湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

グラズノフ:室内楽(2013年11月までのまとめ)

2013年12月26日 | Weblog
弦楽四重奏曲第2番

<ボロディンに飽きたとお嘆きの貴兄に。少々冗長なところもありますが、3楽章から4楽章への流れはボロディン的な響きの美しさを維持しながらも、構築的なドイツ音楽を取り入れた面白い聞き応えの曲になっております。また4楽章には少々モダンな響きも出現して、クーチカやチャイコフスキーの次の世代を予感させるところもあります。3楽章第2主題の儚げな夢幻の世界は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番2楽章を予感させる素晴らしいものです。”グラズノフ”は名前で損していますが元来「美しい」作曲家なのです!ビオラ・ソロも聞き物。あと、3~5番もそれぞれ個性的で、お勧めです。 >

○ショスタコーヴィチ四重奏団(melodiya)CD

弦楽四重奏曲第4番

○タネーエフ四重奏団(melodiya)LP

俗っぽい悲恋話を背景にしているとの伝説のある、グラズノフにしては珍しい一貫して晦渋な作品で、構造的な書法が目立つこともその印象を強くしている。交響曲第8番2楽章あたりの近代ロシア的な陰鬱さに通じる。グラズノフは形式音楽におけるスケルツォ楽章を、他の楽章との対比的なものとして完全に独立した異なる楽想により描くべきである、ということをどこかで公言していた記憶があるが(直接聞いたわけじゃない)、この曲においては3楽章がそうで、ボロディンふうの軽やかな楽想がチャイコフスキーふうの構造に昇華された妙に明るい民族的楽章となっているが、これを別とすれば他楽章はいずれも重厚な雰囲気を持ち、関連する動機や(頻繁に揺らぐけれども)ハーモニーを用いており、バッハやベートーヴェンの模倣といった古典回帰の傾向を強く打ち出している(ベートーヴェン指向は5番でより強くなる)。

グラズノフを強く印象付ける要素としてのポリフォニックな書法がここにきて全面に立ってくるのは特筆すべき点と言える。4本が重音でユニゾン主題を奏でる部分でのオルガン的な音響など余りグラズノフでは見かけないものも聴かれ(視覚から聴覚にシフトしてみた)、そういった作り込みがアンサンブル好きや演奏者サイドにとっては他の単純な室内楽に比べて魅力的になっているとも言えよう(「いえよう」と書かないところが、さるお方との違いを示しているのだ。・・・こういう「いちいち」な書き口、やっぱり読みづらい、やめたほうがいいです<誰に向かって?)。

かといって2、3番から離れて複雑になったわけでもない。終楽章など3番同様ファーストが弾きまくるだけの部分もある。寧ろその点更に円熟した技巧の投入された多彩且つ壮麗な5番が別の場所に頂点を築くわけだが、3番のように民族楽器表現の模倣に終始したり1、2番のようにボロディン的な世界を追求した、より単純で軽やかな作品とは一線を画していることは確か。タネーエフQがこの4,5番を録音演目に選んだ理由はなんとなくわかる。

で、演奏なのだが、やっぱりプロの室内楽士としては技術的な限界も感じる。裏板に響かない金属質で細い(でも柔らかい)音のファーストがどうにも私は好きではない。他のパートとの音響バランスが悪いのだ。予め設計上手を入れすぎているのではないかというところが気になるのは、この曲の録音が殆どショスタコーヴィチ四重奏団のものしかなかったからそれとの対比で、ということでもあるのだが、全般とにかく遅いし、1楽章で特に気になったのはやたらと音を切ってニュアンスを変え主題を際立たせようとしているところ。グラズノフはきちんと書いているのに、却ってわかりにくくしている。事前設計上冒頭のテンポを極端に落としコーダまでに徐々にアッチェルしていく、というやり方が両端楽章で聴かれるが、板についた表現になっていないので生硬さだけが印象として残り、ただでさえ上記のような余りよくない印象があるのに、更に下手な楽団であるかのような錯覚を覚えさせてしまう。

面白い。シシュロフもこんな4番はやらなかった。だが、3楽章においてもあまりの遅さに辟易としてしまった(ショスタコーヴィチ四重奏団が速過ぎるということなのだが冒頭に書いたグラズノフの主張からすれば緩徐楽章に挟まれたスケルツォの対比的な表現として正しいテンポだと思う)。

ファースト批判ばかりしているわけではなく、他の楽器も人工的な変化を人工的とわかるように入れており、同じようなものではある。痙攣ヴィブラートでちょっと民族的な音を出している場面もありこれはボロディンQとは異なるタネーエフQの個性だろう。ただショスタコーヴィチ四重奏団はもっと露骨に印象的にやっている。ミスの有る無しという子供みたいな観点からはショスタコーヴィチ四重奏団は最高音の音程を外すなどやらかしているところがあるがこれは左手を柔らかく使う奏法からくるものでもあろう。それに比べてタネーエフ弦楽四重奏団はミスが録音されていない。これは人によっては重要な点かもしれない。

弦楽四重奏曲第5番

<最近ショスタコーヴィチを聞き直している。久しく聞いていなかった「レニングラード」などに改めて感服したりなぞしている。緩徐楽章にブルックナーやマーラーのエコーが聴こえるたびに、ああ前の世代を否定する事により成り立っていた「モダニズム」の、「次の」世代なんだな、と思う。音楽院時代の師匠にして個人的恩人でもあるアレキサンダー・グラズノフは、ロシア五人組、とくにボロディン・リムスキー=コルサコフの継承者として約束された道を歩んだ。外来の音楽家や、チャイコフスキーらモスクワ音楽院の折衷派とも活発に交流したが、踏み外す事を許されぬ道はそのままペトログラド音楽院長へと続き、表向き闘争する側に回ることも許されなかった。結局作曲家としては殆ど忘れられることとなり(寧ろ指揮者だった)、困窮の亡命者という末路は「破滅」だったと言ってよいかと思う。
グラズノフの才能はどのみち限界に当たったのかもしれないが、最盛期までの流麗な佳曲の数々に触れるたび、時代の波に翻弄された帝政ロシアの「最後の波(byブラームス)」に同情する気を抑えられない。音楽的系統樹を切り倒す暴風~ゲンダイオンガク~への防波堤となったグラズノフは、ストラヴィンスキーやプロコフィエフという異能と対立する事もあったが、あくまで個人的趣味の上に留め、その才能についてははっきり認めていた。寧ろ自分の耳がロートルなのかもしれないという発言は、マーラーがシェーンベルクに語ったこととよく似ている。それゆえ「潰す方向」に動く事は決してなかった。ソヴィエト時代の権力的音楽家が真の才能を持った音楽家を押さえつける構図とは全く異なる。ショスタコーヴィチの才能はこの暖かな温床の上にすくすくと芽を伸ばした。程なく大輪の花が開く。そして半世紀以上にわたり花が付き続けた。世界中に種を撒いた。あの鉄の壁の向こうから、壁など無いかのように力強く響く音。音楽史の流れからいえばそれはとても先端のオンガクではなかった。だが現在20世紀が終わるにあたって、この世紀において最も才能に満ち溢れ、しかも真摯であった作曲家が誰かと考えてみると、DSCHの4文字が浮かんでくる(多様さを否定する無闇な順位付けなど意味の無いことだが)。オネゲルではないが伝統の「幹」がなかったなら「枝葉」など生える事は無い(これは新古典主義のことだったか、ショスタコーヴィチも新古典の流れ上にいる作曲家だ)。かといって枝葉を張らない幹は枯れ果てるだけなのだけれども。・・・
収集がつかなくなってしまいました。この曲はグラズノフの室内楽では最も良く書けているといわれる。交響曲のところでも書いたが、中央ヨーロッパ的な後期ロマン派音楽の枠組を総括したうえで、旋律と和声という「音楽の重要なファクター」についてだけロシア音楽を取り入れている。配合具合が独特のため個性的に聞こえるが、耳ざわりが悪くなる事は決してない。フーガに始まる1楽章は強い力を持ち、4番四重奏曲で試みられた古典音楽回帰の傾向が、より消化された形で魅力的な旋律群を飾っている。2楽章は典型的なロシア国民楽派のスケルツオであるが、テンポの遅い演奏で聞いてみるとブルックナーやマーラーの舞踊楽章を思わせる深刻な色をにおわせる。さらに8番交響曲の暗い幻想に繋がるような儚い3楽章は死に行く白鳥を思わせる味わいを持ち、祝祭的な終楽章は緊密な対位構造や複雑なポリフォニーによって、その長さを感じさせない程ヴァリエーションに富んだ内容を聞かせる。ブラームスからベートーヴェン果てはバッハまでも取り入れて、この秀逸な流れは昇華洗練されてショスタコーヴィチに確実に受け継がれている。ストラヴィンスキーですら初期にはグラズノフ的な曲を書いた。アマルガム作曲家であっても影響力は強い。手法の探求され尽くした時代の芸術のありようが、ここにも先駆的に示されている。(またいつかしっかり書きます。すいません中途半端でした)>2000記

◎ショスタコーヴィチ四重奏団(melodiya)
○リリック四重奏団(meridian)
ダーティントン四重奏団(pearl)

~これらを聞き比べると余りの印象の違いに改めて「懐の深い曲」なのだなと思う。無論オーソリティのショスタコーヴィチQにかなうものはないと思うが、民族音楽的趣が少し苦手の場合は後者の演奏に触れるとよいと思う。ショスタコーヴィチQのヴァイオリンは独特のロシアスタイルで、折衷派グラズノフをおもいきり五人組の世界に引き戻すようだ。あやふやな音程感も左手の柔らかい演奏スタイル(コブシのきいた細かく沢山のヴィブラートをかけることにより、素朴だが艶やかな音色を出せる)上、仕方ない。単純な技術でいえばダーティントンのほうが上に聞こえるかもしれないが、この解釈は軽すぎる感もある。また生硬だ。リリックの終楽章は面白かった。

○レニングラード・フィル四重奏団(タネーエフ四重奏団)(MELODIYA)LP

グラズノフの室内楽録音は長らくこれ一枚しかなかったが、それほど枚数がはかれなかったために、余り知られないまま今に至っているようである。同楽団はのちにタネーエフ四重奏団となった。技術的に確かに不安定なところがあり、意気軒昂とやってのけるショスタコーヴィチ四重奏団に比べれば聴き劣りするところもあるのだが、高めのピッチにスッキリしたテンポは現代的な印象も与える。細かいルバートはあるし縮緬ヴィブラートも特有のロマンチシズムを演出するのだが、あっさりしすぎと感じるのはとくに最初の二つの楽章だろう。内声部の仕組みがいまいち浮き立ってこずグラズノフの技巧的長所が聞き取りづらいのも難点だ。ただ、4番以降ベートーヴェンらの影響下に晦渋な構造性をしっかり盛り込むようになったグラズノフの、最もボリュームのある緻密なカルテットなだけに、いちいち細かく弾いていては重重になり胃がもたれてしまう。やや粗雑な演奏振りに反して聴き易さは感じた。白眉の三楽章ちょっと遅い四楽章と、ショスタコーヴィチ四重奏団より変わった感じで流れよく聴き終えられる。それにしても何故この曲がマイナーなのか理解できない。スマートな旋律の宝庫。○。

○シシュロフ四重奏団(melodiya)LP

~レニフィル四重奏団(タネーエフ四重奏団)に続く録音で選集ボックスの一部になる。ショスタコーヴィチ四重奏団の録音に似ていて(音もよく似ている・・・シシュロ「ス」なのか??)、やや1stが弱いけれども、オーソドックスに聴ける印象。前半楽章はやや平凡か。三楽章が速くダイナミックで面白い。四楽章はよく揃っていて、これはほんとにショスタコ四重奏団にそっくりだ。技術的限界からか装飾音をごまかすような表現があるレニフィル四重奏団にくらべ、このグラズノフ屈指の名楽章の構造的魅力をよく引き出している(むこうはむこうで独特の解釈があり楽しめるが)。立派。○。

~この曲はLP初期にレニングラード・フィル協会弦楽四重奏団(タネーエフ四重奏団)が録音しており、そのせいか番号付きの作品の中では古くから知られていたようである。同モノラル録音を私は聞いたことが無いが、このステレオ盤は恐らくそこからは相当にかけ離れたものであると思う。即ちすこぶる現代的であり、そつがなく、「いかにも新世代の演奏ぶり」なのだ。先入観を植えつけられず聞くことができるし、奏者の奏法解釈から殊更に民族性が煽られないぶん最初に入るのには適しているとも思える。実にそつがないのだ。綺麗だし、完璧。ただ・・・終わってみて、すれっからしは「何か足りない」と思ってしまう。少なくともショスタコーヴィチ四重奏団に比べて音のバリエーションや魅力が(民族性という観点において)足りない。グラ5から民族性を抜いたら単なるベートーヴェンである、というのは言いすぎかもしれないが、やや物足りなさを感じさせるのは事実だ。○にするのに躊躇はないが、ライヴで聞きたいかというとそんな気も起きない感じではある。いや、譜面は完璧に再現されてますよ。テンポ的にも遅くならず、完璧に。巧い。

○モスクワ放送弦楽四重奏団(MELODIA)

これこそスタンダードと呼びたい。スタイルは現代的で音もプロとしては普通(力強く金属質で私は苦手な音だが)、あっさり流れるように速い(とてつもなく速い)インテンポでパウゼもどんどんすっとばし、フレージングにも過度な思い入れがなくポルタメント皆無の教科書的な表現だ。しかし、非常に高度なテクニック(今まで聞いたどの演奏より抜きん出て上手い、ミスは1楽章末尾が速過ぎて聞こえなくなるところくらいだ)に裏付けされたこの異常な集中力、(繰り返しになるが)終始ものすごく速いテンポはグラズノフ円熟期のワンパターンで厚ぼったい書法のもたらす変な重量感を軽やかに取り去って、敷居を低くしている。逆に旋律の美しさが際立ってきて耳優しい。西欧古典を聞くような感じがするが、ベートーヴェンを意識したがっしりした曲調については、それほど意識的に強調してはいないふうである(アタックの付け方も普通だ)。そうとう手慣れたアンサンブルぶりでこのロシアの団体の経験値の高さに驚かされるが、解釈というより録音バランスの問題だろう、2楽章第二主題の展開でファーストが巧みに裏に入りセカンドと絶妙な高音ハーモニーを聞かせる(若い頃からグラズノフの得意とする方法で真骨頂だ)非常に美しいセンテンスにおいて、なぜかセカンドが引っ込みファーストが雄弁に「対旋律」を歌ってしまっている。意図だろうが違和感があった。まあ、このスピードの4楽章が聞けるだけでも価値は多大にある。このくらいまで速くないとダレますよ長丁場。総じて○。

<後記>何度も聞いていたらだんだんそんなに言うほど巧くない気がしてきた。4楽章後半とかテンポグダグダになりかけてるし、ロシア録音、とくにモスクワ放響やモスクワ・フィルの弦楽器にありがちな中音域の薄いばらけた音響(多分に録音のせいもあると思うが)に近いちょっと・・・なところもある。それも鑑みてやっぱり、○は妥当かな。

○リムスキー・コルサコフ四重奏団(ARS)CD

さらさら流れるような演奏で引っ掛かりは少ないが、内声部がよく聴こえる。この団体の中低弦の充実ぶりが伺え、グラズノフの書法の緻密さをじっくり味わえる。旋律主体の伸び縮みする演奏とは違う「アンサンブルの面白さ」が楽しめる演奏として特筆すべきだろう。2楽章のワルツなんかはグラズノフ四重奏団と同じような舞曲っぷりが何とも言えない香気を放ち、部分部分では特筆すべき解釈はある。終楽章はやや落ち着いているし恣意的過ぎる部分もあるものの、無難である。三楽章は余り印象に残らない。翻って長大な一楽章はとにかく速い。技術的に高いわけではないが技術的にバランスのとれた四人によって編み出された佳演と言えるだろう。ショスタコーヴィチ四重奏団よりもスタンダードと言っていいかも。

◎サンクトペテルブルク四重奏団(delos)CD

ここまで解釈を尽くした演奏もあるまい。一楽章はいくらなんでもやり過ぎの感が否めないが三楽章はここまでやらなければ伝わらないのだ、という真理を聞かせてくれる。ファーストだけが異常に雄弁で音はやや硬くけして無茶苦茶上手い団体ではないのだが、これは交響曲として書かれたものであると喝破したかのような、まるで往年の巨匠系指揮者のやっていたようにダイナミック、細かく大きな起伏の付けられた表現をしている。偶数楽章はもっと直線的演奏の方が合っているかもしれない、異論があってもいいが、スタイルを固持し一貫している。もう一つ文句をつけるならワルツ主題がワルツになっていない、でもこれは抽象音楽の表現としては正しい。とにかく同曲の録音史上最もやり過ぎた演奏であり、やり込んだ演奏であり、これ以上曲を理解した演奏もなかろう。◎。

~Ⅱ.

○グラズノフ四重奏団(MUStrust)1930年代?・SP

速い。かつこの演奏精度は素晴らしい。テンポが前のめりだがそれがグラズノフの畳み掛けるような書法とピタリとあっていて正統な演奏であると感じさせる。ワルツ主題はそれにも増して速くびっくりするが、音の切り方、アーティキュレーションの付け方が巧緻でなかなかに聴かせる。ワルツ主題が優雅に展開する場面で初めてオールドスタイルの甘い音が耳を安らがせる。ここは理想的な歌い方だった。ショスタコーヴィチ四重奏団も歌いまくるがそれとは違う、優雅で西欧的な洗練すら感じさせる。その後テンポが激しくコントラストを付けて変わり、慌ただしくもあるが、冒頭主題が戻るとかなり落ち着く。その後はうまくまとめている。これほど達者で洗練された団体だとはあのボロディン2番からは想像できなかった。○。新グラズノフ四重奏団とは違う団体です。

弦楽四重奏曲第6番

<近年再評価著しいマイナー作曲家のひとり、グラズノフの、これはもう末期に近い頃の作品である。室内楽ではこの後に第7番が作曲されているが、カルテット曲の中で良く評価されるのは 5番までで、この6、次いで7は殆ど対象にされない。それはこの100番台の作品群が、83番の交響曲第8番を頂点とした彼の作曲生活の蛇足とみなされているからかもしれない。事実、一時は湯水のように湧き出ていた彼の作品が、1905年にペテルブルク音楽院長に推されて以降、教職に専念する一方で極端に少なくなっていったことは否定できない。しかし、本当に膨大な楽識と技術に裏付けされた彼の叙情性は、これらの作品においてもなおその輝きを失っていない。サキソフォーン協奏曲のような新しい可能性を探る彼なりの「前衛性」は、失敗してはいるが、7番の終楽章にも(主に奇妙な終止部などにおいて)見うけられる。グラズノフに関しては、とてもここだけでは書き切れないものがある。ショスタコーヴィチの作品にも、おぼろげながら影響の痕跡が見える時があるが、この6番を聞いてもショスタコーヴィチを思わせるところが僅かある。異常に高度な作曲技術、美しい旋律とひびき、しつこさも苦にならない変奏部の巧みさ、これがこの曲から感じられることだ。終楽章の最後など、それまでの彼の室内楽には無いハッとするような感覚を受けるが、ここのみならず、初期のお定まりの技法からは想像もつかない広大な世界が展開されてゆき、聞く者を飽きさせない。楽想の「うねり」も凝縮されしかもスムーズにわれわれの感覚にうったえてくるものがある。とても「尽きた」作曲家のものとは思えないすばらしい作品である。ショスタコーヴィチ四重奏団も懸命に頑張っている。「グラズノフ世界」がこれほど濃密に展開された曲はあまりないだろう。(1992/9記) >

○ショスタコーヴィチ四重奏団(Melodiya)1975・CD

5つのノヴェレッテ

○サンクトペテルブルク四重奏団(delos)CD

ここまでやり切ったノヴェレッテも無いだろう。強いて言えば余りに壮大激烈にやっているがゆえ別の曲に聞こえてしまうのが難点か。サンクトペテルブルクの弦楽の伝統的なフレージング、ヴィヴラートのかけ方、レガート気味にともするとスピッカートもベタ弾きしかねない、そういうところがもはや当然の前提として敢えてそのスタイルから外れ、抽象度を増しているところもあると思う。各曲の最後のダイナミックな収め方は民族音楽を通して保守的な弦楽四重奏曲という形式を壊すようなグラズノフのまだ意気軒昂としたところをよく押さえて出色だ。○。

~Ⅰ、Ⅱ
○タネーエフ四重奏団(melodiya)LP

タネーエフ弦楽四重奏団が、この他弦楽四重奏曲第4,5番を録音しているところまでは確認している。「スペイン風」と「オリエンタレ」の二曲のみで後者はまさに民族音楽を西欧楽器によって「再現」すべく構成された、グラズノフの民族主義的側面の真骨頂をみせる舞踏音楽。ゆえに3番「スラヴ」同様西欧的な見地からのアンサンブルの楽しみは少ない。ドヴォルザークの作品群をこのての弦楽四重奏曲の頂点とすれば、余りに単純化され民謡側に寄り過ぎたものとなっている。

演奏者に要求されるものは特殊で、3番「スラヴ」にも言えることなのだが、旋律楽器はあくまでこれが、農村の祭りにて広場で催される踊りの伴奏として演奏される楽曲である、という前提から外れてはならない。リズムや和声においては、特殊ではあるが国民楽派特有のマンネリズムの同じ範疇にいるものの、純音楽として室内で演奏されるべく緻密に作られたチャイコフスキーのような音楽ではなく、野外で、残響の無い世界に響かせるために、旋律は鋭く痙攣するような音でダンサーにグルーヴを提供し、開放弦を含む重音による旋律など特に構造的な世界から解き放たれた単なる民族音楽を演じていく。伴奏はあくまで伴奏に徹することを強いられるが、舞踏音楽としての弾けるようなリズム表現を要求され、テンポ維持含めその役割は重要で、スコアの再現としての「単なる音形(パターン)の繰り返し」にはならない。

そういうところからこの演奏を見ると、一曲目においてすらそうなのだが、ファーストが甘い。タネーエフQの他の盤、例えばドビュッシーもそうだが、だらしなく拡散的な表現、にもかかわらずボロディンQを模倣したようなやや冷たい音色で変に生硬に縦を揃えようとするきらいがあり(他三本は揃っているのに)、自由ではないのに自由になってしまうといった、浅い感じが否めない。一般にタネーエフQは民族的な表現に優れているように認識されているのかもしれないが、クラシック楽器で民族的表現を完璧にこなすには技術的な部分というのは重要だ。バルトークとまでは言わないまでも特殊な弾き方があり、特殊なヴィブラートがあり、微妙なボウイングがあり、それらは先ずは正統な表現をなしてから加えていく要素であり、この楽団の場合、伴奏楽器のリズムは完璧なのに、旋律楽器が土臭さを演じているのではなく、計らずも出てしまうのが気になる。基本洗練を目としているけれど垢抜けない、そういうところが見えてしまう。うーむ。半端だ。ショスタコーヴィチ四重奏団、シシュロフのほうに一長があるように思う。あ、こんな短い曲だけでこう判断することはできないけど。単品で言えば佳演。

今は日本語では「ノヴェレット」と表記していることが多い。

~Ⅰ.スペイン風
○グラズノフ四重奏団(MUStrust)1930年代?・SP

どこがスペイン風なんじゃと百年以上にわたって言われてきたであろう曲だが、低弦のピチカートにのせてリズミカルな旋律を奏でればなんとなくスペイン風、でいいのだ。グラズノフはそんなノリで中世風とか色々おかしな題名を付けている。これはグラズノフの室内楽でも著名な組曲の一曲目で、若書きということを置いておけば至極凡庸な民族音楽である。伝説的なグラズノフ四重奏団の私のSPはロシアで輸出用に作られたもののようでレーベル名も不確かだ。回転数がやや遅めに設定されているようで、78だと非常に速くびっくりしてしまう。だがそこを考慮しても勢いがあることには変わりはない。オールドスタイルの奏法は目立たず、それより精度と覇気、この2点に目を見張る。現代でも通用するだろう。短いのに聴き応えがあった。録音も良い。○。

~Ⅱ.オリエンターレ
○プロ・アルテ四重奏団(ANDANTE/HMV)1933/12/11・CD

民族音楽的な曲(弦楽四重奏曲第3番「スラヴ」の世界)であり、4本はしっかり自分が民族楽器を奏でている
のだと自覚して挑むべき曲である。独特の旋律の美しさにはボロディンのような華やかさは無いがブラームスや
チャイコの憂愁が感じられる。いい曲。演奏は熱い。

~Ⅱ、Ⅲ
◯アンドルフィ四重奏団(disque a aiguille)SP

録音年代は古い模様だが、オリエンタレからは技巧派で、軽やかなアンサンブルをこうじる演奏スタイルがききとれる。現代的というか、フランス風というか、ロシアの演奏ではないことはたしかだ。間奏曲ではポルタメントも出てきてさすがに古臭さは否めないが、これがまた何とも言えない音色で、派手さはないが印象に残る。どこのパートが突出するでもなく、アンサンブルとしてよくできた団体だと思う。ボロディンふうの音響なのにドビュッシーふうに聴こえるのがいい。◯。

~Ⅲ.ワルツ
○ヴィルトゥオーゾ四重奏団(HMV)SP

サロン的な小品でこれだけ単独でアンコールピースとされることもある(この小品集自体「余り埋め」で抜粋されることが多い)。グラズノフ独特のハーモニーや旋律線の癖、ボロディン的マンネリズムが割と薄い曲ではあるのだが、ロシア人の「ウィーンへの憧れ」を上手に取り出し、仄かな感傷性を浮き彫りにした、英国人らしい上品な客観性のある演奏となっている。やはり上手いのかなあ。SPは高音の伸びがどうしても聴こえづらいので、高音を多用するボロディン的な曲ではマイナスなのだが、簡潔な曲なのでそこは想像力で十分。○。
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ウォルトン:交響曲第1番(2013年11月までのまとめ)

2013年12月26日 | Weblog
◎作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI)CD

この自演集が手に入らなければプレヴィンでもスラットキンでもいいので聞いてください。シベリウスの子、ネオ・ロマンティック交響曲の双璧(もう一壁はハンソンの「ロマンティック」)・・・←勝手に決めてますが。同時代の音ということで、ここでは古い演奏を推します。でっかい波が延々と寄せては返すような1楽章の盛り上がり、氷のように透明な諦感と葛藤する気持ちが蒼く燃える3楽章。ささくれ立った中にも希望の光に溢れた終楽章。最後の空虚な連打音。うーんイイッス。但し・・・ウォルトンの有名曲はみんなこんな感じだったりする・・・

音さえ良ければ抜群の名演として推せるのだが。このテの曲はモノラルで音が悪いと評価が半減する(といいつつここではボールト旧盤も推薦してしまっているが)。ウォルトンは自演指揮者としても一流だ。ダイナミックな起伏に浸りきる。オケの響きも凝縮されしかも激しく素晴らしい。

作曲家指揮ロイヤル・フィル(BBC)1959LIVE・CD

ウォルトンの交響曲第1番は難曲である。管楽器はすべからく酷使されるし、弦楽パートは何部にも別れて演奏する場面もあり辛い。アンサンブルを保つのが大変だ。付点音符のついた独特の音型が充溢しているが、これなども難しいところがあると思う。ロイヤル・フィルは決して弦楽の弱いオケではないと思うが、一楽章アレグロなどを聞くと、ファーストヴァイオリンがコンマスが突出した薄い響きになってしまっていたり(音色は非常に綺麗なのだが)、低音弦楽器が何をやっているのか、蠢きしかつたわってこなかったりしている。無論録音のせいもある。但し作曲家の指揮にしては非常に巧いと思う。二楽章プレストなど音楽の描き分けがはっきりとしていてすばらしい。余りルバートせずインテンポで突き進むところなども翻って格好良かったりする。EMI盤のほうが良くできているが、この盤も聞いて損は無いだろう。併録の「ベルシャザールの祭典」はかなりの名演で、拍手も熱狂的だ。

作曲家指揮ニュージーランド交響楽団(BRIDGE)1964LIVE・CD

このレーベル未だあったんだ・・・。驚かされたニュージーランド・ライヴ集二枚組。ニュージーランドはイギリス連邦の国だからこれはお国モノと言うべきなのか、ゴッド・セイヴ・ザ・クィーンから始まるこの録音。オケはあまりふるわないように聞こえる。これは管弦の録音バランスが悪いことに加え残響が煩わしい擬似ステレオで、音楽の座りが悪く、技術的には決して悪くないとは思うのだが、アンサンブル下手に聞こえてしまうのだ。ウォルトンの指揮ぶりは比較的ゆるやかなテンポを維持する即物的スタイルと言うべきもので、完成
度は他演に譲るが、内声部の主としてリズムパートが明確に磨き上げられているところなど作曲家のこの曲への見解を示していて面白い(録音のせいかもしれないが)。弦が弱いのでブラスばかりが吠えまくるハッタリ演奏に聞こえなくもないけれども、凄く悪いというわけでもないので、機会があれば聴いてみてもいいかもしれない。他ヴァイオリン協奏曲等。無印。(2004/3記)

◎ボールト指揮フィルハーモニック・プロムナード管(ロンドン・フィル)(NIXA/PYEほか)モノラル

BBCのクリアさも良いが、愛着あるのは古いスタジオ盤だ。LPでもレーベルによって音が違い、CDでも多分そうなのだろうけど(LPしか持ってません)、フルートを始めとする木管ソロ楽器の巧さ、音色の懐かしさ、ボールトの直截でも熱く鋭くはっきりと迫る音作り(1楽章、終楽章など複雑な管弦楽構造をビシッと仕切って、全ての音をはっきり聞かせてしまうのには脱帽・・・ここまで各細分パートしっかり弾かせて、堅固なリズムの上に整え、中低音からバランス良く(良すぎてあまりに”ドイツ的”に)響かせている演奏はそう無い)はどの盤でも聞き取れる。揺れないテンポや感情の起伏を見せない(無感情ではない。全て「怒っている」!)オケに、野暮も感じられるものの、表現主義的なまでの強烈なリズム表現は曲にマッチしている。50年代ボールトの金属質な棒と、曲の性向がしっかり噛み合った良い演奏。もっとも、ウォルトンの曲に重厚な音響、淡い色彩感というのは、違和感がなくはない。

ボールト指揮BBC交響楽団(BBC)1975/12/3LIVE

ボールトならLPO盤を薦める。決して悪い演奏ではないが、BBCsoの音は如何にも硬い。客観が勝りボールトの即物的な面が引きずり出されているようで、風の通るようなオケの音が適度にロマンティックな解釈とつりあっていないようにも思う。ライヴならではの堅さ、というのもあるかもしれない。ノりきれなかったライヴというのはえてして崩壊した奇演になるか、解釈のぎくしゃくとした機械的再現に終わる。後者のパターンだろう。とはいえ、ステレオの比較的良い音で、技巧も決してまずくはなく(うまくもない)、初めて聞いたときはそれなりに楽しめた覚えはある。

○スラットキン指揮セントルイス交響楽団(RCA)

オケがややばらけるところもあるが、熱演であり、尚且つすっきりとした透明感に彩られている佳演。明瞭な色彩もこの曲の美質を良くとらえている。

○ハミルトン・ハーティ指揮LSO(DUTTON/DECCA)1935/12/10-11

恐らく初録音だろう。中仲の秀演だが音が悪い。オケのノリがすこぶる良い。

○ハーティ指揮LSO(decca他)1935/12/9-10・SP

DUTTON復刻盤と同一だが、web配信されている(ノイジーだが)音源についているデータが微妙に異なるので、別に挙げておく。リンクは書かないが明るく抜けのいい復刻音源なので探して、初演者ハーティの真価を見てください。くぐもった骨董音源のイメージがあったのだが、トスカニーニ的な即物性が勢いを生み、リズム感がとにかくいい。もちろん現代のレベルとは違うのだが、何かしら生々しく、胆汁気質の楽曲がまんまダイレクトに耳をつき、とくに初演に間に合わず後日改めてハーティが全曲振り直したという終楽章のけたたましさ、最後の息切れするような和音と同時にこちらも息切れ。いやノイズキャンセルしない(高音域を切らない)というのは鼓膜負担が激しいので、実際疲れるは疲れるのだが、改訂を重ねられる前の凄まじさというか、管弦楽の迫力が感じられる点は嬉しい。○。

○サージェント指揮ニュー・フィル(EMI)

作曲家臨席のうえで録音された盤である。作曲家はサージェントに賛辞の手紙を送っている。だがこれは自作自演と比べてまったく異なる演奏である。弦など異様に細かく分けられた各パートすべて、細部までテンポ通りきちんと揃えて聞かせるやり方はちょっと新鮮だが(ここまで内声部まで揃ってちゃんと弾いている演奏も他にないのではないか)、音をひとつひとつ確かめるように進んでいくがためにスピード感がなくなり、結果かなりゆっくりしたテンポになってしまっている。ひょっとするとウォルトンが晩年に指揮していたらこういう演奏になったのかもしれない、と、リリタの自作自演アルバムを思い起こしながら思った。構造的な部分に興味のある方には非常に貴重な資料であろうが、長い曲だから飽きてくる。一音一音の発音は太くハッキリしていて男らしい足取りをもった演奏になっており、伊達男サージェントのスマートなイメージをちょっと覆すようなところもあって面白いが、3楽章あたりの情緒はもう少し柔らかく表現してほしくなる。目先を変えるという意味では興味深い演奏である、○ひとつつけておく。

○カラヤン指揮ローマRAI交響楽団(EMI)1953/12/5live・CD

特に一楽章に顕著なカットが聴かれ、他にも改変らしきものがあらわれておりカラヤンには珍しい作曲家気質が発露している。確かフランツ・シュミットに作曲を学んでいたはずで、ウォルトンの複雑なのに各声部が貧弱な独特の書法に納得がいかなかったのか(ベルシャザールは絶賛したがあれはリヒャルト的側面があるからわかる)、レッグの手引きで行われたらしいこの演奏会以降作曲家との関係が悪化したようである。録音がかなり悪くオケの技巧うんぬん以前の問題もあるし、万人に奨められるものではない。ただ力強い表現、感情的なうねりは錬度は後年より劣るがゆえに迫真味があって、このオケにしては分厚い響きに圧倒される。中間楽章が改変もなく充実しているが、四楽章の力の入りかたが個人的にはとても好き。技術面の瑕疵が多過ぎてカラヤンの黒歴史と言える記録ではあるが、なかなかカッコイイ。○。

○ホーレンシュタイン指揮ロイヤル・フィル(INTA GLIO)1971LIVE・CD

この曲の演奏を語るときには必ず口辺にのぼる録音である。
またホーレンシュタインのぎくしゃくした音楽か、と思うなかれ。この人の演奏としては稀に見る名演である。ぴりぴりと張り詰めるような演奏ぶりは意外なほど外していない。テンションはこの決して短くはない曲の最初から最後まで持続する。とくに弦楽器の凄まじい気合に感動する。すべての音符にアクセントが付き、しょっちゅう弦が軋む音がする。音の整えかたは重低音のドイツ風でホーレンシュタインらしい重厚なものだ。テンポは速くないが決してそれを感じさせない空気がある。ライヴでこの完成度はホーレンシュタインにしては珍しいと言っていいだろう。聴きどころは2楽章以外、と言っておこうか。2楽章は個人的には俊敏で飛び跳ねるようにやって欲しいところ。でもこれで良しとする人も少なくないだろう。苛烈なティンパニ、大きく吹き放つようなブラスのひびき、これはニールセンともシベリウスとも違うドラマティックな音楽だ。この曲の演奏史に独特の位置を占める名演と言っておこう。残念ながら録音がよくない。古いテープ録音のようでときどき音像が不安定になる。そのため○にとどめておく。

ブライデン・トムソン指揮LPO(CHANDOS)

やや莫大にやりすぎているか。ウォルトンの胆汁質が間延びしてしまったように聞こえた。この人の演奏の特徴は、大掛かりだが透明で感情をあらわにしないところだろうか。この曲では違和感を感じた。

ギブソン指揮スコティッシュ・ナショナル管(CHANDOS)1983

オケが弱く、ギブソンの発音もややアクが強すぎる。

○プレヴィン指揮ロイヤル・フィル(TELARC)CD

イギリス20世紀産交響曲で1,2を争う名作とされるが、プロコフィエフ的に分断され続けるシニカルな旋律にシベリウス的なキャッチーな響き、壮麗で拡散的なオーケストレーション(弦のパートが物凄く細かく別れたりアンサンブル向きではない華麗だが細かい技巧的フレーズが多用されたり)が、粘着気質のしつこく打ち寄せる波頭に煌くさまはちょっとあざとく感じるし、最終音のしつこい繰り返しも含め、長々しくもある。改訂で単純化というか響きを軽く聴きやすくされたりしているようだが、演奏スタイルも両極端で、ひたすら虚勢を張るような音楽を壮大にしつこく描き続け(て飽きさせる)パターンと、凝縮的かつスマートにまとめて聞きやすくさっと流す(ので印象に残らない)パターンがある。

そもそもライヴ感があるかどうかで印象が大きく違う。ロシアの大交響曲のように、ライヴでは力感と緊張感でしつこさを感じさせない曲なのである。ただ言えるのはよほど腕におぼえのあるオケに技術を持った指揮者でないと聴いてられない曲になってしまう恐れが高いことである。

プレヴィンの新録は日本では長らく手に入る唯一の音盤として知られてきた。RVWの全集など英国近代交響曲録音にやっきになっていたころの延長上で、RVWのそれ同様無難というか「整えた感じ」が「素の曲」の魅力の有無を浮き彫りにし、結果名曲とは言いがたいが演奏によっては素晴らしく化けるたぐいの曲では、図らずも「化けない」方向にまとまってしまう。旧録のLSOに比べロイヤル・フィルというあらゆる意味で透明なオケを使ったせいもあろうが、凝縮というより萎縮してしまったかのように表現に意思が感じられず、プレヴィンの技のままにスピーディかつコンパクトにまとめられてしまっている(この稀有壮大な曲でそれができるプレヴィンも凄いとは思うが)。ライヴ感が皆無なのだ。ステレオ録音の音場も心なしか狭いため、50年代押せ押せスタイルならまだしも、客観的スタイルでは入り込めない。

4楽章コーダの叩き付けるように偉大な楽曲表現にいたってやっと圧倒される思いだが、1楽章冒頭から長い序奏(構造的には提示部?)の間の次第に高揚し、主題再現で大暴れするさまがもっと演出されないと、両端のアーチ構造的な「爆発」が「蛇頭龍尾」という形に歪められてしまう。スケルツォと緩徐楽章はこのさいどうでもいいのだ。形式主義の産物にすぎない。いずれ後期プロコフィエフの影響は否定できないこの曲で、絶対的に違う点としての「無駄の多さ」が逆に魅力でもあるわけで、無駄があるからこそ生きてくるのが壮大なクライマックス。無駄を落としすぎているのかもしれない。

かなり前、これしか聴けなかった頃はよく聴いたものだが、録音のよさはあるとはいえ、もっと気合の入った、もっと演奏者が懸命に弾きまくる演奏でないと、複雑なスコアの行間に篭められた(はずの)真価が出てこないように思う。入門版としては適切かもしれないので○にはしておく。カップリングの有名な戴冠式行進曲2曲のほうは非常におすすめである。ひょっとして録音が引きになりすぎているのかな。プレヴィンはモーツァルト向きの指揮者になってしまったのだなあ、と思わせる演奏でもある。だからこそ、1966年8月録音のLSO旧盤のほうが再発売され続けるのだろう。

◎プレヴィン指揮LSO(RCA)1966/8/26,27ロンドン、キングスウェイホール・CD

作曲家墨付きの凄演だ。力ずくで捻じ伏せるように、腕利きのLSOをぎりぎりと締め上げて爆発的な推進力をもって聴かせていく。部分においてはサージェント盤はすぐれているが全体においてはこちらが好きだ、と作曲家が評しているのもわかる、部分部分よりも大づかみにぐいっと流れを作り進めて行くさまが清清しい。とくに叩きつけるような怒りを速いスピードにのせた1楽章が素晴らしい。しかし部分よりも全体、というそのままであろう、これだけあればいいというたぐいの盤ではないが、これだけは揃えておきたい盤である。クラシックの音楽家としてはまだ駆け出しだったはずのプレヴィンが一切の妥協なく集中力を注いだ結果がこのまとまり。まとまらない曲で有名なこの曲がここまでまとまっている。ベストセラーさもありなん、この非凡さはまだその名を知らなかった作曲家の心をとらえのちに交流を深めたようである。◎。

○コリン・デイヴィス指揮LSO(LSO)CD

この曲はスコアリングに問題があるといわれ、細かい仕掛けをきっちり組み立てていこうとすると妙にがっしりしすぎてしまったり・・・曲自体はシベリウスよりも軽いくらいなのに・・・リズムが重くなってしまったり、だいたい過去の録音はそのようなものが多い。新しい自作自演ライブや、たとえばスラットキンの有名な録音などは逆に明るい色調が浅はかな曲であるかのような印象を与えてしまっている、これは恐らくスコアを綺麗に整理しようとする意思が過剰になってしまったのか、単にオケのせいなのか・・・コリン・デイヴィスの演奏はそれらに比べ非常にバランスがよい。決して重過ぎず、明るすぎもしない。一つにはオケの力量があると思う。ヴァイオリンの細かいポルタメントがその気合を裏付けているとおり、演奏に一切の弛緩がなく、技術も十分であるからそれが音になって現れている、更にプラスして音響に適度の重さが加えられ整えられている。ファーストチョイスには素晴らしく向いているし、逆にこれだけでいいという向きもあっていいだろう。3楽章のような冷えた響きの緩徐楽章に旋律のぬくもりを加えて独特の感傷をかもすところ、これはコリン・デイヴィスの得意とする世界だろうか。かなりの満足度。○。

○マッケラス指揮LPO(EMI)CD

フォルムのしっかりした演奏でよくスコアを分析してやっていることが伺える。フォルムがしっかりしたといってもホーレンシュタインのような太筆書きの演奏ということではなく細かく統制された演奏という意味で、オケもよく訓練されている。ただ、今一つはっきり訴えてくるものがない。迫力という意味で1楽章は物足りなかった。2楽章は聞き物。丁々発止のやり取りを楽しむというよりはシンフォニーのスケルツォ楽章としてやりたいことが伝わってくる演奏。4楽章は迫力があり、やや莫大な部分もあったそれまでの演奏のマイナス面を補うくらい力強い。録音の良さも手伝って、スラットキンよりも重量感があるがスラットキン的な細部まで透明で明瞭な彫刻がこの曲の本来の姿を浮き彫りにする。それゆえに曲の「弱さ」みたいなところも現れるのだがそれはそれで本質なので問題ないだろう。○。

○ノリントン指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(dirigent:CD-R)2007/10/26live

細かい揺らしのない四角四面のテンポでありながら精密な響きとアタックの強さでそうと感じさせない盛り上がりを作っている。原曲の魅力をしっかり引き出せている、と言ったほうがいいか。諸所不満足な部分はあるし例のノンヴィヴの導入などそこでそれは必要なのか、というような「改変」はあるが、まるでシェルヒェンのような独特の域を示すものとして楽しむことは可能。唯一、最終音を切らず引き延ばしたのはいかがなものか。拍手も戸惑うというものだ。
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ラフマニノフ:交響曲第2番(2013年11月までのまとめ)

2013年12月26日 | Weblog
◎クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(rococo)LIVE・LP

~この演奏が何故CD化されないのか腑に落ちません。音が悪すぎるということでしょうか・・・3番は2度もCD化しているのに。やはり直球勝負で、確かに肝心の3楽章など、しっとりした潤いに欠けます。驚嘆すべきカットの数々は言わずもがなです。しかし2、4楽章、轟音の中に織り交ぜられる憧れに満ちた歌い回しの美しさ、オケの素晴らしいアンサンブルと共感に満ちたフレージングはかつてのスヴェトラーノフでさえこうはいかなかったであろうと思います。抑制と激情がいずれも半端でなく高い場所でバランスをとっている。ボストンもとにかく巧い。ヨーロッパのトップクラス並だ(じっさい移民もいるのだろう)。ドイツオケのような中低弦の音色。チャイコフスキーの5番でも同様の印象を受けましたが、私の中では「法悦の詩」(CD化)と共に、クーセヴィツキーのライブ録音の頂点に位置するかけがえのないLPです。凄絶なブラヴォーの嵐に納得。

○ガウク指揮ソヴィエト国立放送?交響楽団(MELODIYA)

まずびっくりしたのは演奏時間。50年代というと大きなカットが施されるのが普通な時代だったのに、この盤はカットがない。逆にそれで冗長感が感じられることも否定できないのだが・・・。私の盤はA面が壊滅的にダメ状態なので、1、2楽章については簡単に書きます。1楽章はマーラーかと思わんばかりの深い絶望から始まるが、すぐに憂愁の旋律が始まる。フレーズの流れに沿って自由に動くテンポの振幅がかなり大きく、今まで聞いたどの演奏よりも彫りが深く感じた。緩急かなり激しい。叙情的な旋律をひたすら低速で聞かせるのではなく、極端に速い部分を細かく交えてだらしない解釈になるのを避けている。ガウクの揺らしかたには特長があり、盛り上がりに向かってはかなりテンポを早め(アッチェランドではない、突然加速するのだ)頂点では最初は早め、次いで大きく減速しソリスティックな色気あるフレージングを施す。2楽章はしかし発音が甘くスケルツオ的な軽さや鋭さに欠けている感じもする(私のボロボロの盤面のせいかもしれないが)。中間部の叙情旋律の謡い込みは情緒たっぷりなフレージングが印象的。3楽章はなかなか聞かせる。クーセヴィツキーにも通じる骨太の叙情が分厚い弦と耽美的な木管によって紡がれる。曲と完全に一体化したガウク・フレージングのケレン味たっぷりの表現に尽きるのだが、音が明瞭なのでいやらしくはならない。ヴァイオリンの泣きの旋律、悲嘆と憧れに満ちたヴィブラートは必聴。啜り泣くピアニッシモから詠嘆するフォルテシモまで、録音がもっとよければ効果的ですばらしかったと思うのだが(でも私の盤ではこの楽章がいちばんマシ)、この盤の一番の聞き所と思う。このヴァイオリンの「うた」に比べればホルンや木管の表現はぽっかりあっさりといかにもロシア的なぶっきらぼうさを感じる(でもホルンの艶めいた響きは赤銅のような輝きをはなち秀逸だったが)。4楽章は誰が振っても聞けてしまう完成度の高い楽章なので、ガウクが飛び抜けてどうのこうの言うものはない。ヴァイオリンの音にバラケ感があるのはロシア流儀。個人的にはもっと鋭さがほしいが録音のせいかも。ほんと音飛びだらけでイヤになる我が盤。ムリヤリ強引に引っ張っていく力技のようなところも散見される演奏だが、おおむね期待どおりというか、まっとうな解釈である。比較的落ち着いたインテンポでひたすら突き進む方法はそれまでの楽章の手法とは印象を異にする。そのかわり音量変化はたっぷりだ。ガウクはよくすっと音量を落としてそのあと急激にクレッシェンドする、演歌的な歌いかたをするな、と思った。前半で3楽章主題が一瞬あらわれるところと、最後のクライマックスでは「歌うためのテンポダウン」がなされる。まあ、4楽章は全般普通と言えるかもしれない。1、3楽章が聞き物の演奏です。

○ゴロワノフ指揮モスクワ放送交響楽団(BOHEME他)CD

カットの嵐。解釈も嵐のよう。音が悪すぎ、独特の「読み」も裏目に出、すこぶる聞きにくい。他の曲の録音に比べてもかなり激しい表現で、それはそれでかなり面白いのだが、録音バランスの悪さが、同曲のききどころである各声部の掛け合いをわかりにくくしてしまった。マニア向けである。

コンドラシン指揮

○ACO("0""0""0"CLASSICS:CD-R)1980/8/29ロイヤル・アルバートホールLIVE

佳演だ。放送録音らしく少し雑音が入るが海賊盤スレスレだから仕方ない。直截な表現で知られるコンドラシンにしては、かなり表現の起伏が激しい所もある。特に第3楽章、デロデロに唄い込むが、強い発音と速めのインテンポがギチッと引き締めて違和感ゼロ。オケ自体の音はこれといった特徴に欠け、この指揮者らしく単彩で醒めたものだが、デュナーミクに情は篭っている。1楽章及び終楽章後半は凄まじい迫力。終演後のブラヴォはそれ以上に凄まじい。カット版(終楽章など少しびっくりする):16'56/8'02/11'31/11'25

ACO(RCO)1980/8/18live・CD

もしこの録音を目当てにRCO80年代ライヴ・ボックス(5巻)を買おうと思っているかたで、既に000classicsの裏青(29日プロムスライヴ)を持っているかたがいらっしゃったら、買う必要は無いと断言する。10年前だったら私も非常に後悔していたろう。正規録音から起こしたものではない云々但し書きがある以上文句は言えないのだが、録音状態が悪いのだ。ステレオだが遠く昔のFMエアチェックのような音で、音場がぼやけていて聴きづらい。この曲は内声で絡み合うトリッキーな弦楽アンサンブルが要になる部分が多い。しかしこれは、別録にくらべ強弱が大きくついているように感じるものの、その弱音部が聴こえないのだ。終楽章でブラスの下で短いフレーズの掛け合いをする箇所など、コンドラシンならではの手を抜かない厳しさが売りであるはずが・・・肝心なそこが聴こえないのである。上澄みの旋律だけ聴いていたらあほみたいな曲である。これが作曲家ラフマニノフそのものの魅力と言っていい構造的書法なのに。いくら別録にくらべメロウで上品で起伏の大きいロマンティックなふりが伺え、全体の響きもスケールアップしているように感じられるとしても、単純に曲を堪能しきれないのではしょうがない。こういうのはいくら新しくてもSP録音よりも悪いと言える。だいたいコンドラシンに上品さは必要ないし、デジタルな変化のインパクトこそコンドラシンだ。レンジが広すぎるのも「らしくない」。そして何よりソロミスの多さ、バラケの多さも気になる。終楽章が特に問題。集中力が落ち精彩に欠ける。別録が突進の末に一斉ブラヴォで終わるのにくらべ、一歩置いて普通の拍手で終わるも道理である。

解釈は基本的に同じ。特有の無茶なカットも同じ。驚くことに演奏時間もほぼ同じ。でも、これは資料的価値しか認められない。

○イワーノフ指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA)LP

3楽章の感傷的な旋律がドラマで取り上げられ一時期よく聞かれていたが、寧ろドラマティックで構造的な両端楽章が聴きモノの交響曲。ステレオで良好録音。クーセヴィツキーを彷彿とさせる雄渾な演奏振りでヤワな演歌に流れない。ソヴィエトではベートーヴェン指揮者と言われていたというのがよくわかる。最後まで一貫してラフマニノフに対する態度を明確にしたとても輪郭のはっきりした首尾一貫性はガウクみたいな流れ方もスヴェトラ晩年みたいな横長の演奏にもいかずに、いつでも聴いて納得できる形でまとまっている。おすすめ。イワーノフはVISTA VERAのmelodiya復刻シリーズからチャイ5と1812年(後者はシチェドリンによるロシア国歌差し替え版)のカップリングCDが2008年7月発売された。高いけど。

スヴェトラーノフ指揮:

○ボリショイ劇場管弦楽団

~スヴェトラーノフは近年円熟し、エキセントリックな色合いを緩める反面ppの表現を深めてきている。この曲の新録(来日したときのライヴ(東京芸術劇場)も、キャニオンの最新録音(1996発売)もそうだが)ロシア国立交響楽団によるものは、どうしてもこの旧録にみられる極限的アンサンブルと烈火の如きスピード、めくるめく音彩の変化に対して「弱み」をみせる。ファーストヴァイオリンの弱さもその原因のひとつだろうが、録音のせいもあるのだろう。私はこのボリショイ盤こそ、交響曲作家としてラフマニノフを最も尊敬しているという巨匠スヴェトラーノフの頂点だと思うが、それは同時にこの曲の数ある演奏記録の中でも、段違いに優れた盤であるということを意味する。弱音部や緩徐部の表現がややどぎついが、ムラヴィンスキー流儀のエコーとも思えるし、それはそれで良いのかもしれない。但しこの「弱点」、確実に克服されつつあるのは、来日ライヴの演奏で一目瞭然だった。恐らく今現在存命の指揮者のうち、今世紀前半の伝説的指揮者達と比肩しうるのは、この指揮者だけなのではないか、と思わせる実に巨大な、そしてとてつもなく深い「音楽」を創り上げつつあることがわかった。東京芸術劇場の広い会場はほぼ満席で、終演後のブラヴォーは無数に響き渡り、15分経ってもカーテンコールをせがむ人々の拍手は止まらなかった。本当に巨匠になってしまったのだ、と感じた。(1995記)

(補記)早くから知られた単独盤。国内盤CDも出ていた。若き?スヴェトラーノフのエキセントリックさを堪能できる。特に2楽章のギスギスした響きはすれっからしの聞き手にとっては“やれやれー!”といった感じ。

◎ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)

~録音が理想的。ほどよく残響がきいているため、オケの粗さが吸収され、まとまった音楽として非常に聞き易いものに仕上がっている。ボリショイの演奏をグレードアップさせた感じ。このくらいのバランスの演奏が一番いいと思う。名演。

◎ソヴィエト国立交響楽団(SCRIBENDUM)1985/1/25LIVE

名演。表現の苛烈さとそれと感じさせない練り上げられたアンサンブルが素晴らしい。スヴェトラーノフ最盛期の覇気に満ちた演奏に酔ってしまう。どの楽章も印象的な場面が少なからずあるが、この演奏全体で特徴的なものといえばとりもなおさず終楽章のテンポだろう。異常に速くとられたテンポは私のようにこの楽章が大好きな人間にとってはこたえられない聞きごたえだ。しかもびっちり弾き込まれていて弛緩のシの字もない。カンペキである。このテンポで盛り上げられると最後のルバートがこの上なく効果的にひびく。終演後のブラヴォーの渦はロシアでの演奏では珍しい。スクリベンダムだしライヴなので録音状態は最高とは言えず、やや音場が狭い感もあるが、他演でも述べたとおり、このくらいの距離感があったほうがバランス良く聞こえていい。迫力は音量ボタンで出せばいい。また、ラフマニノフの描いたテクニカルな部分もこの演奏ではよく聞こえてくる。1楽章では対旋律が意外な魅力を発揮して対位法的効果がくっきり描き出されていたり、4楽章などでちらりと顕れるフーガ音形のじつに明瞭に効果的に整えられたひびきにはとても感銘を受けた。まあ、このての賛辞は山ほど付けられそうなので敢えてこれ以上は語るまい。晩年の悠揚とした演奏とは違う、非常に起伏の激しい解釈、その絶妙な解釈が血肉にまで染み付いた団員たちによる力感に満ちた音楽表現、そのもたらす忘我の時を楽しもう。録音にややマイナスを感じるが、メロディヤ録音と同等の聴感を受けたので同じ◎をつけておく。

NHK交響楽団2000/9/20 NHKCD

~穏やかな近年様式ではあるがN響奮闘。終楽章などはライブならではのルバートが随所にかかり熱狂を呼ぶ。無理して吠える金管に喝采。

○ロシア国立交響楽団(CANYON)

~キャニオンの全集盤から。スヴェトラーノフの録音は常に短時間(ほぼ一発録り?)らしい。玉石兎に角網羅的に録音せねばならなかったソヴィエト国立とのロシア音楽アンソロジーシリーズには、粗雑な出来上がりのものが少なからずある。特にグラズノフの新録など80年代後半、西側へ流出した弦楽器奏者の穴が埋められなかったのか、しなやかな機能性と量感溢れる音響で魅了したソヴィエト国立弦セクションの、見る影も無い演奏が見られるようになる。録音乏しいグラズノフの新録が出ると聞いて心待ちにしていたのが、聞いてあっさり拍子抜けした覚えがある。マイナー曲での奏者のやる気が無い演奏は、曲のイメージのためにも勘弁してもらいたいが、強固な使命感に燃えて悪化する状況下にも秘曲録音を続けた志の高さには深く敬意を示したい。

ライヴでお馴染みのチャイコフスキーなどオハコに関してはほぼ心配無く、スヴェトラーノフもそりゃ途中で指揮棒を降ろすわちゅうもんだが(そんくらい理解しろ当時の評論家!!)、数年前池袋でやったラフマニノフ2番(プラチナとはいかないまでも良い席の獲得は困難だった)では、いかにも弦楽器が“若く”、曲の要求する激しいアンサンブルが、すべからく甘いように聞こえた。肝心の中低弦は安心して聞けるレベルだったものの、弱体化久しいバイオリンパートはやはり薄かった。もっともあれは前述の通り、日本で演奏された最良の2番であったと思う。

この盤は名盤の誉れ高い国内盤で、賛美者の枚挙にいとまが無いが、私は“落ち着いてしまった”と感じた。個人的に思い入れのあるバルビローリ晩年を彷彿とさせる。音響が繊細なまでにコントロールされており、ややゆっくりめのテンポの中で各声部を効果的に引き立たせる計算が見られる。基本は客観主義であるものの、ロマン作曲家として情熱的な表現をよしとする資質を反映させた、一種破天荒な演奏を行う指揮者としての魅力は薄まっていると言わざるを得ない。但しスヴェトラーノフの天才が真の円熟を得てこのスタイルに至ったと見るのが大勢であろうし、すれっからしを相手にしては音楽の未来は無いから、これでいいのだろう。このチクルス録音もやはりほぼ一発であったようだが、アンソロジー後期の荒さは無く、カラヤン並みの統率力を見せ付けるものとなっている。

○フィルハーモニア管弦楽団(ica)1993/3/15live・CD

スヴェトラーノフ円熟期の十八番で終楽章後半の盛り上がりに熱狂的なブラボーも定番といっていいだろう。一楽章など内声がごちゃっとしてしまったりオケに弱みが感じられるがスヴェトラーノフの演奏らしいアバウトさで乗り切っている。このころからやけに透明感ある響きを志向していたように感じるがこれはオケが元々そうであるがため良さそうなものの、やや無個性で重みがないのは気になった。何と言っても聴かせどころは三楽章であり、止揚するテンポにはスヴェトラーノフの真骨頂たる歌心が感じられる。尊敬していたというバンスタ(アンコールはキャンディード序曲)とは違った粘着力を持つ音楽は一聴の価値あり。

キタエンコ指揮モスクワ・フィル(MELODIYA)

~サウンドとしてのラフマニノフを表現しきっている。これはこれで良い。

○プレトニョフ指揮ロシア国立管弦楽団(ドイツ・グラモフォン)/ロッテルダム・フィル(ライヴ、放送)

~DGで全集を完結させたプレトニョフは、繰り返しの省略版を使っている。上記ライヴはカットが認められる。棒は「寸止め」スタイルとでもいおうか、基本はギチギチシャープに鳴らし、淀みの淵から雲雀の空までニュアンス深く表現していくロシア・スタイルだが、野暮にならない寸前で棒を止め、そのぶん緊張感を倍増させるスタイル(少しクーセヴィツキー盤に似ている)は非常に格好が良い。最近非ロシア系の2番ばかり聴いていたので、懐かしさと安心感が個人的な心情に作用している可能性はあるが、(一応挙げておいた)後者の放送ライヴをふと聞いてみて、特に1楽章と2楽章冒頭、それに3楽章後半には、ちょっと最近無いカタルシスを得られた。…気が付くとDG盤を持ってレジにいた。この放送は数年前MDにとっておいたものだけれども、幸運にも録音されていた方は聞き直してみてほしい。特に集中力の高い1楽章に関しては、これ以上の演奏は無いようにさえ思う。オケも豊穣で力強いし、残響を抑えたティンパニの打撃が凄い!!ロシア系のオケでもないのに、この表現は何だろう、と思った。DG盤は却って穏健のように思う。それにしても、この指揮者を過小評価しすぎていたと反省した。ちなみにDG盤の1楽章はかなり抑え気味であるが、3楽章から4楽章の表現は明瞭なテクスチュアに憧れに満ちたフレージングをのせて出色だ。

オーマンディ指揮:

フィラデルフィア管弦楽団(旧録)

~作曲家晩年の友人であり交響的舞曲の表現に関してはお墨付きだったオーマンディの旧盤。シベリウスとも同様の仲だったというが、今は評価が高いとはいえない。確かに常套的で冷徹な棒であるが、モノ時代には瞠目するような目覚ましい録音も少なからずあった。作曲家最高の作品とされることも多い交響的舞曲の録音もリズム表現の瑞々しさや透明な感傷表現に魅力ある佳盤といえる。

○フィラデルフィア管弦楽団(新録、“全曲版”)

~カット無し、繰り返し無しの1976年録音。遂に邦盤でもCD復刻された(法悦の詩とのカップリング)。旧盤に比べて表現の幅、中身の濃さ、演奏の充実度が際立っている。ラフマニノフの理想としたサウンドはまさにこのようなものだったろう。どちらかといえば揺れの少ない現代的な演奏で、時期的にも「フィラデルフィア・サウンド」がやや衰えた頃なのにも関わらず、オーマンディの指揮のたしかさがラフマニノフ特有のリズミカルな対旋律をくっきりと浮き上がらせ、面白い事この上ない。ラフマニノフが自作の最良の表現者として称えた指揮者と楽団、白眉であり、同楽団による初演で知られる「シンフォニック・ダンス」よりも充実した録音だ。オーマンディ晩年の秀演である。(1996記)

以下は基本的に旧録でも変わらないが、率直で余り揺れの無い解釈(テンポも音色も)は曇りの無い透明な美感に溢れ、颯爽とした速さで駆け抜けるそう快さは特に終楽章で生きてくる。3楽章も余計な感傷性を差し挟まない分、クライマックスでの表現が目覚ましい効果を与える。もっと顕著なのは終楽章も終盤でかかる壮大なルバートで、ためにためての分、非常に効果的だ。開放弦による音色効果等、即物的といいつつも細かい解釈の独特は諸処に認められる。また、金管群の迫力と纏まりの良さは抜群だ。

しかし作曲家の最も信頼していた(但し解釈自体は好まなかったという話しもある)オーマンディが、晩年になって若きプレヴィンの影響下に<完全版>をレコーディングしたというのも面白い。それだけプレヴィン盤が優れているということでもあるのだが。

○ミネアポリス交響楽団(VICTOR)1934/1/18,19,22・SP

録音悪いにもかかわらず演奏は素晴らしく現代的で、冒頭ひとしきりの重さと弦のポルタメント奏法を除けば今でも通用しそうな充実ぶりである。この時期にしてはオケがとにかく巧い。オーマンディの芸風は決して確立していたとは思わないが、寧ろ前のめりの精力的な演奏ぶりは客受けしそうな感じである。2楽章の速さとキレには度肝を抜かれた。カット版だがそれほど違和感はない。なかなかのもの。


プレヴィン指揮

○ロンドン交響楽団(EMI)

カットが普通であった同曲の全曲版を取り上げ、再評価のきっかけを作った指揮者といわれる。たくさんあるのですが全部は聞いてないし、なんとも書けません。そのうち聴けたら総括します。すんません…

ミュンヒェン・フィル(EN LARMES:CD-R)2001/11/9LIVE

ブラヴォーはすごいが。あれあれ、といったかんじ。遅めのテンポに締まりの無い音、これがラフ2再発見者プレヴィンの演奏なのか、としばし耳を疑った。最初のうちは、チェリの振っていたときのようにがっしり構築的な演奏を指向するオケが、プレヴィンのやわらかい指揮とミスマッチの魅力を放っているように思えたが、あまりの「どっちつかずさ」にどっちらけてしまった。3楽章はさすがに映画音楽的でうまいのだが、過去の演奏と比べてどうなのか。私は、プレヴィンが退化してしまった、と思った。どっちつかずの中途半端な解釈、感情の起伏の無いのっぺりとした音楽、いろいろ罵詈雑言が出てきそうなのでこのへんにしておく。当然無印。

ウィーン・フィル(FKM:CD-R)1992/10/18LIVE

この人の音楽は端正でハメを外さな過ぎる。デュナーミクには独自の変化が付けられている箇所もあるが、ほとんど譜面にあることをそのまま音に仕上げたような、なんだか即席ラーメンのような味がする。ウィーン・フィルの音もいにしえの味はなく、弦には僅かに艶ある音を出している奏者もいるが、機能性が高まったぶん個性と自主性が失われている(パワーはあるが)。完全版というのも、とにかく、長いだけだ。その長さぶんの面白さが倍増していればいいのだけれど、逆だとサイアクだ。この人はけっして才能の無い人ではない。ただ、あまりにいろいろな曲に挑戦し続けてきたせいか、そつなくスマートに出来過ぎて味が出ないのだ。この曲のオーソリティとしてもっと面白い演奏をしていってほしい。私にはまったく引っかかりがありませんでした。終演後の拍手はふつう。この曲の最後はとにかく派手でブラヴォーが入り易いのだが、この演奏ではほとんどブラヴォーは聞こえない。さもありなん。無印。

○ウオレンスタイン指揮ロスアンゼルス・フィル(seraphim)1960EMI

~当然カット版(少し面白いカット 方法)。良く引き締まった、贅肉の無い即物的演奏。終止速いテンポで、表現の潤いに欠けるように思うかもしれない。クラリネットなど木管の音に特徴があり、ロシアオケのようにヴィ ブラートをかけず筆太に吹くところが特に3、4楽章に目立つ。音量感はある。 3楽章などいか にもぶっきらぼうだが、そこはかとない情趣を感じるのは録音のせいだろうか。ロス・フィル ・ヴァイオリンパートのアマチュア的謡い込み方には両論あろうが、個人的には好きな情熱の表現だ。フォルテに盛り上がるところで必ずアッチェランドがかかるところは、素人指揮っぽ いが特徴的。他では聴けないだろう。併録のペナリオ・ラインスドルフ組による協奏曲2番(19 61)は、輪をかけて即物的な巧緻な表現がすっきりとした印象を与え逆に聴きやすい。終楽章 のカデンツアがまるで単なる経過句のように短く弾き流されているのも面白い。総じて良い盤だと思う。

クレツキ指揮 スイス・ロマンド管弦楽団(LONDON,STEREO)

~清い響きとは無縁の無骨な解釈、しかし入念な演奏ぶりで、割合に楽しめる。クレツキの 独特な棒は言葉で説明するのが難しいが、たとえば盛り上がる箇所では波のようなルバート表現を極力避ける一方、妙なところで局所的に引き伸ばしてみたりする。 大極的に言って余り揺れの無い率直な解釈といえようものだけれども、ここでは1楽章や終楽章の最後くらいで出てくるのだが、クライマックスでかなり速度を上げて、 そのまま雪崩れ込むようにあっさり終結させたりするところも面白い。通常若干でもテンポ・ルバートがかかるような場所を、何も無いかのように通り過ぎてしまうのだ。 客観主義というより表現主義的というべきだろう。 シンバルなどの打楽器の破裂音に近い響かせ方など、アンセルメ時代に比べて荒々しさがある。
少なくともこのようなスタジオ録音では乱れも少なく、あいかわらずの録音の良さも含め 充分許容範囲内の演奏だ。

ザンデルリンク指揮

ベルリン・フィル

~たくさんあるのです。少なくともロシアオケ盤とヨーロッパオケ盤がある。全部は聞いてないし、なんとも書けません。そのうち聴けたら総括します。
1989・9・16ライヴ。ライヴでも全て繰り返し「有り」カット無しを貫いている。ベルリン・フィルの艶を生かしきれていない気もするが、ザンデルリンクのスタイルはおよそ艶とは無縁であるから仕方ない。ギスギス。だからやや飽きる…

レニングラード・フィル(DG)/フィルハーモニア管弦楽団(teldec)1989

~レニングラードの演奏ははっきりいって粗雑。解釈が武骨。妙なところも。弦楽器など、ムラヴィンスキーの統率力よどこへ、といった感じの演奏だ。比べてフィルハーモニア管の演奏はぐっとまろやかになっており、これもひとつの見識と思わせる。ただ、終楽章が遅すぎる!レニングラード・フィルとは1番も録れている(CD化済み)。

△ボールト指揮ロンドン・フィル(deccaほか)・LP

~1956年録音。ステレオ。カット有り。ボールトの“フィルハーモニック・プロムナードオーケストラ“時代の録音には名盤が多い。…しかしこの盤は印象に残らない。いつも乍ら直截な古典的解釈で、古物を彫刻するような指揮ぶりは、この「勢い」と「即興的解釈」が要となる曲にはそもそも合わないのではないか。4楽章のけして品格を失わないうえでの前進性や、3楽章後半の大きな曲作りにききどころはあるものの、敢えて探し出して聴くほどの価値があるかは疑問。一生懸命聞き取ろうとしない限り個性の感じられない演奏だ。

△ストコフスキ指揮ハリウッド・ボウル管弦楽団(music&arts他)1946/8/13放送LIVE

~これが録音が悪い!余り薦められない。全曲版と言われるが未検証。

ミトロプーロス指揮ミネアポリス交響楽団(NICKSONほか)1947

~カットはクーセヴィツキー盤並に有り。2、3年前に相次いで復刻されたミネアポリス録音の嚆矢を飾ったもの(私はそのさらに数年前に出た表記のマイナーレーベル盤を聴いている)。録音はかなり悪い。オケもそれほど巧くはないが、流石ミトプー、起伏が激しい解釈にも関わらず、演奏はとてもこなれている。急激なリタルダンドによる独特のテンポ表現が散見され、特に2、3楽章は見事な効果を挙げている。3楽章は個人的に余り好きではない楽章だけれど、これは聞ける。ハリウッド・ギリギリの凄絶なロマンスは、この盤でしか聞けません。緩徐部の木管の密やかで寂しげな音も、耳について離れない。4楽章もかなり起伏が有るが、力強い響きにはクーセヴィツキー盤を彷彿とさせるものがあり(無論ボストンの強固な弦にはかなわないが)、最後も高揚感ひとしおだ。音さえ良ければ推薦できるのに…

パレー指揮デトロイト交響楽団(mercury)

~てらい無く素直な演奏。録音のせいだろうが、ハーモニーのバランスがこの時代にしては非常に良い。普通とカットの仕方が違うようだ。

○マゼール指揮ベルリン・フィル(DG)1983

~スタイルはキタエンコに似る。オケの力量と油の載ったマゼールの棒が水も切れるようなアンサンブルをかなでる。存外いい演奏なのだ。マゼールの全集は余り口辺に上らないが何故だろう。緩徐楽章よりアレグロ楽章を好む私としては終楽章におけるベルリン・フィルの強固な弦楽アンサンブルに拍手を送りたい。この組み合わせはシンフォニック・ダンスもすばらしい。

○ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィル(COLUMBIA/EMI)1945/11/15

~これ、もうすぐCD化します(2003/9末)。手元のLPが非常に状態が悪いため、CDで買い直すつもりだけれども、演奏の概要は聞き取ることができる。かなり押せ押せごり押せのストレートな演奏で、ロジンスキ節炸裂、密度の濃い音響はラフマニノフのロシア風味をぐっと引き立てる。音が悪いからというわけではないが、クーセヴィツキー盤に似ているように思われた(もっともあっちはテンポがかなり揺れるが、作り上げる音の質が良く似ている)。4楽章はとくにテンポが全く揺れず、速いスピードでぐんぐん押し進むところが男らしい。対して3楽章は恐らくこの演奏の白眉とでも言うべきもので、昔のハリウッド映画を思わせるロマンチシズムに満ちた、しかしベタベタせずに男らしい情感溢れる表現が印象的だ。全般、この音質では○は上げられないけれども、CD化後を想定して上乗せ、○ひとつつけておく。ちなみに当然カット版で、独特のカットがびっくりさせる。カーネギーホール録音。一日で録りおえている。

ラトル指揮ベルリン・フィル(FKM:CD-R)1990/6/1LIVE

ライヴにしてはずいぶんと落ち着いた演奏ぶりだが、ヴァイオリンを始めとする弦楽器の震えるようなヴィブラートにベルリン・フィルを感じて萌える(←ちょっと使ってみました)。1楽章などブラスが鈍重だったりどうにも冴えない演奏ぶりだが、弦楽器はとくに緩徐主題においてとてもイイ音を出している。「熱い」とか「なまめかしい」とまでは行かないものの、特色有る音にはなっている。2楽章の中間部あたりから全オケにラトルの解釈が浸透してきたような感じがする。それは3楽章で頂点に達する。デロデロのこぶしをきかせた歌いっぷりは、発音こそ醒めた客観的な感じを受けるものの、テンポやデュナーミクのまるきり自由な伸縮が楽しい。まさにラフ2の3楽章、そのイメージ通りの演奏だ。この人もピアニッシモの表現が面白く、全音符で詠嘆を表現するときは限界までとことん伸ばしに伸ばす。全楽章の弱音部に言える事でもあるが静かな場面での繊細な音表現が巧い。4楽章はそれほどテンポが上がらずゆっくりしっかりといったふう。普通程度には盛り上がるが、やはり緩徐主題のリフレイン部分に魅力を感じる。総じてそれほど名演とは思えないが(録音がやや遠く茫洋としているせいもあるかも)、現代指揮者としては特筆すべき位置に置ける優れた技術を持った指揮者ということはわかる。ワタクシ的には無印。

○スタインバーグ指揮ピッツバーグ交響楽団(CAPITOL)

カット版だが大変に立派な演奏である。がっしりしたフォルムを保ち決して細かくは揺らさず、やや引いたテンポのうえにひたすら雄渾な筆致でロマンを描きあげてゆく。その名演ぶりの大半はピッツバーグの分厚い弦セクの力によるものだろう。決して技巧にすぐれた弦のオケではないのに、しかしここではリズミカルなアンサンブルの非常にしっかり構じられた演奏を繰り広げ、非常に憧れのこもった音でハリウッド映画音楽的な音色をきらめかせながら、しかしスタインバーグの要求する強く男らしい表現の中にそのロマン性を押し込めることにより、純音楽的表現と内面的感情の素晴らしくバランスのとれた格調の高い歌がつづられてゆく。ゆめゆめ演歌などと思わせない。よくあるロシアふうのお祭り騒ぎも嘆き節もなく、テンポ設定は巨視的にしかいじられず、1楽章では遅く客観的と感じたり終楽章では逆に即物主義的と感じるほど単純なアッチェルをかけ続けたり、そこがちょっと気になったので◎にはしなかったのだが、これらがあるからこそ個性的な演奏たりえているとも言える。ホーレンシュタインのやり方に似ていてもあの明らかに音色を犠牲にしてまで整えるドイツ式の表現手法とは違う、ロマンティックな音、アーティキュレーション付けを多用はしないが効果的に使って色めいた伽藍を打ち立てている。素晴らしい。○。決して巧いオケではないのだが、それでも素晴らしい。

~Ⅲ、Ⅱ

○モントゥ指揮サンフランシスコ交響楽団(M&A)1941/2/27live・CD

モントゥのシャープでドライヴ感溢れる演奏振りが伺える楽章抜粋の演奏記録。2楽章で勢いよく締めてなかなか爽快感がある。リズム感のよさが発揮されスピードとあいまってこの曲のぶよぶよな部分をなくしている。3楽章は曲自体がぶよぶよで出来上がっているために、凡庸に聴こえた(私はモントゥのチャイコでも同じような余りよくない印象を持っているので、これは解釈への好みにすぎないとは思う)。2006年12月発売のMUSIC&ARTSサンフランシスコ放送録音集成に収録。このボックスは反則だよお(昔に比べればコストパフォーマンスはいいとはいえこの数だとありがたみがない
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チャイコフスキー:交響曲第5番

2013年12月24日 | チャイコフスキー
○クーセヴィツキー指揮NYP(whra)1942/3/1live・CD

クーセヴィツキーがニューヨーク・フィルを完全に掌握し、ぎしっと引き締めて表現させたなかなかの演奏。細部は分離が悪く聞き取れないが、メンゲルベルクのようにポルタメントをかけ過ぎてメロメロになることはなく、特に前半楽章でテンポの極端な変化が目立つものの、うまくコントロールして完全に板に着いているので違和感はない。雄渾で誠実であり、クーセヴィツキーの得意な曲目であることを改めて認識させる。オケの上手さ、統率の良さに驚いた。この人は時たま豪速球を投げるだけの演奏をするので。。○。
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プーランク:田園コンセール

2013年12月04日 | フランス
○ギレリス(P)コンドラシン指揮モスクワ・フィル(eurodisc)1962live・CD

ライブだけあって音は悪い。しかし抜けは良くレンジも広い。ギレリスの固い音が曲の洒脱さをプロコフィエフ的な方向へ曲げてしまっているようにも聴けるが、ギレリスが冴え渡っているわけでもないのだが、そういう大規模な音楽として聴ける。いわば、ヒステリックなたぐいの。旋律がいずれも演歌調に聴こえるのは気のせい気のせい。
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