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映画・演劇のレビュー

『パレード』

2010-02-24 21:39:20 | 映画
 今年に入ってもう2本目の行定勲監督作品だ。しかも2本とも面白い。特にこの作品は彼の最近の作品の中でもベストの1作だろう。テイストとしては『きょうのできごと』に近い。若者たちの群像劇という意味でもよく似ている。だが、何にもないことをテーマにしたあの作品とは違いここにはドキドキするようなサスペンスがある。だが、それは殺人事件が描かれるからではない。反対にあまりに何にもなさすぎるからだ。『きょうのできごと』以上に何もない日常である。あの映画はある意味では特別な1日を描いていた。それに対してこの映画はいつまでも続く何にもない毎日の繰返しを描いているくらいだ。だが、そこにこれだけドキドキさせられる。

 吉田修一原作。4人の男女がルームシェアして共同生活を送っている。彼らは特別仲がいい親友同士とかいうわけではない。なんとなく知り合いなんとなく一緒に住み始めただけ。一緒だとお金がかからないし、別に気を使う関係でもないし。年齢も職業も別々で、どういうつながりかも、今では曖昧。それくらいに薄い関係性しかない。だから、誰かが新しい住人を連れてきてもあまり気にしない。お互いのプライベートに干渉しないなら、どうでもいい。生活する時間帯もまちまちだし。

 4話からなる。彼ら4人をそれぞれ主人公にする。だが、オムニバスではない。章立て程度のことだ。21歳の男子大学生、小出恵介。23歳の無職の女性、貫地谷しほり 。24歳の自称イラストレイター、フリーターの女性、香里奈。そして28歳映画会社勤務の健康マニアの男性、藤原竜也。以上4人。そこにある日、18歳の男の子、林遣都が入り込み、なんとなく彼もここに居付いてしまう。今、彼らの住むこの町では最近連続で通り魔殺人が起きている。

 同じ場所で暮らけど、お互いに過度の干渉はしない。なんとなく仲よく、共同で暮らしている。そんなおだやかな関係が、彼らには何とも心地よい。それを希薄な人間関係だとは言わない。

 ずっとこのまま続くわけではない。いつかは誰かが抜けていくはずだ。別に気にはしない。その時にはまた誰か別の人が入ってくるだろう。それでいい。

 行定監督の前作(というか、順番は今回の作品の方が前に撮影してる)『今度は愛妻家』を見た時もそのゆるやかな関係性が興味深いと思った。あれは夫婦なのだが、お互いベタベタしない。ドライというわけではないが、互いを束縛しない感じがいいな、と思った。だが、あの映画は夫婦関係が醒めてきていて、離婚の危機を描いていたからそんなふうになる、と誤解する観客もいるだろう。だが、根幹はこの2作は似てる。お互いは他人だ。そこから夫婦であってもスタートする。あの映画は後半ある事件(事故だが)を通してドラマが動いていき、最初の感じからずれてしまうのが残念だったが、こちらはぶれない。事件の真相が明確になっても彼らの関係性は変わらない。それどころか、よりクリアになつていくくらいだ。事件について誰も触れないし、話さない。お互いに干渉しないという暗黙のルールはそこですら貫徹される。怖いくらいだが、それがいい。人と人とは分かり合えない。それでもお互いに幸福に暮らしていける。大人だからとか、そんなことではない。

 『今度は愛妻家』を見ながら、『きらきらひかる』を思い出さない人はいないだろう。それは豊川悦司と薬師丸ひろ子が同じように夫婦を演じているから、ということだけではない。彼らが絶対的に分かり合えないにもかかわらず一緒に暮らすこと、そこから生まれてくる優しい関係を描くという共通項があるからだ。『きらきらひかる』の2人は仮面夫婦だった(豊川はホモで、薬師丸はアル中。2人は世間体から結婚しただけ)が、もしかしたら普通の夫婦以上にお互いのことを大切に感じていたのではないか。

 松岡錠司監督と行定勲監督。この今という時代を代表する若手(というか、もう中堅だが)作家2人の共作はこの2作だけではない。実は今回の『パレード』もそうである。これは松岡監督の『私たちが好きだったこと』に対するアンサームービーだ。男女4人の共同生活を描く、という共通項からの思い付きだが、あながちこじつけではあるまい。明らかに意識した映画になっている。行定映画2作は松岡映画から10年後くらいの作品なので、背景とする時代が明らかに違うから、同じ土俵での比較は出来ないが、2人の作家が同じような題材を取り上げ、それぞれのアプローチを見せるから、とても興味深い。この点に関しては項を改めてじっくりと考察したいくらいだ。

 余談だが、林遣都が路主が留守の間に忍び込んでしばらくの時間を過ごすというエピソードは明らかにキム・ギドクの『うつせみ』(原題は『空き家』)ではないか。彼のこのエピソードだけではない。映画には同居する4人がそれぞれ抱えるものを象徴するエピソードが用意されてある。彼らの内奥がそこから垣間見える。そして、そのクライマックスが藤原竜也のあの行為だ。だが、この映画が描きたいのはこの衝撃の結末ではない。だから、この事件自体ではないのだ。そこから見えてくる彼らが抱える孤独である。

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