このタイトルはあまりに安易だ。明らかに小津安二郎の『東京暮色』を意識している。あれは小津映画としてはあまり出来のよくない作品である。(と、僕は思う)だから、あの映画を意識するこのタイトルは不吉だ。有馬稲子は一番美しいと思うけど。
原題は『強尼・凱克』、英語タイトルは『 Missing Johnny』。だから2017年・第18回東京フィルメックスのコンペティション部門に出品された時には「ジョニーは行方不明」のタイトルで上映されている。まぁ、このタイトルもどうだかな、とは思うけど。
そしていやな予感通り映画はあまり出来のよくない作品に仕上がっている。悪い映画ではない。だが、あまりに狙い過ぎていて、ついていけない。そっけない描写。説明不足も意図的であざとい。ホゥ・シャオシェン監督がプロデュースをしている。彼の映画のあまりよくないところを引き継いでいる。彼の初期作品は素晴らしい、あの見事さを引き継いで欲しかった。だが、後期の迷走している頃の作品に似ている。冒頭の地下鉄での描写(鳥の入った箱を抱えた女)とか、その後のストーカーかと思わせるシーンとか、導入部は見事だが、それだけが続き、お話の本題部分が希薄。思わせぶりな言動、描写にはウンザリさせられる。何度も繰り返される「ジョニーはそこにいますか?」という同じ男あての間違い電話。意図はわかるけどあざとい。必要以上の長回しもそうだ。
都会の片隅に生きる人たちの群像劇を一部分を丁寧に切り取って見せるのはいい。いくつかの生活の断片をさりげなく提示する。だが、それが彼らにとってどんな意味を持つかは明確にならない。ラストの高速でのエンストからの引きの画も狙い過ぎていてあざとい。ホアン・シーの監督デビュー作。かなり期待していただけに少し残念。