2年振りのコンブリ団の新作は3・11以降の気分を扱う。重いタッチの作品ではなく、まるでエッセイのような芝居。いつものようにはしぐちさんの前説がいつのまにか、芝居の世界とつながっていくというパターン。この劇場となる空間ジャン・トゥトゥクー(ここは、もともとはカフェである)に30人ほどの観客に紛れて役者が入っている。彼らが立ち上がり芝居は始まる。この舞台のない舞台で対話を繰り広げていく。
今、目の前にある世界が一瞬の後にはひっくり返っても不思議ではない。自分が信じるものが果たしてその通りのものなのか、それすらわからない。はしぐちさんを含む4人の役者たちが自分は「たけだあすかだ!」と名乗るところから一応は芝居が始まっていく。そこに「たけだあすか」と名乗る女性がいるとする。(といか、竹田飛鳥さんも当然この芝居に登場する)別に普通だ。「たけだあすか」という人物が同じところに2人いればそれは異常な光景だが、3人、4人と現れるとそれはもう現実ではない。観客のとある男が「それは、おかしい」と言う。当然のリアクションだ。(もちろん、彼もこの芝居の役者ですが)カフェに芝居を見に来た観客がそんな非日常と出会い、それが沖縄や広島の戦争の記憶へとつながり、やがては東日本大震災へとつながっていく。いや、最初から描くべきものはそこにあったのだろう。だから、もとのところに戻っただけだ。リアルとは思えないリアルが目の前にある。それをさらりと見せてくれる。
変わることのない日常にほんの少し裂け目を入れて、見せる。そして、再びもとの世界に戻ってくる。前作『ムイカ』と同じやり方だ。あの切り口をさらに軽やかなものにして、とても微妙な時代の気分を掬い取る。僕たちの中にある不安と一瞬(この芝居の上演時間である80分)真正面から向き合い、そして再び変わることのない日常へとちゃんと連れて帰ってきてくれる。はしぐちさんのこの語り口は貴重だ。それは恐怖と向き合うためのトレーニングになる。決して目を背けてはいられない。だが、すべてを抱え込むことは不可能だし、おこがましい。他人事にはしない適切な距離の取り方を彼は教えてくれる。
今、目の前にある世界が一瞬の後にはひっくり返っても不思議ではない。自分が信じるものが果たしてその通りのものなのか、それすらわからない。はしぐちさんを含む4人の役者たちが自分は「たけだあすかだ!」と名乗るところから一応は芝居が始まっていく。そこに「たけだあすか」と名乗る女性がいるとする。(といか、竹田飛鳥さんも当然この芝居に登場する)別に普通だ。「たけだあすか」という人物が同じところに2人いればそれは異常な光景だが、3人、4人と現れるとそれはもう現実ではない。観客のとある男が「それは、おかしい」と言う。当然のリアクションだ。(もちろん、彼もこの芝居の役者ですが)カフェに芝居を見に来た観客がそんな非日常と出会い、それが沖縄や広島の戦争の記憶へとつながり、やがては東日本大震災へとつながっていく。いや、最初から描くべきものはそこにあったのだろう。だから、もとのところに戻っただけだ。リアルとは思えないリアルが目の前にある。それをさらりと見せてくれる。
変わることのない日常にほんの少し裂け目を入れて、見せる。そして、再びもとの世界に戻ってくる。前作『ムイカ』と同じやり方だ。あの切り口をさらに軽やかなものにして、とても微妙な時代の気分を掬い取る。僕たちの中にある不安と一瞬(この芝居の上演時間である80分)真正面から向き合い、そして再び変わることのない日常へとちゃんと連れて帰ってきてくれる。はしぐちさんのこの語り口は貴重だ。それは恐怖と向き合うためのトレーニングになる。決して目を背けてはいられない。だが、すべてを抱え込むことは不可能だし、おこがましい。他人事にはしない適切な距離の取り方を彼は教えてくれる。