この秋、一番見たかった映画をようやく見た。なんだか、期待値が高すぎて見るのが怖い気もしたけど、満を持して、見る。最初から最後まで期待通りの作品に仕上がっていたので、ほっとした。
というか、ほっとした、って、なんだぁ? それって、実は思った以上の映画ではなかったということの裏返しではないのか。そうなんだ。予想した通りの傑作だったことに、少し戸惑いを隠せない。なんだか、勝手な話だけど。
吉田修一の原作は、刊行された瞬間に読んでいる。凄い作品だった。上下2巻の大作を一気に読み切った。読まずにはいられなかった。この先どうなるのかが、気になって。別々のところで起きる3つの話が同時進行し、それが凄惨な八王子の殺人事件の犯人とどこで重なることになるのか、ならないのか。3人の誰かが犯人であるという確証もないまま、どんどん先を読ませる。
映画は原作通りの展開である。原作をそのまま映画にした。しかし、それは困難を極める。2時間半程度の長さに収める必要がある。とても、難しい。だが、李相白は見事にそれをやりきった。短い描写で彼らの抱える闇を表現し、ドラマの奥行きを保った。だから、全編、緊張が止まらない。だが、映画はとてもクールで、静かに彼らの姿を追いかける。
3つのお話の中心に渡辺謙を据えた。刑事役ではない。(そこは、ピエール瀧と三浦貴大)宮崎の父親役である。実はそこがこの映画の肝だ。接点のない3つの話の核として、そのうちのひとつのエピソードの、ある意味、ただの傍観者の位置しか与えられないような、この役にそれを振った。直接お話には関われない彼がこの映画全体の中心であり、堂々たる主人公なのだ。そのスタンスがあるから、この映画は全体のバランスを保つことに成功した。李監督の采配の見事さはここに極まる。そして、彼の渡辺謙への信頼がそれを可能にした。
同時並行で進行する3つの話には接点はない。だが、そこにいる3人の男(松山ケンイチ、綾野剛、森山未来)はいずれも外からやってきて、あの事件の後、そこに棲みついた。そんな3人を好きになるそれぞれの3人はストレンジャーである彼らを信じたい。でも、不安が宿る。果たして、自分は「自分が愛した人」を信じることが出来るのか、と。役に憑依したように、演じる3人が素晴らしい。特に宮崎あおいと妻夫木聡のふたり。ほんの一瞬の表情だけでそれを表現する。もうひとりの広瀬すずは、そこまでいかないし、そんなふうにする必要はない。(それは彼女の演技力の問題ではない。彼女には少し違うスタンスが与えられているからだ。)受け止め手である彼ら3人を核にして、3つの話は展開する。
そして、最後まで相手を信じきれなかった先のふたりは、彼らを失い、最後まで信じた少年(広瀬すずのエピソードで、彼女を好きになる男の子、映画の途中で広瀬すずは一度退場し、彼がその役割を引き継ぐ)は、彼に裏切られる。3人の容疑者たちは、それぞれ、内面を見せないまま、そこに佇んでいる。
犯人探しが、この映画の目的ではない。それどころか、そんなこと、どうでもいい。だから、最後に犯人はわかってしまい、そうすることで、観客が「なんだ、やはり、」と思って安心してしまうことのほうが怖い。
だが、事件が解決したからといって、それで終わるのではない。「怒り」の文字は犯人の内面にあるのではなく、誰の中にもある。
映画の最後、再び映画に戻ってきた広瀬すずと、一度は失った彼を取り戻すことになる宮崎あおいのエピソード(さらには永遠の喪失を抱える妻夫木聡)が、作品の終わりを告げる。ここまで書いてきて改めて気付く。やはり、これは今年一番の堂々たる映画だ、と。