ムーグ社のシンセというとお馴染みである。発音的にはモーグが正しくて、そういうことに五月蝿いメンツはモーグと呼んでいる。シンセの創造主モーグ氏が亡くなった。今やキーボード操作による電子音楽なんて当たり前のように使われているが(というか大半の「普通の人」はそれと意識しないで聞いているだろう)かつてはマルトノやソ連のなんとかいうキワモノと同じ電子楽器というマイナーなくくり方をされていたわけで、しかし明確な理論とテクニカルな裏付けにより構築された、シンセサイザーという機構の優れた機能性はアビー・ロードへの採用を皮切りに、もしくは遡りヒッチコック作品を通して一気に世界に知れ渡ったわけである。
むしろまだご存命だったことに驚いたくらいだった。しかも70台だったわけである。それほどにシンセサイザーは生まれたときから共にあり、身近で不可欠なものという意識があった。音楽界にとっては・・・クラシックはどうだか知らないが・・・まるで半導体の発明と同じくらい古典的で絶対的な発明であったと思う。PC制御になり手軽に操作できるようになったことから、ワールドミュージックとの融合がはかられ今、音楽は土俗と先端の融合という確実に新しい地平へ向かっている。クラシックというジャンルはどちらかといえば土俗だ。主たる構成楽器の基本構造が何百年も変わっていないのだから伝統音楽と言ってもいいだろう(根はゲルマンの民族音楽だ)。
但しクラシックは貪欲に吸収し(また放出もし)成長しつづける音楽でもあり、コンテンポラリーの括りに限らずシンセは積極的に取り入れられていった。オルガンのかわりにシンセを使う演奏会なんていくらでもある。録音にさえ使ったりされる。クラシックの話題でモーグ氏の名が出るのに少し違和感があったのだが、出て当たり前といえば当たり前である。クラフトワーク、YMOといったエレクトロの源流「テクノ」の出自も実は富田作品のようなところだったりするのだし(ロック、特にプログレの世界では既に当然のように使われまくっていたのだが)。あるていどシンセのような機構に頼らざるを得ないアンビエント系の音楽もジャンルの境界線を探っていたクラシック畑の作曲家が切り開いたものなのだから、モーグ氏がいなければ今のヒーリングミュージックというジャンルも無かったろう。
土俗と先端の融合というところに話を戻すと、今クラブなどで流される音楽の地盤は未だ生音でないものが大半ではあるものの、ポップスという大雑把な括りの中では20年弱前に生音(一種の土俗だ)への大きな揺り戻しがあり、そして繰り返しになるが今その両極端を並行させながらも直接的融合がはかられている、いや、草の根ではもうずいぶんと前に始められている。シンセ(という呼び方がまだされているのかどうかもう知らないが)の生み出す電子音(リズム他のパラメータ含むもの)はその一極点を担う根本の柱になっており、それが無いことはもうありえない。
「電子土俗楽器」はアメリカの田舎マイナー音楽家の専売特許じゃない、アフリカでは既に歴史があるものだ。キーボード操作による西欧音楽理論の実践という根幹に対する入力端末として土俗楽器が使われることもあるし、その逆もあるが、いずれ聞けばその切り開こうとしている地平は見えてこよう。西欧音楽理論の一つの行き着いた形、それが沢山のコードを引きずる操作キーだらけの鍵盤セット、シンセサイザーそのものだが、理論を崩すものとしてもっとシンセの理論構造そのものの見直しを挑むような(しかし決して伝統から切り離された頭でっかちなものにならない)仕組みが知られざる土俗の中から現れ、融合しようとかかってくれば面白くなろう。モーグ氏がそこまで見届けられなかったのは残念だ。
現代、広大且つ複雑多岐で不要なほどに分化された「音楽界」にあってシンセは一様に血肉のようなものになりきっており、その呼称すら意味が無くなっているほどだ。またこの世にモーグ氏のような人は降り立つことがあるだろう。そのとき、音楽シーンはどのようになっているだろうか。クラシックは、クラシックという「国体」を守りつづけることができているであろうか?
むしろまだご存命だったことに驚いたくらいだった。しかも70台だったわけである。それほどにシンセサイザーは生まれたときから共にあり、身近で不可欠なものという意識があった。音楽界にとっては・・・クラシックはどうだか知らないが・・・まるで半導体の発明と同じくらい古典的で絶対的な発明であったと思う。PC制御になり手軽に操作できるようになったことから、ワールドミュージックとの融合がはかられ今、音楽は土俗と先端の融合という確実に新しい地平へ向かっている。クラシックというジャンルはどちらかといえば土俗だ。主たる構成楽器の基本構造が何百年も変わっていないのだから伝統音楽と言ってもいいだろう(根はゲルマンの民族音楽だ)。
但しクラシックは貪欲に吸収し(また放出もし)成長しつづける音楽でもあり、コンテンポラリーの括りに限らずシンセは積極的に取り入れられていった。オルガンのかわりにシンセを使う演奏会なんていくらでもある。録音にさえ使ったりされる。クラシックの話題でモーグ氏の名が出るのに少し違和感があったのだが、出て当たり前といえば当たり前である。クラフトワーク、YMOといったエレクトロの源流「テクノ」の出自も実は富田作品のようなところだったりするのだし(ロック、特にプログレの世界では既に当然のように使われまくっていたのだが)。あるていどシンセのような機構に頼らざるを得ないアンビエント系の音楽もジャンルの境界線を探っていたクラシック畑の作曲家が切り開いたものなのだから、モーグ氏がいなければ今のヒーリングミュージックというジャンルも無かったろう。
土俗と先端の融合というところに話を戻すと、今クラブなどで流される音楽の地盤は未だ生音でないものが大半ではあるものの、ポップスという大雑把な括りの中では20年弱前に生音(一種の土俗だ)への大きな揺り戻しがあり、そして繰り返しになるが今その両極端を並行させながらも直接的融合がはかられている、いや、草の根ではもうずいぶんと前に始められている。シンセ(という呼び方がまだされているのかどうかもう知らないが)の生み出す電子音(リズム他のパラメータ含むもの)はその一極点を担う根本の柱になっており、それが無いことはもうありえない。
「電子土俗楽器」はアメリカの田舎マイナー音楽家の専売特許じゃない、アフリカでは既に歴史があるものだ。キーボード操作による西欧音楽理論の実践という根幹に対する入力端末として土俗楽器が使われることもあるし、その逆もあるが、いずれ聞けばその切り開こうとしている地平は見えてこよう。西欧音楽理論の一つの行き着いた形、それが沢山のコードを引きずる操作キーだらけの鍵盤セット、シンセサイザーそのものだが、理論を崩すものとしてもっとシンセの理論構造そのものの見直しを挑むような(しかし決して伝統から切り離された頭でっかちなものにならない)仕組みが知られざる土俗の中から現れ、融合しようとかかってくれば面白くなろう。モーグ氏がそこまで見届けられなかったのは残念だ。
現代、広大且つ複雑多岐で不要なほどに分化された「音楽界」にあってシンセは一様に血肉のようなものになりきっており、その呼称すら意味が無くなっているほどだ。またこの世にモーグ氏のような人は降り立つことがあるだろう。そのとき、音楽シーンはどのようになっているだろうか。クラシックは、クラシックという「国体」を守りつづけることができているであろうか?