習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『ラースと、その彼女』

2009-01-07 15:35:12 | 映画
 今年、一番の映画に、1年の最初に出逢ってしまった。まぁ、本当は去年の最後に見るつもりの映画だったのだが、新年に取って置いてよかった。気持ちよく1年のスタートを切ることができたからだ。

 この映画の驚きは、人形(リアルドール)を生きているように扱う変態男の話だからではない。孤独な青年のことを、まわりの人たちが心から大切に思い、彼が信じることをみんなも信じるところから起こる奇跡の物語をとてもリアルに、そしてファンタジーとしても見事に描ききったからである。

 ラースはひとりが大好きだ。みんなはなんとかして彼が周囲に心を開いてくれないかとあれこれ気を使う。だが、彼にとってはそんな心配りはただ煩わしいだけだ。彼はただ静かにひとりの生活を送りたいだけ。周囲の善意は空回りするばかりだ。そんな彼がある日、等身大のリアルドールを購入する。そして、その人形にビアンカと名前を付ける。それだけではない。彼はその人形を生きた女の人として扱うのである。
 
 そんなバカな、と最初は思う。しかし、彼が大切だから、僕らは(彼の兄夫婦、そして近所の人たち、教会の仲間、職場の同僚、病院の先生、そしてこの映画の観客である我々)彼を傷つけないように、優しく彼を包み込もうとする。人形でしかないはずのビアンカを彼と同じように生きているように扱い、愛する。それはみんながラースを愛しているから出来る行為だ。

 そうすることでこの世界はとても美しいものとなる。人と人とが、共通の「何か」を信じて行くことの美しさ。小さな田舎町を舞台に心温まる物語が綴られていく。この世界に浸って、ラースの魂の物語をみんなで見守っていく。心を患った彼がビアンカと周囲の人たちの協力によってよみがえっていくまでの魂の軌跡がここには描かれているのだ。

 これは映画だから出来た奇跡だ。現実にこんなことが起きたなら、彼は精神病院に連れて行かれて、ただの病人として扱われるだけだろう。悲惨なドラマにしかならない。だが、映画はリアルに彼とビアンカを描くにも関わらず、そうはならない。

 どうしてこんなに優しく見守ることができるのだろうか。そのことに驚く。それを映画だから、なんて言いたくはない。(でも、実際は映画であることのマジックでもあるのだが)映画は現実には不可能なことを可能にする。それはSFXを駆使した映像の魔術のお話ではない。この映画の周囲の人たちの対応のことだ。こんなふうに出来たならどれだけ素敵だろうか、ということをここまで自然に見せることが出来たのは映画の奇跡だと思う。嘘くさい善意では鼻白むだけだが、この映画は実にリアルに町の人たちを描いている。その善意を信じたくなる。そうすることでラースに起きた奇跡に拍手できる。みんなの協力がなくてはラースは立ち直れなかった。

 ビアンカの死を受け入れて、彼女の葬式を行う。あのシーンは、もう、涙なくして見れない。ラースの願いを受け入れてみんなが平服で葬儀に集う。ビアンカの死を茶番になんかしない。それどころか、この死を厳粛に受け止めることで、葬式の本当の意義に気付かされるのだ。誰かが死ぬということはどういうことなのかに僕らは気付くのである。

 ラストシーンがまたすばらしい。兄嫁の出産のシーンまでを描くという大方の予感を外して、それを上回るこの映画らしい選択を見せる。あのさりげなさには参った。見事としか言いようがない。

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