あまりにありきたり。あたりまえ。表面的なレベルでお話が展開されていく。ドラマとしてのリアリティも奥行きも何もない。ペラペラ。唖然とする。
そのペラペラな台本(小鉢誠治)を演出の鈴木健之亮さんは敢えてそのまま、何の工夫もなく見せる。そんな大胆なまねを、なぜするのか。驚きを禁じない。敢えて、わざと、さらに、ペーラペラに描く所存だ。
90名近いキャスト(そのほとんどが、素人)を舞台に上げた群像劇だ。しかも、ミュージカル。10曲近い歌を、OBP円形ホールの広い舞台で、その大人数で、歌い踊るスペクタクル。もう、空前絶後の大パノラマ。ここにはたくさんの人たちの顔と姿以外、何もいらない、という判断だ。だから往来がプロデュースするのに、作り込んだセットなんて全く用意しない。最初は素舞台。そこにペラペラの書き割りが登場するばかり。これはこの人海戦術のパフォーマンスを際立たせるための戦略だろう。しかし、役者たちが素人なので、これは演出としてはかなり怖いはず。なのに鈴木さんは少ない稽古時間も、ものともせずにその演出プランで押し切る。
主人公である3人の若者たちを前面に押し出さない、というのもいい。彼らすら群衆の中のひとりひとりでしかない、という位置付けだ。モノクロームも、芝居が輝きだす瞬間を描くための方便ではなく、カラーの芝居が(千日前のにぎわいを描く)が、戦争に向かっていく時代を描き、彼らの夢見る力がモノクロの無声映画をカラーに変える。そんな躍動感を前面に押し出す。
芝居はラストでモノクロームになった(戦火に焼かれた)千日前を離れ、彼女の暮らす田舎町にやってきた復員兵の彼が彼女と再会を果たし抱き合うところで終わる。絵にかいたような芝居。それでいいという潔さ。ふたりが明るい未来へと踏み出していくラストを提示する。
実は台本も演出も確信犯なのだ。こんなベタな芝居を堂々とするために、敢えてこういう作り方をしたのではないか。2時間の芝居は力強いメッセージを放つ。