15年間走り続けたアグリーの最終公演である。とてもシンプルな2人芝居で、Wキャストになっている。僕は春眠ヴァージョン(出口弥生、ののあざみ)を見たのだが、冬眠ヴァージョン(吉川貴子、村上桜子)のほうも見たかった。同じ台本からかなりテイストの違うものを作り上げたらしい。もともと演出プランを変えようとしたわけではなく、役者に合わせていくうちにいろんなことが変わってしまったらしい。それって面白い。
さて、春眠ヴァージョンである。これには驚かされた。あまりに大胆な芝居で、こんなのありなのか、と思う。でも、ありなんだ。彼女たちは自由自在に自分たちの世界を構築していく。2人の役者たちの想像力と、作家(樋口ミユ)、演出家(池田祐佳里)のそれとがぶつかり合うことで、生まれるアンサンブルがこの作品の世界だ。最終公演だからといって力瘤を作って気負ったものを作る気は更々ない。当然、今までの集大成をここに見せようとするのでもない。いつも通りの自分たちを見せるだけだ。今の自分たちに興味のあることを芝居にして提示する。ただそれだけのことなのだ。
これは表面的には初期のシンプルな舞台に戻ったような作品だ。だが、これは様々な試行錯誤を繰り返して成長を遂げた今のアグリーの到達点を示す作品だ。Ugly ducklingは、もともとは池田さんと樋口さんの2人が始めた劇団である。2人しかいないから2人芝居をする、という当然のところから始まった。これはそのスタートラインに立ち戻っただけだ。但し今回2人は出演しない。(実は、ご愛敬程度に少しは出ているのだが、気にしないでいい。でも、あれは上手い出方だ。)6人の劇団員全員で役割分担をする。作、樋口。演出、池田。役者は4人、ということになる。とても単純。
春眠ヴァージョンは冬眠ヴァージョンより3週間遅れて稽古がスタートした。それはののあざみが11月の極東退屈道場に客演していたからだ。だが、それが今回の形を作るきっかけになった。冬眠の2人はきちんとした芝居を好むから、小道具もちゃんと用意して、ストーリーにもメリハリを付ける。段取りを踏んだオーソドックスな芝居となったらしい。それに対して、春眠の2人は自由な芝居を好むから、アドリブを取り込み、2人の直感や感性という感覚を重視した結果、なんだかよくわからないようなシュールな芝居になった。同じ台本のはずなのに、2本は全くテイストの異なる作品に仕上がったようである。春眠は見ていないのに、その様が、想像が出来る。終演後、池田さんと樋口さんの2人から、そんな話を聞いた。それってなんだかおもしろい。
最初からこういう結果を予想したわけではないらしい。先にも書いたが、ののあざみさんの合流が遅くなったから、偶然こういう風になったのだ。2本同時進行ではなく、タイムラグを作って、別々に作ったことがこういう思いがけない結果を生んだ。スタンダードを目指した春眠に対して、アバンギャルドな春眠は、ストーリーを追うことにも苦労する。
冒頭の子宮の中を覗き込む、というシーンは強烈である。(もちろんこういう場面は冬眠にはないらしい)子宮のなかにある仄暗い闇の中に見えるもの。生命の誕生、そして、誰にもやがて訪れる死。この明確なヴィジョンがしっかりと提示される。そこは共通するだろう。そこからスタートするさまざまな出来事、要するに人生、ってやつだ。それがコラージュされて描かれていく。短いシーンの羅列の中から、いくつもの印象的なエピソードを積み上げ、瞬く間に1時間30分に及ぶ大冒険は終了する。2人の役者たちはめまぐるしく変化していく状況を難なくクリアしてみせる。2人は何の衒いもなく熱く演じる。なのに、なんだかとても冷静だ。えっ、と思うと、もう次のエピソードが始まる。スピードは速い。観客はここで繰り広げられるイメージの万華鏡に圧倒され、それを口をあんぐり開けて見守り続けるしかない。SF的な設定の中にヘレンケラーとサリバン先生のように教えるという行為が組み込まれていたり、(このエピソードが印象的だ)もうなんでもありの自由自在だ。子宮(地球、と音が似ている)から宇宙まで、生命の誕生から、惑星の死、まで。大から小、小から大へと、一瞬で変化していく。無知な存在から、高度な文明まで、でも、やがてすべては滅び行く。そんなこの世界の変遷がこの小さな芝居のなかで慈しみをこめて描かれていく。
この芝居は『凛然グッド・バイ』というとても思いきりのいいタイトルになって、(今回の公演タイトルは最初はこれではなかったらしい。解散が突然決まって変更したらしい)彼女たちの15年の活動に終止符を打つ。とても潔い。
さて、春眠ヴァージョンである。これには驚かされた。あまりに大胆な芝居で、こんなのありなのか、と思う。でも、ありなんだ。彼女たちは自由自在に自分たちの世界を構築していく。2人の役者たちの想像力と、作家(樋口ミユ)、演出家(池田祐佳里)のそれとがぶつかり合うことで、生まれるアンサンブルがこの作品の世界だ。最終公演だからといって力瘤を作って気負ったものを作る気は更々ない。当然、今までの集大成をここに見せようとするのでもない。いつも通りの自分たちを見せるだけだ。今の自分たちに興味のあることを芝居にして提示する。ただそれだけのことなのだ。
これは表面的には初期のシンプルな舞台に戻ったような作品だ。だが、これは様々な試行錯誤を繰り返して成長を遂げた今のアグリーの到達点を示す作品だ。Ugly ducklingは、もともとは池田さんと樋口さんの2人が始めた劇団である。2人しかいないから2人芝居をする、という当然のところから始まった。これはそのスタートラインに立ち戻っただけだ。但し今回2人は出演しない。(実は、ご愛敬程度に少しは出ているのだが、気にしないでいい。でも、あれは上手い出方だ。)6人の劇団員全員で役割分担をする。作、樋口。演出、池田。役者は4人、ということになる。とても単純。
春眠ヴァージョンは冬眠ヴァージョンより3週間遅れて稽古がスタートした。それはののあざみが11月の極東退屈道場に客演していたからだ。だが、それが今回の形を作るきっかけになった。冬眠の2人はきちんとした芝居を好むから、小道具もちゃんと用意して、ストーリーにもメリハリを付ける。段取りを踏んだオーソドックスな芝居となったらしい。それに対して、春眠の2人は自由な芝居を好むから、アドリブを取り込み、2人の直感や感性という感覚を重視した結果、なんだかよくわからないようなシュールな芝居になった。同じ台本のはずなのに、2本は全くテイストの異なる作品に仕上がったようである。春眠は見ていないのに、その様が、想像が出来る。終演後、池田さんと樋口さんの2人から、そんな話を聞いた。それってなんだかおもしろい。
最初からこういう結果を予想したわけではないらしい。先にも書いたが、ののあざみさんの合流が遅くなったから、偶然こういう風になったのだ。2本同時進行ではなく、タイムラグを作って、別々に作ったことがこういう思いがけない結果を生んだ。スタンダードを目指した春眠に対して、アバンギャルドな春眠は、ストーリーを追うことにも苦労する。
冒頭の子宮の中を覗き込む、というシーンは強烈である。(もちろんこういう場面は冬眠にはないらしい)子宮のなかにある仄暗い闇の中に見えるもの。生命の誕生、そして、誰にもやがて訪れる死。この明確なヴィジョンがしっかりと提示される。そこは共通するだろう。そこからスタートするさまざまな出来事、要するに人生、ってやつだ。それがコラージュされて描かれていく。短いシーンの羅列の中から、いくつもの印象的なエピソードを積み上げ、瞬く間に1時間30分に及ぶ大冒険は終了する。2人の役者たちはめまぐるしく変化していく状況を難なくクリアしてみせる。2人は何の衒いもなく熱く演じる。なのに、なんだかとても冷静だ。えっ、と思うと、もう次のエピソードが始まる。スピードは速い。観客はここで繰り広げられるイメージの万華鏡に圧倒され、それを口をあんぐり開けて見守り続けるしかない。SF的な設定の中にヘレンケラーとサリバン先生のように教えるという行為が組み込まれていたり、(このエピソードが印象的だ)もうなんでもありの自由自在だ。子宮(地球、と音が似ている)から宇宙まで、生命の誕生から、惑星の死、まで。大から小、小から大へと、一瞬で変化していく。無知な存在から、高度な文明まで、でも、やがてすべては滅び行く。そんなこの世界の変遷がこの小さな芝居のなかで慈しみをこめて描かれていく。
この芝居は『凛然グッド・バイ』というとても思いきりのいいタイトルになって、(今回の公演タイトルは最初はこれではなかったらしい。解散が突然決まって変更したらしい)彼女たちの15年の活動に終止符を打つ。とても潔い。