これは録音が同日の他曲にくらべ悪いにもかかわらず、ダントツに集中力が高く異常なテンションでかつ非常に抽象的に洗練された演奏になっている。ルーセルの楽曲は娯楽的な面が甘さとなって、厳しい不協和音の後に膝から崩れ落ちるようなときがあるが、この演奏できくと娯楽的な3楽章もホルンの咆哮が背筋をただし、軍国調と言ったらいいのか、凄くはっきりとしたフォルムの音楽をたたきつけるのである。ミュンシュのルーセルははずれがないが、これもそのひとつ。◎。
これは録音が同日の他曲にくらべ悪いにもかかわらず、ダントツに集中力が高く異常なテンションでかつ非常に抽象的に洗練された演奏になっている。ルーセルの楽曲は娯楽的な面が甘さとなって、厳しい不協和音の後に膝から崩れ落ちるようなときがあるが、この演奏できくと娯楽的な3楽章もホルンの咆哮が背筋をただし、軍国調と言ったらいいのか、凄くはっきりとしたフォルムの音楽をたたきつけるのである。ミュンシュのルーセルははずれがないが、これもそのひとつ。◎。
両端楽章の雰囲気は満点で美しい。しかしこうなると録音が悪いのが気になる。祭はやや前のめりでつんのめったような感がある。オケの冷え冷えとした美しさが活きる場面と活きない場面が明確に分かれる、なかなか面白いが、やはり録音が気になる・・・○。
乾き、けして顕ではないながらも平易な楽想を持ち、プロコフィエフの先鋭さの対極を例示するさいに引かれる機会の多い組曲。装飾的な音符やリズムが邪魔して聞きづらいことが多い作曲家のソロ作品にしては整理されているのに加え、ソフロニツキのドライで野太い芸風のせいであっさり聞き流すことができる、善きにつけ悪しきにつけ聞きやすい演奏である。力強いが起伏がなくイマジネーションに欠け小粒。プロコフィエフというよりソフロニツキを聞く盤だろう。繊細さはこの演奏家の領分ではない。
突然、異常なハイスピードで始まりびっくり。そしてそのままのインテンポで明瞭なリズムを刻み、いつものストコらしさも無い直球勝負。この牧歌的な曲を何故に。。響きよりメロディだけで突き進んでいく感が強く、しかも全楽章、最後までこの調子で突進していくのだ。つまりはトスカニーニ流儀を意識し過ぎているのである。だれずに集中力を維持し続けている点聞きづらさはないが、この曲を知っている向きはのけぞること必至なこのテンポ。ノイズキャンセルがしっかりなされていて音は悪くない。
悲劇的の演奏には定評のあった、マーラーの大曲ではクレンペラーと肩を並べる堅牢で構築的な録音を遺したホーレンシュタインのこれはかなりいいほうの演奏。後年けっこう間延びした緩い演奏もした人だが、ポテンシャルの高いオケを使っていることもあり集中力の途切れない厳しく男らしい音楽が続く。中間楽章にはやや潤いが足りないが両端楽章の威容は聳え立つような、1楽章は特にこなれた解釈が冴え渡り聴き応えがある。人工的な構成でテンポ設定など難しい音楽だが緩徐主題など無味乾燥にもロマンチシズムにも偏らず違和感の無い模範的な表現でぐいぐいと引っ張っている。VOX録音のVSO時代はまだウィーンで活躍していた頃の情趣が別の魅力を発揮していたが、ここではとにかく冷徹な峻厳さが支配しており、そこで更に何かを言っている、クレンペラー的と言ったのはまさにそこのせめぎあいが「ここでは成功している」というところで、クレンペラーでもライヴ録音では失敗があるのと同様ホーレンシュタインでも正規録音では詰まらない地味な演奏に堕しているものもある、この演奏の終演後の反応のよさはムラのある指揮者のここでは成功していることを裏付けている。ただやはり、緩徐楽章など平板で魅力はない。○。
<追憶:20世紀ウラ・クラシック・ベスト>
アイアランド(英)サルニア~島の情景(1940-41)
アイアランドはすぐれたピアノ作家であり独奏曲も数多く、作風は時期によって変化しながらも常に詩的に情景をうつしていました。空想的な古代の情景からロンドンの小道まで、季節の移ろいや旅先での風景・・・サルニアはその旅先での風景であり、ナチス侵攻に追われるように去らざるを得なかった美しい群島に捧げられた曲です。既に挑戦的な雰囲気はほとんどなくなり、華麗なテクニックを披露して輝かしいロマンスを歌い上げます。音数は多いものの複雑にはなりません。古風ではあるのだけれど、とても明るく透明感があり、何より淡彩の印象はディーリアスら英国の作曲家の本流と明らかにつながっています。優しい、自然、太陽の柔らかな陽射しと限りない草原のおりなす大地のうねり、それそのものの音を織り上げることのできる作曲家の系譜にあるのです。この曲は3つの楽章からなるアイアランドにしては大曲で、それぞれ季節の台詞が付けられています。エリック・パーキンはCHANDOSの録音のせいもあるでしょうか硬めの音色で残響が大きく、この人の他の秘曲録音同様強い印象は与えず、むしろ無機質な感じもありますが、まず曲そのものを純粋に届けるという意味でテクニックも優れ万全に準備されていて、旧録はより聞きやすい熱を感じるものの、曲的には音も良い新録をとるべきでしょう。ネットにはいくつか録音録画があるのですが、レコードになっているものは極めて少ないですし、アイアランドの弟子パーキン以外はNAXOSに一枚あるくらいでしょうか。イエーツの管弦楽版はピアノ版の儚さを好むなら聞かないほうがいいです。パーレット弦楽合奏編曲の二楽章「五月の朝」カーティス指揮はそれに比べれば違和感はないです。美麗でディーリアスのように聴くことができます。
<追憶:20世紀ウラ・クラシック・ベスト>
ルーセル(仏)フルート、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロとハープの為の「セレナード」op.30(1925)
これも学生時代にハマった曲でフランス音楽はあまり聴いてませんでした。ルーセルは東洋趣味、特にインドに傾倒した時期があり、軍人時代にもアジアの香りを嗅いでいるそうで、室内楽では比較的最初のほうにあたるこの曲には編成的にドビュッシーの影響がありながら、楽器用法が普通ではないです。冒頭からの土俗的リズム・響きはこの人に特有のものですがここではサロン音楽風の雰囲気を邪魔しない。フルートは明朗な旋律を歌い、ハープは煌びやかに弦楽アンサンブルを彩ります。しかし2楽章はノンヴィブによる雅楽を思わせる響きに驚かされます。日本趣味だと思われます。当時はもう前衛的と呼べる響きではないかもしれませんが、異郷感がとても強く、瞑想的です。かといってまったく平易で耳なじみは悪くない。3楽章はフィナーレの喜びに満ちていますが、ラスト近くヴァイオリンのグリッサンドがまるで南洋の鳥のさえずりのようで度肝を抜きます。メシアンの世界を仄かに予感させます。このような民族主義とは言わないまでも土気のある曲が、当時ロシア音楽に傾倒していた私には魅力的だったのでしょう。ルーセルはラヴェルと世代的には同じで、スコラ・カントゥルムでサティに優秀な成績をつけた教師としても知られますが、当時のヨーロッパでは名士であり、少し隠遁すれば死亡説、出てくれば国際的な団体の理事に祀り上げられリヒャルト・シュトラウスと仕事をしたこともあります。作曲時期は遅く、長命でもないので曲数はさほど多くありませんが、六人組より前の世代におき単純さを追求した新古典主義者として記憶に刻まれる人です。リノス・ハープ五重奏団のコンピレーションは同傾向の室内楽を集めどれもとても美しく率直でおすすめです。 ガロワ(fl)キャムブリング(hrp)パリ三重奏団のERATO録音はルーセルが肉感的な分厚い響きを用いながら禁欲的でもあるという、そういった面を掬った技巧的で抽象的な演奏です。プロメテウス・アンサンブルは隈取り濃い演奏。クリュネル(fl)P.ジャメ(hrp)バス(vn)ブランパイン(va)クラバンスキー(vc)という初演団体による演奏は録音が極めて貧弱で聴きづらいですが、演奏も生硬で押しが弱いです。娘のマリー=クレール・ジャメ五重奏団は情熱的です。ラスキーヌ、ランパル、パスキエ・トリオという凄い録音はモノラルなので音色より勢いを聴くような、ちょっとデリカシーのない印象のある演奏です。エンドレス四重奏団のメンバー、ストルク(hrp)シュウェルガー(fl)によるものはリズムが印象的ですが響きが単調でオリエンタリズムは希薄です。