このミステリーは、演じることについての、ありとあらゆる仕掛けを用いて見せてくれる。何が本当で何が嘘なのか、いったい何を描こうとしているのかすら、よく分からないまま、いくつもの話が並行して、綴られていき、それがラストでようやく一つになる。(が、あまりカタルシスがない)
『中庭の出来事』という芝居が、劇中劇として、描かれる。分量的にはかなりあり、この中にこの小説が、納まってしまうくらいだ。芝居の台本というスタイルで収まっているが、これは台本以上の意味を持つ。お話はこうだ。3人の女優が一人芝居の台本を貰った。彼女たちからオーディションで選ぶ。台本は自由にアレンジして演じるようにという指示を作家から言われている。自分の経験を生かして脚色して演じなくてはならない。この台本を書いた気鋭の作家が殺される。彼の死について3人が容疑をかけられる。刑事の前で尋問を受ける。はたしてだれが彼を殺したのか。
この台本を巡るドラマがこの芝居の外枠に設定されている。『中庭にて』の部分である。この台本をいかに作っていくかというドラマだが、ここにも3人の女優たちが絡んできて、実際に中庭で作家が殺されてしまう。完全に芝居と現実がリンクする。
さらに、『旅人たち』という別の話までが同時進行していく。2人の男たちが幻の劇場を捜し旅している。その過程で、彼らが話す物語。この話の中でも、中庭での殺人が描かれる。広場の真ん中で突然女が死ぬ。その瞬間を見た3人の証言が食い違う。女は笑っていたという男。女は泣いていたという男。女は怒っていたという男。本当はどうだったのか。この女を巡る話は、それだけでは終わらない。さらなる因果話が用意されている。
刑事は3人の女を尋問するが、3人とも嘘をついているようには見えないくらいに見事に演じている。どこから綻びが生じるか。幻の劇場に出た幽霊の話も交えて、芝居を巡るミステリーは錯綜を極める。
3つの話は当然リンクしており、どれがどこで語られた話なのかも、読み終えた今は明確な区分が難しくなっている。3人の女優による3種類の同じ出来事をベースにした話というのも、読んでいるうちに混ざり合ってしまうし、これは、巧みに組み立てられた劇中(あるいは作品中)における作家による作家自身の殺人事件を巡る壮大なフィクションの構築の試みなのだ。
恩田陸によって巧妙に仕掛けられたこのトリックを楽しめばいい。実はそれだけの小説なのだ。
『中庭の出来事』という芝居が、劇中劇として、描かれる。分量的にはかなりあり、この中にこの小説が、納まってしまうくらいだ。芝居の台本というスタイルで収まっているが、これは台本以上の意味を持つ。お話はこうだ。3人の女優が一人芝居の台本を貰った。彼女たちからオーディションで選ぶ。台本は自由にアレンジして演じるようにという指示を作家から言われている。自分の経験を生かして脚色して演じなくてはならない。この台本を書いた気鋭の作家が殺される。彼の死について3人が容疑をかけられる。刑事の前で尋問を受ける。はたしてだれが彼を殺したのか。
この台本を巡るドラマがこの芝居の外枠に設定されている。『中庭にて』の部分である。この台本をいかに作っていくかというドラマだが、ここにも3人の女優たちが絡んできて、実際に中庭で作家が殺されてしまう。完全に芝居と現実がリンクする。
さらに、『旅人たち』という別の話までが同時進行していく。2人の男たちが幻の劇場を捜し旅している。その過程で、彼らが話す物語。この話の中でも、中庭での殺人が描かれる。広場の真ん中で突然女が死ぬ。その瞬間を見た3人の証言が食い違う。女は笑っていたという男。女は泣いていたという男。女は怒っていたという男。本当はどうだったのか。この女を巡る話は、それだけでは終わらない。さらなる因果話が用意されている。
刑事は3人の女を尋問するが、3人とも嘘をついているようには見えないくらいに見事に演じている。どこから綻びが生じるか。幻の劇場に出た幽霊の話も交えて、芝居を巡るミステリーは錯綜を極める。
3つの話は当然リンクしており、どれがどこで語られた話なのかも、読み終えた今は明確な区分が難しくなっている。3人の女優による3種類の同じ出来事をベースにした話というのも、読んでいるうちに混ざり合ってしまうし、これは、巧みに組み立てられた劇中(あるいは作品中)における作家による作家自身の殺人事件を巡る壮大なフィクションの構築の試みなのだ。
恩田陸によって巧妙に仕掛けられたこのトリックを楽しめばいい。実はそれだけの小説なのだ。