もう後の4本は見るのをやめようか、と思ったくらいだ。とてもではないが、TVフレームでこれを見るのは苦痛すぎる。
現実はこんなものかも知れないが、それを映画として提示する時には、もう少しストーリーラインの整備が必要だ。それでなくては見ているほうは苦しい。彼らの日常と現実が、あまりに何の説明もなくさりげなく提示される。それらのエピソードはほとんど交錯しないまま幕を閉じる。
女優と、その恋人の報道カメラマン。彼らのもとにやってくる男の弟。彼が街角で不法滞在の老女に侮蔑的な行為をしたこと(何をしたのかは、よくわからない。パンの袋を投げつけたように見えたが。)で、それを見ていたアフリカ系の青年が正義感から彼に絡む。この弟と青年の喧嘩に、人が集まり、警察までがやってきて事件となる。その結果、青年が拘留され、老女は国外追放となる。映画はここから始まり、この場にいた人々、その関係者のさまざまなドラマが語られる。映画は彼らのその後をバラバラに綴るだけだ。ものの見事に、それ以上のドラマは相互には生まれない。
オーストリア時代の氷河期3部作の最終作である『71フラグメンツ』を続いて見たが、こちらのほうが、もう少しメリハリのある作り方をしている。それでも相変わらず超過激である。
不法入国する少年の乗ったトラックを延々と捉えたオープニングは、長谷川和彦の『青春の殺人者』のラストシーンの続きのように見えた。トラックの後ろにもぐりこんで、夜の街をどこまでも行く。どこに行き着くかも知れないまま、旅立つ。
映画は、世界中で起きている戦争やら、内乱のニュースを見せた後、前述の少年を中心にした、ここで暮らすさまざまな人たちのスケッチを提示する遣り方は、『コード・アンノウン』と同じである。途中5回ほど、このニュース映像をはさんでラストで、再びコソボのクリスマスとマイケル・ジャクソンの事件報道を繰り返す。ラストのこのニユースは確か3回目で見せたものの繰り返しだ、と思う。
映画は、ひとりの大学生がガソリンスタンドで払うお金が足りなくて、近くの銀行を襲って銃を乱射した3人を殺した後、車に戻り自殺する、という事件をラストに描く。実は、殺された3人がこの映画で描かれた人たちだ。映画の冒頭で、この事件のことは字幕で示されたが、映画を見ているうちにそういうことなんて忘れていた頃、突然衝撃的にその事件の描写が唐突に展開されていくのだ。
コミニケーションの不在というテーマは先日公開の『バベル』と同じで、一発の銃声がすべてを狂わせて行く、というのもよく似ている。だが、同じ事を描いても『バベル』のわかりやすくて、温かい描写と違って、ハネケは、わかりにくくて、冷酷な描写に終始する。
必ずしも近くにいるものが、相手をわかってあげられるわけではない。人が人のことを理解するなんてことは、困難を極める。しかし、わからないで済ますわけにはいかない。ハネケは世界をどう捉えようとしているのだろうか。
ハネケへの旅はまだまだ続く。
DVDリリースされた今回の作品だって、コアなファン以外誰一人レンタルすらしない、というのが現状である。この3ヶ月間我が家の近所のツタヤで、ただの1度すらレンタルされているのを見た事がない。3本ずつ全体で15本の入荷されたのにである。だいたいハネケを入荷すること自体が、このツタヤは間違えている。もちろんそのおかげで、こうして僕はハネケを見ることができたのだ。心から感謝している。
オーストリアからフランスに移っての第1作『コード・アンノウン』から見始めた。そのあまりのタッチに戸惑いと不安は隠せない。今まで見てきた劇場公開作とは、一味違う過激さ。これを劇場にかける勇気ある配給業者なんていまい。
どうでもいいことを(もちろんハネケにとっては大事なことだろうが)いつまでも見せ、大事なことはさりげなく一瞬で済ます。それは今回の2本に共通することだ。ワンシーン、ワンカットでいきなりフェードアウトする。ストーリーまで分断し、断続的に見せられるので、頭の中でうまく整理できないまま、そんな暇もなく流れていく。いくつものエピソードは交錯しないまま、ラストを迎えて、ここでもいきなり終わる。聾唖の子供たちは最初と最後に出てきてそれが全体の象徴となっているが、それ以上のものはない。
『コード・アンノウン』を見た時、もう後の4本は見るのをやめようか、と思ったくらいだ。とてもではないが、TVフレームでこれを見るのは苦痛すぎる。
現実はこんなものかも知れないが、それを映画として提示する時には、もう少しストーリーラインの整備が必要だ。それでなくては見ているほうは苦しい。彼らの日常と現実が、あまりに何の説明もなくさりげなく提示される。それらのエピソードはほとんど交錯しないまま幕を閉じる。
女優と、その恋人の報道カメラマン。彼らのもとにやってくる男の弟。彼が街角で不法滞在の老女に侮蔑的な行為をしたこと(何をしたのかは、よくわからない。パンの袋を投げつけたように見えたが。)で、それを見ていたアフリカ系の青年が正義感から彼に絡む。この弟と青年の喧嘩に、人が集まり、警察までがやってきて事件となる。その結果、青年が拘留され、老女は国外追放となる。映画はここから始まり、この場にいた人々、その関係者のさまざまなドラマが語られる。映画は彼らのその後をバラバラに綴るだけだ。ものの見事に、それ以上のドラマは相互には生まれない。
オーストリア時代の氷河期3部作の最終作である『71フラグメンツ』を続いて見たが、こちらのほうが、もう少しメリハリのある作り方をしている。それでも相変わらず超過激である。
不法入国する少年の乗ったトラックを延々と捉えたオープニングは、長谷川和彦の『青春の殺人者』のラストシーンの続きのように見えた。トラックの後ろにもぐりこんで、夜の街をどこまでも行く。どこに行き着くかも知れないまま、旅立つ。
映画は、世界中で起きている戦争やら、内乱のニュースを見せた後、前述の少年を中心にした、ここで暮らすさまざまな人たちのスケッチを提示する遣り方は、『コード・アンノウン』と同じである。途中5回ほど、このニュース映像をはさんでラストで、再びコソボのクリスマスとマイケル・ジャクソンの事件報道を繰り返す。ラストのこのニユースは確か3回目で見せたものの繰り返しだ、と思う。
映画は、ひとりの大学生がガソリンスタンドで払うお金が足りなくて、近くの銀行を襲って銃を乱射した3人を殺した後、車に戻り自殺する、という事件をラストに描く。実は、殺された3人がこの映画で描かれた人たちだ。映画の冒頭で、この事件のことは字幕で示されたが、映画を見ているうちにそういうことなんて忘れていた頃、突然衝撃的にその事件の描写が唐突に展開されていくのだ。
コミニケーションの不在というテーマは先日公開の『バベル』と同じで、一発の銃声がすべてを狂わせて行く、というのもよく似ている。だが、同じ事を描いても『バベル』のわかりやすくて、温かい描写と違って、ハネケは、わかりにくくて、冷酷な描写に終始する。
必ずしも近くにいるものが、相手をわかってあげられるわけではない。人が人のことを理解するなんてことは、困難を極める。しかし、わからないで済ますわけにはいかない。ハネケは世界をどう捉えようとしているのだろうか。
ハネケへの旅はまだまだ続く。
ここが考えるスタートだと思う。