平山秀幸監督による本格時代劇巨編。藤沢周平原作。例によって海坂藩を舞台にした下級武士のストイックな生き方を描く。どうしても山田洋次の3部作がある以上、あれらの作品を越えることが期待される。だが、それは難しい。あれとは別のアプローチをしない限り勝算はない。
もちろん映画は勝ち負けではないのだから、独立してそれぞれが評価を受けてしかるべきなのは重々承知のうえだ。だが、厳然とそこには『たそがれ清兵衛』があり、『隠し剣 鬼の爪』があるのだ。その事実は消せない。さらには今年は『花のあと』という傑作すら生まれた。
さぁ、どうする平山秀幸! と、いうことで、時代劇映画史上最高傑作なんていう無謀な宣伝を課されて、この絶体絶命の映画を見る。
結果である。
期待以上によく出来ていた。当然のこととして山田洋次とはまるで違う。無理してそうなったのではなく、それは平山監督の視点の問題だ。ストーリーの骨格はいつも一緒で、変えようがない。あの展開が藤沢周平なのだから。そこを外したりしたら彼の小説にする必要がない。
丹念な日常生活の描写、城内のディテールを楽しみたい。その中で主人公(豊川悦司)が信念を押し通して生きていく姿を追う。だがそこには悲壮な覚悟はない。ただ、ありのまま生きたならそうなっただけ。気負いも使命感もない。妻が死んで生きる希望もなくなったこと。主君が愛妾のいいなりになり、藩は危機的状況にあること。でも、彼が立ち上がらねばならないわけではない。ただ死に場所を求めただけなのかもしれない。なのに、死なせてくれない。なぜそうなるのか、がこの映画で描かれていく。
ラストの大立ち回りまで、剣も抜かない。とても静かな映画である。それだけに2段構えのクライマックスは壮絶だ。吉川晃司との対決は凄い緊張感がある。その後のどんでん返しから、ラストのタイトルロール「鳥刺し」まで、雨の中のたった1人に大勢でかかる死闘も含めて、一気である。
吉川晃司の想い(これは本当は豊川にも通じるものなのだ)とか、池脇千鶴の豊川への想い(彼女の秘めるしかないあからさまな恋情が切ない)とか、もう少し突き詰めて描いてもよかった。それが主人公の寡黙な姿と連動し、映画をさらなる高みに導いたはずなのだ。惜しい。
もちろん映画は勝ち負けではないのだから、独立してそれぞれが評価を受けてしかるべきなのは重々承知のうえだ。だが、厳然とそこには『たそがれ清兵衛』があり、『隠し剣 鬼の爪』があるのだ。その事実は消せない。さらには今年は『花のあと』という傑作すら生まれた。
さぁ、どうする平山秀幸! と、いうことで、時代劇映画史上最高傑作なんていう無謀な宣伝を課されて、この絶体絶命の映画を見る。
結果である。
期待以上によく出来ていた。当然のこととして山田洋次とはまるで違う。無理してそうなったのではなく、それは平山監督の視点の問題だ。ストーリーの骨格はいつも一緒で、変えようがない。あの展開が藤沢周平なのだから。そこを外したりしたら彼の小説にする必要がない。
丹念な日常生活の描写、城内のディテールを楽しみたい。その中で主人公(豊川悦司)が信念を押し通して生きていく姿を追う。だがそこには悲壮な覚悟はない。ただ、ありのまま生きたならそうなっただけ。気負いも使命感もない。妻が死んで生きる希望もなくなったこと。主君が愛妾のいいなりになり、藩は危機的状況にあること。でも、彼が立ち上がらねばならないわけではない。ただ死に場所を求めただけなのかもしれない。なのに、死なせてくれない。なぜそうなるのか、がこの映画で描かれていく。
ラストの大立ち回りまで、剣も抜かない。とても静かな映画である。それだけに2段構えのクライマックスは壮絶だ。吉川晃司との対決は凄い緊張感がある。その後のどんでん返しから、ラストのタイトルロール「鳥刺し」まで、雨の中のたった1人に大勢でかかる死闘も含めて、一気である。
吉川晃司の想い(これは本当は豊川にも通じるものなのだ)とか、池脇千鶴の豊川への想い(彼女の秘めるしかないあからさまな恋情が切ない)とか、もう少し突き詰めて描いてもよかった。それが主人公の寡黙な姿と連動し、映画をさらなる高みに導いたはずなのだ。惜しい。