湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ムーグORモーグ?

2005年08月26日 | Weblog
ムーグ社のシンセというとお馴染みである。発音的にはモーグが正しくて、そういうことに五月蝿いメンツはモーグと呼んでいる。シンセの創造主モーグ氏が亡くなった。今やキーボード操作による電子音楽なんて当たり前のように使われているが(というか大半の「普通の人」はそれと意識しないで聞いているだろう)かつてはマルトノやソ連のなんとかいうキワモノと同じ電子楽器というマイナーなくくり方をされていたわけで、しかし明確な理論とテクニカルな裏付けにより構築された、シンセサイザーという機構の優れた機能性はアビー・ロードへの採用を皮切りに、もしくは遡りヒッチコック作品を通して一気に世界に知れ渡ったわけである。

むしろまだご存命だったことに驚いたくらいだった。しかも70台だったわけである。それほどにシンセサイザーは生まれたときから共にあり、身近で不可欠なものという意識があった。音楽界にとっては・・・クラシックはどうだか知らないが・・・まるで半導体の発明と同じくらい古典的で絶対的な発明であったと思う。PC制御になり手軽に操作できるようになったことから、ワールドミュージックとの融合がはかられ今、音楽は土俗と先端の融合という確実に新しい地平へ向かっている。クラシックというジャンルはどちらかといえば土俗だ。主たる構成楽器の基本構造が何百年も変わっていないのだから伝統音楽と言ってもいいだろう(根はゲルマンの民族音楽だ)。

但しクラシックは貪欲に吸収し(また放出もし)成長しつづける音楽でもあり、コンテンポラリーの括りに限らずシンセは積極的に取り入れられていった。オルガンのかわりにシンセを使う演奏会なんていくらでもある。録音にさえ使ったりされる。クラシックの話題でモーグ氏の名が出るのに少し違和感があったのだが、出て当たり前といえば当たり前である。クラフトワーク、YMOといったエレクトロの源流「テクノ」の出自も実は富田作品のようなところだったりするのだし(ロック、特にプログレの世界では既に当然のように使われまくっていたのだが)。あるていどシンセのような機構に頼らざるを得ないアンビエント系の音楽もジャンルの境界線を探っていたクラシック畑の作曲家が切り開いたものなのだから、モーグ氏がいなければ今のヒーリングミュージックというジャンルも無かったろう。

土俗と先端の融合というところに話を戻すと、今クラブなどで流される音楽の地盤は未だ生音でないものが大半ではあるものの、ポップスという大雑把な括りの中では20年弱前に生音(一種の土俗だ)への大きな揺り戻しがあり、そして繰り返しになるが今その両極端を並行させながらも直接的融合がはかられている、いや、草の根ではもうずいぶんと前に始められている。シンセ(という呼び方がまだされているのかどうかもう知らないが)の生み出す電子音(リズム他のパラメータ含むもの)はその一極点を担う根本の柱になっており、それが無いことはもうありえない。

「電子土俗楽器」はアメリカの田舎マイナー音楽家の専売特許じゃない、アフリカでは既に歴史があるものだ。キーボード操作による西欧音楽理論の実践という根幹に対する入力端末として土俗楽器が使われることもあるし、その逆もあるが、いずれ聞けばその切り開こうとしている地平は見えてこよう。西欧音楽理論の一つの行き着いた形、それが沢山のコードを引きずる操作キーだらけの鍵盤セット、シンセサイザーそのものだが、理論を崩すものとしてもっとシンセの理論構造そのものの見直しを挑むような(しかし決して伝統から切り離された頭でっかちなものにならない)仕組みが知られざる土俗の中から現れ、融合しようとかかってくれば面白くなろう。モーグ氏がそこまで見届けられなかったのは残念だ。

現代、広大且つ複雑多岐で不要なほどに分化された「音楽界」にあってシンセは一様に血肉のようなものになりきっており、その呼称すら意味が無くなっているほどだ。またこの世にモーグ氏のような人は降り立つことがあるだろう。そのとき、音楽シーンはどのようになっているだろうか。クラシックは、クラシックという「国体」を守りつづけることができているであろうか?
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マーラー:交響曲第6番

2005年08月19日 | マーラー
朝比奈指揮大阪フィル(GREEN DOOR)1979/9/7LIVE・CD

割合コンパクトで軽い演奏。一楽章の提示部が繰り返されていても全く気にならないくらい軽い。艶やかさのない、しかし烈しい切れ味のあるオケは朝比奈のしばしばクレンペラー(50年代)と比較される無骨で率直な表現によくあっている。古典的な意味での交響曲の終焉にこの作曲家を位置づけていた朝比奈らしい構成感がよく出ていて、例えばアルマの主題に入るところで全くテンポを落とさずロマン派的な歌謡性を煽ることを避けている(リフレイン時に一気にリタルダンドするが)。愚直なまでに即物的に音楽を組み立てていく朝比奈、好悪物凄く別れるだろう。一楽章コーダ前のアンサンブル崩壊などあんまりな箇所もあって、余程即物好きかアナライズマニアでないと正直浅薄でヘタな印象しか残らないかもしれない。スピードはかなり速いから同じ即物主義とみなされていたシェルヒェンと比較できるかもしれないが、近いようでいて遠い・・・恣意性の有無以前に作品に対するスタンスが違いすぎる。シェルヒェンは自分の解釈を積極的に入れこんでいくが、朝比奈はまずは原典主義、そして原典にプラスアルファするのではなく「引き算する」ことでマーラーの指示を「正している」。近いようでいて、というのは現代の分析的な精緻な演奏スタイルとは共に掛け離れている、という意味だ。録音のせいもあろうが朝比奈の響きは美しいとは言い難い。弦楽器の健闘にも関わらず余りに思いの感じられない三楽章など、戦後期のクレンペラーならやりそうな類の乱暴な組み立てかただ。誰がやってもそれなりに聞ける、それだけで一大叙事詩の四楽章、これはやっぱりなかなか聞ける。二十年前の演奏といっても通りそうな熱気だ。オケにまずは拍手、ここにきてやっと名人芸的な瞬発芸やリズムの刻みを見せた朝比奈にも、やっとかい、と拍手。緩徐部もいずこも前後のつなぎかたがややぎごちないが、それなりに雰囲気を出すことに成功している。アマチュアリスティックな技術の不全は疲れてくると出やすいものだから、終盤の音色のだらしなさや不揃いには目をつぶるべきだろう。高揚感の不足も仕方あるまい。コーダの抑制と開放は上手くいっているが。なんというか、ちらほら「ぶらぼうー」と日本語発音が飛び交うのは日本ローカルオケならではの終わり方か。無印。
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ブラームス:交響曲第2番

2005年08月11日 | ドイツ・オーストリア
〇チェリビダッケ指揮シュレスヴィヒ・ホルシュタイン祝祭管弦楽団(CD-R)1987/8/21LIVE

滑らかで横の流れが綺麗、縦はもちろんドイツふうにきっちり締めるが、一楽章など非常に優しい感じがする。チェリにしては意外だ。録音の悪さ、遠さというのはあるかもしれない。細部が曖昧なぶん、「描線が極めて明瞭で神経質なくらい金属質の音響を創り出すチェリ解釈」の取り付くシマのなさが、オブラートをかけられてたまたまイイ感じな録音になったということかもしれない。イギリス的な柔らかい音を出すオケ、あるいは萎縮して「そうならざるをえなくなった」のかもしれないが、牧歌的な曲想にもマッチして、疲れた体には程よく響く。よくこなれた解釈は徒に構築性を主張せず、かといって感情を煽らないし、表現意思の強い演奏に嫌気のさした人にも勧められる。ゆったりと、じつにゆったりとした流れを創り出し、しかし古典派的なまとまりを終始固持した二楽章で飽きる人もいるかもしれないが、流して聞くには実にいい。三楽章の刻みや低音の響きにドイツふうのリズムの重さが伴っており、軽やかな印象さえあったそれまでの音楽にアクセントを与えているがこれはチェリらしさでもあり、個人的には他の部分に揃えて低音を抑えて欲しかったが、寧ろあるべきであったものだろう。終楽章は喜遊的な音楽だからここは盛大にやってもいいはずだが、しっかりと縦を揃えつつも、抑制をきかせて、特に弱音のひそやかさを繊細に、かつ自然に表現しつつ牧歌的な柔らかさ優しさを保ち(素晴らしい木管の表現には拍手をあげるべきだろう)、ドイツぽさをどっしりしたバランスでアピールしながらも、弦楽器の紡ぎだす滑らかなイギリスふうの横線が細かい起伏のニュアンスまでも実に美しく、的確に響いている。クライマックスもまるで尾根歩きのピークのようで、余り上り詰める感じはなく自然な昂まりのうちに迎えるが、チェリの気合い声が最後の一発だけということからもわかる通り、自然体が寧ろ意図であったとも思われる。一流楽団なら莫大な晩年様式が徹底されるところだったと思うが、教育的配慮が出来のいい臨時楽団に施された結果こういうブラヴォまみれの名演に行き着いたという不思議な記録。録音の悪さを加味して〇。体調次第で物足りなさを感じる可能性大なのでくれぐれご注意。「ワルターの燃えるライヴ録音」好きは特に。
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フランツ・シュミット:交響曲第1番

2005年08月08日 | ドイツ・オーストリア
〇ヤルヴィ指揮デトロイト交響楽団(CHANDOS)CD

タンホイザーか?というような出だしからもうワグナー臭ぷんぷん。第二主題はこれまたブラームス!1楽章は楽器法や転調に後年の独特の雰囲気の萌芽が見えなくもないがそれとてワグナーとブラームスの影響下に展開されたものにすぎない。二大作曲家のエッセンスが大部分を占めた曲だが、ヤルヴィだから生臭くならない。もっとウィーン寄りのプレイヤーだったら?四曲のシンフォニーの中では最も古風で、まるで周辺国のエピゴーネン作曲家の作品であるかのような表面的な保守性を感じる。シベリウスの初期作品など北欧のドイツ的作曲家のものを思い浮かべたがヤルヴィだからというわけではあるまい。2楽章の古典派的な暗さはフランツならではだし、ブラームス通り越してシューマンからベートーヴェンのアンサンブルを彷彿とさせる緊密なスケルツォ楽章の、展開部の目まぐるしい転調は新しく現代的でこの作品の聞き所だ。緩徐主題はウィーン情緒たっぷりでフランツらしい。マーラー1番の緩徐主題を彷彿とする。弦楽器の機能性を問われるフランツのシンフォニー、1番で既にかなりの統制を要求されているが、更に古風な4楽章はほんとに古典並の使われぶりで縦の刻みばっかり。疲れそう。ブラームス的な意味での新古典性が強く、しかし対位的なアンサンブルが殆ど無く、オーケストレーションはぐっと単純であるから、ハーモニーの新しさが無ければブルックナーの凡作と聞きまごうばかりのところもある。半音階的な音線にウィーン的な魅力が確かにあるので、もう少しウィーンふうの情緒的な音色があれば面白かったかも。フランツらしく凄く盛り上がるというわけでもなく縦の動きに横長のフレーズが重なってきてハーモニーが分厚くなって終わるわけだが、このあたりの「やっと来た!」的感動はブルックナーぽい。ヤルヴィはほんとに手綱さばきが上手くて、一本一本がむずいフランツのスコアも見事にアンサンブルに纏め上げてくれる。むろんオケの力あってのものでもあるわけだが。ヤルヴィに〇ひとつ。
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ウォルトン:ベルシャザールの饗宴

2005年08月05日 | イギリス
○クーベリック指揮シカゴ交響楽団(CSO)1952/3/30LIVE・CD

前半のゆるい場面では録音の悪さもあいまって余り感情移入できないのだが、ウォルトンらしいリズミカルな場面に転換していくとテンションの高いクーベリック・ライヴを堪能できる。音さえよければ◎モノだったのに!ウォルトンの悪い癖である変なパウゼの頻発が主として速いテンポと明確な発音によるテンションの持続性によってまったくカバーされ気にならない。生で聞いたら凄かったろうな、というシカゴの機能性の高さにも瞠目。弦楽器の一糸乱れぬアンサンブルは明るくこだわりがない音であるぶん清清しい響きのこの曲にはあっている(内容どうのこうのは別)。とにかくこの時代の指揮者にこういうスタイルは多いのだが(まるでトスカニーニの後継者を争うが如く)その中でもずば抜けてテクニックとテンションを持っていた怒れるクーベリックの技に拍手。何も残らないけど、残らない曲ですからね。
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リムスキー・コルサコフ:ドゥビーヌシュカ

2005年08月01日 | リムスキー・コルサコフ
〇ゴロワノフ指揮ロシア国立交響楽団(LARGO)LP

やや弛緩した穏やかな表現から始まるが、後の盛り上がりをきちんと計算したもので、フレーズひとつひとつに意味を持たせなからも巨視的な設計が活きてグダグダにならない。なかなか効果的なテンポ設定に、じきにパツパツ決まりだすリズムがゆっくりめのテンポでいながらもこの単なるマーチを、原曲から数倍スケールアップして立派なオーケストラルミュージックとして偉大に聞かせる。パウゼもゴロワノフらしい名人芸。管弦のバランスのよさがこの人らしくない程だ。録音の悪さを差し引いても〇はつけられる。
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リムスキー・コルサコフ:セルビア幻想曲

2005年08月01日 | リムスキー・コルサコフ
〇ゴロワノフ指揮ロシア国立交響楽団(LARGO)LP

暗いスラヴ行進曲的な主題と、エキゾチックな民族舞踊音楽主題がひたすら交互に繰り返される。前者は結構常套的な展開だが入り易い。後者はシェヘラザード終曲的で腕の見せどころ。管楽器の艶めかした音色と機敏な動きにゴロワノフらしからぬ統率力を感じさせる。各セクションがばらばらになりがちなゴロワノフが楽団の素晴らしい調子に乗って、まとまりよくかなり出来がいい。曲は親しみやすいが飽きるので聴き過ぎ注意。特徴的な演奏ではないが聞きごたえあり。
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グラズノフ:交響曲第5番

2005年08月01日 | グラズノフ
フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団(melodiya/victor)1976/12・CD

フェドはグラズノフ全集を恐らく世界で最初に完成させた指揮者であり、それだけに十字軍的な立場でいなければならなかったことの難しさも感じさせる。グラズノフはテンションを必要とする作曲家だ。テンションがもたなければ一様に長丁場をもたせられない。たとえば疾走する音楽である終楽章は今聞くと余りに遅い。特に再現部からクライマックスに入ったところで異常なまでにテンポを落としている、これは構成的で綺麗な解釈を持ち味とするフェドらしいバランス感に基づく解釈だとは思うが、はっきり興をそぐ、ここは一気に剛進してぶち抜けるのが筋だろう。こんな感想もロジェストやヤルヴィの現れる前には抱けなかっただろうことを思うと、グラズノフが今ひとつメジャーになれなかったのに十字軍の演奏スタイルという問題があったことは残念ながら事実と感じる。単発の演奏としては既にゴロワノフの余りに雑で一般人は聴くに耐えない盤や余り盤数の出なかったムラヴィンスキーのライヴ盤があったわけだが、それらソヴィエト以外で殆ど流通しなかった古い演奏と比べても、この全般的なゆったりした流れ、音に拘りテンションに拘らないスタイル、客観性は寧ろ特異である。綺麗さは認める。でも現代の演奏でこういうものはいくらでも聞ける。そして、ロシアオケならではの「雑味」が無いとは言い切れないから、綺麗にまとめたいフェドの意図も徹底されず半端である。最初に聞くならこれでもいいかもしれない。けれども本当はこれはロシアの国民楽派の交響曲がどんなものなのかよくわかったうえで、頭の中で逆変換しながら聴くべきものである。拒否反応や欠伸が出た人は、すぐ聞くのをやめてヤルヴィをあたろう。ム印。
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