湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆フランセ:弦楽三重奏曲

2017年12月31日 | フランス
○プーネット(Vn)リドル(Va)ピニ(Va)(PYE,nixa)LP

ウェストミンスター録音。この才気溢れる作品はイギリスの中庸の名手が集まって制作された中の一曲で、一楽章せわしないミューティングされたアレグロの、普通激烈にやるからミュートが生きる筈なのに、穏やかな緩やかな音楽に、そのてのよくある客観解釈かと思ったら大間違い。ミュートを外したスケルツォの丁丁発止のスリリングでも乱れが一切ない凄いスピード、これはフィナーレでもそうだけど音色の個性が比較論で中庸な面を除けば(フランスやヴィルツォーソ系のものとは違いイギリスの優しく柔らかく聞きなじみのある音でBGMふうにきけます、緩徐楽章などとくに)技術的には完璧だし、ひょっとすると例のロシアの巨匠らの凄絶なものよりよほど楽しく聞けるかもしれない。細部まで明瞭に悪戯ぽい仕掛けを聞き取れるのも魅力。フランセは九歳でサン・サーンスがなくなったときル・マン音楽院長の父に、心配しないで僕がいるから、と手紙を送り、程なくソリスト級の腕前だったピアノの曲を書き上げ出版までされたという人である。早熟のテクニシャンの作品は楽想が軽音楽すれすれなのを除けばどれも創意と技巧に満ち、弾くとかならずメカニカルな発見のあるものだが(ミューティングとピチカートの用法にライナー文は触れている)、この演奏ではフィナーレ終盤の低音を中心にした構造的なフレーズのガシガシくる表現は特異なバランスで聞き物。ここは版違いの可能性がある。そのあと超高音のヴァイオリンにはさすがにパワー不足を感じたが普通はこうだろう。ハイポジ技術はあるていど生来の適性のものだ。◎に近い○。

※2007-02-13 08:12:04の記事です
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☆レスピーギ:弦楽四重奏曲第3番

2017年12月31日 | その他ラテン諸国
○レニングラード・フィル四重奏団(MELODIYA)LP

ユニゾン進行の目立つラテン歌謡といったふうの作品でレスピーギらしさはそういった表層的な表現に目立ち、構造への創意はないが手馴れた「国民楽派風弦楽四重奏曲」をえがいている。好き好きだろう。演奏はそれほど難しさはなさそうだが、国民楽派的な流れを推し進めたリムスキーの弟子であるとともに、印象派全盛期を経験した南欧作曲家でもあり、ここでは前者が表立ったようにかんじた。どういう経緯でこんな曲を録音したのか謎の盤だが未開封で当然雑音もないかなりいい音だった。演奏は立派である。ステレオで恐らく70年代の録音だろう。

※2007-12-14 19:13:04の記事です
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☆チャイコフスキー:交響曲第2番

2017年12月31日 | チャイコフスキー
ロジンスキ指揮クリーヴランド交響楽団(DA:CD-R)1942live

非常にロジンスキらしい剛速球な演奏で弦のアンサンブルにかける集中力がほんとハンパないのだが、なにぶん録音が余りにデッドだ(特に1楽章!)。さらに、しょうがないのだが収録時間の短いSP複数枚にエアチェック(文字通りのエア経由かダビングを重ねたのか)録音されたものらしく、しょっちゅう盤替えのために途切れるのだ。盛り上がりどころにかぎってぶつっとしばらく切れる。継ぎ方を工夫すれば多分殆ど欠損無いものだろうからちゃんと聞けるとは思うのだが、これは生のままの姿として否定はしないけど、観賞用というより文字通り資料用。物凄い盛り上がるんだけどねー、不躾なSP雑音は雑音耐性のある私でも耳を塞ぎたい感じだった。○にするところ無印。

※2006-10-20 21:34:16の記事です
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☆ウォルトン:ベルシャザールの饗宴

2017年12月30日 | イギリス
○ミリガン(B)サージェント指揮リヴァプール・フィル、フッダースフィールド合唱協会(EMI)1958・CD

海外のAMAZONなら手に入る。モノラルであり古い復刻であるせいかノイズもやや聴かれる。板起こしなのだろう、細部が不明瞭で分離が悪い。ウォルトンの立体的な書法の内側で、こみ入ったアンサンブルを機械的に組み上げる場面、だいたい大規模な曲では弦楽器が担うのだが、サージェントのアバウトな部分が出ているように聴こえるのはその録音のぼやけたせいなのか。しかし、表面に出る音楽は切っ先鋭く、リズム感が非常によくて、後半部ではウォルトンならではの行進曲ふうのフレーズのノーブルさ、付点音符付リズムのキレ、まことに聴きごたえがある。また、合唱指揮にはこの人の特長がよく出る。録音操作もあるのだろうが出過ぎも引っ込みすぎもせず非常にバランスよく、合唱と管弦楽の絡みが歪みなく聴き易い。これは完全全曲録音だが、楽曲の全容が全曲でないと伝わらないものであると言うこともわかる。話の筋や流れをちゃんと把握して聴いた方がいい。壮大な終端部もなかなかの威容。サージェントは同曲の初演者である。

※2013-03-13 10:51:08の記事です
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☆ショスタコーヴィチ:交響曲第9番

2017年12月30日 | ショスタコーヴィチ
○チェリビダッケ指揮ミラノ・イタリア放送交響楽団(ARKADIA)1967/2/17live・CD

この時代は過渡的な時代であったと想う。振ったオケの影響だろう、70年代に大きく変貌をとげ、更にドイツで今のイメージが確立した、と考えればこのころは比較的特長が薄く、どっちつかずの時代であったと言えるかもしれない。個人的に俊敏なドイツ指揮者の演奏は好きなのでそのスタイルに沿った、しかもけっこう音もいいこの録音には惹かれるところはあるが、和声を磨き抜く以外の特徴というとドイツの職人的な巧さのような部分しか指摘できない。ドイツのショスタコ、というのも独自の世界があり、東西でも違うし、東側にしても「遅いテンポで雄大かつ透明にえがく」というやり方が通用していたわけだが、その意味では「早いテンポで比較的重みをもって壮大に表現する」チェリの指向は面白い部分はあったと言える。人によってはとても楽しめると想う。

※2007-02-11 15:08:27の記事です
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☆ヴェルディ:レクイエム

2017年12月29日 | その他ラテン諸国
○メリク・パシャーエフ指揮ボリショイ歌劇場管弦楽団(ソヴィエト・アカデミー交響楽団?)、モスクワ国立放送合唱団、ヴィシネフスカヤ他(MELODIYA)1960/3/3live・LP

集中力の高い秀演でロシア式の破裂せんばかりの音を極めてしっかり整理して西欧的な演奏を指向している。合唱も力強い。ただライヴの古い録音ゆえ(録音状態自体はきわめて良好)全般にやや抑え目の表現に終始した渋い演奏という印象も受ける。メリク・パシャーエフはとてもプロフェッショナルな指揮者ゆえアマチュアリスティックな魅力を「爆演」という二文字であらわされるたぐいのロシア指揮者とは一線をかくしており、でも音楽をちゃんと聴くという態度のかたには「届く演奏」だと思う。むしろドイツ的な感じすらある。演奏陣は皆とても巧いが、オケ表記がちょっと不思議なため(同時期にこのような曲であればボリショイしかありえないはずなのに違う名前でかいてある)、演奏の中身のしっかりした表現から違うオケの可能性もある。○。

※2007-07-17 11:53:34の記事です
Comments (2)
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☆チャイコフスキー:交響曲第2番「小ロシア」

2017年12月29日 | チャイコフスキー
○ラフリン指揮ボリショイ劇場管弦楽団(stradivari)LP

基本的には別名オケのロシア盤のものと変わらず、同じかもしれない。盤はモノラル期のLPとしては信じられない、片面に交響曲一曲で両面で1,2番収録という長時間録音であるが、デジタル音盤のように詰め込むことで音響的な何かがはっきり損なわれるということは無く十分の音質で、米国製デッキ向けのモノラル音として、元来狭い音場が狭いまましっかり設定されているため、これ以上の音質になる可能性はあるのかもしれないけど(原音がステレオの可能性もある)素直に聞きやすい。ラフリンの芸風はオケの薄い弦のせいで終楽章など少し空回り気味でもあるが、スヴェトラ・ソビ響の一発録音モノにもよくあった状態であり、ソヴィエトでは珍しくも無いたまたまのものであったのかもしれない。この曲はもともと各パートがしっかり弾けてないと曲にならない・・・構造的ではないのでそこを手抜きできないもので、1番に比べても露骨に弱体パートが露呈してしまう。一級とはいえないボリショイ劇場管らしいといえばそれまでだが、そもそもオケというのはメンバーが重複したり事実上同体だったりといった状況もよくあるもので、ボリショイの当時のメンバーがソビ響とかぶっていたりどっちかのトラだったりする可能性もあり、まあ、あんまりこのてのことに推測薀蓄を書くのは野暮だなと思ったり。終楽章のテンポが緩く音のキレもややないか。○。

※2008-02-16 22:49:47の記事です
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☆アイヴズ:夕闇のセントラルパーク

2017年12月28日 | アイヴズ
○ドラティ指揮フィラデルフィア管弦楽団(DA:CD-R)1976live

新しい録音で一応ステレオだがホワイトノイズが激しく音量も安定しない。またよくあることだが音響の真ん中がすっぽり抜けており、中盤での盛り上がりどころのブラスの饗宴などまったく聞こえてこない。まるで遠い池の向こうの出来事だ。しかし録音の悪さを置いておけば、ドラティらしい聞きやすい整え方のなされた演奏であり、それは主として緩まないテンポに厳格な複リズムとして各声部をあてはめていくやり方に起因していて、面白かったろうなあ、と推定することはできる。ティルソン・トーマスのような分析的なやり方ではないためライヴ感溢れる音楽として聞ける。そもそもこのような抽象化作業のなされない「音響」を「音楽」と呼ぶべきなのか異論はあろうが、少なくともドラティで聴くと音楽に聞こえる。とくに弦楽器の瞑想的なコラールが美しい。とても心象的だが決して幻想に流されないきちっとした流れが保たれている。ブラスがいかにもアメリカンでアイヴズにはとても向いているが前記のとおり聞かせどころでまったく聞こえてこないのでここはメリットとはできないか。いずれスケールは落ちるもののアイヴズ入門としては面白いので、機会があれば。これの拡張版ともいえる4番交響曲をドラティで聴いてみたかった。

※2007-06-06 16:01:37の記事です
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☆リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード

2017年12月28日 | リムスキー・コルサコフ
〇シュヒター指揮北ドイツ交響楽団(MHS)LP

珍しい録音をいろいろ出していた新しい会員頒布制レーベルからのこれは再発か。オケ名も不確か。がっちりした構成でしっかり聞かせる演奏。まさに純音楽指向で艶や感興とは無縁。このストイックさにごく一部のマニアは惹かれるのだろう。N響時代のことなんて誰も覚えちゃいないだろうが、統率力の大きさと無個性な解釈のアンバランスさに、忘れられても仕方ないかな、と思う。いつも後期ロマン派以降の曲の演奏でみせる杓子定規的な表現は、この珍しいステレオ録音では意外と悪い方向へ向かわずに、曲が本来持っている生臭さをなくして非常に聴きやすくしている。はっきり言って「普通」なのだが、そのまま気持ち良く聞き流せてしまう、何も残らないけど気持ち良い、そんな演奏もあっていいだろう。〇。

※2005-08-02 09:11:54の記事です
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☆フランセ:弦楽交響曲

2017年12月27日 | フランス
○モーリア指揮ツールーズ国立室内管弦楽団(PIERRE VERANY)CD

フランセ晩年に自演も含め作品選集を随時出していたレーベルで、この指揮者も作曲家に近しい間柄だった。作品は小馬鹿にしたような小品の多いフランセの中では名作に類する形式音楽で、軽妙な新古典ふう交響曲に表向き見せながらも真摯さの伺える機知に富んだ作品になっている。旋律が提示されるもすぐ解体され、見通しのよさは維持しながらも装飾音的フレーズやリズム音形が交錯する無調的な雰囲気音楽と化す・・・もしくは旋律そのものが明確に形成されることなく、限られたいくつかの音を音列的に組み合わせ(隠喩的記譜法であろう)その変容に加え律動と絡み合いだけで進行させてゆく。これはフランセが一時期得意としたやり方で同盤収録のBEAセレナーデにも(あちらはもう少し世俗的にこなれている組曲だが)みられるが、作曲技巧に走った筆のすさびとみなされるような凡作も多い中では注意深く、方法が方法だけに(フランセには珍しく)緩徐楽章・部が目立つこの静かな曲では冗長感を醸す部分も少なからずあるものの、新しい印象派表現として楽しめる範疇である。スーラのような「輪郭のはっきりした数学的点描画」を思い浮かべた。大人しいオケで技術的にも弦楽合奏団にしては音色のバラケやアタックの弱さが目立ち押しの弱さが作品自体を地味に聴かせてしまっているところもあるが・・・といってもこれは近代フランスの古「雅」な作品でありドイツやロシアの重くて鋭いもの、あるいは学究的な古典合奏団のような計算的なものを目指した演奏をなすべきではない・・・現代の室内楽団はそれら主流派の影響を受けすぎて無機質高精度で押しが強過ぎるのだ・・・フランセのもうひとつの顔であるひそやかなINTIMATEで優しいものを浮き彫りにしているところは評価できるだろうか。○。

※2009-02-02 12:14:59の記事です
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☆ホルスト:組曲「惑星」、冥王星(マシューズ作)付

2017年12月27日 | イギリス
○ロイド・ジョーンズ指揮ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団(NAXOS)2001/2・CD

無難な演奏。しかし悪くはない。スコティッシュ管らしいちょっと硬質でささくれだったような音も録音のやわらかさによっていかにもイギリスらしい柔軟な音にきこえる。しっかりした指揮ぶりではあるもののいささか無個性さがあって、個々の楽章のコントラストもいまひとつ。演奏レベルは高いと思うけど。。ちなみに蛇足の冥王星は作曲されてまもなくあっというまに太陽系の惑星から除名されてしまったが、アイヴズをリゲティふうに仕上げたような変な曲。スクリアビンのプロメテあたりに近い合唱が奇異さを煽る。もっと小さい星でしょ、だから除名されたのに。

※2007-08-29 23:39:19の記事です
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☆プーランク:六重奏曲(ピアノ、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン)1930ー32、改訂39ー40

2017年12月27日 | Weblog
<プーランクの曲は多様だ。それは技法が探索され尽くしたあとの芸術の有り様を示している。20世紀の作曲家。ストラヴィンスキー、ラヴェル、プロコフィエフ、エリック・サティ、様々な同時代人の息吹を吸収して自己の作風に取り込んでいった作曲家。その姿は初期のミヨーに似ているけれども、肩肘張らずに音を愉しみ酒を傾ける人々のかたわらで、アップライト・ピアノの上にグラスを置いたまま、笑いながらかなでる類の気軽な音楽は、フランス六人組で最も人気のある作曲家たらしめている。おカタイ芸術至上家は「モーツアルトの再来」とたたえたが、少し違うように思う。即興的で一種ジャズ風ともいえる小曲の数々を注意深く見るならば、”無類のレコード好き”の、数々の音楽経験が結晶している様を至る所に見ることができよう。又、わかりやすい・・・深刻な「カルメル派修道女の会話」でさえ、わかりやすい・・・場面の数々をつなぐのは、オネゲル風の渋い音響であることにも気が付くだろう。プーランク自身の音楽評論などを読むと、この人は決して快楽主義的作家なぞではなく、新ウィーン楽派以降の音や、中期より後のストラヴィンスキーに敬服するような趣味の作曲家だったことに今更ながら気付かされる・・・そう「前衛」だったのだ、かつては・・・。プロフェッショナルな作曲家としてのアイデンティティを、自身の音楽的探求(研究)から完全に切り離していたようだ。自分の中の「音楽的系統樹」の、決して幹の方ではなく一枝の先端に、「プーランク」という作曲家の名をぶら下げ、飄々としていたのだ。まさしく六人組、フランスの作曲家。さてこの管楽とピアノの為の組曲は、プーランク室内楽の最良の所を見せている。愉しさの面でも何気ない渋味の面でも、ノスタルジック、だが乾いているこの作家独特の感性をひときわ強く感じさせてくれる。ききどころは終楽章、喜遊的な律動と感傷的な旋律の応酬だ。 >


◎ジャン・フランセ(P)デュフレーヌ(Fl)ほかORTF(フランス国立放送管弦楽団)管楽メンバー(EMI等(国内盤で「デュフレーヌの芸術」の1枚としてCD化している))CD

ジャン・フランセのピアノは驚異的で、他メンバーの技術も冴え渡っており、今後もこれを超えるものは現れないのではないか?フランセは「イベールの息子」とも呼ばれるが、その作風はプーランクとミヨーの良質な部分を重ね合わせたようなところがあり、異常なまでの適性をここでは感じる。兎に角巧いピアノだ。又この古いモノラルの音からは、古い映画の背景音楽のような芳香が立ち昇っており、感動的ですらある。だがベタベタせず下品にならない。曲の良さを曲自体の価値以上に引き出している類の演奏だ。

※2004年以前の記事です
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☆サティ:左右に見えるもの(眼鏡なしで)

2017年12月27日 | サティ
◎ボナルディ(Vn)ビリエ(P)(ARION,CBS)

おお、サティだ。繊細でシンプル、リリカルな雰囲気とさりげない風刺。どこかの哀しみ。非常に綺麗に純度の高い演奏ぶりを示している。ちょっと小粒かもしれないが、曲が小粒なのでバランス的には正しい。サティはけっこう室内楽への興味も持っていたみたいで、とくに弦楽器作品には挑もうとした痕跡があるが、結果としてのこされたものは伴奏としてのものを除けば非常に少ない。サティの単純化された書法がピアノとヴァイオリンそれぞれに注意深く反映され、おのおののパートとしても素晴らしく、けっして過度でも疎でもない、じつに個性が簡潔にはっきりと示されている佳作だ。からこそ、一般に普及させられたものとしてはこれしか残せなかったのだという見方もわかる気がする。模範的サティの演奏。

※2007-07-01 11:07:05の記事です
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☆ミヨー:弦楽四重奏曲第2番

2017年12月27日 | フランス
○パリジー四重奏団(naive)CD

演奏的には速いテンポでさっさと軽めに進んでしまう感がある。ひそやかで地味。だからちょっと印象には残りづらいがうまいことはたしかだ。この作品はミヨーの室内楽の傑作のひとつとは思うが、1番とくらべ格段にシンプルで、全体設計こそ循環形式の5楽章制だから特殊とはいえベートーヴェンぽい和音の重奏をアクセントに使った表現にせよ古風なカルテットの形式を意識したようなところもある作品。姿を微妙に変えつつ統一された旋律の魅力は全カルテット中瑞逸。

※2012-11-08 10:00:18の記事です
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☆グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲

2017年12月26日 | Weblog
カンデラ(Vn)デゾルミエール指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(columbia)SP

どんより暗いロマン性が横溢し、半音階的で息の長い主題をうねらせ続ける前半部から、カデンツを挟んで突如あけっぴろげに明るい民族音楽と化す後半部という構成の、グラズノフで最も著名な作品。民族主義的トリルの異常な多用っぷりは、カデンツでの重音トリルで特に奇怪な晦渋さを示す。トランペットが高らかに宣言し対話を始める後半部への切り替えは突拍子もないが、形式云々はともかくとにかく楽章間の雰囲気の対比を強く印象づけるというグラズノフ特有の思想にこれも依っている。後半部のさまざまな民族音楽的な奏法の陳列はまさにグラズノフといった感じで壮観。さて、このような「変化」を鮮やかに聴かせるために、最初はデロデロに重く、ファンファーレ後は華麗に技巧をひけらかすのが常套手段で、譜面をそのまんまやるだけでもそうなってしまうくらいなのだが、これがまたデゾルミエールである、冒頭からサラサラと爽やかに、まったく引っかかりなくサッサと流していく。明るい色調の即物的な表現は、ミゲル・カンデラのカラカラと笑うような無邪気に浅い音楽と融合し、「全く違う」グラズノフを聴かせていく。オールドスタイルの左手指使いは懐かしげな音も生んでいるが、それにはコッテリ甘ったるい重さが無く、あくまで軽やかな運指のうちにある。軽やか過ぎてメロメロになったり、音を外す箇所が頻繁に現れるのはいただけないものの、それも含めて特徴的だ。(カデンツ直前盤面返しのため音を短く切る乱暴な作りはさすがにいただけないが)部分部分にこだわることの全くないまま後半部に進んでいく。フランスオケの管楽器の音がまたプンプン漂う民族臭を灰汁抜きし、アバウトさも芸のうちと言わんばかりのカンデラのスピード感を失わないメトロノームテンポ的な解釈ともども気持ち良く聴ける。全般、デゾルミエールらしさの現れた、著名な「四季」録音の解釈に近似した颯爽としたアッサリ演奏として聴け、そこにカンデラならではの音色が加わったようなところに、一部マニアに受ける要素を感じ取った。個人的にはロシア音楽が嫌いな人ほど向く演奏だと思う。一方ペレアスなどの無解釈っぷりが嫌いな人には向かない。

※2016-09-01 18:00:00の記事です
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