湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

マーラー:歌曲集「子供の不思議な角笛」~5.トランペットが美しく鳴り響くところ

2019年01月25日 | マーラー
ゼーフリート(S)ワルター指揮BBC交響楽団(ica)1955/5/29live放送・CD

9番とされている。ゼーフリートはワルターとの組み合わせではおなじみの名前だ。あまりにおなじみすぎて普通に聴き通してしまい特徴はとくによくわからなかった。この録音は歌唱がクリアにとらえられている。録音日は巨人と違いハイドンとともに演奏されたようだが、この曲の末尾に3楽章のフレーズが出てくる。
 
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マーラー:交響曲第1番「巨人」

2019年01月25日 | マーラー
ワルター指揮BBC交響楽団(ica)1955/5/15live放送・CD

R.イッターはlyritaレーベルの創始者だが52年より個人的にエアチェックしていた音源がシリーズ化されicaより復刻されている。プロ機材によると銘打っているもののノイズまみれで正直凡百海賊盤と変わらない(BBC放送の権利はよくわからないからこれも海賊なのかどうかわからない)。音の実が詰まっておりやり方によってはきれいに聴けるかもだけれど。ワルターのモノラルライヴとして標準的な音質ともいえ、肉感的でグラマラスな内容もまた昔のワルターの魅力たっぷり。最初の一音からしてワルターだとわかる勢い、速いテンポとうたいまわす音の分厚さが、詠嘆のマーラーはとうてい呼ばないけれども、巨人ならほぼ全編楽しめる。マーラーの巨人はどれもこんなもので、その中では「うねり」という面で大人しめというのは晩年様式への布石と思う。あるいはBBC交響楽団の性向か。機能的でどんなスタイルにも対応できるが、粘着が足りない。ラストは壮麗でワルターの世界は比類ない。拍手は普通。
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マーラー:交響曲第10番〜Ⅰ.

2018年12月07日 | マーラー
クーベリック指揮ケルン放送交響楽団(eternities)1962/10/2live

モノラルでノイズレスだが少し不安定な録音。しょっちゅう縦が揃わないのが当時のこのオケぽいところではある。クーベリックライヴなので分かりやすく、演奏瑕疵がさほど気にはならないのは良い点だろう。解釈は手堅さもあるのだろうが即興的というかやや流れがちなテンポなど、その場で掴む力はさすがで、まあ、録音に残すべきかは別にして、クーベリックのマラ10という価値もあろう。個人的には聴きやすかった。
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マーラー:交響曲第5番

2018年12月01日 | マーラー
スヴェトラーノフ指揮NHK交響楽団(king)2000/9/28live・CD

演者を確認せず聴き始めて「遅いなー」「ドイツっぽい音だなー」「マゼールか?」と思ったらスヴェトラの来日公演だった。スヴェトラーノフのマーラー、とくに晩年だけあってとにかく遅い。情緒纏綿というわけではないのだ、かつての近視眼的な伸縮は伸びる方向にのみ働くようになり、そのうえで響きの精度を求めている。よくブラスがついていくなあと感心する。この頃もN響はドイツオケのような音がしていたのか(これはスヴェトラーノフにはまったくプラス方向に働いている)。相性が良かったのだなと思う。音の末尾を開放する、ぶっ放すのはスヴェトラーノフらしいが、マーラーでは賛否あったこの人もこの時期には円熟していたのだ、とマゼールと間違えた私はおもった(直後にマゼールNYP聴いたらずっと地味だったが)。かつてのスヴェトラーノフからすると抑制がきいている。2,3楽章は間延びとは言わないがこの曲に親しんでいる人は戸惑うかもしれない。そのためアダージェットはことさらに取り出されて演奏される楽章ではなく、スケールの大きな3楽章のあとにハマって聴こえる。デロデロ節ではない、時間をとって静かに描いていく。このあとの5楽章の弦の激しいアンサンブルが曲の聞き物なのだが、残念なことに乱れる。これは一箇所だけではなく、この曲の引き締めどころで弦楽合奏がこれだと、それまでの楽章を耐え抜いた意味がなくなる。まあ、ライヴなので仕方ない。とんでもない怒号のようなブラヴォに郷愁を感じる。
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マーラー:交響曲第4番

2018年11月29日 | マーラー
ハルバン(sp)ワルター指揮NYP(COLUMBIA/SLS他)1945/05/10スタジオ

戦争末期のセッション録音でSP起こしのSLSの音はというと、パチパチノイズの嵐。慣れていないと聴いてはいられない。アナログ生音源ではないためデジ化によりエッジの立ったノイズが凄まじい。最近のSLSはましになったがこれは昔のSLSの、超マニアック音源と言うべきものだろう。生なましいのではなく剥き身という感じ。音はマーラー向きで明るくはなく、一楽章前半こそ鈍重な感じもあるが、その印象はすぐになくなり、四楽章に至っては俊敏なアンサンブルを楽しめる。歌唱も安定している。セルフノイズキャンセリングすればまだワルターが最盛期の香りを残した速いスタイルに胸踊らせることも可能かもしれない。
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マーラー:交響曲第9番

2018年11月26日 | マーラー
ホーレンシュタイン指揮ORTF(ina)1967/9/7live放送

ina配信ではPHF07009231。ステレオではあるが部分的に一部のチャネルしか音が入っていないことがあり、他のチャネルは音を発する楽器がないとしても少し気持ち悪い。ホーレンシュタインはペルルミュテールとのラヴェルのコンチェルトのようにぶっきらぼうなフランス向きでないスタイルを貫くことがあり、一楽章ではそれが楽団の軋みとなって各所に雑味を残している。それでも中間楽章よりはましか、とくに三楽章は遅く確かめるようなテンポ取りがもどかしい。何も考えず音を堆積させていくような、硬直した野暮さを感じる。それでもこの曲は四楽章が上手くいけば拍手喝采になってしまうし、ホーレンシュタインもクレンペラーをふやかしたようなスタイルが少し解釈的になってきて楽しめる。でも余韻は無い。ブラヴォから始まるが、ブーイングのほうが高まるのもやむなしか。
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マーラー:交響曲第6番「悲劇的」

2018年09月12日 | マーラー
スヴェトラーノフ指揮NHK交響楽団(king,nhk)1999/2/11live・CD

やっと出てきたか、というスヴェトラN響のマーラーライヴである。一気に中期純管弦楽交響曲三曲が、収録時期はばらつくが発売されたということで、「当時の思い出を聴きたい向き」にはすすめられる。同じライヴではないが7番などTV放映もされているので、このシリーズの売れ行き次第で映像として発売されるかもしれない。またマーラーは90年代中盤の9番ライヴ(評論家の評判は悪かった)を嚆矢として日本では人気の演目であり、スヴェトラ自身も(バンスタを好んでいたという)当時一番力を入れていたと言っていい作曲家ゆえ、興味深く聴ける人はほかにもいるかもしれない。すでに全集化していたものはまさに最晩年様式というような、弛緩したテンポの薄味のものだったが、さらにその先にこのような生き生きとしたマーラーをやっていたわけである。ただ往年の粘り腰は無い。4楽章の一部を除きスヴェトラにしてはさらさらしてオーソドックスであり、テンポが速く、普通に聴きやすいのだが過度に期待すべきものではない。わかりやすくドラマティックな交響曲で形式的にも整っているから、慣れていない楽団や一期一会のコンサートには向いており、N響とスヴェトラの相性が良いといってもこれを聞く限り踏み外した棒にまでついていけるような感じはしないので(4楽章後半にはミスが目立つ)、「6番が最も良かった」という印象は「6番だから良かった」とするべきと思う。1楽章の提示部の繰り返しを行っているが、繰り返しに入るまでの序盤がじつに固い。かなり低カロリー。1楽章は旋律主体なのでそれを思いきりうたわせればなんとかなるものの、ここではそこまでの歌いこみはなく、ちょっと冷めている。中間楽章ではスケルツォがまとまっていて、リズミカルで聞きやすいが、この2,3楽章も「スヴェトラでなければならない」というものはない。4楽章、これが出来ていれば他の楽章はどうでもいいとまで言ってしまうが、このドラマの作り方はさすがに上手い。ロンド形式のように同じ楽想の緩急バリエーションを配置してうねらせていく交響詩、長い楽章はスヴェトラ本来の腕が生きてきて、シェフにより巧拙極端なN響がやっと本腰を入れたような技巧的なアンサンブルやソロを聴かせてくる・・・が前述のとおり後半で息切れ。弦がずれたりソロがとちったり、それでも難曲であることを感じさせずに終焉へ向かうのだが、気になる人は気になるだろう。スヴェトラの悲劇的としては正規録音より上かもしれないが、過度な期待は禁物。圧倒されてブラヴォが出ない、という聴衆反応でもなく、普通の拍手がさっさと入ってくる、そういうものだ。
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マーラー:交響曲第6番「悲劇的」

2018年07月10日 | マーラー
ハロルド・バーンズ指揮ハンブルグ北西ドイツ放送交響楽団(forgottenrecords)1955/6/27-29放送用録音

モノラルで音は普通。バーンズはアメリカでマーラー演奏に貢献した指揮者でアルマとマーラー生前未発表曲の演奏にかんして直接交渉したことで知られるが演奏は知られていない。さもありなん、つまらないのだ。あまりに予想どおりで、譜面をただ音にしたような演奏ぶりであり、型式ばった演奏はドイツ系のやり方といえばそうなのかもしれないが(父クライバーとレオ・ブレッヒに薫陶を受けている)音にはドイツ系の響きにあるべきパワーがなく、かといって超客観主義のスワロフスキーのように透明に振り切ったところもない。まるで中庸でまるで魅力の語りようのない、曲自体の魅力で聴かせるだけだ。2,3楽章を入れ替えているのはバルビローリなど同時代やっている指揮者はいるので珍しくもなく、稿が違うようにも聞こえない。悪しざまに言ってしまったがただ一言で済ますなら「普通」。期待過剰であった。オケは必要十分といったところ。いや、ふつうなりに2(通常3)楽章など聞かせますが。
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☆マーラー:交響曲第1番「巨人」

2018年02月27日 | マーラー
○ワルター指揮コロムビア交響楽団(CBSsony)CD

なるほど整えられた演奏で生気が薄く(リズムどりがいいので無いとは言わない)録音も当時最高峰のステレオとはいえ、今の耳からすると少し聴き劣りがするくぐもったところもある。安定した解釈はライヴ性がなく完全に地に足をつけたものではある。しかし音響を現代的に整えることなくごちゃっと押し通すところもあり(もちろんかつてのライヴ録音に比べればかなりきちんと整理された響きも多いのだが)、根底にはやはり古い管弦楽の演奏様式があるように思う。いわゆる録音用の混成楽団ならではの求心力の無さは2楽章の舞曲で弦が崩壊スレスレにまで至ってしまうところに象徴的に聴かれるが、晩年のワルターの非常に落ち着いたテンポ設定と割合と隈取の濃いリズム表現の間で若干奏者が戸惑った結果と聴くこともできる。悪い部分ばかり書いたが、これは「安心して聴けるマーラー」であり、ファーストチョイスにも向いているとさえ言える。ブーレーズに同時代性のなせる臭気を加えたような演奏、とでも書いたほうが適切なのかもしれない。○。

※2006-12-20 18:15:18の記事です
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☆マーラー:交響曲第4番

2018年02月16日 | マーラー
○近衛秀麿指揮新交響楽団、北澤栄子(sp)(DENON/日本COLUMBIA/ローム)1930/5/28,29パーロフォン録音・CD

メロメロで縦ずれ危なっかしいが、きっぱり歯切れいい近衛の棒によって崩壊せず寧ろ引き締まった感さえ与える演奏に仕上がっている。アーティキュレイションに古めかしい所も無きにしもあらずだが、基本的に粘らず直截である。エーリヒ・クライバーに私淑していたのもさもありなん、古い録音のため音色が潰れているからなおそう感じるのかもしれないが現代的である。録音のせいかピッチがずれて気持ち悪い箇所もあるし3楽章から4楽章のところでカットがあるが、同曲最古の録音(マーラーのシンフォニー全曲録音としてはフリートの復活に次ぐ二番目の古さ)としての資料的価値のみに留まらない面白さがある。一種アマオケを聞くような一期一会の緊張感があり(といいつつソロ楽器がコケまくりだったりもするが)2楽章あたりからマーラーらしさが感じられてくる。奇怪さがよく演じ上げられている。基本的には明るい色調ではあるが3楽章などワルターを思わせるドラマがあり、テンポは基本的に速く揺れないものの、美しくむせ返るような音には感じ入らざるを得ない。古典的な構成感を大事にしながらも時代の景色を香らせて、5番アダージエットの先触れとなる弦の終止音形あたりの幻想味などなかなかに感動的だ。落ち着いた4楽章のテンポも前楽章の余韻を残していてよい。依然幻想は続く。オールドスタイルの歌唱は同時代の西欧の歌手の録音に決してひけをとるものではない。進駐軍のレコードマニアが日本に来た時買いあさって一時品薄になったというこのSP音源、1、2回CDになっていたかと思うが恐らく現役ではない。どこかで見掛けたら手に取ってみて下さい。なにぶん古いので過度の期待は禁物ですけど。録音月日はN響の4楽章抜粋盤と相違するが恐らくこちらが正しい。ソプラノの名前が違っているが同一人物である。どちらの記載ミスなのかわからないのでそれぞれの盤にあわせて書いておく。2006年1月ロームのSP日本録音復刻集第二弾で10数年ぶりに復刻された。

※2005-02-22 20:10:26の記事です
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☆マーラー:交響曲第5番~Ⅳ.アダージエット

2018年02月03日 | マーラー
○バーンスタイン指揮ボストン交響楽団(WME:CD-R)1974/7/21live

アダージエットだけの演奏になるとまるでバーバーの弦楽のためのアダージォのように単独曲としての魅力を引き出すやり方をなされてしまうわけで、確かにバンスタは全曲演奏でもこれくらいのことはやったが、それにしてもやはりこれは単独で演奏されることを前提に構成された「確信犯」であろう。非常にゆるーーいテンポの地盤の上に、突如急速な昂まりを築いてはまた穏やかに静かに響きの底へ沈む(これはボストンの弦・ハープならではの素晴らしい技術、そしてセンスと怜悧な響きあってのわざだ)、これが5楽章のお祭り騒ぎの序奏部だということを「よそに置いておかないと」きかれない。シェルヒェン晩年のライヴとは又違う、単独曲としてのひたすら耽美な世界で(演奏精度も格段に違うし)、しかし既に作曲後すぐくらいから単独演奏されていたくらいだから(マーラー自身も普及のために自作の抜粋演奏をやって(やらせて)いたわけだし)それも「正統ではない」とも言い難いものではある。クレンペラーが嫌悪感を抱いたのもこの「不必要なエロティシズム」のはなつ「交響曲という伽藍」の中の不恰好な居住まいに対してであった。ただ、バンスタがこれをウィーンとやっていなかったから、ボストンでやったから非常に崇高な世界を会得できた演奏、ということは言える。○。

※2006-12-14 23:21:37の記事です
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☆マーラー:交響曲第3番

2018年02月01日 | マーラー
○マゼール指揮NYP(NYP)2004/6/16-19live

WEBデータ配信のみのNYPマーラーライヴ全集収録。復活を得意とするマゼールは、やはり長大な作品のほうが活きる。当然終楽章は素晴らしく美しく響き、NYPのだらしない部分が一切発露せず、非常に統制がとれており名演。全体としても当代一のマーラー指揮者と言わざるを得ない演奏ぶりであり、NYPの力量もまた素晴らしく、迫力と繊細さの両方を兼ね備えた万能ぶりを遺憾なく発揮している(まるでテンシュテットの恐怖政治のような緊張感だ)。マゼールの緩急極端な設計は健在で、その緩い部分が1楽章をはじめ「のんべんだらり」と受け止められてしまうことも多く、リズム表現にこだわりを見せるわりに、弦楽器にスタッカートで切らせていくべき部分を敢えてレガートで弾かせてみたり、ヴァイオリニスト指揮者ならではではの「流れ重視(旋律重視とは違う)」の方策ではあるが、総体としてはいまひとつ締まらなく感じるところも諸所にある。ただ、この曲、牧歌的に「世界」を描いたひたすら長く、雄大な抒情詩ゆえ、その方法がプラスに働いているところも多々。細かい解釈の奇矯さも時折、違和感を感じさせるが、その世界の巨大さの前には殆ど目立たない。マーラーの意図はこういう演奏だったのだろう、というところもあり、久々にこの曲を聴いて、1楽章だけで盛り上がって終わってしまうような演奏とは違う、ブルックナー的な時間感覚の中に「全てを描き込む」演奏ぶり、少し感じ入った。フォルテのまま異常な長さに引き伸ばされた終止音にマゼールの巨視的設計の確かさを見る。ブラヴォの嵐。○。

※2010-02-13 12:32:03の記事です
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☆マーラー:交響曲第5番

2018年01月23日 | マーラー
○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(KARNA:CD-R/WEITBLICK)1996/9/13live・CD

最晩年様式という言い方をこの人にも使うことになってしまうとは。結局体を悪くしたり老齢にさしかかったりすると人間誰しもテンポ感が極端に遅く雄大になり「クレンペラー型」造形を指向するようになってしまうものか。そのうえでチェリやスヴェトラはあきらかに神経質なほど響きを研ぎ澄ます方向に向かっており、スヴェトラはその「作られたイメージ」がゆえに余り言われないが、マーラーのような大曲においてはきわめて繊細精緻で合理的な音響を求めるようになる。この演奏でも3楽章くらいまでの間で時々放送ライヴ(のエアチェック)とは思えないほど、厳しく音響バランスの整えられた(機械のように)隙無く正しい音響が形作られるさまを感じることができる。スヴェトラには元々スコア分析を主とした客観性へのケはあり技術的問題への認識も強く、決してその場その場のノリにまかせたロマンチック没入型の爆演指揮者ではないのだが(そのたぐいの実演や録音ばかりが西側で取り沙汰されただけで)、この遅く踏みしめるような足取りの演奏は客観にすぎ、興をそぐ部分も少なからずある。語り口のビミョウな巧さで辛うじてそのバランスを保っている。人によっては哲学的とみる人もいるだろう。だが終楽章はまるで小クレンペラーのような趣さえあった(オケが非常に優秀な北欧オケであるがゆえにイギリスオケの甘さがないぶんはメリットとして聴ける)。フランス盤でまとめられた全集(後日廉価ロシア盤化)で6番など僅かなものを除けば莫大演奏が多いという様相から繋がった解釈ぶりといえる。じっさいこの演奏は特徴といえばオケの違いくらいで、録音はいいとはいえ放送ライヴのエアチェックで電子的な雑音もあり、ならばちゃんと正規をきくべきだとは思う。ロシアオケのクセや弱体化が気になる向きには薦められるが(このようなソヴィエト傀儡国家ではない国のヨーロッパオケを振ったものは、私などは今はロシアの手兵オケを使った余りにクセのある全体の演奏ぶりよりもしっくりくる。スヴェトラという人が実は西欧的な機能性と怜悧な音を持った「アンサンブルオケ」を求めていたのではないかと思うくらい、「現代の巨匠」たちの客観的なスタンスとの類似性を感じるのだ)、あと、スヴェトラマニアには薦められるが、ここはしかし、実際じわじわと拍手が広がりブラヴォの渦になるという部分で「あー実演と録音の違いだな」くらいの印象を見識としていただく程度で、取り立ててこれを聴く必要もあるまい。確かに長く聴けばこの演奏様式に独特の見識を見出し面白く聞くこともできるので○にはしておく。大見得なんて切らないよ。

※のち正規CD化した(エアチェックではない)。

※2006-08-29 16:11:53の記事です
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☆マーラー:交響曲第1番「巨人」

2018年01月03日 | マーラー
○テンシュテット指揮シカゴ交響楽団(EMI)1990/5/31~6/4live・DVD

満席の客の入りがすごい。録画は数日のライブの楽章継ぎ足しである。テンシュテットは指揮を始めると微にいり細にいり全身全霊で表現しはじめるから視覚的にみごたえがあるが音楽は別だ。1楽章、やや重く引きずるようなテンポが気になる。丁寧で遅い。これは最晩年様式というにはまだ寿命はある頃、静かな場面が異常に暗く深刻なのはそれでも何かを予感したもののように錯覚させられてしまう。重厚で広がりのあるドラマはドイツ的で、再現部でのペットの威勢よいファンファーレからの展開がじつに巧く壮大感を煽っている。シカゴという生気より技術を感じさせるオケの「弱点」も聞こえてくる部分もあるが、テンシュテットの読みを純粋にきける、というのはサウンド的演奏を繰り広げる2楽章も同様のことだ。愉悦感はあるが浮き立つような舞踊のリズム表現より重厚な演奏の安定感をとったようにも感じられる。とはいえ弦楽器の強固に統率された表現には凡百を寄せ付けないキレのよさがあり、頑ななタテノリテンポを守る姿には裏でテンシュテットの鬼のような指示があったんだろうなあ、とも思わせる。タテノリはドイツ系指揮者のマーラー舞踊の特徴だからなあ、ウィーンの風情はないのだ。中間部のアンサンブルの優れたさまは認めざるを得ないがどうも「サウンド的」でもある。綺麗で統率され巧いんだけど、団員の表情からしても(誰一人として)愉悦という部分が・・・。ただ、テンシュテットの解釈は素晴らしく正鵠を得たものだ。派手さはないが細かい表情付けの自然さ(しかし独特の情緒表現)には感服させられることしきりである。細かい部分まで聞き取れる録音も素晴らしい。ブラス分厚いなあ。。

3楽章は重さが強みになる楽章だ。ちょっとチェロソロがうますぎるが(ヴィブラートをしないだけでフォルムを崩さないのだ)純粋に悲しい田舎の葬列の進むさまを思わせる音楽の流れよさはある。この楽章の連環のように継ぎ足しされていく民謡旋律(展開に伴う変形というより似ているが違う旋律を継ぎ足していくように私には思える)の流れよさ、しっくり感は瑞逸のものだ。崩れが無いのが気にはなるがそういうオケだしテンシュテットもそういう人だし。何気に現代指揮者でありワルターやバンスタの時代の指揮者ではないのだ。このひと存命のときはなんでこんなに一部で盛り上がってるんだとか思っていた。サバリッシュなんかと同じような頭の片隅の指揮者だった。しかし病で「行ったり来たり」しているうちになんだか異様な指揮をする鬼気迫る人という印象に変わっていく。今改めてこうやって振り返ってみるとしかし、音楽はそれほど変わってはいなかった。世間の情報、音楽外の情報が如何に印象を変え幻想を見させるか、そういうものを廃して純粋に音楽だけ楽しむにはもう年をとりすぎてしまった、と哀美をほこる3楽章中間部をききながら思う。ここはもっと噎せ返るような表現がほしいところだが端整で重い響きを指向しているようだ。この頃のマーラーのパート譜はもう白くて、いかにも機械的、中期以降の「意味のある無音少音」とはまた違う歌曲作曲家の穴におちたようなスコアなのだけれど、テンシュテットは音の少ない場面にあえて中期以降の「意味」を持たせている。タイタンで大地の歌を想起させるような涅槃の演奏をしたのはテンシュテットだけだ。末尾ブラスのランチ気の場面すら(珍しく音は下品だが)気品を持たせ、遠く見つめるようなテンポで堕ちていく。美しく哀しい3楽章にはしかしシニカルなヤング・マーラーはいない。

アタッカでの終楽章はいきなり激しく、重くて緩いテンポながらもテンシュテットらしい見得を切るルバートが気を煽る。オケがしかしひたすら律せられて楽しそうじゃないのが気になる。楽しそうなのは指揮台の上の人だけだ。でもシカゴはこういうもんだろう。だって演奏精度は素晴らしいのだから。ブラームス的な威厳を持ったタテノリの音楽が展開されていく。落ち着いてウィーン・マーラーが顔を出す法悦の場面は、陶酔のきわみである。テンポと音の静謐で張り詰めた、しかしとても陶酔的な詠嘆にはテンシュテットの凄さを感じざるを得ない。ここにきてこうきたか、といった感じである。シカゴのヴァイオリンもできうるアーティキュレーションのわざを出しまくっている(もちろんアンサンブル可能な範囲で)。音色が生臭くないがとても感情的な揺れにこの曲の聞かせどころは上手くいったのだなと思う。後作でもリフレインされるホルンのワンフレーズがしっかり「9番にまで繋がるように」詠嘆を表現している。静謐さも胃が痛くなるほどに統率されている。決して激しはしないが必要十分な破滅が訪れ2番への布石をはなち、勝利の予感があらわれると愉悦感が煽られ始める。このへん設計の妙だなあ。。挽歌に戻るとヴァイオリンあたりの伴奏音形がやや甘くなる。つまんないとこだけどね。そりゃブラスはいいよ。もちろんプロとして最高の技術は聞き取れる。物凄いレベルでの話だ。

そして最初の勝利に至る場面はテンシュテットのルバートでベートーヴェン的な頂点がいったん築かれる。音には余りのめりこめる要素はないが、巧緻に計算された表現には乗らないわけにはいかない。1楽章の朝の情景が再現されるところではフラジオではなく実音がきこえる(あれ、譜面では実音だったっけ?)。音楽が厳しすぎてなかなかあの情緒に戻れないところもあるが、噎せ返るような主題の仄かな再現から「マーラーのアダージエット」的な静謐さが相変わらず厳しい静寂の中に表現されていく。この厳しさはタイタンじゃないよなあ、大地の歌だよなあ、と思いながらきいていると、朝の情景がやがて「しっかり」現れ、テンシュテットの大振りが非常に情緒的な揺れを弦楽器にもたらす。コーラングレの憧れの予兆から壮大なロマンへといたる場面などもなんだかワグナー的な大仰さがあり、コントラストが余り感じられない人工性にちょっとのめりこめない要素がある。2番の予告編が始まるところも余りコントラストがない。同じ暗く律せられた雰囲気から出てきた主題のように思わせる。弦楽セクションの機械のようなアンサンブルが歯切れよく身を揺さぶる。いつのまにか現れる1楽章の再現(ファンファーレがイマイチ効果的じゃない)、モザイク状に入り交ざる闘争の主題から全てを突き破り勝利のファンファーレが現れるわけだが、ここは大仰な表情付けが物凄く効果的にきいている。テンシュテットの独壇場だろう。アメリカのブラスならではの重量感とアンサンブルが、この解離性人格障害的な終楽章を一貫して論理的に進めてきたテンシュテットの王道の壮麗なゴールを高らかに表現する。ブラスがやや下品だがここまできたら下品も芸のうちだ。ミスなんかどうでもいい。ブラヴォもさもありなんな「計算」、団員はちょっと疲れているけど観客は大喜びだ。上の席までスタンディングオベーションで鳴り止まぬ拍手のままに。ステージ狭いなあ。○。

※2006-09-18 21:43:49の記事です
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☆マーラー:交響曲第9番~Ⅰ、Ⅲ

2017年12月17日 | マーラー
○シェルヒェン指揮BBC交響楽団(DA:CD-R)1952LIVE

しょっぱなからトップギアに入れ爆走。天下の奇演VSO盤以外にこんなものもあったのかと驚かされるが相変わらず録音も悪いしピッチは高く耳が疲れる。さすが機能性をほこるBBCオケとはいえマッハ越えたら乱れるところは乱れる。音色からして冷たさが際立ち、情緒抜きにメカニカルに音楽をドライヴしていこうというシェルヒェンの意図がウィーンオケのものより明確になっているともいえよう。1楽章の後半からそれでも一種ロック的な魂が感じられ始め、3楽章はそのままやや済し崩し的に雪崩込んでいく。中間部ははっきりした発音で新ウィーン楽派的な鋭敏な響きがいくぶん醒めてはいるが、異常にドラマチックな起伏がつけられしまいに大見得を切る。しかし最後はプレスティッシモで一気に駆け抜ける。ウィーン響よりは崩壊していない。基本的には旧盤と全く同じ解釈なので、マニアならどうぞ、といったところか。○。情け無用の1楽章に狂え。

※2006/10/16の記事です
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