湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

アイヴズ:ピアノ・ソナタ第2番「コンコード・ソナタ」

2018年10月11日 | アイヴズ
J.カークパトリック(P)(配信)1939/1/20NYタウンホール初演live

エール大学が保管しているアイヴズ等の未発表骨董音源より、一部一般公開(webサイトよりストリーミング)したものの一つ。前年に部分ないし全曲初演されたという人もいるが、従来的には全曲初演の、アンコール2曲(うち後半は四楽章「ソロー」の一部、前半は民族主義の他人の曲)を含む全楽章の復刻である。器械2台で録音したのか、盤面返しも欠落はほぼ無い。さすがに未発表モノだけあって経年劣化は無視できないレベルで、デッドで歪んだSPの響きも真実を歪めて伝えている可能性はあるが、エール大学が力を入れて復刻したもので素人の口を挟む余地は無かろう。ちなみに以下が公開された全てである(2018/9時点)。いずれもカークパトリックにより、公式録音もあわせるとカークパトリック自身のスタイルの変遷も追える。非公開のものはエール大学のネットワークに繋げれば聴けるらしい。

1939/1/20(初演live(全))3/24(CBS放送用Ⅰ、Ⅲ)3/31(CBS放送用Ⅱ、Ⅳ)9/28(放送初演(全))
1959/10/19(Ⅰ)
1969/2/7(エール大学live(全))

この曲はかつて人の少なかったアメリカ北東部の点景である。四楽章の表題になるエマーソン、ホーソーン、オルコッツ(複数形)、ソローの超越主義思想から直接音楽を展開したということはひとまず置いておいて、ここに横溢する美観はきわめて印象派的なあいまいなものに立脚している。カオスであっても響きはつねに青白く冷えたモノトーンで、その音の回転や蠢きにスクリアビンの痙攣、昇天のエコーを聴くことはできるが、生々しいロマン派音楽の素材を使っていても、そこには直接的な接触があるようには感じられず、硝子一枚隔てた影像として処理されている。ノスタルジーと抽象的思索の二重写しであること、この曲や、ひいてはアイヴズの試行錯誤の目指した先が単純なフォルテの世界でも全音符の世界でもないこと、それは謎のまま闇に消えたことを考えさせられる。アイヴズというと既存素材のパッチワークだが、メインとなる素材は多くはない。ここでは運命の主題が奇妙にさまざまに異化された形から、後半楽章ではっきり、しかし原曲とは異なった形で打ち出されるのが印象的だ。洗練された暴力。この演奏はテンポが速く焦燥感があるが、腕は一級、録音がひどいが指も頭もよく回る。バルトークなど民族主義が流行っていた演奏当時を考えるとそれだけの弾き手はいておかしくないが、二楽章ホーソーン、スケルツォにあたる楽章でラグタイムが冷徹から狂乱へ舞い上がる悪魔的表現はライヴならではの勢いもあり、聴かせる。この楽章以降は拍手が入る。印象派ぽいというと両端、よく単独演奏されるエマーソンとソローだが、デッドな響きでテンポが速いとあっけなく、食い足りなさがある。四楽章のアンコールではしっとり響きを聴かせている。
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☆アイヴズ:交響曲第4番

2018年03月09日 | アイヴズ

○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(SCC:CD-R)1970/11/17live

14日リハ(DA,SCCで音源化)の本番記録のうち15日に続いてのものになるが、ボロボロではあるもののステレオであり、情報量が格段に違う。初演正規盤を除けばリハ含め4本ある記録(動画もあるが)のうちの、これが最も「聴ける盤」と思う。15日のものを客席録音としたが恐らく15,17共に放送ACであり、客席内の同位置にマイクがあると考えたほうがいいだろう(TVはなかったのか?)。15日のモノラル録音と解釈はまったく一緒だと思うが、空疎に抜けて聴こえなかった下支えの音やノイジーな断片の数々が比較的はっきり聴き取れる。1楽章こそ虫食い状態だが4楽章までいけば、初演記録よりもこなれ滑らかにクライマックスの形成された、ストコフスキ・レガートによる超絶的世界を堪能できる。合唱の歌詞がしっかり聴き取れるだけでも大成功だ。速いインテンポでさっさと進むわりに旋律とおぼしきものは漏らさず歌うことを要求した結果、むせ返るような法悦性が滲み出てまったくもってアイヴズ的ではないが、まったくもってアイヴズ世界である。この録音状態ではしょうがないので○に留めるが、4楽章は聴きもの。

※2010-05-19 16:34:04の記事です
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☆アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第5番「ニューイングランドの祝日」

2018年03月01日 | アイヴズ
○クリサ(Vn)チェキーナ(P)(russiandisc)CD

新発見の曲ではなく本人による「祝日交響曲」(本来的には組曲)からの(無茶な)抜粋編曲である。従って正当な意味で「第5番」ではない。事実上ヴァイオリン・ソナタという形式は4番で閉じた世界である。しかしこの極めて小編成へあの大曲を編曲し、かなり聴けるものに仕上げているというのはある意味アイヴズという才能を再確認するものとして価値が高い。内容的に1、2番で未完成なまま3、4番という(個性という意味では)退嬰をへて終わったアイヴズのヴァイオリンソナタである。オリジナリティがしっかりした「技法」に支えられ完成された作品として認められるものというのは他のジャンル・・・ピアノ独奏曲もしくは大管弦楽・・・においてはいくつかあるのであり、祝日交響曲もその一つであることからして、これを独奏曲に編曲することにより「完成期のアイヴズの実の入ったしっかりした作品」として非常に安定感のある、1,2番を凌駕する完成度を持っていると言ってもいい面白さがある。アイヴズ特有の心象的な表現は多彩な楽器の音色の混交によって実現できうるものであり、擦弦楽器一本にピアノという編成では表現に限界があるが、モザイク状に「拝借」された数々の旋律がヴァイオリン一本によって露骨に継ぎ接ぎされていくさまは他のヴァイオリンソナタに通じる好悪わかつ部分であるが、一部特殊奏法により原曲と違った色を出しているところもあり、本人も(アマチュアとして)得意であったピアノが入ることによってだいぶん多彩な部分を残したままシンプルな面白みを逆に提示することに成功している。削ぎ落とされた中身だけが聞こえてくるだけに、フォースオブジュライを除く三楽章だけでは短くてあっというまに終わってしまうあっけなさもあるが、反面「編曲モノの面白さ」を比較対照して聞けるものとしても価値はあるだろう。演奏はかなり巧い。作品自体1番ほども技巧を要求しないものではあるが、よく作品を吟味している。アイヴズマニアなら聴く価値はあり。但し繰り返しになるが、1~4番の「番外編」にすぎないものであり、全く視点が異なることは留意しておくべし。YouTubeにはいくつか実演動画がアップされている。ロシアンディスクは二種類あり、ロシア音源とアメリカ新録音で、おそらく別の活動主体による。

※2007-02-03 14:17:03の記事です
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☆アイヴズ:交響曲第4番

2018年02月16日 | アイヴズ
○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団?(DA:CD-R)1967/12/18live

録音は悪い。ホワイトノイズが多くぼけたモノラルでバランスも崩れている(この曲は生で聴いていてもバランスよく聴こえることは無いので理想的な音響は「スタジオ録音でのみ」可能なのだが)。ねっとりしたストコ独自の表現が初演盤よりはっきりと聴き取れる。1楽章は重苦しく引きずるような印象を受ける。2楽章は物凄い迫力だけが聴き取れる。バス音域が強すぎる感もある。かなりゴテゴテ表現を加えている。アイヴズぽくはないが変に単純化するよりも多彩に聴け楽しめる。通常ピアノ(この曲には他に四分音ずらした調律のピアノとアップライトピアノが導入される)が案外よく聴こえ、それがソロピアノ曲に近似した書法で描かれていることがわかる。禁欲的な硬質の音楽だ。3楽章はクライマックス前の悲劇的パセージでパイプオルガンとベースのハウリングが激しすぎて聴こえない(そういう箇所はいくつか聞かれる)。それが生々しくもあるのだが耳には辛い。異様な雰囲気があり、かなり稀有壮大に誇張した表現がとられている。

4楽章は打楽器オケ(パーカッション部)から始まるが、タムタムがいきなりえらく大きく出てくる。それまでにも増してねっとり壮大に異常世界が演出される。スクリアビンだこりゃ。旋律的な流れ(旋律そのものではない)を失わない方法はわかりやすく、かなり成功しているさまが悪い音の中に伺える。それにしてもこんな想像力の限界に挑む異常音楽にラグのイディオムとか素朴に組み込まれ抽象化されているさまはほんとにすさまじい。アイヴズのスコアは単純だが音にするとこんなにもなる、いや「なりうる」のだ、シェフによっては。

正規盤初演ライヴよりもクライマックスへの盛り上がりが自然で迫力がある。細部の聴こえない録音が返す返すも残念、とくに高弦が聴こえない。最後の神秘の賛美歌が清澄で不可思議な空気をかもしながらねっとり恍惚として表現されるのはストコらしい。ベースが再びハウリングを起こしてその透明な美観を損ねているのは惜しい。最後ふたたびの打楽器オケの残響が綺麗だが、その上で余韻をかなでるコンマスの下降音形の分散和音(アイヴズがよくやる方法)がまったく消えているのは惜しい。

終始ストコがいじっている感じだが、それすらも「アイヴズらしい」と思わせる。初演盤がけして成功しているとは思えない部分もあるし、寧ろモノラルであることによって下手なステレオよりまとまって聴こえるのはメリットかもしれない。○。

※2008-01-09 20:33:55の記事です
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☆アイヴズ:管弦楽組曲第2番

2018年02月11日 | アイヴズ
○ストコフスキ指揮ロンドン交響楽団、合唱団(LONDON)CD

ライヴ記録もCD化されているが何種あるかは確認していない。ストコフスキのアイヴズは音響的な広がりはすばらしいがさほど恣意的な方向付けをしないので、アイヴズの拡散性が際立ち茫洋とする感がする。2、3曲目のほうは管楽器など横の長い音符が多いせいか鈍重で、合唱もそれに輪をかけて重くしてしまっている。反面「偉大な祖先たちの森」はアイヴズ得意の金属打楽器を多用した心象的な音楽で、これはストコの色彩的処理が素晴らしく反映された名演。何よりこのステレオ録音の状態が素晴らしい。アイヴズには特有の乾燥した部分と暑苦しい部分があって、前者においてはかなり「冷えた音響」が目立つ。冬には向かない。しかし、夏にはまるで風鈴の鳴る縁側にいるような感覚すらおぼえる印象的な表現があり、1曲目はまさにそういう曲、この演奏で涼んでください。2,3曲目は後者です。暑苦しい!

※2007-07-28 15:03:24の記事です
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☆アイヴズ:管弦楽組曲第2番

2018年01月27日 | アイヴズ
○ストコフスキ指揮ロンドン交響楽団(intaglio)1970イギリスlive・CD

現在はmusic&artsでも出ている英国初演記録かどうかは不明だが、london正規録音に先立っての演奏会記録というデータを信じれば恐らく同一と思われる。この海賊盤の抜けがよく、より鮮明な録音であることは確かである。但し2箇所、冒頭も含めてかなり耳障りなノイズが入る。アイヴズの静寂、とでも呼ぶべき冷たい情景に劣化媒体のような雑音はかなり気になる。もっとも原盤からこうだったとは思えない・・・私は最初この盤の不良品(中身が全く違っていた)を掴まされ売主に逃げられた経験がある。箱入りの一枚ものにもかかわらずライナーもなくデータも不確か、やはり一枚もので箱入りだったalrrechino等イタリア盤でもライナーはきちんとしていたから、その前に流通していたこのてのものに文句を言っても仕方ないところはあるが。。肝心の演奏は非常にストコらしいアイヴズをロマンティックな前時代的な感傷のうちに押し込め、特に歌詞のあるなしにかかわらず歌唱の入る部分での処理の訴えかけるような(ややおしつけがましいがオケがLSOなのでそれほど濃くならない)表現は、この指揮者が合唱指揮をへていることも思い出させる。ロマンティック過ぎてちょっとアイヴズとしては甘ったるさが胃にもたれるけれども、元来の混沌としつつも冷たい衝突する響きが残り辛うじてバランスを保っているし、持ち味が薄い表現であるロンドンのオケというところも功を奏している。○。

曲はアイヴズの常として個別に作曲された三曲の寄せ集めでいずれも特有の情景「活写」的なものだが、宗教性を背景としたアメリカニズム鼓舞に回顧的な内容を伴う表題性の強い作品で演奏機会も多いほう。表現によっては尖ったアイヴズが独創的な理知性(一曲め「我ら祖先へのエレジー」の最後で何故賛美歌詞を排したのか?等)のもとに一定の距離感をもってそれら感傷的要素に対峙していたことがわかるが、この演奏にはそこが無い。

※2009-05-08 09:31:38の記事です
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☆アイヴズ:ピアノ・ソナタ第2番「コンコード・ソナタ」

2018年01月22日 | アイヴズ
◎ジョン・カークパトリック(P)(COLUMBIA)STEREO

クラシックなんか全く聴かなかった頃(弾きはしたけど)ふと耳をついて離れなくなった音楽、それがアイヴズの「答えのない質問」(但し冨田勲版)だった。宇宙的な不可思議な響きはニューエイジ系の響きによくあっていた。その後小澤のシンフォニー4番によってこのマーラーの同時代者にして孤高の前衛作曲家に開眼することになるのだが、アイヴズの特徴はカオスとか前衛手法とか細かくはいろいろ言われているけど、ほんとうのところ「静寂とノリのコントラスト」の凄みにあると思う。静寂については言うまでもあるまい、ドビュッシー(アイヴズはドビュッシーを相対的には評価していた)の旋律構造との近似性を指摘される極めて美しいメロディのかけらのさりげない感傷をも呑み込んだ、静かな不協和音の広がりの中に微細な変化をきたす音楽(じっさい印象派と言っても過言ではない抽象的な小品も多い)、特に金属的音響の静かな扱いにおいて極めてすぐれており、サウンドスケープ作家としてまずは素晴らしいものがある。ここはヘンクなどが得意とする世界なのだが、一方「ノリ」については余り言われない、というかどうしても「現代作品のように」分析的に演奏されることが多いので、ほんらいあるべきと思われる「全ての楽器が勝手に鳴ってごちゃごちゃになりながらも濁流のように突き進む力」をもった姿とかけ離れた「数学的側面」ばかりが強調され、違和感を覚えさせることも多い。時にはそういうアプローチがゆえに曲自体「構造的に」弱いと思わせてしまう。だがアイヴズの構造の概念は最初からポストモダン的というか、部分部分の構造は視野にないものだ。無造作な集積物に対する「大掛かりでざっぱくな構造」こそがアイヴズの「構造」であり、そのまとまりのなさを如何にまとまりないままに、しかしどこかへ向かって強引に突き進んでいるように「感じさせるか(分析させるかではない)」が肝なのだ。

コンコード・ソナタは今ではかなり取り上げる人も多い。アイヴズの作品には極めてクリティカルな版問題がつきものだが、本人も繰り返し述べているように「好きなように弾けばいい」のであり、この演奏が出版2版と異なっているといっても、ここにはジョン・カークパトリックというアイヴズの使徒が、決して下手ではない素晴らしい勢いのある押せ押せの演奏ぶりで「自分なりの真実を抉り取っている」さまがある、それだけが重要なのである。「この小節はスウィングできるなら何度でも繰り返せ」・・・例えばこういった譜面指示にアイヴズの本質は端的に現れている。「ノリ」なのだ。「民衆それぞれが自分のためだけの交響楽を作曲し奏で生活に役立てることができる」世界を理想とし、作曲家はその素材提供をするにすぎない、いかにもアメリカ的な哲学のうえでこの作風が成り立っていることを理解しておかないと、変な誤解を与える退屈な演奏を紡ぎ出しかねない。民衆は時には静寂を求めるが、たいていはノリを求める。

話がそれてしまったが、今は亡きジョン・カークパトリックは1940年代後半にもコロンビアにモノラル録音(全曲初録音)をしている(楽章抜粋を同時期の少し前にやはりコロンビアに録音している)。ステレオ録音LPのジャケット裏にかかれているとおりアイヴズと密に連絡をとり、意図と「意図しない」ところを常に認識しつつ、この独自の校訂版を作り上げた(有名なフルートやヴィオラも挿入されない)。そのため原典版と呼ばれる譜面に基づく録音が後発されることにもなった。演奏スタイルは繰り返しになるがかなり前進的なもので思索的雰囲気よりも「ノリ」を重視している。ペダルを余り使わず残響を抑えているのが好例だ。ラグなどの表現では特に場末のアップライトピアノでガンガン弾いているような面白さがあり、特に卑俗な旋律断片が奔流のように次々と流れるところはダントツに面白い。構造的に弾いてしまうとアイヴズ特有の「つじつまのあわない」クセが目立ってしまい、途中でめんどくさくなってしまうか飽きてしまうものなのだが(その点1番の緊密さは素晴らしい)、この演奏(版)はとにかく「飽きない」。面白い。

アイヴズ協会が動き出したあとの現代、この譜面がどうなっているのかピアノを弾かない私はよく知らないが(奏者ごとに当然いじるのだろうが)、昔は交響曲でもジョン・カークパトリック(ラルフじゃない)の筆写編纂版が使われていたくらいで、アイヴズ自身もこの人の演奏を聞きアドバイスをしているくらいだから、もし違和感を感じた、あるいは譜面との相違点が気になったのなら、「こちらの演奏のほうが本来の姿」だと思うべきだろう。CD化は寡聞にして聞かないが、最近やや低調気味な人気の中、新録を沢山出すのも結構だけれども、この「アイヴズの権威」の演奏を復刻しない手はないと思うのだが。旧録然り。ノリという点でも内容の濃さ(変に旋律に拘泥せず全体の流れで曲を押し通している)という点でも、◎。この版、純粋に音楽的に、バランスいいなあ。「運命の主題」を軽く流しているのもいい。ここに重きを置くとキッチュになりすぎる。

この曲はアイヴズ出版作品の通例としていくつかの原曲素材の「寄せ集め」で編纂されたものだ。その部分部分については自作自演もあり、これは一度CDになったようである。

※2006-03-23 18:18:23の記事です
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☆アイヴズ:答えのない質問

2018年01月21日 | アイヴズ
バーンスタイン指揮(解説)ボストン交響楽団のメンバー(DREAMLIFE)1973ハーバード大学レクチャー放送・DVD

テレビシリーズとして放送された有名なハーバード講演「答えのない質問」より。かつて書籍やビデオで出ていた(価格的にも言語的にも)壮大な講演集がこじんまりとまとまって字幕入りで出ている事実に慄然とする。しかしそれでいいのだろう、稀少であることに意味は無く、内容にこそ意味がある。DVDでは三組目、ラヴェルで無邪気に幕をあけえんえんとシェーンベルクが語られる。混迷の20世紀前半音楽を非常にわかりやすくピアノや譜面で解説しており(歌は理解を妨げている)、なんでこれに奇妙な日本語感想文を付けられているのか、と慄然とするが、それはともかく、シェーンベルクのストイックさの余り陥った音楽の素晴らしさと危うさが結局のところ極めて狭く石ころのごろごろした耕地を耕すようなもの、結局どこかしら調性的なルールを維持することになり捨てきることはできない、折衷点をどこにもってくるかが新時代の個性、例えばベルクは・・・といった感じである(ああ文章で書くような内容じゃないな)。多様化する表現手段の1ルールとして組み込まれていくシェーンベルク主義、多様式主義といえばストラヴィンスキー、そして・・・あるアメリカの作曲家の音楽的予言。それがアイヴズの無邪気な小品「答えのない質問」、この講義の理念上の主題となる言葉を表題に付けた曲である。ああ長い。

アイヴズのシンプルだがプロフェッショナルな音楽的理知性は上記のようなバーンスタインの主義を見事に裏付ける作品を様々に生み出したが、バーンスタインのメガネにかなった作品は実はシェーンベルクとほぼ同時期に書いていた過渡期的な作品であり、交響曲の2から3番あたりとなる。2番はアイヴズの名声をあげ初演に招いたバーンスタインに最早不要と断りながらもジグを踊って喜んでいたといわれる半世紀眠り続けた調性的作品で、無数の既存主題をパッチワークする方法を極める前段となったものである。3番はシェーンベルクの初期作品を思わせるものでマーラーを魅了した作品として有名な、でもやっぱり調性的作品。それではいつ調性を失ったのか?アイヴズは失う失わないという観点で作曲はしておらず、本人は独自研究による調性の拡大や新たなルール化に挑戦したとはいえ、至極粗雑であり、寧ろそういったものを「パーツ」としていくつもいくつも用意して、、、4番交響曲のようなまさに多様式主義もたいがいな前衛作品に行き着いた。

ポストモダンという煤けた言葉を思わず使ってしまうのだが、そういう思想は「多層的な空間音楽」という個人的な肌感覚、「野外音楽の体験」に基づいており、けして前衛を狙っていたわけでもない。答えのない質問は3群のアンサンブルより成り立つ。コラールをひたすらかなでる「空間」役の弦楽、超越的な存在として、しかし無力な存在として描かれる「ドルイド僧」役の木管四重奏、そして素朴に実存について質問を投げかけ続けるトランペットソロ、その答えは太古のドルイドにも出すことが出来ない、しょせんは誰にも応えられない質問。この「情景」をそのまま音楽にしているわけだが、バーンスタインは象徴的に捉えてシェーンベルクに対する「予告」としてただ演奏をなしている。

だが、多重録音をしているように聴こえる。画面も狭くて辛い。音楽的には失敗である。解説用の演奏といっていいだろう。まったく空間的要素が感じられない。無印。それだけかい。

※2010-02-24 21:05:52の記事です
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☆アイヴズ:交響曲第4番~Ⅲ、Ⅳ、Ⅰリハーサル

2018年01月14日 | アイヴズ
○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1970/11/14リンカーンセンター放送live

リハではあるが最晩年の非常に緩慢なテンポの上に展開される拡散的な世界が垣間見られる演奏。3楽章の途中からリハは始まる。このリハでは3、4楽章通してストコフスキがいかに弦楽器の表現、とくに高弦のアーティキュレーションに細心を払っていたかがわかる。ストコの弦楽アンサンブルはとにかく、どんな曲でも美しい。3楽章は初期の弦楽四重奏曲を原型とした弦楽アンサンブルが主体ゆえ、旧来のロマン的な音楽を表現するように、基本的にはゆっくり美しく、アタックは強め、といった感じで普通のリハである。4楽章はアイヴズが得意とした、長大なクレッシェンドと収束のディミヌエンドだけで成り立っている音楽だが、初演盤に聴かれるのと同様、音量的な変化がそれほど聞き取れないものになっている。そのせいかストコは音量指示をかなり多く出しており、カオス的な音の奔流の中に変化をつけようとしているが、基本的にかなり慣れた様子もあり、リハゆえ大人しくなってしまっている可能性もあるが、基本解釈は初演から余り変わっていないのだなあと思わせるところもある。部分を除いて音は比較的良好なので、後半執拗に繰り返される結部でのヴァイオリンソロの下降音形(ソロではなく合奏?)がそれまでの流れの延長上で非常にゆっくりレガートで表現するように指示されていることがわかる。アイヴズの弦楽器の書法が、ここまできちんと美しく表現しようと努力されないと効果的に響かないようにできているのか、とも思った(盤や演奏によっては弦にまったくやる気のないものもままある、そうなるとどうも締まらない)。緩慢なインテンポで音量変化(音質変化)も結局それほど感じられないのが気になったが、実演では違うのかもしれない。最後に1楽章の合唱を少し齧って終わる。○。

※2008-01-10 21:43:50の記事です
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☆アイヴズ:夕闇のセントラルパーク

2017年12月28日 | アイヴズ
○ドラティ指揮フィラデルフィア管弦楽団(DA:CD-R)1976live

新しい録音で一応ステレオだがホワイトノイズが激しく音量も安定しない。またよくあることだが音響の真ん中がすっぽり抜けており、中盤での盛り上がりどころのブラスの饗宴などまったく聞こえてこない。まるで遠い池の向こうの出来事だ。しかし録音の悪さを置いておけば、ドラティらしい聞きやすい整え方のなされた演奏であり、それは主として緩まないテンポに厳格な複リズムとして各声部をあてはめていくやり方に起因していて、面白かったろうなあ、と推定することはできる。ティルソン・トーマスのような分析的なやり方ではないためライヴ感溢れる音楽として聞ける。そもそもこのような抽象化作業のなされない「音響」を「音楽」と呼ぶべきなのか異論はあろうが、少なくともドラティで聴くと音楽に聞こえる。とくに弦楽器の瞑想的なコラールが美しい。とても心象的だが決して幻想に流されないきちっとした流れが保たれている。ブラスがいかにもアメリカンでアイヴズにはとても向いているが前記のとおり聞かせどころでまったく聞こえてこないのでここはメリットとはできないか。いずれスケールは落ちるもののアイヴズ入門としては面白いので、機会があれば。これの拡張版ともいえる4番交響曲をドラティで聴いてみたかった。

※2007-06-06 16:01:37の記事です
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☆アイヴズ:ラールゴ・カンタービレ

2017年12月17日 | アイヴズ
○ストコフスキ指揮CBS放送管弦楽団(SCC:CD-R)1954/2/7放送LIVE

バーンスタインの名演で知られるアイヴズの秀作小品である。現代の精緻な演奏様式よりいくぶんロマンチックな感情を込めた演奏に合う。だからストコフスキにも似合う。いくつかの楽想のほんの破片をポリフォニックに重ねていくコラール、無機質なアルペジオを背景に浮いては消える賛美歌旋律、生温いのに、とても透明感ある夢想。この作曲家が哲学に傾倒していたことをはっきり伺わせる思索性は三番交響曲の終楽章に近似しており、四番交響曲の終楽章の構成の基礎となる要素を示している・・・つまりは作曲家自分自身の評価も含めて最高傑作といわれる作品群の「要約」のような二分半だ。力強くやや硬質のコロムビアオケの音でバンスタほど過度の歌謡性は持ち込まず、調和を意識することなくアイヴズらしい乱暴なやり方をあるていど残している。ストコフスキはそのやりかたで交響曲第4番初演盤では半端な前衛性をだらだらと示してしまい聞きづらさもあったのだが、ここでは曲の短さと、元来のロマンチシズムがそれでも首尾一貫したように聞かせている。で、結局面白い。薄く精緻にやると粗さが目立つ、このくらいがいいのだ。ノイズがひどいが力強い録音。これ、学生時分に譜面に落としたなあ。いずれパートも見開きくらいしかないけど、単独パートでもわりと曲になっていた。なつかし。

※2010-04-09 22:20:34の記事です
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☆アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第4番

2017年12月10日 | アイヴズ
○ラレド(Vn)シェイン(P)(PEERLESS)LP

10分前後の小曲にもかかわらずアメリカの近現代ヴァイオリン・ソナタとしては文句なしに最高傑作であり、本人のはすに構えた発言とは関係ない。性格も形式も違う(しかも剽窃主題しかない)三曲を、ただ抱き合わせてソナタと称したものではあるが、それはアイヴズの特徴的な「方法」だと個人的には思う。グラズノフのソナタ形式におけるスケルツォ楽章の扱い方に似ている・・・とにかく理知的にではなく「性格」を「極端に」変えた楽章を組み合わせればそれがソナタだみたいな。必ずしも出版事情とか演奏されるようにおもねったマーケティング結果とかいったものだけではないことは「交響曲第4番」「祝祭交響曲」を聴いてもわかる。あれらは纏め方の強引さも一流の鮮やかな方法に聞える。立派な交響曲だ。本人の他愛無い個人的なものという言とは裏腹にけっこう演奏されることが多い。前衛性を(3番のように)皮肉としてではなく子供が演奏しやすいように削ぎ落とし、サン・サーンスの動物の謝肉祭のようにはからずも生まれた速筆のシンプルな作品ではあるが、ここに漂う素直さ、幼いころキャンプで経験した昔への憧憬は、子供向けとして書かれた導入部としての1楽章(これはしかしコノ曲の中では前衛的書法も僅かに盛り込まれ一番完成度が高い)、メインである2楽章の、ラジオなどない自然の中に生音しか存在しない素朴な時代へのノスタルジーが静かに綴られ、よぎる「運命の主題」をも乗り越え極めて美しい散音的な一抹のフレーズから対位法的にからみあう二曲の静かな賛美歌・・・アーメン終止、更にここがアメリカ人らしい、さっぱり抜け出す3楽章は「たんたんたぬき」の楽しいジャジーな賛美歌で締める・・・「音楽の生まれいずる場所」を三部で描ききったことで極めて完成度の高いものに仕上がった。この演奏にはその感傷性を過剰に煽ることなく(フルカーソン・シャノン組はこの線で素晴らしい録音を生み出したけど)アイヴズ的な極端な起伏を余り際立たせずに聞きやすくやっており、たぶんそれほど巧い人たちではないとは思うが、たんたんたぬきにも違和感なく浸ることができた。○。

※2006/11/18の記事です
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☆アイヴズ:祝日交響曲〜Ⅱ.デコレーション・デイ

2017年11月29日 | アイヴズ
○コープランド指揮ハンガリー国立管弦楽団(DA:CD-R)ブダペスト音楽祭1973/9/28日本での放送音源

トンデモ作曲家・作品名といったらこの人が挙げられて然るべきなのになんで取り上げなかったんだろ某沢さん。はいいとしてステレオの良録音であるせいかリアルで硬質な音が幻想味をやや損なっている。もののコープランドの同曲の演奏としては意外と力が入っており、東欧オケの特性もあいまって特徴的な響きをもつ音楽世界を築いている。アイヴズをそのまま混沌として描けてしまっているのは「整理する指揮者」コープランドとしては不本意かもしれないが、こっちのがアイヴズらしいかも。○。

※2008/10/7の記事です
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☆アイヴズ:ウィリアム・ブース将軍の天国入り

2017年06月23日 | アイヴズ
○ドレーク(B)グレッグ・スミス指揮コロンビア室内管弦楽団、グレッグ・スミス・シンガース(COLUMBIA)1966/5/4・LP

前衛手法がかなり露骨に使われている人気曲である。昇天の皮肉な情景に見えなくも無いがちゃがちゃした内容だが、弦の驚異的なグリッサンドや微分音(だと思うんですけど譜面見てません)の繊細な「ざわざわ感」や叫び風の合唱など、交響曲第四番二楽章にも使われた素材のカオスはこれはベリオかと思わせるような感じだ。部分的にはストラヴィンスキーの初期作品の構造的なバーバリズムを想起させたりと、アメリカ住まいのストラヴィンスキーも私的演奏会に通ったという(しかし微妙な)精神的近似性もさもありなんと思わせるところだ。表出力に優れかっこいい演奏であり、まずはこれでも十分楽しめるだろう。室内楽的で、なかなか緊密だがしかし自由さもありよい。歌唱はろうろうときをてらわないものだ。(救世軍のブース将軍のこと)

※2006/3/23の記事です
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☆アイヴズ:弦楽四重奏曲第2番

2017年06月14日 | アイヴズ
○ジュリアード弦楽四重奏団(COLUMBIA)

アイヴズの作品でもこのあたりになるとかなり洗練されてきており、とくに一、二楽章にかんしては最小限の編成でここまでできるという無調作品の極致(アイヴズに無調というレッテルは余りにざっくりしすぎだが)を示した緻密なもので、しかし意匠の類似から大規模作品をただ四人編成に落としたということではなく、「四人の男が繰り広げる一夜の情景をうつした」まさにカルテットでしかできないものを作り上げている。よくカルテットを大編成に書き換えて演奏する室内楽団がいるがこの作品ではそれはできない。作者の意図からも外れるし、これはそもそも五人以上では単純すぎる箇所が出てくるし三人以下では音楽を作れない。よく練られている、思い付きで雑然と音を積み上げたように聞こえるのはアイヴズに言わせれば「耳が脆弱」なのである。しょっちゅう聞ける曲ではないし、三楽章はいささか冗長で書法もオルガン的に和声(不協和だが)を割り振っただけの単純な部分が多く聞きごたえは前二楽章にくらべ落ちるが、無益な議論を止め自然の静かな呼び声に従い山に登る、その朝の偉大な情景に響く鐘の音に目を覚まされ超越的な感銘のうちに和解をみる(交響曲第4番の四楽章の構成に似ている)、といった意図であり無意味な書き方ではない。この曲はジョーク的に捉えられる二楽章「議論」が最も取り付きやすく、かつ引用に満ちた素晴らしいアイヴズのスケルツォになっているので、バルトーク好きなど、聞いてみてほしい。ジュリアードの整理された演奏できくと精緻な構造をも部品として組み込んでゆくポストモダンなアイヴズを理解できるだろう。アマチュアなんかではない。ジュリアードは上手いから譜面を正しく音で聞けるメリットはあるもののいささか手堅くまとめてしまうので二楽章で必要な勢いや噛み合わない議論を象徴する「四本のバラバラ感」がない、三楽章がのっぺりとして飽きてしまう点はマイナスか。○。分析マニアはアナライズしてみて下さい、スコアは見えやすい演奏。

※2006/7/18の記事です
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