先日見た『逆転裁判』の三池崇史監督のひとつ前の作。昨年の夏に公開された。連続して作られたこの2作品はとてもよく似ている。どちらも、とてつもなく、くだらない。
正直言うと、あまりにバカバカしくて、あきれたのだが、本人たちはそんなこと、充分承知の上でやっているのだから、これを見て怒るのはお門違いだろう。それにしても、こんなバカを延々やり続けるエネルギーには恐れ入る。ワーナーも、よくもまぁこんな映画と付き合って、お金を出したものだ。すごいと思う。でもそんな太っ腹って大事だ。真面目が偉いわけではない。バカも本気でやられると、それはそれで凄いのだ。要はやる気である。内容自体はTVのバラエティーレベルのおふざけなのだが、それを結構な予算で、本気で作っているから、あきれながらも感心してしまう。なんだか驚く。最初はすごい、すごい、バカすぎる、と喜んでいたのだが。
でも、見ているうちに、だんだんこのおふざけに退屈してくるのも事実だ。バカも休み休みやって欲しい。休みなくバカだから、疲れる。話が単調で、後半ちょっと眠くなる。だいたいこんなのをお話とは言わない。ただの思いつきで話を転がしているだけだ。でも、そのバカな思いつきに本気になるから侮れない。
あれだけのキャリアを誇る大物俳優が、こんな被り物をして、嬉々と演じているのは、三池映画だからこその風景だろう。普通ならありえないことだ。特に平幹二朗と松方弘樹。彼らが、2人で、あんなことも、こんなこともするのである。子供じゃないんだからあそこまで「うんこ」で遊ばなくていいじゃないか、と思うが、しつこいくらいにそこで頑張る平幹二朗がすばらしい。子供時代に戻って、大はしゃぎする。でも、それがみっともなくはならないのは、さすがだ。
エンドタイトルの撮影風景のスケッチがすばらしい。どちらかというと、本編よりもこっちの方が感動的なくらいだ。みんなが、このバカな映画のために必死になり準備している姿を見ると感動せずにはいられない。しかもとても楽しそうなのだ。出来上がった映画を見る僕たちよりも、作っている人たちのほうが幸せそうなのに、腹が立たない。学芸会のノリで、最後まで、遊び尽くす。お金がなければないで、それを楽しむし、あればあるで、存分に楽しむ。三池崇史は自由自在、変幻自在だ。
正直言うと、あまりにバカバカしくて、あきれたのだが、本人たちはそんなこと、充分承知の上でやっているのだから、これを見て怒るのはお門違いだろう。それにしても、こんなバカを延々やり続けるエネルギーには恐れ入る。ワーナーも、よくもまぁこんな映画と付き合って、お金を出したものだ。すごいと思う。でもそんな太っ腹って大事だ。真面目が偉いわけではない。バカも本気でやられると、それはそれで凄いのだ。要はやる気である。内容自体はTVのバラエティーレベルのおふざけなのだが、それを結構な予算で、本気で作っているから、あきれながらも感心してしまう。なんだか驚く。最初はすごい、すごい、バカすぎる、と喜んでいたのだが。
でも、見ているうちに、だんだんこのおふざけに退屈してくるのも事実だ。バカも休み休みやって欲しい。休みなくバカだから、疲れる。話が単調で、後半ちょっと眠くなる。だいたいこんなのをお話とは言わない。ただの思いつきで話を転がしているだけだ。でも、そのバカな思いつきに本気になるから侮れない。
あれだけのキャリアを誇る大物俳優が、こんな被り物をして、嬉々と演じているのは、三池映画だからこその風景だろう。普通ならありえないことだ。特に平幹二朗と松方弘樹。彼らが、2人で、あんなことも、こんなこともするのである。子供じゃないんだからあそこまで「うんこ」で遊ばなくていいじゃないか、と思うが、しつこいくらいにそこで頑張る平幹二朗がすばらしい。子供時代に戻って、大はしゃぎする。でも、それがみっともなくはならないのは、さすがだ。
エンドタイトルの撮影風景のスケッチがすばらしい。どちらかというと、本編よりもこっちの方が感動的なくらいだ。みんなが、このバカな映画のために必死になり準備している姿を見ると感動せずにはいられない。しかもとても楽しそうなのだ。出来上がった映画を見る僕たちよりも、作っている人たちのほうが幸せそうなのに、腹が立たない。学芸会のノリで、最後まで、遊び尽くす。お金がなければないで、それを楽しむし、あればあるで、存分に楽しむ。三池崇史は自由自在、変幻自在だ。