昨年IST【イスト】で上演された作品の再演である。寺山修司の作品をコラージュしたウォーリー木下の『書を捨てよ、町に出よう、とか』を原案にして、構成・楽曲・演出は佐藤香聲さんが担当した。今回のIST【イスト】回顧演劇展 op.2での上演で3度目となる。
毎回キャストに合わせて全体の構成を自由に変えていく。前回とは半分以上が変更されているが、全体の構成は変わらない。寺山修司の様々な言葉を引用し、彼が目指したものをいくつものエピソードから見せていく。音楽とダンス、パフォーマンス、コント(かのうとおっさんの持ちネタが、ここまで取り込まれたにもかかわらず全体のバランスを崩さないのは凄い)まで交えてあらゆる要素からなるテラヤマワールドを構築していく。彼の短歌が怒鳴られながら拡声器や、マイクを使って読まれていく。(ほとんど聞こえないのだが大丈夫だ!そんなもの最初から誰も聞いていない!)歌と生バンドによる演奏が全体を包み込む。
そんな中で、寺山(上原日呂)と母親(遠坂百合子)の関係を核心に据えているから芝居はぶれることはない。この中心があり、その周辺で様々なカーニバルのようなイメージが連鎖していく。今回は曲芸師の2人を交えたことでサーカスのイメージが具体的に表現できた。彼らの体を張った見事なパフォーマンスがあるからスケールも大きなものとなった。コラージュされたテラヤマワールドが万華鏡のように広がり、増幅されていく。そしてどこまでも拡散していく。豊饒なイメージを音と明かり、膨大なテキストの引用に継ぐ引用で見せていく。佐藤さんは貪欲に詰め込めるだけ詰め込んでいく。そこに出来る混沌を楽しむ。
前回寺山を演じた木原勝利さんは周囲と距離を置いて冷静に彼を演じていたが、今回の上原さんはこの世界の中に馴染んで染まってしまう。作品の中に埋もれていくのだ。そのアプローチの違いが面白い。違和感と融和。別のアプローチが同じ作品を通してなされるのもおもしろい。
作品全体をグレードアップして、よりド派手なスペクタクルにしたのは、空間がISTからブラックチェンバーになり、空間が広がったことにもよろうが、その結果芝居はより自由自在なものとなった。
ラストの飛翔していくイメージもいい。作品が閉じていかない。どこまでも自由に広がる。これは寺山修司の伝記ではない。寺山世界そのものを見せようとする試みなのだ。ありとあらゆるイメージを詰め込んでいった自伝的作品という意味では『書を捨てよ、町に出よう』というよりも映画の『田園の死す』に近いが、あの作品以上に自由度は高い。
毎回キャストに合わせて全体の構成を自由に変えていく。前回とは半分以上が変更されているが、全体の構成は変わらない。寺山修司の様々な言葉を引用し、彼が目指したものをいくつものエピソードから見せていく。音楽とダンス、パフォーマンス、コント(かのうとおっさんの持ちネタが、ここまで取り込まれたにもかかわらず全体のバランスを崩さないのは凄い)まで交えてあらゆる要素からなるテラヤマワールドを構築していく。彼の短歌が怒鳴られながら拡声器や、マイクを使って読まれていく。(ほとんど聞こえないのだが大丈夫だ!そんなもの最初から誰も聞いていない!)歌と生バンドによる演奏が全体を包み込む。
そんな中で、寺山(上原日呂)と母親(遠坂百合子)の関係を核心に据えているから芝居はぶれることはない。この中心があり、その周辺で様々なカーニバルのようなイメージが連鎖していく。今回は曲芸師の2人を交えたことでサーカスのイメージが具体的に表現できた。彼らの体を張った見事なパフォーマンスがあるからスケールも大きなものとなった。コラージュされたテラヤマワールドが万華鏡のように広がり、増幅されていく。そしてどこまでも拡散していく。豊饒なイメージを音と明かり、膨大なテキストの引用に継ぐ引用で見せていく。佐藤さんは貪欲に詰め込めるだけ詰め込んでいく。そこに出来る混沌を楽しむ。
前回寺山を演じた木原勝利さんは周囲と距離を置いて冷静に彼を演じていたが、今回の上原さんはこの世界の中に馴染んで染まってしまう。作品の中に埋もれていくのだ。そのアプローチの違いが面白い。違和感と融和。別のアプローチが同じ作品を通してなされるのもおもしろい。
作品全体をグレードアップして、よりド派手なスペクタクルにしたのは、空間がISTからブラックチェンバーになり、空間が広がったことにもよろうが、その結果芝居はより自由自在なものとなった。
ラストの飛翔していくイメージもいい。作品が閉じていかない。どこまでも自由に広がる。これは寺山修司の伝記ではない。寺山世界そのものを見せようとする試みなのだ。ありとあらゆるイメージを詰め込んでいった自伝的作品という意味では『書を捨てよ、町に出よう』というよりも映画の『田園の死す』に近いが、あの作品以上に自由度は高い。