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このリーディング・ドラマというスタイルにどうしようもない違和感を持つ。最初、役者たちの手にした台本が芝居に対する集中力を削ぐ。ストレートに芝居世界に入れないのだ。役者たちの肉体が芝居を損なっていくようにすら見える。これがラジオドラマだったなら、全く違和感なくすんなり受け入れられたかもしれない。出来ることなら目を閉じてドラマに集中したかったくらいだ。
錚々たる関西小劇場界を代表する役者たちが一堂に会する。そんな中に渡辺美佐子さんが混じって、このドキュメンタリードラマは綴られていく。2時間15分に及ぶ大作である。
渡辺さんは最初はテキストを使わない。手にしているが開かない。それを見るとなんだかほっとする。この芝居はやはりリーディングではなく、演劇としてこそ成立する作品なのだ。役者たちがテキストを見ないでこのまま上演されたらどれだけ緊張感のある素晴らしい舞台になったことであろう。だが、諸条件からそれは叶わない。アイホールは今までも何本となく、こういう形でリーディングドラマを上演してきた。今回も限りなく演劇に近い形で上演される。ここから05年の世田谷パブリックシアターで初演された時のこの芝居は充分に想像できる。坂手洋二さんのいつものスタイルがここにも貫かれている。
1人1人の現実ときちんと向き合って、彼らの言葉にしっかり耳を傾ける。事件と出会ってしまった彼らの証言。そんないくつもの証言を通して明らかにされていく4つの鉄道事故の現実。それらは独立したものではなく、ひとつにしっかり繫がっていく。事故は起こるべくして起きた。そしてそれは確実に人々の運命を変えていく。気付くといつの間にか芝居に集中していた。
これは冷徹な視線でこの現実と向き合うとても力のこもった作品だ。見ているうちに、リーディングドラマという違和感はいつの間にか拭い去られている。反対にテキストを手にすることで生じる出来事(事故)との距離感、それがなんだか魅力に思えてくるくらいだ。
白いテープだけで表現された線路と、両サイドに設けられた観客席と舞台(アクティングエリア)を分かつ金網だけのシンプルだけれど美しい舞台美術はこの作品が描こうとするものをしっかり伝える。この距離感こそがこの作品にどうしても必要なものなのだ。役者の手にしたテキストも実はこの芝居にとっては巧妙に仕掛けられた装置だったのかもしれない。違和感は実はこの芝居に僕たちを導く手段だったのかもしれない。そんなふうに思えてきた。
この芝居をここ伊丹で上演する意義は大きい。目の前で同じ鉄道事故を経たという事実を重ね合わせることで単純な共感ではないリアルの感触がここに生じてくる。
錚々たる関西小劇場界を代表する役者たちが一堂に会する。そんな中に渡辺美佐子さんが混じって、このドキュメンタリードラマは綴られていく。2時間15分に及ぶ大作である。
渡辺さんは最初はテキストを使わない。手にしているが開かない。それを見るとなんだかほっとする。この芝居はやはりリーディングではなく、演劇としてこそ成立する作品なのだ。役者たちがテキストを見ないでこのまま上演されたらどれだけ緊張感のある素晴らしい舞台になったことであろう。だが、諸条件からそれは叶わない。アイホールは今までも何本となく、こういう形でリーディングドラマを上演してきた。今回も限りなく演劇に近い形で上演される。ここから05年の世田谷パブリックシアターで初演された時のこの芝居は充分に想像できる。坂手洋二さんのいつものスタイルがここにも貫かれている。
1人1人の現実ときちんと向き合って、彼らの言葉にしっかり耳を傾ける。事件と出会ってしまった彼らの証言。そんないくつもの証言を通して明らかにされていく4つの鉄道事故の現実。それらは独立したものではなく、ひとつにしっかり繫がっていく。事故は起こるべくして起きた。そしてそれは確実に人々の運命を変えていく。気付くといつの間にか芝居に集中していた。
これは冷徹な視線でこの現実と向き合うとても力のこもった作品だ。見ているうちに、リーディングドラマという違和感はいつの間にか拭い去られている。反対にテキストを手にすることで生じる出来事(事故)との距離感、それがなんだか魅力に思えてくるくらいだ。
白いテープだけで表現された線路と、両サイドに設けられた観客席と舞台(アクティングエリア)を分かつ金網だけのシンプルだけれど美しい舞台美術はこの作品が描こうとするものをしっかり伝える。この距離感こそがこの作品にどうしても必要なものなのだ。役者の手にしたテキストも実はこの芝居にとっては巧妙に仕掛けられた装置だったのかもしれない。違和感は実はこの芝居に僕たちを導く手段だったのかもしれない。そんなふうに思えてきた。
この芝居をここ伊丹で上演する意義は大きい。目の前で同じ鉄道事故を経たという事実を重ね合わせることで単純な共感ではないリアルの感触がここに生じてくる。