映画「かもめ食堂」は、実に楽しい映画だ。
登場人物がそれぞれ、とても不思議で魅力的。
もっともっとかもめ食堂の先行きを見守りたくなる。
そのかもめ食堂で語られるジャパニーズ・ソールフードたる“おにぎり”。
日本人ひとりひとりに、思い入れのある食べ物なのだ。
この映画を観る人は、「私にとって“おにぎり”とは」と、語り出したくなる。
さて、イタリアのソールフードと云えばパルミジャーノなのではないだろうか。
何でもかんでもパルミジャーノを使うとイタリアンになる。
パルミジャーノはイタリアの旨味の素。
クアトロは、このパルミジャーノの中央を掘り出し、穴を造り、そこにパスタやリゾットを入れて食べる。
それがクアトロのソールフード“パルミ・ペンネ”と“パルミ・リゾット”。
「私にとってクアトロの“パルミジャーノ”とは」
クアトロのソールフードを熱く語ってみよう。
先日のことだが、ママさんと回転寿司を食べた。
今の回転寿司は、お鮨のサンプルが回転しているだけで、注文はタッチパネルだ。
ふたりで向かい合うボックス席だが、おたがいの顔を見るよりも、タッチパネルと向き合っての食事だ。
クアトロの父もタッチパネルにはだいぶ慣れてきたが、誰が作っているのかも解らない鮨を新幹線が運んでくる様には、まだまだ馴染めない。
クアトロの父の生涯ベスト・ワンの映画はと聞かれたら、チャップリンの「モダンタイムス」と答える。
現代社会の機械化を痛烈に批判した作品。
数々の名場面があるが、チャップリンが自動食事機械にかけられる場面も記憶に残る。
機械にトウモロコシを食べさせられたり、歯磨きまでされるのだが、機械が壊れ暴走をはじめる。
お鮨が暴走しないか、心配しながら食事をする。
明日からのクアトロ、ロボットのような動きのクアトロの父だが、暴走をはじめないだろうか。
※毎週火曜日の夜と水曜日全日は、クアトロの定休日になります。
以前、原田マハの「キネマの神様」を読んで、クアトロの父のようなロートル映画ファンからすると、とても面白い話だった。
いずれ映画化されるだろうと思っていたが、山田洋次監督で映画化されている。
話は、山田洋次監督らしい映画制作のノスタルジーが盛られ原作とも違う趣があって良かった。
原田マハの方では、シネマの神様は、映画館に住んでいるが、山田洋次監督の方では、フイルムの駒と駒の間にいるらしい。
どちらでも良いのだが、クアトロの父もシネマの神様を信じているが、映画館でフイルムの映画をこのところ観ていないので、キネマの神様に申し訳ない思いだ。
クアトロにも、生パスタの神様が宿っており、お店に住んでいるのか、生パスタに練り込まれているのかは、確認されていないが、今日も生パスタの仕込みに励み、生パスタの神様を呼び込むクアトロの父である。
※毎週火曜日の夜と水曜日全日は、クアトロの定休日になります。
映画「グッドナイト&グッドラック」はジョージ・クルーニー監督によるセンスの良い作品だ。
1950年代、アメリカではテレビ放送のあり方が問われていた。
吹き荒れる赤刈りの嵐にテレビ界は飲み込まれてしまって良いのか。
当時の人気ニュース・キャスター、エド・マローは問いかける。
50年後100年後の人々が、この時代のテレビを見たときどう評価するだろうか。
この時代のテレビは人を欺き笑わせ現実をかくしていたとしか見ないだろう。
エド・マローは闘った。
赤刈りの旗頭である権力者マッカーシーと真の自由のために闘ったのだった。
エド・マローの報道番組の締めくくりの挨拶はグッドナイト&グッドラック。
もちろんエド・マローの闘いから50年後の現代、そのテレビ界やメディアのあり方を問いかけている。
日本などはひどいもので、テレビなどはバラエティ番組ばかりが垂れ流されている。
視聴者につまらない笑いを与えて何かを忘れさせようとしている。
クアトロのエド・マローことクアトロの父は問いかける。
何年か先、人々がクアトロでの食事を思い浮かべた時、お腹は満たされた、会計は高くはなかったとか、それだけの記憶の店で良いのだろうか。
お客様にもっと感動を与えなくて良いのだろうか。
今日のクアトロは、赤崎産生カキ、八丈島産トビウオ、福島産天然真鯛、北海道産キンキ、静岡産イソツブなどが用意されている。
そして、感動を呼ぶグッドな鹿児島産スミイカ。
はたしてクアトロはお客様に感動を与えることは出来るのだろうか。
クアトロのエド・マローことクアトロの父がリポートしました。
そして、グッドナイト&グッドラック&グッドスミイカ。