湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

セッドン:16

2006年09月29日 | ?よくわからない?
◎ピアノ・サーカス(argo)CD

偏愛というのはこういうことを言うのだろう。ポップスの興奮を単純な電子ピアノアンサンブルの中に極めて純化した状態で持ち込んだ傑作に名演であり、プログレ的発想でありながらミニマルの領域を物凄く身近に引き寄せ無邪気に浮き立つ気持ち、和声に宿るほのかな感傷をかもすさまは絶妙といっていい。誰しも一枚は、個人的感傷を掻き立てられる音盤を持っているものだが、私にとってこの曲は、例えばブルックナー全曲を投げうってでも身近に置きたいものである。◎◎◎◎◎。

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ルーセル:交響曲第3番

2006年09月28日 | フランス
◎デュトワ指揮フランス国立管弦楽団(ERATO)CD

これは文句なしの素晴らしいリズミカルで透明でかつ「クセのない」物凄く聞きやすい演奏。何もひっかかりません。ささくれだったアブラギッシュな曲でも硬質な響きの現代的な曲でもない、紛れもなく近代フランス交響曲の傑作と言わしめることのできる演奏。色彩感も薄くも過度にもならず絶妙で、やわらかい録音も丁度いい。個性的な音量操作など結構解釈も入れてきているがバランス感覚の優れたところが違和感を感じさせずにただニヤリとさせる。素晴らしい。前も書いたかもしれないが◎。少し軽いと感じたらそれは録音リマスタか機材のせい。

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ダウランド:歌曲集

2006年09月28日 | イギリス
○スティング(T,ARCHLUTE)カラマーゾフ(LUTE,ARCHLUTE)(DG)CD

5のみロバート・ジョンソンの作品。クロスオーヴァ活動に積極的で、クラシックへも注意深いアプローチを行ってきたスティングが遂に「編曲ではあるが」古楽という分野を使って積極的に踏み込んだ「作品」として注目される。声質が非常に独特で必ずしもロック的なだけに留まらない魅力をもったものであるために(ソプラノ領域に近いところから完全にテノール領域に移り安定したせいもあるが)クラシックでどう展開するか、というと結構クラシックとして表現できているのである。かなり以前より相互的な交流はあった。ジャズ出であることもあり近代にメリットがあると思いきや最近は静謐なもののほうがより魅力的と受け取られる傾向にあっただけにこの世界はけして遠いものではなかった。よくある商業ロッカーの余技としての付け焼き刃ではけしてないところは、これが滅多に交渉のないクラシックレーベルDGGより、しかしスティング名で発売された正規のアルバム「ラビリンス(原題:迷宮からのソングス)」であることからも伺える。長大なライナーは全面的に本人の筆により、勿論起死回生のグラモフォンのマーケティング戦略ぶりはデザインのノンクラシックさに顕れてはいるが、ロック側にしてみればかなりシンプルでまじめである。本格的に習ったのはカティア・ラベックから十数年前だそうだが、ここで聴かれる声はあきらかに最近のロックアルバムとは異なり、かすれ声を味としていたのに(正確さへの厳しい完璧主義者ぶりは元からなのだが)見事に(とくに高音の)透明感を獲得し、老齢にさしかかったとは思えぬ多彩さを発揮したものとして認識される。

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メニューヒンに倣ったわけではあるまいがヨガにより声量も伸びも極めて伸長した時期があり、ロック方面で見事商業的な再起をはたしたのは新世紀になる直前あたりだったが、その成果がしかし、「完全にクラシック化するのではなく」、己の表現手段として取り容れたまでで、この世界を「クラシックとすら意識せずに」吟遊詩人の世俗歌への共感を「ロッカーにしては」抑制された声で示している。リュート伴奏による二者の編曲作品となっているが、ナレーションや控えめな効果音が有機的に組み込まれ、ダウランドと言われ聴いて違和感をおぼえる向きもあろう、しかしこれはかっこいい。「どちら側から聴いても」かっこいいのである。クラシック奏者がクロスオーヴァをやるときの野暮ったさ、ロッカーがクラシックをやるときの滑稽さが全くない。ガーシュインの一部のしかも「そのまんま」しかやらずに「ジャズやりました」言ってるマネジャーの言いなりの若いクラシック奏者とは違う、どんなジャンルであれ音楽概念への広い見識や人生経験の違いはやはり、歴然としてあるのだ(権力も)。そういったことを考えさせられながら、最先端のポップスアルバムの手法で作り上げられたこの一枚を参考に、クラシックのかたがたも外実共にカッコイイ板を作ることを学んで、ましなものを作ってほしい、クラシックの新作が売れないのは音楽が悪いわけではないのだ。

クラシック的には○。消しきれない生臭さは気になるだろう。
ラビリンス
スティング
ユニバーサル ミュージック クラシック

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グリエール:交響詩「サイレン」

2006年09月23日 | グリエール
○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP

サイレンというと今の人はゲームを思い浮かべるのか。厄介だな。「海の精」という訳されかたもするが、船乗りを妖しい声で誘惑し死に至らしめる海妖セイレーンのことだ。「イリヤ・ムーロメッツ」二楽章に非常に近似した内容の比較的前期作品であり、たまに現れる師匠グラズノフの影響が主として曲想にあらわれている。即ち交響詩「海」の世界を更に西欧的に複雑化しようとした感じなのだ。若きラヴェルらが惹かれたあのイマジネイティブな描写音楽は、リムスキーの弁を借りれば「過渡期作品」であったわけだが、今聴くとのちの作品よりも広い魅力を持っているように聞こえる。やや生臭さがあるのがグリエールの特徴だが、そっくりそのまま個性といってもよく、ガウクらしさの発揮できる爆発音楽ではないが、この作品をお国の同時代人が表現した記録として貴重ではあろう。○。

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ドビュッシー:遊戯

2006年09月22日 | ドビュッシー
○モントゥ指揮フランス国立放送管弦楽団(M&A)1955/6/9LIVE・CD

録音は篭って悪いがリアルで力感溢れる演奏ぶりはかなり楽しめる。ただロマンティックな演奏形態の範疇にあるかと思う。イマジネイティヴな曲感をやや損ねている感も否めない。現代の視点からすると繊細な美感に欠ける。ただバレエ音楽なのでありこれにあわせてダイナミックに踊るのだからアプローチ的に間違ってはいず、この曲にむしろ前衛性を求め過ぎているのかもしれない、私は。○。
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ドビュッシー:管弦楽のための映像~Ⅱ.イベリア

2006年09月20日 | ドビュッシー
◎コンドラシン指揮モスクワ・フィル(MELODIYA)1972・CD

復活メロディヤ名義のコンドラシン復刻シリーズより。データは違うが既出音源と同じと思われる。しかし音がクリアで生々しい!音源由来の揺らぎや瑕疵はたくさんあるが、異常なハイテンションとギチギチ煽られまくり絶叫する各声部、荒れた演奏ぶりも圧倒的な力感、リズム表現の前に寧ろポジティブな印象となって跳ね返る。現代的な作品への造詣は第二部の硬質でリアルな音響感覚に反映されている。ねっとりしたフレージングがそこに更にロマンチシズムの異様さを持ち込み、金属系打楽器の耳痛い響きの強調(録音操作だろう)がドビュッシーの遊戯に通じる前衛性を強調する。すかっとするには最適のイベリアです。汚れ具合含め宗達雷神の迫力。
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ボリス・チャイコフスキー:交響曲第2番

2006年09月20日 | ロシア・ソヴィエト
○コンドラシン指揮モスクワ放送交響楽団(melodiya他)

線的に紡がれてゆく民族的現代音楽。まさにそういったイメージを冷たく静謐な世界の上に時に世俗的な素材を使って展開していっている、50分に及ぶかという大作である。ルトスワフスキとかそのへんを思い浮かべたが、この長さの中には古典からショスタコまでいろんな要素が昇華されているのでいちがいには言えない。ただ、非常に細かなフレーズを非構造的に線で繋いでいく(しかしそれでいて非常に聞き応えがありカッコイイのは特筆すべきだろう)さまは同時代のいろいろな作曲家に見られるやり方であり、ミャスコフスキーからショスタコを経たロシア交響曲の姿としては典型的な部分もあり、その中では極度に洗練されているとは言えるだろう。コンドラシンの緊張感に満ちた張り詰めた表現だと純粋な音の饗宴という意味ではとても満足いくものになりうる。ロマン派はイヤだ、でも「交響曲らしい交響曲」がききたい、という向きには格好のものだろう。元々金属質の音響を巧く使う人ならではの静謐な世界がききもの。

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プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第1番

2006年09月20日 | プロコフィエフ
○ケレル(P)コンドラシン指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA)LP

コンドラシンのものはリヒテルの覇気溢れるものが有名だが縁ぶかいケレルのものも侮れない。この曲にしては振幅を大きくとりしかしパキパキしたじつに明快なタッチで若々しい音楽を仕立てていくさまはリヒテルより聞きやすいだろう。元がロシア暗い野暮さのある曲なだけにリヒテル盤よりやや音がいいことも加えて、こちらのあかぬけたほうがすきな人もいよう。少し表現が若すぎるが。コンドラシンは職人的に支えるのみである。
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ガーシュイン:パリのアメリカ人

2006年09月20日 | アメリカ
○ジョン・ワルサー指揮コンサート・ホール交響楽団(CONCERTHALL/MMS)LP

ガーシュインのまとまった管弦楽曲ではダントツに面白い曲で、他人の手が(ほとんど?)入っていないからこそ独自の夜の色彩感と濃厚な感傷の煽られる旋律がいっそう生で感じられる。かなり感情的起伏が大きくジャジーな奏法への理解もある、かつスケール感ある指揮ぶりゆえ、恐らくユルゲン・ワルターではないとは思うが、アメリカの職人どころの中堅の指揮者だろう。血のメリット。オケは弦楽器がなつかしくイイばらけかたをしていてザッツ・ハリウッド!だがブラスしょっちゅうコケている。しかしイイ。クライマックスなんて崩れるのもいとわずルバートつけまくり。懐かしくて感動します。瑕疵引いて○。
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シベリウス:交響曲第7番

2006年09月20日 | シベリウス
○ザンデルリンク指揮ACO(WME:CD-R)1990's

重厚壮大なシベ7で、純粋に繊細で透明なアンサンブルを聞かせるよりも、初期テイストを残したロマンチシズムの中に可能性を広げるといった一昔前のドイツ流儀の解釈を重々しく展開している。そのため美感という点で後期シベリウスの磨き抜かれた書法を純粋に味わいたい向きには物足りなさと違和感を覚えさせるところもあるだろう。しかしこれは「交響曲」と名付けられてしまったのである、このくらいのスケール感が欲しい思うのも道理、「交響的幻想曲」ではないのだから、しかもじっさいこうやって効果的に響くのだから、こうやるのも邪道とは言い切れない。現代的ではないところにザンデルリンクの魅力はあったのだ。○。
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ショスタコーヴィチ:交響曲第10番

2006年09月19日 | ショスタコーヴィチ
○ザンデルリンク指揮ニュー・フィル(VIBRATO:CD-R)1973/3/15LIVE

なかなか渋く立派な、マジメな演奏だがいかんせん、録音が悪い。テープよれが割と頻繁に聞こえる。勢いのある演奏ぶりはこのオケらしからぬドイツっぽい重厚な音響に支えられ壮年のザンデルリンクらしさを示している。よく理解した演奏だとは思う。娯楽的要素は薄いが、10番らしい10番である。とにかくオケがいいですね。終楽章のアレグロ部で声部が薄くなる場面ではやや甘さが出ますが。最後は期待どおり盛り上がり、ブラヴォの渦。これでいいのか?○。
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ブラームス:交響曲第1番

2006年09月19日 | ドイツ・オーストリア
○クレンペラー指揮ケルン放送交響楽団(WME:CD-R)1966live

まずはこの発音の威容と、まだ壮年期?クレンペラーの有無を言わせぬ推進力に力づくで押さえ込まれる。1楽章や4楽章序奏最後のあたりとコーダのあたりの横にぐいーーーーっと引き伸ばされる音には後年の異常なクレンペラーのテンポ感の萌芽が聞いてとれるし、3楽章や4楽章主部あたりは颯爽としたテンポとしっかりした発音に胸がすく。やはり録音が悪すぎること(一部途切れあり)が問題であり、ベートーヴェン的なブラームスをやらせたら右に出る者のいないクレンペラーの迫力に圧倒されることはされるのだが、イマイチ乗り切れない部分もある。終演前にかぶさって入ってくる拍手は正直聴衆のフライングというより編集上の都合というようにも思え、「偽演?」という感じも受けるが、ここまで音が古いと特定も困難。オケがドイツ的で巧い、コンマスソロなんかもハマりまくってるという点少なくともケルンであることは間違いないとは思う(アメリカではないことは確かだ)。いずれクレンペラーの三大Bにハズレは無い。間違いはあるかもしれないけど。○。
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エネスコ:ヴァイオリン・ソナタ第3番

2006年09月18日 | 北欧・東欧
◎作曲家(Vn)リパッティ(P)(erectrecord/melodiya/monitor/PHILIPS/venezia他)1941/8・CD

組曲風の完全に民族音楽である。昔から言われていることだがルーマニア民族音楽への体感的理解がこのコンビの強みで、逆に言うとなかなか後年これを演奏しようという人が現れなかったのはここに現れる民族主義、民謡音楽のあからさまななりに体臭を載せることが難しかったからともいえるかもしれない。バルトークほどではないが(全く無いが)現代ふうの洗練を加えられた音楽は硬質な晦渋さは否めずとっつきづらい面もあるし、「これは民俗音楽なんだ、オスティナートを刻んだり奇怪にユニゾンだったりするピアノは太鼓とかツィンバロンのようなものを示していて、ヴァイオリンはやっぱりフィドル相等のものを想定している」というような理解を加えていかないとわかりにくい。ただ、民謡音楽は所詮やっぱりその「ノリ」というか「方法」を理解してしまえばいい話で、よそ者には謎めいているようにおもえる書法も根本に土俗的な洗練されない音楽のセオリーがあるだけで「そういうものなんだ」と受け容れ体を揺らせば自然と入ってくる。アーティキュレーションの綾は体でわかるものだ。同時代の専門作曲家の亜流のような曲が今は余り好まれないだろうけど、このような物凄い古いものにいつまでも牙城を築かせたままにしておく必要もなかろうほどに、聞いているぶんにはわかりにくいものでもなく、ヴァイオリンにしてもピアノにしても技巧も面白い。この曲はとても民族的である点で前のものとは質を異にしている。演奏家共にソリスト的な独立した表現も求められているがゆえ、リパッティはうってつけの演奏家といえるだろう。物凄く泥臭い音楽なのにリパッティは泥の輝きをまるで宝石のような煌きにかえている。エネスコはもう、バリバリ弾くのみである。エネスコの数少ない演奏録音のなかでこの盤はその類稀な技巧と表現を余すところ無く伝える特別なものといっていいだろう。曲がよかった。◎。
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エネスコ:ヴァイオリン・ソナタ第2番

2006年09月18日 | 北欧・東欧
○作曲家(Vn)リパッティ(P)(erectrecord/melodiya/monitor/PHILIPS/venezia他)1941/8・CD

作曲家還暦記念の放送録音で3番とともにさまざまに再発されてきた。メロディヤではラデュレスコの伴奏ピアノを弾いた「ヴァイオリンとピアノのための演奏会用小品」の録音も加えられていたようだが私は(確か)未聴である(ヴェネツィアの復刻からも漏れている)。どうも録音は悪い。様々に手が加えられ工夫されてきてはいるのだが、現在容易に手に入るヴェネツィアの廉価集成ではほぼ擬似ステレオといっていいようなリマスターが加えられているものの、ヘッドフォンできくとエッジが立った音が逆に元々のノイズをきつくして聞きづらい。エネスコは録音嫌いで残っている数少ないものの中心も指揮やピアノ演奏(これがまた巧かったりする)だったりする。

生き生きとしたエネスコのヴァイオリンは後のものより技術的完成度という点ではすぐれていると言えるだろう。リパッティも詩情溢れる静かで繊細な表現を安定した技術にのせて展開している。レミントン盤とくらべやっぱり少しリパッティは控えめすぎるところもあり、それが持ち味だとはいえ平たく綺麗すぎて、まだまだ盛年エネスコの表現とあわさると逆に少し重い感じもする。とはいえ、3番みたいな民族色が殆ど入らず、ロマン派ソナタの王道をいくような音楽には硬質な詩情をたたえた清新な表現がマッチしているようにも思う。難度も低くエネスコをきくのに役不足な曲とかんじる人もいるかもしれないが(自作自演なんだから変な言い方だけど)、聞きやすさでは勝っていよう。○。
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オネゲル:交響曲第3番

2006年09月18日 | フランス
○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(BMG/MELODIYA/SCRIBENDAM)1965LIVE・CD

ムラヴィンスキー唯一の録音だがこういう曲にはハマる。いつになく感情的に感じるのは同時代者としての共感のせいか、3楽章最後の平安の天上性は非常に感傷を煽るものがある。ロシアならではのソリストの上手さが光る。精緻ではないのだがミュンシュあたりの生臭さがなくて聞きやすく、前記のとおりライヴならではのアグレッシブさが(分析派にはどう聞こえるか知らないが)このオネゲルらしい抒情の盛り込まれた完成度の「高すぎる」精巧な作品に主情的に引き込まれる要素となっていて、素直に音楽だけを楽しめる。○。
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