とてもへんてこな映画を見た。未公開(これを書いた後で調べると、2013年に公開されていた)の2011年製作ノルウェー映画だ。邦題はこんなのになっているけど、実際は『チンチン・アルマ』というのが適当。
女性監督であるヤンニッケ・シースタ・ヤコブセン監督作品。それにしても、これ変すぎ。冒頭から主人公の少女がテレフォンセックスしてるシーンから始まる。啞然とする。なんだ、これは。
でもこれはポルノではない。ふつうの青春映画だ。エッチな青春映画ではない。でも、これのどこがふつうなのだ、と自分で書きながら自分に突っ込みを入れてる。ないよ、これは。ヘンすぎる。
彼女の頭の中はセックスのことしかない。高校生なのだから、もっとふつうでいいじゃないか、と思うけど、彼女の妄想は止まらない。怒濤の勢いで、妄想モード満開。田舎町で暮らす少女の平凡な毎日のスケッチだ。こんな退屈な村(町とは言えない)さっさと出て行きたいけど、まだ子供だから無理。暇で退屈だからつまらない妄想に耽ることになる。そのうち現実と妄想の境目がつかなくなり、自分でもなにがなんだかわからなくなる。好きな男の子とセックスしたという妄想を抱き、(というか、彼が自分のナニで彼女の腰を突いてきたというのだが、)そのことをクラスメートにしゃべって、顰蹙を買う。でも、妄想と呼ぶにはとてもリアルだし、それは現実だと、彼女は言うけど、男の子が否定する。周囲の友だちは彼女を信じない。僕たち観客も信じない。ハーメルンの笛吹き状態になる。実は・・・
半端じゃない。でも、ばかばかしいと思いつつも、この異常な世界、というか、彼女の異常さに翻弄され、呆れつつもスクリーンから目が離せない。74分という短い映画だ。すぐに終わる。そこで終わりですか、と思うくらいにあっけない。でも、突き抜けた映画だ。そして、見終えたとき、やはりこれはふつうの青春映画だったと、改めて思う。でも、それはがっかり、ではない。納得だ。彼女の世界との違和感がこの映画の根底にはある。それをこんな奇異なタッチで表現した。それは、こんな退屈な田舎でくすぶっていたくないという想いだ。それって多かれ少なかれ、地方で暮らす思春期の子供なら誰もが抱くものだろう。だから、そういう意味でもこれはふつうの青春映画なのだ。
女性監督であるヤンニッケ・シースタ・ヤコブセン監督作品。それにしても、これ変すぎ。冒頭から主人公の少女がテレフォンセックスしてるシーンから始まる。啞然とする。なんだ、これは。
でもこれはポルノではない。ふつうの青春映画だ。エッチな青春映画ではない。でも、これのどこがふつうなのだ、と自分で書きながら自分に突っ込みを入れてる。ないよ、これは。ヘンすぎる。
彼女の頭の中はセックスのことしかない。高校生なのだから、もっとふつうでいいじゃないか、と思うけど、彼女の妄想は止まらない。怒濤の勢いで、妄想モード満開。田舎町で暮らす少女の平凡な毎日のスケッチだ。こんな退屈な村(町とは言えない)さっさと出て行きたいけど、まだ子供だから無理。暇で退屈だからつまらない妄想に耽ることになる。そのうち現実と妄想の境目がつかなくなり、自分でもなにがなんだかわからなくなる。好きな男の子とセックスしたという妄想を抱き、(というか、彼が自分のナニで彼女の腰を突いてきたというのだが、)そのことをクラスメートにしゃべって、顰蹙を買う。でも、妄想と呼ぶにはとてもリアルだし、それは現実だと、彼女は言うけど、男の子が否定する。周囲の友だちは彼女を信じない。僕たち観客も信じない。ハーメルンの笛吹き状態になる。実は・・・
半端じゃない。でも、ばかばかしいと思いつつも、この異常な世界、というか、彼女の異常さに翻弄され、呆れつつもスクリーンから目が離せない。74分という短い映画だ。すぐに終わる。そこで終わりですか、と思うくらいにあっけない。でも、突き抜けた映画だ。そして、見終えたとき、やはりこれはふつうの青春映画だったと、改めて思う。でも、それはがっかり、ではない。納得だ。彼女の世界との違和感がこの映画の根底にはある。それをこんな奇異なタッチで表現した。それは、こんな退屈な田舎でくすぶっていたくないという想いだ。それって多かれ少なかれ、地方で暮らす思春期の子供なら誰もが抱くものだろう。だから、そういう意味でもこれはふつうの青春映画なのだ。