イオセリアーニの『月曜日に乾杯!』を見た時の感動は忘れられない。あんなにも自由に生きたっていいのだ、と笑ってしまった。仕事がなくなれば旅に出ればいい。人生はありのまま受け入れて、なるようになるさ、と楽しむこと。どんなしんどいことがあってもノンシャラン(このイオセリアーニの代名詞とでも呼ぶべき言葉は、いったい誰が最初に言い出したのだろうか。的確すぎて笑える!)と受け流す。ありえないことではなく、ありえない対応ぶりを見せてくれる。それはこの自伝的映画においても同じだ。いや、今まで以上に徹底しているくらいだ。
ここに描かれる不幸とか悲惨は、まるで冗談のように軽く受け流されていくから、なんだかたいしたことではないように見えてしまうのだ。いったい自分は何を見ているのか、それすらわからなくなる。イオセリアーニの分身である映画監督ニコは、グルジアでの映画作りをあきらめフランスに渡るのだが、そこでも商業主義のプロデューサーにも、観客にさえも理解されず、結局はグルジアに戻ってくるしかない。(これがこの日本語タイトルの由縁だ)
だけど、彼はそのことを、なんだか楽しんでいるみたいなのだ。人生における大きな転機すら、子供の頃のささやかな汽車の旅の延長線でしかない。3人組の少年少女のいたずらと、大人になった3人の映画作りとは、等価なものとして描かれる。単身フランスに行き、そこでの苦難の物語も、まるで子供の遊びのように描かれる。劇中劇としてのニコの映画はサイレント映画みたいで、そのスラプスティックはこの映画自体と一致する。映画も人生も、今も昔も、これからも、すべてまるごとイオセリアーニそのものなのである。こんないいかげんで、自由奔放な映画は見たことがない。見終えた時、なんだかあきれてしまって、笑っている。
ここには自由に生きる世界がないのなら、自分が自由に生きることが出来る世界にむけて旅立とう。あのラストシーンは悲愴ではなく、唖然である。あんなにもあっさりと、行くんですよ。なんとラストは人魚と一緒に海の中に。ありえない。でも、彼ならありえる。ここに至ってこの映画は一応分類すると、ファンタジーだった、ということとなる。でも、それってなんだか笑えるでしょ。なんでもありの映画だ。
ここに描かれる不幸とか悲惨は、まるで冗談のように軽く受け流されていくから、なんだかたいしたことではないように見えてしまうのだ。いったい自分は何を見ているのか、それすらわからなくなる。イオセリアーニの分身である映画監督ニコは、グルジアでの映画作りをあきらめフランスに渡るのだが、そこでも商業主義のプロデューサーにも、観客にさえも理解されず、結局はグルジアに戻ってくるしかない。(これがこの日本語タイトルの由縁だ)
だけど、彼はそのことを、なんだか楽しんでいるみたいなのだ。人生における大きな転機すら、子供の頃のささやかな汽車の旅の延長線でしかない。3人組の少年少女のいたずらと、大人になった3人の映画作りとは、等価なものとして描かれる。単身フランスに行き、そこでの苦難の物語も、まるで子供の遊びのように描かれる。劇中劇としてのニコの映画はサイレント映画みたいで、そのスラプスティックはこの映画自体と一致する。映画も人生も、今も昔も、これからも、すべてまるごとイオセリアーニそのものなのである。こんないいかげんで、自由奔放な映画は見たことがない。見終えた時、なんだかあきれてしまって、笑っている。
ここには自由に生きる世界がないのなら、自分が自由に生きることが出来る世界にむけて旅立とう。あのラストシーンは悲愴ではなく、唖然である。あんなにもあっさりと、行くんですよ。なんとラストは人魚と一緒に海の中に。ありえない。でも、彼ならありえる。ここに至ってこの映画は一応分類すると、ファンタジーだった、ということとなる。でも、それってなんだか笑えるでしょ。なんでもありの映画だ。