この思い切ったタイトルの少女マンガを今、あえて映画化する。三木孝浩は断らない。でも、それは仕事だから、と事務的に引き受けたわけでもない。この手の映画はもう散々作り尽くしたはずだけど、引き受けたのには理由がある。今まで作られたこの手の作品のフィナーレとして、究極の青春映画を作るためだ。散々やり尽くされてきたあらゆる要素をこの1作に放り込みながら、今まで誰も見たことのない映画にする。
「高校生の恋愛映画」という定番メニューを突き詰めたなら、そこにはどんな切実な物語が現出するのか。春から始まり、夏が来て、秋を過ぎて、冬がやってくる。1年間のお話だ。夏祭りも描かれる。ちゃんと文化祭もクライマックスとして描かれる。どこからどこまでも定番は外さない。でも、それは夢の世界ではない。彼らの生活だ。代り映えしない毎日の繰り返し。そして3年間で高校を卒業していく。まだ大人ではないし、もう子供でもない。これから何にでもなれる。未来がある。だけど、不自由である。勉強もしなくてはならないし、親には逆らえない。やりたいことを否定されたりもする。こんな家、出ていきたい、と思っても、そんなことはできない。
この映画は、定番の「キラキラ青春映画」のエッセンスを網羅しながら、それを醒めた目で見る。現実はこの先にある。甘えたお話の先には彼らの抱える現実が見え隠れする。実はそここそがこの映画の見せたかったものだ。高台から見る街の風景。高層ビルが立ち並び、キラキラした明るい場所。でも、そこだって今いるこの場所と変わらない。自分たちと同じような高校生が暮らしている。どこかに夢の世界があると信じていた。でも、そんなものはどこにもない。それは、この映画のような「キラキラ青春映画」の中だけに存在する世界だ。と、言いたいところだけど、それをこの映画の主人公たちが言う。
だから、これは恋愛だけで頭の中はいっぱいいっぱいの「バカなガキんちょ」たちの映画、ではない。彼らは真剣にままならない自分たちの今を見つめている。三木孝浩監督は、キラキラした映画の中にある彼らの日常をしっかりとみつめる。描かれるのは夢だけど、夢じゃない。今を生きる意味を問いかける。