冒頭の『虚無への供物』を知らない司書の青年が『去年の九月』と聞き間違えたというエピソードには笑ってしまった。楽しい。それくらいにいろんなものが過去になる。
さらに次のエッセイ『短歌から川柳へ』の冒頭で寺山修司が引用され、なんとそこで「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし見捨つるほどの祖国はありや」と書かれているのを見た瞬間、凍りついてしまった。『見捨つる』って。本気か! 『身捨つる』ではなくて。誤植にしてもあまりに大胆な改作で、僕が間違えていたのだ、と思った。ずっと授業でこの短歌を『身捨つる』と教えて説明を捏造してきたけど。こういうまさかの誤植って、これはこれで凄いなぁと感心した。
この2篇から始まりその後のエッセイも楽しく読める。初めてこの人の文章を読むが、大学の先生なのに、小難しくなく読みやすいし、勉強になるし、いろんなジャンルに亘る話題も興味深い。刺激的なものではなく、じっくりと思索するきっかけを与えてくれるような文章ばかりで読んでいてためになる。あっという間に読み終えてしまった。
映画の話が多いのもうれしい。それを筆者独自の視点から描き、押しつけもなく、新鮮な見方をさりげなく提示してくれる。最初に書いた「見捨つる」が象徴的。久しぶりのエッセイ集だったがいい本に出会えた。