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映画・演劇のレビュー

『ジェリー・フィッシュ』

2009-04-19 18:33:05 | 映画
 見終えたとき、あまりのあっけなさにちょっと呆然とした。82分という短い上映時間のなかで、3つのお話が微妙に交錯したりしなかったり。しかも3つの話の主人公の周辺の人物のエピソードも重要な要素として語られるから、いったいどれだけの人々の群像劇やら、混乱しそうになる。壮大なお話ではないから、あっけないくらいにたよりない。様々なエピソードが形作るもののはかなさが、この映画の魅力なのだが、あまりの淡さにやはり驚く。もっと見ていたい、と思った。それぞれの人々が何を考え、どうしていくことになるのやら、彼らの今後の動向も気になる。だが、監督はそれは彼らの人生の問題だからもう立ち入ることは出来ない、とでも言わんばかりに映画を静かに終わらせる。エドガー・ケレットとシーラ・ゲフィンによる共同監督作品。このカップルが作った世界は孤独と不安に満ち満ちている。だが、映画はこんなにもまぶしい光の中で展開する。最初、ここはどこだろうか、と気になった。なかなか舞台は明確にされない。わざと気を持たせるのではない。さりげなく途中でわかる。これはイスラエル映画で、テルアビブの町を舞台にしてる。

 映画は結婚式から始まる。主人公は新郎新婦の2人だ。花嫁が式のパーティーの途中で足の骨を折る。しかたなく新婚旅行は諦めることになる。市内のホテルに数日間泊まることになるのだが、下水の臭いがしたり、なんだかんだでトラブルが続出する。

 結婚式で記録のカメラを回す写真家がいる。彼女はなんだか関係ないものばかりを撮る。式場のウエイトレスをする女性がいる。あわただしい仕事、失敗ばかりの毎日にうんざりしてる。彼女が恋人と別れるシーンから映画は始まる。今思い出した。結婚式場はその後だ。修羅場が展開するのではない。トラックが去っていくだけ。男の荷物を積んで。それを見送る。残されたのは彼女と、彼女の荷物。2人で暮らした部屋で1人で暮らすことになる。前述の写真家とこのウエイトレスの話がもうひとつのお話。

 さらにはフィリピン人のヘルパー女性と彼女が世話をすることになる頑固な老婦人を巡る話。3つの話というのはこれらのエピソードだが、同じ町の別々の場所ですれ違ったり、交錯したりしてこの3つの話とその周辺の話が描かれる。

 あら筋は映画のホームページとか、いろんなとこに書いてあるだろうから、ここでは書かない。これを書くためにお話を思い出そうとしたのだが、あんまりさりげないから思い出すのに苦労した。

 主人公のウエイトレスの女性が海辺で出逢った少女は口が聞けない。少女は裸で、浮き輪をしたままの姿。ひとりぼっちでいた。映画の中心はこの2人の交流なのだが、5歳の少女はかっての彼女で、彼女は幻の幼い頃の自分と再会し、彼女を通して自分の心の底にずっとある思いに気付く。父と母が離婚して、寂しかったこと。封印した想い。写真家の部屋で彼女の幼い日の記録映画を見せてもらうシーンが印象的だ。思い出の中にいるアイスクリーム売りの老人。父と母がいたあの日の風景。このエピソードを中心にして、出てくるすべての人たちが寂しい人ばかり。

 これはとてもいい映画だ。昨年の公開時劇場で見なかったのが、今頃だが悔やまれる。イスラエル映画と言えば、一昨年『迷子の警察音楽隊』があった。あれも素晴らしかった。小さな国で小さな映画が作られる。だが、その小さな映画が何百本の映画より凄い映画で1年間公開されたすべての映画のベストワンだったりする。それってすごい。タイトルの『ジェリーフィッシュ』は「くらげ」のこと。海辺に打ち上げられたくらげの姿が映画の中でも描かれる。ふわふわ海をさすらうくらげのように、この世界で生きる人たちの姿が描かれる。5歳の少女の叫び声が耳に残る。浮き輪を体から外してあげようとした瞬間大声を上げ拒否する。この浮き輪がなくては彼女はこの世界で生きれないようだ。

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