いくらなんでも、これは変だよ。こんなのをダンス公演だなんて言われたら、ちょっとええっ、と言うしかないのだけれど、まぁボーダレスな時代なので(笑)そういう枠組みに収まらない作品のほうが面白い、ということにしておこう。
こんないい加減な書き方をしてしまうくらいにこの作品は不思議なのだ。芝居とか、ダンスとかいう分類なんてどうでもいいが、なんじゃこれ、という驚きが大きい。面白ければそれだけでいいのだが、これは面白いのかすらよくわからない特殊なケース。
一応会話劇というスタイルを踏んでるように見えるが、全く意味のない話が延々と続いていき、さらには同じ会話がなんども連鎖していく。少しずつ話は、ずれていきながら繰り返される。だいたこの会話自体が全く噛みあわない会話で、こんなにも無意味でいいのか、と心配になるくらいだ。
話は単純すぎるくらいに単純。柴田さん夫婦が引っ越したその後に、新しい住人がやって来る。なぜか名字が同じ柴田さん、という2人組。この2人の女性がどういう関係かはわからない。ただの友人でルームシェアしてるのか、親戚、姉妹?よくわからないが、とりあえず2人はアパートの前で佐藤さんと立ち話している。足立さんの噂とか、先の住人のことなんかを話している。なんかどうでもいいことを喋っているように見えたが、果たしてどこまでがどういう経緯で話されたかがよくわからない。12人がこの2人の柴田さんと佐藤さんを演じていくから激しく入れ替わり、どの柴田さんがどの佐藤さんと話した内容だったのかはよくわからないしどれであってもどうでもいいという奇妙さ。
そういえば役者である彼らの手と足の動きが変だ。それぞれ自由に振付けてもらったのか、それとも自分で勝手に考えたのか。このへんてこな動きを繰り返しながら台詞を喋らされる。そこには何の意味もない。意味のない動作をまるでチックか何かのように無意識に繰り返す。その運動がこの無意味な会話と連動していくことで何かが見えてくるといいのだが、そういうことには作者は全く無頓着に見える。ここまでさりげなく意味のないことをしかも、繰り返されるのに、なぜか目が離せない。いきなりたった50分程で終わってしまうのはもったいない。もっとずっと彼らを見ていたいと思った。
チェルフィシュの岡田利規さんによるこのパフォーマンスはオーデションによって集まった人たちを、自由にさせることで、彼らの持つ個性がこの与えられた世界の中でいかに生かせるかに挑戦したものだ。一度チェルフィシュの本公演を見てみたい。変すぎて気になる。
こんないい加減な書き方をしてしまうくらいにこの作品は不思議なのだ。芝居とか、ダンスとかいう分類なんてどうでもいいが、なんじゃこれ、という驚きが大きい。面白ければそれだけでいいのだが、これは面白いのかすらよくわからない特殊なケース。
一応会話劇というスタイルを踏んでるように見えるが、全く意味のない話が延々と続いていき、さらには同じ会話がなんども連鎖していく。少しずつ話は、ずれていきながら繰り返される。だいたこの会話自体が全く噛みあわない会話で、こんなにも無意味でいいのか、と心配になるくらいだ。
話は単純すぎるくらいに単純。柴田さん夫婦が引っ越したその後に、新しい住人がやって来る。なぜか名字が同じ柴田さん、という2人組。この2人の女性がどういう関係かはわからない。ただの友人でルームシェアしてるのか、親戚、姉妹?よくわからないが、とりあえず2人はアパートの前で佐藤さんと立ち話している。足立さんの噂とか、先の住人のことなんかを話している。なんかどうでもいいことを喋っているように見えたが、果たしてどこまでがどういう経緯で話されたかがよくわからない。12人がこの2人の柴田さんと佐藤さんを演じていくから激しく入れ替わり、どの柴田さんがどの佐藤さんと話した内容だったのかはよくわからないしどれであってもどうでもいいという奇妙さ。
そういえば役者である彼らの手と足の動きが変だ。それぞれ自由に振付けてもらったのか、それとも自分で勝手に考えたのか。このへんてこな動きを繰り返しながら台詞を喋らされる。そこには何の意味もない。意味のない動作をまるでチックか何かのように無意識に繰り返す。その運動がこの無意味な会話と連動していくことで何かが見えてくるといいのだが、そういうことには作者は全く無頓着に見える。ここまでさりげなく意味のないことをしかも、繰り返されるのに、なぜか目が離せない。いきなりたった50分程で終わってしまうのはもったいない。もっとずっと彼らを見ていたいと思った。
チェルフィシュの岡田利規さんによるこのパフォーマンスはオーデションによって集まった人たちを、自由にさせることで、彼らの持つ個性がこの与えられた世界の中でいかに生かせるかに挑戦したものだ。一度チェルフィシュの本公演を見てみたい。変すぎて気になる。