高嶺格が日本のパフォーマーとタイの子供たちのコラボによって作り上げた壮大なパフォーマンス・ショー。アイホールの巨大な(小劇場としては、だが)舞台空間をさまざまなものに見立ててそこで、わけがわからないお遊びを繰り広げていく。シーンごとにはなんの連続性もない。しかし、その全体が、何か、とてつもないものに見えてくるのがいい。その胡散臭さも魅力だ。わけのわからなさ、混沌、真摯さ。それらが渾然一体となって、見ている我々の脳天に突き刺さってくる。
なんだかよくわからないけど、すごいものを見た、と思わせる衝撃がここにはある。でも、なんか煙に巻かれたような、騙されたような、そんな気分にもなる。ナンセンスと背中合わせなので、そんなふうに思えるのだろう。これはすごいものでも、バカバカしいものでもない。見たままのものだ。それでいい。
どこまでを信じたらいいのか、よくわからない。というか、これは、別に信じるとか、信じないとか、そういう次元のものではない。この世界に身を委ねてただ目の前に起こることを目撃していけばいいのだ。そこから意味を掬い上げる必要はない。幾分構成が単調なので、だれてしまうところもある。そして、105分は少し長い。でも、この自由で、なんでもありの世界は見ていて楽しかった。
舞台全体にブルーシートが敷かれてあり、それが盛り上がり巨大な海になる。海は大荒れだ。そこにひとりの少女がやってきて(客席の後ろから来る)、海に(舞台に)上がり、歩いてそこを渡っていく。楽器を手にして(あれはなんという楽器なのか)、荒れ狂う波の中、確信を持って進む。海の上には道なんかないのに、彼女が歩くとそこには道ができていく。このスペクタクルは感動的だ。ひとつのパフォーマンスがこれだけの力を持つ例を僕は知らない。終盤のこのシーンを見たとき僕はこの作品が好きになった。
子供たちがとても自由である。(僕は子供というが、彼らはもう20歳前後ではないか)発語し、叫び、語る。踊る。ブルーシートが舞台全体に張られて、囲いを作った舞台空間。まるで生け簀の中のような空間で、彼らは踊る。その自由自在なダンスは、特別なものではないが、彼らの仕草、表情、を見ているだけで、飽きない。
ラストで、顔を白塗りして、ひとりひとりが体全身で魂の叫びを表現するシークエンスも圧巻である。後ろから次の人が手を触れると、すっと溢れ出ていた感情が収まっていく。この後のメロディフェアが流れる中、舞台上のブルーシートの海に潜り込み、彼らが巨大な波の塔を作り上げる。それがアイホールの天井近くまで届く。
なんだかよくわからないけど、すごいものを見た、と思わせる衝撃がここにはある。でも、なんか煙に巻かれたような、騙されたような、そんな気分にもなる。ナンセンスと背中合わせなので、そんなふうに思えるのだろう。これはすごいものでも、バカバカしいものでもない。見たままのものだ。それでいい。
どこまでを信じたらいいのか、よくわからない。というか、これは、別に信じるとか、信じないとか、そういう次元のものではない。この世界に身を委ねてただ目の前に起こることを目撃していけばいいのだ。そこから意味を掬い上げる必要はない。幾分構成が単調なので、だれてしまうところもある。そして、105分は少し長い。でも、この自由で、なんでもありの世界は見ていて楽しかった。
舞台全体にブルーシートが敷かれてあり、それが盛り上がり巨大な海になる。海は大荒れだ。そこにひとりの少女がやってきて(客席の後ろから来る)、海に(舞台に)上がり、歩いてそこを渡っていく。楽器を手にして(あれはなんという楽器なのか)、荒れ狂う波の中、確信を持って進む。海の上には道なんかないのに、彼女が歩くとそこには道ができていく。このスペクタクルは感動的だ。ひとつのパフォーマンスがこれだけの力を持つ例を僕は知らない。終盤のこのシーンを見たとき僕はこの作品が好きになった。
子供たちがとても自由である。(僕は子供というが、彼らはもう20歳前後ではないか)発語し、叫び、語る。踊る。ブルーシートが舞台全体に張られて、囲いを作った舞台空間。まるで生け簀の中のような空間で、彼らは踊る。その自由自在なダンスは、特別なものではないが、彼らの仕草、表情、を見ているだけで、飽きない。
ラストで、顔を白塗りして、ひとりひとりが体全身で魂の叫びを表現するシークエンスも圧巻である。後ろから次の人が手を触れると、すっと溢れ出ていた感情が収まっていく。この後のメロディフェアが流れる中、舞台上のブルーシートの海に潜り込み、彼らが巨大な波の塔を作り上げる。それがアイホールの天井近くまで届く。