これは朝鮮戦争を舞台にした戦争映画である。いきなり激しい戦闘が繰り広げられる。一体何がどうなっているのやら、よくわからないまま、まるで戦場に放り込まれた気分にさせられるのは、『プライベートライアン』以降のある種のパターンだが、この映画も迫力がある。
その戦闘で生き残った主人公が、今度は自分と同じように学徒動員で召集された学生たちを指揮して戦うことになる。この映画の本題は戦争スペクタクルではなく、青春映画である。学徒動員された71人の学生や、少年院に入っていたものたちが、同じ場所で、実戦の経験はもちろんのこと、兵士として自覚もないまま戦う事になる姿が描かれる。
軍隊がいなくなった後のひとつの拠点(学校である)の警備を任され、彼らだけでここを守ることになる。そこに北朝鮮軍が襲いかかる。投降を求められるが彼らは戦争のプロである正規軍に、自分たちだけで抵抗を試みる。
丁寧に作られた大作映画なのかも、しれない。だが、見ていて描かれてあること以上のものは何も感じられない。彼らが置かれた立場、その中で彼らが何を思いどうして抵抗を試みたのか、勝てるわけもない戦いに身を投じたのは祖国への愛である、なんていうお決まりのパターンでは終われないはずだ。もっと違う「何か」が必要だと思う。今の時代に、敢えてこの映画を作るのなら、それなりの視点がなければ意味がない。「感動の実話映画化」なんていう安直なパッケージでは誰の心も撃たない。派手な戦闘シーンだけでは、映画として成立しない。今、朝鮮戦争を扱うことに何の意味があるのか。それが必要なのだ。しかも、話自体は、なんかただの美談でしかないし。映画自体は、悪い映画ではない。それだけに、惜しい。これだけでは、なんか納得がいかない。
クォン・サンウが学生の役で出ているが、いくらなんでも30代の彼に、学生役はもうきついのではないか。周囲の学生たちは実年齢の役者が演じている中で彼一人が浮いてしまっている。
『サヨナライツカ』『私の頭の中の消しゴム』の叙情派イ・ジェハン監督がこういう硬派のアクション映画を撮ったのは意外だが、こんなにも派手な戦争映画なのに、それでも抑えた描写で貫かれてあるのは立派だ。主人公の気持ちを表に出さず、彼がこの目の前の現実をただ見つめていくというスタイルを崩さない。だから、センチメンタルなだけの映画には決してならなかったのはいい。だが、そこまで、である。その先は見えない。
その戦闘で生き残った主人公が、今度は自分と同じように学徒動員で召集された学生たちを指揮して戦うことになる。この映画の本題は戦争スペクタクルではなく、青春映画である。学徒動員された71人の学生や、少年院に入っていたものたちが、同じ場所で、実戦の経験はもちろんのこと、兵士として自覚もないまま戦う事になる姿が描かれる。
軍隊がいなくなった後のひとつの拠点(学校である)の警備を任され、彼らだけでここを守ることになる。そこに北朝鮮軍が襲いかかる。投降を求められるが彼らは戦争のプロである正規軍に、自分たちだけで抵抗を試みる。
丁寧に作られた大作映画なのかも、しれない。だが、見ていて描かれてあること以上のものは何も感じられない。彼らが置かれた立場、その中で彼らが何を思いどうして抵抗を試みたのか、勝てるわけもない戦いに身を投じたのは祖国への愛である、なんていうお決まりのパターンでは終われないはずだ。もっと違う「何か」が必要だと思う。今の時代に、敢えてこの映画を作るのなら、それなりの視点がなければ意味がない。「感動の実話映画化」なんていう安直なパッケージでは誰の心も撃たない。派手な戦闘シーンだけでは、映画として成立しない。今、朝鮮戦争を扱うことに何の意味があるのか。それが必要なのだ。しかも、話自体は、なんかただの美談でしかないし。映画自体は、悪い映画ではない。それだけに、惜しい。これだけでは、なんか納得がいかない。
クォン・サンウが学生の役で出ているが、いくらなんでも30代の彼に、学生役はもうきついのではないか。周囲の学生たちは実年齢の役者が演じている中で彼一人が浮いてしまっている。
『サヨナライツカ』『私の頭の中の消しゴム』の叙情派イ・ジェハン監督がこういう硬派のアクション映画を撮ったのは意外だが、こんなにも派手な戦争映画なのに、それでも抑えた描写で貫かれてあるのは立派だ。主人公の気持ちを表に出さず、彼がこの目の前の現実をただ見つめていくというスタイルを崩さない。だから、センチメンタルなだけの映画には決してならなかったのはいい。だが、そこまで、である。その先は見えない。