湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

コープランド (2012/3までのまとめ)

2012年04月25日 | Weblog
交響曲第1番

○作曲家指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1960LIVE

硬派な大曲ほど熱気が必要だと思うのは私だけだろうか。初期に先鋭な作風の完成をみてのち古風な作風に立ち戻った作曲家は二十世紀に数多いが、コープランドもまた(後年でも硬派な作風を使い分けてはいたが)その一人だった。この作品は三番のような人好きする顔はしていない。しかし、短く引き締まった構成、高度に抽象化された独自の「アメリカンモダニズム」の隙のなさにはなかなかに耳をひかれるものがあり、プロフェッショナルなわざが光る。なるほどアイヴズをアマチュアとヤユするほどのものがある(コープランドは実のところ異能アイヴズを嫌いはせず指揮記録も残しており、晩年にアイヴズによせたような小品も書いている)。もちろん一般的に勧められるものは少ないが、ここには熱気があるからかなり救われている。たぶん実演であれば現代ものに慣れない向きも違和感なく入りこめたろう。舞踏リズムの高揚感はわかりやすい旋律をともなわないものの後年のバレエ作品を予告するような煌びやかさをはなち、このライヴにおいては腕ききのBSO相手に思うがままのドライヴをきかせて一種娯楽的な印象すらあたえる。静謐な音響表現は後年ほど単純化されないがゆえ魅力的だが、ボストンの冷たく正確な表現がはまっている。ともすると客観分析的にすぎる指揮を行いがちなコープランドだが、オケがそのぶん補っているようにも思える。ブラヴォが一声とぶ。音劣悪。○。

交響曲第3番

◎作曲家指揮ロンドン交響楽団(PHILIPS他)1958・CD

everest録音と同じものか。CD-Rでコピー盤が頒布されていたりもする。私はいくつかある自作自演の中でこれが一番好きだ。この人がCBSに録れた新しい自作自演選集はいずれも音符と音符の間に隙間風が入るような物凄く疎な演奏ばかりで、庶民的な意味での演奏効果の高いこの曲も、現在sonyでCD化されている音源は余りに莫大で薄くて客観的に整えられすぎている。50年代のまだ曲がいくぶん生々しいころの録音であることもあってか、この演奏は(専門指揮者のものに比べれば終楽章など生硬さが感じられるとはいえ)スピードも速く疎な感じがしない。ひたすらのアメリカンな舞踏的リズムとプロフェッショナルな手腕の発揮された無駄の無い構造、軽く明るい空疎な和声だけが浮き立つ、「コープランドらしさ」の感じられる大曲であり、やり方によっては全く中身のからっぽなアメリカ賛歌になりかねないものだが、より緻密な構造への配慮がみられる演奏で、少し前時代的な重さを引きずるようなところがあり、それが骨と骨の間を肉で埋めるように働いているようだ。コープランドのマンネリズムというものがじつはこういう「無駄な整理を徹底させない」演奏で聞くとそれほど単純ではないということ、結構マニアックに造りこまれているのだとはっきりわかる。一種感興はそういう「余白に散り埋まった音の数々」によって生まれるものであり、全曲の聴き所である「庶民のためのファンファーレ」の流用からの終楽章の喜びにいたる前に、既に心を奪われてしまったのだ。

整理されすぎると譜面上物凄い変拍子や無茶なパッセージが絡み合っていてもそれとわからないことがある、これは聞く側にとって聴きやすくしてくれているというメリットはあるが、一方作曲家の意図としてはその「難しさ」がちゃんと「難しく」聞こえないことには、はなから単純に書けばいいことであって、意味がなくなりかねない。私はコレクション初期において自作自演を大変重視していたが、作曲家自身の演奏であっても作曲後30年も半世紀もたってしまうと「作曲当時の意図」を履き違えたような変な整理やカロリーの低さを求めていくことが多いように思われた。ひいてはウォルトンみたいに(演奏家側の要請にあわせてのことでもあるのだが)スコア自体に手を入れて管弦楽を軽くして、却って時代精神を失い深みを欠く単なるライトクラシックにしてしまう人までいる。これは作曲したのが同じ人でも「演奏」においては別の人と捉えたほうがいい場合が多いということとも関連している。

ステレオ録音で50年代にしては自然で良好。昔からの愛聴盤です。◎。

○作曲家指揮トロント交響楽団(DA:CD-R)1976/11live

ロデオとともに演奏されたもの。録音瑕疵はあるがステレオ。ライヴの生々しさが売りの演奏だが、CBS正規録音のものに近い客観的なテンポ感が若干興をそぐところもある。トロント交響楽団はアメリカオケの典型ともまた違ったもう少し深みのある音を聞かせて美しい。マトリックス上はイギリスオケに近いところに示せるのだろうが、それよりはアメリカやフランスに近いか。まあ、でもオケは素晴らしく腕がある。○。

○バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(CBS)

この盤CDで欲しいなー!自作自演もいいけど、こういうふうに料理してくれるとゴージャスだ。透明感のある硬質なハーモニーでアメリカ賛歌を高らかにうたう大曲だけれども、バンスタがやると肉が付き血の通ったロマンティックな歌になる。音楽が不透明になるのは決して悪いことではない。この曲はこうやるとまったく前時代の後期ロマン派交響曲のようにひびくが、それこそが本質ではないかと思わせる説得力がある。中間楽章、とくに緩徐楽章の暖かい抒情がとても心にひびく。終楽章へ向けてのいささか冗長なアンサンブルも弾むようなリズム感で煽ってくれる。もっとも極めて有名な「庶民のためのファンファーレ」から始まる大団円終楽章の冗長さは残念ながらフォローしきれていない。ここでもっと畳み掛けるような音楽作りをしてほしかった、との思いをこめて、○ひとつ。コープランドというと西部の荒野の朝の、ぴんと張り詰めた空気を思い浮かべるけれども、これはやわらかい朝の光に照らされた開拓民たちの横顔を思わせる。アメリカが誇る個としての人間という本質に立ち返った佳演。

○バーンスタイン指揮NYP(DG)1985/12/2,5-10LIVE・CD

言われるほど旧録にくらべ落ち着いているかんじはしない。自然でスムーズ、リズムは歯切れよく、NYPの調子もいい。バンスタにしてはクリア、そこが地味かもしれないが、かなり録音操作されているかもしれない。ライブのつぎはぎで詳細不明。5日のみ全曲が別途海賊盤で出ている。コープランドと同世代を生きその使徒となったバンスタの最晩年の記録。○。

庶民のためのファンファーレ

作曲家指揮ハンガリー国立管弦楽団(DA:CD-R)ブダペスト音楽祭1973/9/28日本での放送音源

萎縮したように生硬で心もとない吹奏だがアメリカオケと比べるほうが悪いか。アメリカ音楽特集の端緒として取り上げられた代表作。

○リットン指揮ロイヤル・フィル(放送)2011/8/16プロムスlive

開始を告げる短いファンファーレで特筆すべきものはないが、わりと第三交響曲の一部として聴いてきた曲なので、新鮮な感じがした。

静かな都会

○ゴルシュマン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(Capitol)LP

コープランドの有名な小品だが、このコンピレーショナルバムではダイアモンドの楽しい曲からの流れで小気味良く聴こえる。コープランドは硬質でクリアな響きが特長であり、そこからするとちょっと埃をかぶったような無駄な充実ぶりがあるとも言えるが、このコンビらしい楽しさと落ち着きのバランスよい聴き心地が楽しめる。

バレエ音楽「ビリー・ザ・キッド」

~プレーリーの夜(プロローグ)と祝祭の踊り

○ストコフスキ指揮ニューヨーク・フィル(WING)1947/11/3&17LIVE

「ビリー・ザ・キッド」はコープランドの代表作のひとつだ。「プレーリーの夜」などかれらしいひんやり乾いた抒情がいかにもアメリカ西部の荒野を思わせる。セレブレイション・ダンスはまさにコープランドらしい田舎ダンス。モダンな感性と意図的な野暮ったさが、いささか通俗的だが面白い効果をあげている。ストコフスキの指揮はじつにそつがない。「踊り」ではとても生き生きとしたリズムが伝わってくる。録音は悪いが、ストコフスキを「デフォルメ指揮者」と聞く前から決め付ける向きには、一度聞いてみて欲しい。

バレエ音楽「ロデオ」

~組曲

○作曲家指揮BBC交響楽団(DA:CD-R)1975/9/16live

録音は極めて優秀なステレオ。BBCオケは反応が速く正確な表現で現代音楽演奏団らしさが感じられるいっぽう、やはりイギリスオケだなあという部分が諸所感じられる。弦や木管は柔らかく特有の情趣があり、アメリカ楽団のスカっと突き抜けた音とはまた違い、ロデオといえども冷え冷えとした西部の荒野ではなく広大な薊の野原を思わせるところがある。ピアノや打楽器がスコアになければRVW的だったろうとすら感じる。アメリカ楽団と比べブラスの弱さも感じるが、パワーなのか奏法なのか楽器なのかよくわからない。ソロを派手にとちったりもしている。最後のホウダウンなどリズムが硬くコープランドらしい折り目正しい整え方がやや興をそぐものの、おおむねコープランドがスタジオでは見せない感情のより直接的な表現が聴き取れるところも数多く、終演後の異様な大ブラヴォーはこの曲と作曲家の人気を裏付けるものだろう。○。

~抜粋

○作曲家指揮トロント交響楽団(DA:CD-R)1976/11live

派手な広がりのあるステレオ・エアチェックでこの時代にしてはいいとおもう。部分的にかなり撚れるがそのくらいは貴重な音源価値の前に見逃しておこう。迫力ある音楽はこのオケの力量を象徴的に示している。精度も並ではない。コープランドの堅い指揮は少し縦がしっかりしすぎていて、作曲家指揮の悪いところがやや出ている。ホウダウンは聴衆はとても盛り上がるが余りに遅すぎて乗れなかった。老年のコープランドらしい解釈振りでもあるが。ただ、前半は迫力ある音響とパレーのように凝縮力のあるぶっ放し方(曲的にはドラティか)で圧倒されることは確かで、ライヴでコープランドがこういう腕を発揮できる人だったんだ、という点だけでも○は十分。生々しい録音ゆえに、イマジネーションは沸きづらい。

エル・サロン・メヒコ(1936)

カンテルリ指揮ニューヨーク・フィル(NYP/ASdisc)1955/3/13放送LIVE・CD

~この曲一回弾いたことがあるが・・・思い出せない。録音は若干マシ。何でも振っていたカンテルリの特殊なレパートリーだが、曲の魅力をよく引き出せていないように感じる。踊りのテイスト、楽天的な感覚が不足している。実直に譜面に忠実にやったせいなのか、カンテルリがこの曲を嫌いだったのか、理由は不明だが、最後まで曲の流れが読めなかった。ただ右から左に流れていった感じ。バレエとして踊るのは楽だろう。しかし演奏会の演目としては、この演奏では何か今ひとつである。いや、最後の旋律でやっと思い出したくらいなので、私がそもそもコープランドの曲に適性がないせいかもしれない。でも言い切ってしまおう。無印。最後は盛り上がりブラヴォーが飛ぶ。

~どこかで聴いたことがあると思ったら弾いたことがあることに最後で気が付いた。コープランドの代表作でけっこうわかりやすい曲の印象があったのだが、こうして完全に聴衆として聞くと、冒頭からしばらくなんだかとりとめのない感じがした。リズムに特徴的なものが現れ出すと徐々に音楽が流れ出す。メキシコの酒場の印象をメキシコ民謡をまじえて描写した作品というが、カンテルリがやるとけっこう冷たい肌触りがするのが意外。ラテンな感覚の発露は感じたが録音が悪いせいかそれほどキレがあるとは言えない。それより民謡旋律の歌謡的な歌いかたが印象的だった。オケのせいもあるのだろう、カラッと晴れた空に乾いた大地というこの曲の描写する風景が、若干北のほうへ移動しているような感じもした。それでもクライマックスに向けてしっかり盛り上がるし、響きは美しい。こういうのもアリなのだろう。管の発音がやや締まらないところもあり、ノリが悪いようにも感じた。娯楽性が後退している、但しこれは好き好きだろう。最後は空疎な太鼓の一打で終わるが、やや尻すぼみ気味で拍子抜けする。しかし客席からはブラヴォーがとぶ。録音と実演の違いということか。

○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(PEARL/HMV)1938/12/1・CD

溌剌として聞ける演奏だが、ちょっとマジメ過ぎるか。もっと軽やかに踊って欲しい。ストラウ゛ィンスキーの影響バリバリな曲ではあるものの、趣旨は酒場の踊りなんだから遊びが欲しい。そんな実直なテンポとアバウトなオケがこれまたアンマッチ。力感はあるし余裕も感じられるのに、打点から微妙にズレたり音程もやや甘い。音が鄙びているのは録音のせいだろうがスタジオ録音とは思えない所が少なからずある。全般に下手ではないがクーセウ゛ィツキーだと思って聞くと拍子抜けするかも。○。

「ホウダウン」作曲家による編曲版(1942/43)

◎ルイス・カウフマン(Vn)アンネ・カウフマン(P)(CONCERTO HALL/VOX)

コンサートホール(VOX)原盤によるMasters Of the BOWシリーズLPの一枚に収録。コープランドをはじめさまざまなアメリカ現代作曲家の曲を演奏しているが、さしあた
ってポピュラリティある「ロディオ」終盤からの魅力的なピースを挙げておく。同曲の依属者カウフマンの精力溢れるボウイングは、管弦楽のヤワな響きを一本で退ける。
同曲の決定盤はEL&Pのものだと思うが(あのくらい速いテンポの原典演奏ないのかなあ)、クラシック流儀ならコレ!作曲家の手短なコメントが付いている。ちなみにこのカウフマン・レガシーのVol2、コープランドだとほかにヴァイオリン・ソナタ(作曲家のピアノ伴奏)、2つの小品が入っている。ヴァイオリン・ソナタは響きにアイヴズのソナタを彷彿とさせる郷愁が篭り、フランク風の節回しもある。しかし頭の中で管弦楽に置き換えて聴いてみると、この不規則なリズム、この中音部空虚なアメリカン響き、嗚呼明らかにコープランド。 CDになっているような気もするが、確認していないので不明。MB1032。

ヴァイオリンとピアノのためのソナタ

カウフマン(Vn)作曲家(P)(MASTERS OF THE BOW)

最初のフレーズから「フランクみたいなんじゃないかな」と思ったらそのとおり。和声的にはこの作曲家の影響が強いように感じた。連綿と続くいつ果てるとも知らない旋律は、基本的にヴァイオリンによって綴られる。あまり魅力的ではないが、不協和なひびきがほとんどないので聴いていて不快ではない。ちょっとトリッキーな動きにはコープランドらしさを感じる。しかしどうも地味だ。カウフマンはなぜか線が細いように感じた。コープランドは達者である。興味があれば一聴を。無印。
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サティ (2012/3までのまとめ)

2012年04月25日 | Weblog
バレエ音楽「パラード」

○E.クルツ指揮ヒューストン交響楽団(columbia)LP

まるでチャイコかブラームスのようなパラード。最初はけっこう楽しめるが、ミニマル的書法とデジタルな展開がレガートなロマンティックな表現を拒否し始めると違和感が否めなくなってくる。高音域でハープを交え奏でられる(演奏的には美しい)曲と中低音域でうねるように重厚に表現される曲があいまってくらくらさせ、とくに後者がミニマルではなくマンネリズムと感じられ始めると、早く終わらないかな、という感覚に囚われる。まあ、でもサティなのであり、編成が大きすぎることもあろうし、ロマンティックな表現もある程度は許容できる度量のある曲なのだな、といったところで○にはしておく。

~抜粋(ピアノ連弾編曲)

○オーリック、プーランク(P)(FREMEAUX&ASSOCIES他)1937/7/15、16・CD

六人組のピアノ演奏にはみな特有の美感が内在する。どこか哀しげで感傷的な音、夜のしじまに流れ出る密やかな涙の滴る音。この盤は音楽とコクトーの朗読が交互に収録されているが、私はフランス語無明なので音楽だけ抜粋して聴く。明るくタノシイ皮肉屋の音楽がサティの意図だろうが、このピアノ版では闇夜にうかぶ昨日の夢のような郷愁が感じられる。サーカスの賑わい、古き良きパリ。サティの、簡潔で隙の無い描写音楽はピアノ化によってその特質をさらに強めているように聞こえる。むしろピアノ向きの曲にすら感じる。この時代においてはすでにサティは時代の先端を行く作曲家ではなかった筈だが、いくぶん荒涼とした孤高の音楽世界は時代を超越して今のわれわれにも訴えかけてくる。いや、オーリックとプーランク~いずれもサティ晩年には彼のもとを去っていった、とくにオーリックは最年少でサティに寵愛されていたため、その強烈な離反はかなりショックを与えたという~のふたりのすぐれた音楽性によってさらに魅力を増したのだ。サティの硬質で透明なハーモニーの世界はストラヴィンスキーの言うとおりピアノの方がよりダイレクトに伝わり易いようだ。「展覧会の絵」で言うところのプロムナードにあたる「ちゃんちゃかちゃんちゃかちゃんちゃかかちゃかちゃ」は原曲で聞けば非常に世俗的でやかましい音楽に聞こえるが、ピアノになると「とんとことんとこと・・・」といったふうで変な力が抜け聴き易い。反面力感がなく前後の場面とのコントラストがはっきりしない面もあるが上演版でないかぎりはこのピアノ版で十分満足できよう。○ひとつ。パラードは「春の祭典」以来の確信犯的ダダ・バレエとして大騒ぎを起こした。緞帳にはピカソの絵が大きく描かれた、総合芸術的スキャンダルだった。この緞帳は最近?日本に来たが、かなり巨大なものである(ピカソ作と言ってもピカソが刺繍したわけではない)。この曲はミヨー版のピアノ編曲があったような気がするが、わからない。ミヨーはサティのもっとも重要な共同活動家だった。「家具の音楽」の共作は有名。サティの即物的感覚をミヨーはのちの「花のカタログ(花屋のカタログの1ページ1ページの印象を音楽にしたもの)」などの作品で引き継いでいる。(2005以前)

SP録音でCD未復刻というが(web配信されている)私は全集もののCDで持っていた覚えがある。ピアノは巧い。パラードがどういう曲なのかわかるように表現している・・・抽象化せずキッチュに演奏し、サティのごつごつした書法がどこに源流を持っているのかわからせるようなものである。サティは未完成の才能ある作曲家だった。未完成という部分がしかしサティの最大の価値である。新しい音楽への「抜け道」が示されていたからだ。ただ、パラードぐらいになると、音楽的な先鋭さよりもイデオロギーに基づくパロディ性が先に立ち、流行音楽という範疇で捉えられるものになってしまう。ピアニストとしても腕たつ二人はそのプロフェッショナルな部分がサティを真面目な顔にしつらえるきらいはあり、強い印象は与えないが。 (2010/5/15)

家具の音楽(1920)

マリウス・コンスタン指揮アルス・ノヴァ合奏団 (ERATO)1980

4、5年前に沢田研二が司会をつとめていた「ワーズワースの庭で(だったっけ?)」の猿真似番組で、「エリック・サティと椅子」という特集がなされたことがあった。サティ自体ブームが去り、冷静な視点から寧ろ冷ややかな視線すら注がれるようになっていたこのころ、何故そういう特集がなされたのか判然とはしない。 ”BGMの元祖、ミニマル・ミュージックの元祖”として、この有名な「家具の音楽」をとりあげ、二十世紀はじめのアール・ヌーヴォ家具と無理矢理結び付けられていた。ケージのような才能ある作家が必要以上に騒ぎ立てたことで、サティ存命のころ繰り返されていた、「異常に持ち上げて一気に落とす」ブームの波は、戦後現代によみがえった。不思議なのだが中世の王の間で食事時に奏でられた室内音楽や、酒場でよっぱらいのために奏されたピアノ音楽は、BGMではなかったのだろうか。教会や寺院で宗教者が繰り返す音律を持った祈りの言葉は、一種のミニマル・ミュージックではなかったのだろうか。取り立ててサティだけを持ち上げる(=次にはすとんと落とす)ことも無いように思う。寧ろ作曲家にとっては迷惑だろう。奇矯な発言や一種哲学的雰囲気を持った生き方、趣味の特異性(このひとの細密な戯画や飾り文字は一見の価値がある)、存在そのものがパフォーマンスであったから、ストラヴィンスキーが指摘した「管弦楽」における要領の悪さなども、「痘痕も笑窪」的に受け取られている(この音楽でも「いつもと同じ」スコアリングがなされていて、それ自体特徴的でもなんでもない。貧者のミサやヴェクサシオンのころの音響実験のほうが、ずっと豊穣だ)。何より彼の放つ示唆的雰囲気に、パリの芸術家たちは、「自分の中にある」デーモンを引き摺り出された。音楽家でいえばラヴェルやミヨーなど良い例だ。ラヴェルは初期サティの精華を受け継いだのみだが、実験音楽という行為自体を好んだミヨーは、「家具の音楽」の共同作業後も、即物的主題による小曲を同様の趣旨で発表している。特異ではないが佳い曲だ。まあ、でも音楽家以上にダダイストのちシュールレアリストをはじめとする画家・芸術運動家への影響が大きいだろう。

サティがまさに本当の「異能の持主」であった若い頃、毎夜「黒猫」でピアノを奏きながら、不躾な酔客たちに店の調度の如く無視され続けた経験が、後年”発見”されもてはやされてのち諧謔的精神と結びつき、「きかれない音楽」へと結晶したのではないか、と私は勘ぐっている。短い間奏曲の一部もしくは古典音楽の展開部のごく一部を切除したようないわば「音の断片」を、ひたすら何度もくりかえすことにより成り立つこの三曲、傾聴してきくには余りに単純で、意図どおり「無視して」聞き流すには「癖」がある。1曲め「県知事の私室の壁紙」3曲め「音のタイル張り舗道」は、特に妙な「力」がある。同曲を画廊で密かに初演しようとしたさい、客を静粛にさせてしまったのも無理も無く、パフォーマンス作品としては「失敗作」だった。最弱音で流したとしても、ペットの堅い響きや、主題の妙な魔力が脳のどこかを捉えてしまうだろう。耳について離れない。これは魅力的で離れないのとは違う。このあたりがサティらしさなのだろうが、どうも「オンガク」とは違う気がするのは私だけだろうか・・・。

さて冒頭にあげた番組には一人とてつもなく素晴らしいゲストがいた。マドレーヌ・ミヨー夫人である。出演時間はほんの僅かで、文献でつたえられる「家具の音楽」の失敗風景をそのまま語っているにすぎなかったが、生前のサティを知っているしかも最重要人物が、こんなしょうもない(失礼)番組に出たことに感動した。女優らしい夢見るような口調。今でもお元気なのだろうか。

何を書いとんねん、という方のために。サティは晩年の一時期、環境音楽的な発想にとらわれていた。積極的に聞かれようとしない音楽、つまり絨毯や椅子といった家具調度品のように、生活の中に即物的に取り入れられる軽い音楽の在り方を提案しようと思い付いた。お高くとまりコンサート会場でご婦人方の涙を誘う音楽などくそくらえ、そこで同じような信念を抱き、親しく交わっていたコクトー&六人組サークルの代表格ダリウス・ミヨーの助力を得、大正9年3月8日画廊で行われた友人の芝居の幕間に、「絵や椅
子、光、温度と同様の快適さをもたらすものとして」試演をこころみる。だが、事前に「無視するよう」周知されていたにもかかわらず、客は会話を止めたちどまり音楽に耳を傾けてしまった。失敗。「ほほえましきいたずら」とされた。反権威の意図すらひとつのステイタスを持つものとして認められてしまう妙な社会。机上の芸術がお遊びのような離合集散を繰り返す。そんな夢見るパリはやがて戦乱のなかに消え去るが、サティ自身はそのまえに、さっさと「お暇」申し上げたという次第(1925年没)。巨人ドビュッシーの影にあって、市井の孤独者として生きた”中世の優しい作曲家”であった。

びっくり箱(管弦楽編曲:ミヨー)

ミヨー指揮BBC交響楽団(bbc,carlton,imp)1970/9/21

サティはノーテンキだなあ。いや、ミヨーがノーテンキなのか。楽しく猥雑な音楽。サティには旋律の才というものは確かにあって、ごつごつした不協和音のひびきや、ぶつ切れの断片の不器用な接続、それら生硬さを別とすれば、聞ける音楽、である。これはサティがバレエ・パントマイム用に準備した3楽章の小品で、死後残されたゴミだらけの部屋を六人組メンバー+で大掃除したときにピアノの裏から見つかったピアノ譜を、ミヨーが管弦楽配置したもの。3楽章など複調的な響きはミヨーふうだし、モチーフの執拗な繰り返しはストラヴィンスキーを思わせるところもあり面白い(勿論どちらもサティが先んじて使用していた手法なのだが)。最後の奇妙に協和的な和音はサティのオリジナルかどうか疑問だが、「無害な小曲」として楽しむことはできよう。そういう曲。

3つのジムノペディより3、1番(ドビュッシー管弦楽編曲)

◎バルビローリ指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ(testament)1969/1/22live

びっくりだ。こんな曲が選ばれていたとは。バルビローリは繊細な音表現に長けており、この演奏もその恩恵を被っている。なめらかで感傷的な音楽、ドビュッシー版はどんな演奏でもあまり感傷的に響いてこなかった気がするのだが(非常にリアルな音の集積の感があった)、この演奏は違う。とくに第一番の注意深く旋律をうたうヴァイオリンのひびき、ハープの典雅な伴奏、オーボエの感傷的な歌。同曲のベストと言ってもいい。

○ライナー指揮シカゴ交響楽団(DA:CD-R他)1960/3/25live

小憎らしいほどに完璧な表現で描かれた「サロン音楽」。アメリカ一般市民が想像しうる「上流階級の師弟が集う場に流れる音楽」そのもの。しかしサティは貧乏な一介の酒場のピアニスト兼作曲家であり、後年もダダイストとして富とは無縁の活動を続けたのである。しかしその音楽はドビュッシーによって、「こうも表現可能なほどに」香気を漂わせるものになった。「あなたが欲しい」などサティは今もスタンダードに歌われるシャンソンの作曲家でもあり、その意味で大成功した作曲家・・・の筈だったのだが、この曲にはやはり闇があり、それはピアノの途切れ途切れの音粒の間から立ち上るものであり、擦弦楽器の途切れないレガート音では表現しえないものである。ライナーは小憎らしいほどのデュナーミクへの配慮、バランス感覚により違和感を極力抑えている。ほんと小憎らしい。録音が悪いので○にとどめておく。(シカゴ交響楽団自主制作CDボックスに正規版が収録、別項で◎評価)

(第1番)
○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(RCA)

CD化不明。クーセヴィツキーの静寂の表現はなかなか聞かせるものがある。この悪い録音条件でも非常に精妙な響きが作り上げられていることに感銘を受ける。LPだと音に生生しさが有り、適度な重みもある。サティの代表作をドビュッシーが編曲したものなわけだが、違和感を感じさせないように細心の注意を込めたクーセヴィツキーの鮮やかな手腕が生きている。ラテン系の指揮者のやるような開放的な演奏だとかなりスカスカ感のある編曲だが、緊密で集中力のある演奏を得意としたクーセヴィツキーならではの安定感のある、品の良さすら感じさせる演奏だ。○。

(第3番)
○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(PEARL/HMV)1930/4/14・CD

パールのCDには第1番とあるが原曲は3番なので3番と書いておく。ついでに、クーセヴィツキーは1番も録れているのだが、パールは何故か3番しか復刻しなかった。1番については別途書きます。短い曲でもドビュッシーは細かい仕掛けを施しており、楽器法も巧いとまではいかないが凡庸にならず耳を惹く。主旋律の受け渡しなど1番より成功していると思う。クーセヴィツキーはその本領を発揮しているように聞こえる。伴奏のハーモニーが硬質な音で完璧に響いているのに驚かされる。新しい録音だったらまるでブーレーズの演奏のように聞こえたことだろう。バランスのすこぶる良いハーモニーに感動。○一つ。

3つのジムノペディ(リチャード・ジョーンズ管弦楽編)

◎ゴルシュマン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(CAPITOL)LP

ドビュッシーの編曲を下地に3曲版に作り直したらしい(ライナーがフランス語なのでよくわからん)。なかなかサロン・ミュージックふうの典雅な演奏になっている。アルカイックな雰囲気を醸し出すハープが美しい。珍しく弦楽器が表情豊かだ(3曲目のチェロの「泣き」のビブラートがイイ!)。さびしげな表情の未亡人が白い窓辺で思い出に浸るある晴れた午後といった感じ。嫌いじゃない。むしろ好き。◎。

自動記述(1913)

<サティのことを書く気になった。自分の意志を持つ風見鶏のような天才。彼の向く方向にはいつも、たくさんの風が追い越していってしまう。彼には遠きを見とおす目はあっても、先へ進む足が無い。その哀しさが、突然のヒステリックな展開や、断続的な旋律にあらわれる。この「自動記述」には、それら一種病的な要素が目立つ。

だが一曲目“舟歌”、「抽象的描写」を彩る高音域の光の煌きは、引き裂かれた旋律が、むしろその断続性ゆえに、無邪気で喜遊的な、透明で上品な(ラヴェルの好みそうな)独創性を主張しており、「今」の耳をしても全く比類無く、印象的で、ロマンティックで、フランス風で、ドビュッシーと比肩するまさに「フランスの作曲家」であったエリック・サティの、全作品中一割位と思われる“真の傑作”に入る曲なのである。「歌えないが口ずさんでしまう曲」であることほど信用できる判断基準はない。単純だけれども複雑な思考の産物である曲特有のこのことは、初期作品(ジムノペディ、あなたが欲しい、といった)を除いたサティの作品すべてに当てはまる。この舟歌は好例だ。>

(エリック・サティ展が新宿で開かれている。文献でしか触れられなかった数々の資料を目の当たりにできる好企画だ。サティに限らず「其の時代のパリ」を良く理解できる。サティの個人的断簡の数々、「スポーツと気晴らし」のリトグラフ全曲分は必見。(H12.5))

プーランク(p)(CBS)

ロマンティックすぎるきらいもあるが、好きな演奏だ。残響が心地よい。柔らかい抒情がある。

グレイツア(p)(VOX)

VOX廉価盤2枚で殆どの曲を聴くことができる。サティにうってつけの強調しない解釈ぶりや、安定して不変のリズム、残響の無さが、「サティ像」を彫刻する。だが、この曲はもう少しゆったりとした表現でも良かったか?…しかし、曲自体サティの「客観性」を最も具現化した題名を持つ(「自動記述」とは作者としての人間の“介在”しない作品ということだろう)ことからも、このような感傷を排した演奏をきくべきなのか?…にしてはややエキセントリックかも?

天国の英雄的な門への前奏曲

○プーランク(P)(ACCORD他)1956

プーランクやフェヴリエが独奏・重奏したサティの盤、複数社から出ていたCD、LP群を一気に1枚のCDにまとめあげた恐ろしくコストパフォーマンスの高い盤からの一曲です。アコードのフランス音楽歴史的録音シリーズはまったくEMIの廉価盤と並んで恐ろしいほどお買い得。私はなんだか今までの収集が阿呆らしく思えてきてならない。さてプーランクの演奏はかなり表現意志が強い。サティの楽曲の根本に横たわる歌心を巧く引き出し、ひとつの物語性を持たせ説得力ある演奏を繰り広げている。プーランクのジムノペディ1番については別項に書いたが、サティ本人が聞いたら顔をしかめるかもしれない。現在のサティ演奏の流れからいっても異端である。だが、初期作品の旋律に感傷性が無いといったら嘘になる。このペラダンの神秘主義に感化されていた時期に書かれた作品も、短いながらも剥き出しの新鮮なハーモニーに載せて流れる旋律はドビュッシーやラヴェル(とくにラヴェル)を予言するようなフランス印象派の繊細な感覚に満ちている。結局印象派とは訣別して音楽の単純化を求めたサティも、若い頃はある程度はこういう曲を書いていた。プーランクは早めのインテンポをとっているが、重々しい和音と繊細な和音のコントラストを激しくつけて楽曲の起伏を強調している。ともすると静謐に始まり静謐に終わるような曲、しかし標題からすると重々しさが無くては形にならない。というわけでプーランクの解釈は真をついている。

サラバンド

第2番

○プーランク(P)(ACCORD他)1956

ドビュッシーを思わせる装飾的なフレーズや和声感覚が横溢し、この作曲家の先駆性を強く感じさせる一曲である。1887年、作曲家21歳の作品。処女作?オジーヴの次の作品であるが、実験的和音の堆積だけで描かれた前作とは違い繊細な和音で繋がれた美しい旋律の断片が洒落た雰囲気を醸し出している。瑞々しさの中にも深い思索が感じられ、才気溢れる作曲家の多面性が既にして現われている。プーランクはドビュッシーのように演奏している。

グノシエンヌ

第3番

○プーランク(P)(ACCORD他)1956

ちょっとエキゾチックな音楽である。その暗い雰囲気の中に、孤独で、そこはかとなく哀しい雰囲気があふれている。しかしお上品なお客様にとってはまさに一級品の雰囲気音楽、今でも人気があるのはそのせいもあろう。個人的にはあまり好きな雰囲気ではないのでよくは聴かないが、サティの個性のはっきり顕れた初期の名作ではある。プーランクはあまり解釈的なものは付け加えていない。

臨終の前の思索

◎プーランク(P)(ACCORD他)1956

惚れ惚れするような美しい作品群であり、楽曲間のコントラストも明確で変化に富んでいる。小さなダイヤの結晶のような美しさ、単純な中にも必要な音楽的哲学はすべて内包されている。ドビュッシーのピアニズムすらこの中に取り込まれる。完成期のサティの作風をもっともよくあらわした作品のひとつと思う。短いだけにボロが出なかったとも勘ぐれるのだが、そもそもサティはこの長さ(3分くらい)の作品しか(ピアノでは)遺していないのでそう断じるのはそもそも無粋なやり口だろう。プーランクは確固たる歩みでこの曲のフォルムを明確化し、繊細なひびきと一寸聴き不器用な転調をうまいバランスで生かしたサティ像を描き出している。非常に巧緻な演奏。◎。

夜想曲
<作曲時期はばらけるがジムノペディらに通じるところもある晩年の傑作。>

○J.ウィーナー(P)(FRENCH BROADCASTING SYSTEM)LP

ウィーナーはピアノ曲集がCD化もされている。さりげなくぶっきらぼうにサティ風の演奏を目指しているが、ニュアンス表現に特有の解釈が読み取れる。ペダルを効果的に使い分けるなど、なかなかいい。

梨の形をした三つの小品

~二曲

○オーリック、プーランク(P)(Bo?te ? musique他)

これは護摩粒を撒くような素晴らしい表現の作曲家兼ピアニストの音楽が楽しめる。短いしパロディが先にたつ曲でもあるが、それでもリリシズムをたたえた感傷が心を打つ。リズムの面白みもしっかり伝わる。

潜水人形

~抜粋

○ベヌイ?(SP)J.ウィーナー(P)(FRENCH BROADCASTING SYSTEM)LP

同時期に作曲されたピアノのための夜想曲、ソクラート抜粋からなる二回分の放送記録。ウィーナーはピアノ曲集がCD化もされているが、ここではヴィエネルとされている。三曲をとりだしているが子供の歌唱に近づけ(ほんとに子供か?)おもしろく、サティの手慣れた小歌作曲手腕を楽しめる。サティの独自性とパロディのバランスが1番とれていた時期だろう。幼児性が素直に発露しているのがいい。歌手名疑問。○。

三つの交響的ドラマ「ソクラート」

◎レイボヴィッツ指揮パリ・フィル他(EVEREST他)

モノラルもあるというが未聴。レイボヴィッツはフォルムを明瞭にし繊細な叙情を注意深く音色にこめて、臭くならない起伏をつけてこのカンタータを非常に聴きやすく仕立てている。美しさの中に秘めたる感傷性が素晴らしく迫ってきて、春のうららかな陽気の中に、皮肉で残酷でしかし化石化した遠い事件を見るような思いがする。歌唱も適度にやわらかくサティの突飛さや内容の強さを適度に緩めている。6人組的な演奏とも思った。◎。
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ドビュッシー 弦楽四重奏曲(2012/3までのまとめ)

2012年04月25日 | Weblog
弦楽四重奏曲(1893)

<国民楽派後の近代室内楽史上最高の名作だろう。これを習作に毛が生えたような作品と断じる評論家もいるようだが、弾いてみればその独創性は歴然。過渡期的と言えば過渡期的なのだが、素直に何の先入観も無く聞けばこれは紛れも無い名作である。清新な和声や熱狂的表現などボロディンからの影響ははっきりしているものの、五音音階の多用や旋法的旋律の導入には更に一歩二歩進んだ、より演奏効果の高いものが感じられる。2楽章のピティカートによるスペイン趣味もそれまでの習作に比べて直接的表現はなく、ドビュッシー独自の精妙な音楽に見事に消化されつながっている。まあ、いくら語ってみた所で説明のしきれるものではない。まずは聴いてから判断してもらいたい。>


○カペー四重奏団(EMI他)1927-28・CD

超有名な古典中の古典の演奏記録だが、そのせいか板起こしにしても注意深くやられているようで時代のわりに痩せも耳障りもなく音がいい。演奏様式にかんしては昔聞いていたときと同様、余りにスタンダードすぎて面白みがないという印象だが、逆に言うとこの時代に現代においてスタンダードと受け取れるようなロマン性を抑えた抽象度の高い演奏を行うことができたというのは凄いことであり、この曲の本格的な演奏史というのはカペーをもって始まったということにも気づかされる。音色は板起こし者によっても差異はありEMIなどはちょっと匂いを消しすぎている感じもするが、それでも色艶が品よく乗った往年の演奏の魅力もそなえたものとなっている。ドビュッシーについてはとくにこれがやはり、古典的な時代における模範といえよう。

スペンサー・ダイク四重奏団(NGS)1924/8・SP

いやー、最初から走る走る。と思ったら突然全部の音符を切ったり、弓の赴くままに伸び縮みするする。もう、ここまでくるとアマチュアである。オールドスタイルという言葉では済まされない(じじつアバウトさは同時期の他団体による演奏に比べ段違いである)。スペンサー・ダイクというNGSの代表選手のようなソリストはドイツものではがっしりやっているので、こういう不安定な演奏(音も浅くてボウイングは切れ切れ、とにかくなってない)は曲への無理解があるとしか思えない。確かに終楽章のコーダ前あたりなど法悦的で美しい場面は無いことも無いが、音色の浅さ単調さは如何とも。ボウイングがとにかくぎごちなく、学生時代の自分を思い出して恥ずかしくなった。そういう恥ずかしい演奏が好きなら。私は○をつける勇気が無い。NGS録音は正規にWEB配信化が進められており音質的にもそれなりに聴けるものとなっている。興味があれば検索してみつけてください。無印。

○ヴィルトゥオーゾ四重奏団(HMV)1925/9/14,12/4,9/18,10/21・SP

オケプレイヤーを中心にレコード会社主導で編成された録音用団体の模様。ヘイワード以外はよくわからないが他社に対抗して網羅的録音、しかも一部抜粋ではなく全曲という売りで啓蒙的活動をしたもののようである。演奏的にも専門団体にくらべ技術的安定感はあるが飛び抜けて上手くは無く、現在の耳からすれば手堅い解釈で特筆すべき表現もなく、ただそういった啓蒙的観点から?の客観性があるだけに、この時代の演奏に似つかわしくないくらい現代的で聴きやすいものでもある。集中的にかなりテイクを重ねて丁寧に録音していたようだが、なにぶん古い。だから盤そのものの瑕疵と演奏の瑕疵の違いがわかりにくい部分もある。チャイコのような音楽には適性を示すが、ドビュッシーのような風変わりな作品には特にどうも探り探り感が否めない。といっても3楽章などじっくりと、粘らずしとやかに演奏しているのがイギリスらしくて私は好きだ。また、何故か4楽章の出来がいい。ヴィブラートを多用せずポルタメントに頼らない、そこがこの曲の聴きやすさに繋がっている。ファーストが活躍する曲だからファーストだけが上手い(アンサンブル力は他も十分だが上手くは無い)この団体には向いているけれど、チェロなどもっと主張が欲しいかも。○。あ、特徴に付け加えると、この団体、スタッカートを切らない。スピッカート気味にして明瞭なアンサンブルを印象付ける団体が多い中、こういう奏法があったのか、というほどアクセントを強調しない「幅のあるスタッカート」を使うのだ。というか、このての「飛ばし」を使わないというのは遠い昔へっぽこな私も教わった(というか飛ばし自体教わらなかった!)やり方なだけに、英国にこういう奏法の流れがあったのかもしれない。裏返して言うとしっかりしたテンポやリズムを保つのが難しいので、腕のある団体の証左ではある。じっさい、チャイコでは活きている。

○プロ・アルテ四重奏団(HMV/biddulph他)1933/2/7・CD

音色は艶っぽいのにスタイルはいたって率直で、まっすぐなプロ・アルテの演奏。詰まらないととるか正統ととるかは意見が別れるところだろう。ラヴェルでもそうだったが、いたってスタンダードといった呈であり、強く訴える解釈の独創はないが集中力とアンサンブル精度は同時代ではブダペスト四重奏団に匹敵するものがある。まあ、プロである。○。ビダルフではラヴェルとフォーレのカップリング。1楽章に僅かに欠損?

ブイヨン四重奏団(新星堂EMI)

この演奏は終楽章が聞き物だ。他の楽章は余り個性的とは言い難く、ブイヨンのVnも余りに実直で、しかも音程がやや”フランス的”・・・。鋭い音を避けテヌート表現にこだわる姿勢は独特だが、音が細く、録音の限界もあり高音になるとさらに心もとなくなる。解釈は至って平均的で、ゆるやかなインテンポ表現は正直魅力的には感じなかった。師カペーの亜流に思える部分もある。だが終楽章にきて様相は一変する。運弓や運指に独特の創意が入交じり、面白い音色効果をあげる。付点音符を長めにとり、短い音符を詰めた表現は、今であればセンセイに注意されるだろうが、一種ジャズ的で愉快。速めのテンポにしてもそれまでの穏やかな表現とは一線を画し、心なしか音程も鋭さを帯びる。1VNのテヌート表現はボウイングのぎごちなさとあいまって不思議な効果をも生んでいる。最後の瞬間的なルバートも面白い。カルヴェなどの1Vn偏重とは異なり、技術レベルがまとまっている団体だ。録音は非常に悪い。SP復刻盤に慣れていない方は覚悟が必要だ。

◎カルヴェ四重奏団(LYS/PATHE)

なんといってもファーストヴァイオリン、ジョン・カルヴェの見事な解釈である。平坦に透明に音響を響かせるたぐいの詰まらない演奏ではない。寧ろロマンティックでさえあるが美しい音色とアンサンブルは決して脂肪太りしたものではない。隠れた名盤としてLP時代より定評のあった演奏。いろいろ書きたいことはあるが、古さを押しても聞く価値のある深情溢れる理想的演奏。

○パスカル四重奏団(concert hall)LP

戦前戦後の名演のひとつである。どの団体でも感じることだがラヴェルとカップリングされたりしていてもスタイルはまったく違い、この曲のほうが歌いやすく単純な感情もあおりやすいせいか、ドビュッシー名演ラヴェル凡演のパターンはある時代まで黄金律としてあった。パスカルも同じである。ラヴェルの精細に欠けるたどたどしさがここにはない。ソロとしても活躍したファーストヴァイオリンの雄弁な曲であるということも理由のひとつに挙げられるだろう。解釈の非常に巧みな演奏を繰り広げている。フランスのアグレッシブさというか、ロシアみたいなごり押しも中欧みたいな普通ぽさもアメリカ的な金属質音もない、オーソドックスと言うべきバランスを備えており、モノラル期のスタンダードと呼びたい。余り強くは印象に残らず特徴的な個性はないが○。

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レーヴェングート四重奏団

○旧録(DG)LP

独特の演奏。面白い(が飽きるかも)。緩急極端でディジタルなテンポ変化、音量のコントラストの激しさと常套句で言ってもなかなか伝わらないたぐいの演奏で、しいていえば「やらかしてやれ」という意気があふれつつも、諸所でその意気に演奏技術が追い付かず(とくにファースト)、緊急避難的に施されたルバートや最弱音での異様な低速・ノンヴィブ(1楽章)最強音で乱暴に響くピチカート(2楽章)などが結果として独特の聴感をあたえている。2楽章あたりはじつに面白い。4楽章は盛りだくさんなのでいろいろ楽しめる。唯、3楽章はつまらない。・・・聞けばわかるがけっこうぶっとんでいて、この団体のイメージからすると意外だ。音色に特色の少ない奏者の集団だから逆にまとまりはよく、だがその中でもとくにファーストがそれでもいろいろと特殊な音色を出そうとして奏法にさまざまな細かい変化をつけており、気持ちとしては非常にわかる(他の楽器はそつなくうまく弾き抜けている)。終楽章のクライマックスなどいにしえのフランスのカルテット張りの艶めかしいフレージングが頻出してはっとさせる。でもファーストは弱い。最後の駆け上がりがぐちゃっとなって結局ヘタッピだ(こんなんでDGはOKしたのか?)。もっともこれも気持ちは良くわかるが・・・。総じて○としておきます。私は3回目で飽きたが、1、2回目はワクワクした。

○(新)(CND)LP

モノラル末期のフランス録音。折り目正しくきちんとした演奏ぶりは寧ろ「なんじゃこりゃ」と思わせる雰囲気を漂わせた遅さだが、ドイツ的というか、引き締まった演奏方法が慣れてくると独特のタテノリになり心地よくなってくる。確かに独特の演奏で、当時としても特異だったからこそ評判になったのだろう。正確さを狙ってるのではなく、高音などハーモニーが揃わなかったりするが、カペー師匠に教わった若干引き芸の部分を伸張させ、緊張感をもって構成的な演奏を展開する、中間楽章から徐々に、そして終楽章ではまあまあの感興を催される。VOX録音があるのでこれに拘る必要はなく、モノラル末期特有の重厚な音があるとはいえ状態のいいものは高い可能性があるので(私はひさびさディスクユニオンに行って、あの大量消費中古店でもそれなりの値段がついていたものを、半額セールで買ったのだが、それでも裏表音飛びまくりの磨耗ディスクだった・・・半額じゃなければ何か文句言ってるところだ)。海外じゃ安くて原価2000円くらいか。

△新録(VOX)LP

新規メンバーによるステレオ録音。非常に厳しい演奏。遊びのない独特の解釈表現は特筆ものだ。録音も硬質で金属的な感じがありキンキンと聞きにくい箇所もある。そしてこのファーストヴァイオリンのあつかましさ!ぎりぎり弦の軋む音が聞こえるじつに耳障りな音。演奏レベルは初代にくらべ格段に上がったかもしれないが、この終始力んだような音色は耐えられないレベルに達している。ドビュッシーがこれほどあけっぴろげに弾かれたのを始めて聴いた。ニュアンスもへったくれもない、ただ3楽章にちょっと聞ける箇所がある程度。勉強用の見本としては存在価値はあるかも。フランセの四重奏では柔らかく軽妙なところを見せているというのに、なぜこういう力みかたになってしまったのか、不思議だ。

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スタイヴサント四重奏団(BLIDGE)CD

ひどく音が悪い。モノラルは当然の事、何やらプライヴェートな実況録音並の録音状態で、とくに高音域がかなり聞こえないというのは痛い。ヴァイオリンの音域が失われると骨組みだけ見えて外装の施されていない家のよう。台無しだ。それをしっかり念頭に置いた上で聞くと、この団体、とくにストヴァイはじつに柔らかい音を発しふくよかな響きを引き出していて嬉しい。私好み。やわらかいボウイングがもたらす軽やかで嫌味のない音は実演で聞いたらもっと楽しめたろうにと思う。だがこういう音を出す人は往々にして地味になりがちである。レガート気味で鋭い発音を必要とされる肝心のところで音が弱く埋没してしまう。これは録音だけの問題ではないだろう。優しい音作りは非常に評価したいところだが、この作品の新鮮で野蛮な音楽をしっかり表現するには優しすぎる。無印。

ハンガリー四重奏団(M&A)1951/8/1南カリフォルニア大学・CD

悪くはないのだがいささか性急であっさりしすぎている。現代の演奏のようにハーモニー重視で透明感ばかり目立つ類のものとは全く違う、各音符を須らくしっかり発音させ律動で聞かせるスタイルであるが、豊かな表現力の反面解釈に面白みが少なく(無いわけではないが)右から左へ抜けてしまう。技巧が安定して聞きやすいがライブなのかアタックの付け方がややアバウトでテンポが流れやすいようにも感じた。逆に肩の力が抜けた楽に聞ける演奏とも言えそうだが。嫌いじゃないが期待程ではなかった。

○パガニーニ四重奏団(COLUMBIA)LP

旧メンバーによる旧録。新盤よりかなり性急で揺れの無い演奏になっているが、なまめかしいファーストの音色はかわらず耳を楽しませる。とくに三楽章の憂いのある表現は新盤ともに出色といえるだろう。こういう色のついた演奏は古ければ古いほどイイ感じの味が出てくる。ライヴで目の前で聴いたら胃にもたれるのかもしれない(自分が演奏していてすら胃にもたれる)。いまどきの演奏に比べればかなり好きなほうです。KAPP盤はこれより音がよく多彩ではあるので、こちらはあくまで若さの余りのスピード勝負、みたいな感じでとらえておくといいかも。中声部以下の技巧は勝っているかもしれない。リズミカルで乱れ無く巧い。一楽章展開部に信じられないカットあり。意味不明。。○。

○パガニーニ四重奏団(Liberty)LP

テミヤンカがファーストを張るほかはメンバーチェンジを繰り返すことになる戦後モノラル期に活躍した団体。これはCOLUMBIA録音とKAPP録音の間のもので演奏スタイルは前者に近い直線的なもの。ひたすら突き進む趣が強いが、テミヤンカの古風な艶のある表現はさすが耳を楽しませるものである。ただ、セカンド以下の個性が弱く技術的にも表現力にも物足りなさを感じる。悪くは無いが、コロムビアのほうがアンサンブルとしての完成度は高い。

この団体は戦後46年全員パガニーニ伝来のストラディヴァリウス使いとしてアメリカで結成された。liberty盤(まだモノラルである)製作のころには西海岸からエジンバラ祭にいたるまで飛び回り1000回以上のコンサートをこなしてきていたといい、録音や映像にも積極的であったというがこんにち余り目にすることは無い名前ではある。セカンドはロッセールスで1680年製の初期ストラディを使用。ちなみにCOLUMBIA録音ではヴィオラがコート、チェロがマース。liberty録音でヴィオラがフォイダート、チェロがラポーテになり、現在よく知られるKAPP録音ではセカンドがリボーヴ、ヴィオラがシュワルツに変わっている。liberty盤のヴィオラはベルリオーズがイタリアのハロルドを作曲するのを手伝うさいパガニーニが使用したという1731年製のストラディで、チェロは1736年製、92歳死の前年の作とされている(従って工房作品の可能性が高いと思われる)。libertyにはシューマンの1番とブリテンの1番も録れている。この盤の裏面には中国出身のリースの新作(2番)が入っている。現代から古典までカバーする団体としても知られた。

最後にこの録音、何といってもこの時代のハリウッドを象徴するかのような「改変」が特筆すべき点として挙げられる。・・・ニ楽章に奇妙な「序奏」がついているのである!

○パガニーニ四重奏団(KAPP)LP

非常に惹かれた演奏である。ストラディだからというわけではないだろうが音色に情感篭りまくりであり、結構即興的な(でも弓いっぱいに使った大きなフレージングが目立つが)ルバートがつけられ、起伏はあるが、ポルタメントで歌い上げる戦前の演奏スタイルとも違い各音符の分離は明瞭で、この曲ではそこが非常に強みになっている。ピチカートが美しい。ドビュッシーの繊細な響きは普通にやろうとすると曖昧模糊になりがちだし、かといって精緻すぎてもまた物足りなくなる。この曲は比較的初期のものということもあって国民楽派のような激情の表現も必要だから、精緻が過ぎても心に残らないということがおうおうにして起こりがちなのだ。これは現代的な整理された演奏ではないし、かといってファーストヴァイオリンが突出して歌いまくる古いスタイルでもなく(パガニーニ伝来のストラディヴァリウスの線の細く音量の無い音が全体のセピア色の響きに溶け込み不思議な感傷を与えるのは特記できる)、「艶めかしいがからっとしている」イタリアふうで、特に弱音部の余韻といったらない。そう、弱音の表現においてこの演奏は非常に秀でている。全楽章中最も凄い出来ばえの1楽章からこの点に気づかされる。弱音に激しい感情を篭めることの難しさを思えば、凄いことをやってのけている。ところどころなんとなく稚拙に聞こえるのは古い楽器独特の生音のせいだろう。生木の楽器を弾いているような感じがあるのだが、録音も古いし(といっても50年代と思うが)やむをえまい。私はそういう音が寧ろ非常に好きなのでこれは大好物だった。確かに何度も聴いていると独特の音に飽きてくるが(「独特の音」特有の弱みだ)、「鳴らない楽器を鳴らそうとしたとき」の「鳴る楽器以上に深く響く」という感覚が味わえる。ただ、私の盤は余りに状態が悪い。音飛びまくりだ。CDになっていればぜひ入手したいところ。◎にしたかったが、何度目かで飽きがきたことや盤面の問題で正確な評価を下せない点を割り引いて○。

(後日記)KARPとあったのはKAPPの誤記の模様。但しチャント確認していないので別録音だったりして(KAPP名の別ジャケ欧州盤を入手したんですが、たぶんアメリカ盤のほうがリアルで原盤に近いいい音です)。

ボリショイ劇場四重奏団(melodiya)LP

モノラル。私の盤は盤面が荒れすぎて正直ひどい。でも、演奏も変。これで19世紀的な生ぬるい音色ならロマン派解釈のドビュッシーとして特筆できようが、音色は硬質で冷たいというか、ボロディンQに似た感じで、50年代までのロシア録音にしてはいささか感傷が足りず、でも非常に伸び縮みする独特のテンポ設定、特に3楽章のゆったりとした中で異常に引き伸ばされた起伏が、「透明感があるのにただ伸び縮みしている」、変なかんじだ。1楽章からもう異様な解釈が目立ち、やけにゆっくりだらけた(ように聞こえる)テンポから始まったと思ったらスピッカートを多用して奇妙にブツ切れの動きをしてみたり、酷く人工的なのだ。音色に魅力がないのが痛い。初期ドビュッシーにはロマン性は欠かせないから、ロマン性を音色のバリエーションで補ってほしかった。テンポとデュナーミクだけでは語れない。無印。奇演好きなら。最後の異常なアッチェルでそのまんま駆け上り焦燥感のまま終わるとこなんてのも、なかなか独特。

○タネーエフ四重奏団(MELODIYA)LP

とにかくねっとりしたフレージングに苦笑させられる。しかし麻薬のように効いてくるのは設計の巧さだろう。同じくゆっくりしたテンポでなまぬるい感情を表現した旧ボロディンQに似たものを、とくに1楽章では感じるが、終楽章における(けして速くはないし余り揺れない直截なテンポ設定なのだが)独特の上り詰めかたには耳をひくものがある。ボロディンQの「独特の奏法」には及ばない個性だが、特にあけすけに力強くねっとり表現し続けるファーストの一種暴力性には他国の演奏家には求めえない何かしら「変なもの」を感じさせ、それが慣れてくると面白くなってくる、そんな感じだ。中間楽章に余り魅力がないが、4楽章の「ソヴィエト派としてのドビュッシー」の表現方法に、若干ショスタコ的なものも感じつつ、○をつけておく。旧ボロディンより私はこちらのほうが好き。正直あまりうまくない団体なので、そういう「精度」を求めちゃいけません(残響がやたら付いてるはそのせいか?)。

ボロディン四重奏団(melodiya/CHANDOS)CD

オリジナルメンバー(*バルシャイのいた初期ではない)による有名なメロディア録音。ステレオ初期で音はよくはない。更にCD化に伴うデジタルリマスタリングによって元々の録音瑕疵が明らかになってしまうと共に音が硬く痩せてしまいふくよかな音響が失われている(ぽい)ところは非常に痛い。硬質な透明感が持ち味になったのは後年のことであって、オリジナル時代においては必ずしもそういう操作・・・特に擬似的なサラウンド効果の付加による不恰好にレンジの広い音響・・・はいい方向に働かない。ロマンティックと解説に書いてありながらも酷く人工的に感じるのはそのせいだろう。最近復活したメロディヤが出しなおした盤ではどうなっているか知らない。(ここまでラヴェルと同じ文章)

この時期のドビュッシーは熱い音楽をまだ志向しているがゆえにボロディンQの機械的に恣意的な解釈はかなり違和感をおぼえさせる。リマスタリングされた細くて冷たい音の違和感が影響していることもあるが、持ち芸であるノンヴィブ奏法にしても用法が徹底されていず(もっと計算したらうまく組み込めただろう場所はある)、どうも不完全燃焼感がある。恐らく板起こしであり、アナログであればかなり印象は違っただろう。このCDでは局所肥大のヘンな演奏という感じだけがおおいに残ってしまった。よくよく聞けばドゥビンスキーの音には艶があるし、ロマンティックな感じもないわけではないとは思うのだが、、、やはりリマスタリングの失敗か。無印。

イタリア四重奏団(EMI)1954・CD

妙に遅い。気宇壮大な出だしから単線の音楽になってしまっている。つまりは旋律音楽だ。ドビュッシーはハーモニーを響かせないとよさが出ない。それでもこの曲には旋律だけの魅力も十分訴えられるものがあるのだけれども、この演奏にはそれもない。とにかく旋律の歌い方にもドライブ感がないうえにハーモニーが余り意識されていないのだ。これはアンサンブルとしてもダメでしょう。。音色がイマイチで、三楽章の異様な盛り上がりも迫ってこない。無論CD復刻の痩せ方のせいもあろう。ただ、遅い!これだけは確か。三楽章の中間部くらいだろう、速さを感じるのは。遅かったらもうハーモニーか転調を聞かせるしかなかろうもんなのに・・・無印。

○イタリア四重奏団(PHILIPS)1965/8/11-14・CD

いわゆる響き系の演奏というか、特徴の無いいまどきの演奏につながる要素の多い演奏で、計算ずくの構築性から感情的盛り上がりにやや欠ける。ただ、いい意味でも聞き流せる演奏である。流せる、というところでは3楽章から4楽章の緩徐部にかけてゆったりとしたテンポの中に極めて精緻で美しい表現が爽やかに表現されており特筆すべきだろう。スタンダード。○。

◎ヴェーグ四重奏団(ORFEO)1961/8/19モーツァルテウムLIVE・CD

これぞ荒れ狂うドビュッシー。マイクのそばでぶつかり合い火の粉の飛び散りまくるアンサンブル。尋常じゃないギチギチな集中力。雑音もいとわない弓遣い。弦が悲鳴をあげている。ハーモニー?そんなんどうだっていい。セッションとはこういうもんだ、という見本。カルテットをロックバンド的な激しいグルーヴの中に昇華させた、唯一無比の絶演。この即興的な機知と気合いに任せたキ○ガイ踊りに狂え。◎以外にありえない。血まみれドビュッシーは、こちらだけになります。ライヴって、こういうもんだ!

○ヴィア・ノヴァ四重奏団(ERATO)CD

線の細いおとなしめの演奏だが、音色がなかなか繊細で美しい。軽やかで上品だ。フランスらしい演奏とはこういう演奏を言うのだろう。押しの強さではなく、引き方の巧さで聴かせる。全般遅めのインテンポで特徴的なものはないが、聞いていて気持ちのよい演奏だ。かなりさらっとしているので、2楽章などはBGM向きだろう。1楽章は余りに地味と思ったが、3楽章はやはり落ち着いた雰囲気であるものの、楽章の性格上なかなか思索的な演奏になっている。チェロの提示する第二主題が密やかに感傷を煽るのもまた何とも言えない。盛り上がりどころでの音量やテンポ変化がさほどなく、物足りなさを感じる人もいるかもしれないが、全体の統一のとれた解釈であり、静かな場面の表現により傾聴すべきものであろう。4楽章の静かな序奏部から警句的な主部への移行が実に注意深く、周到なアッチェランド含め耳を惹くものがある。主部が余りがなりたてない、やはり控えめな表現だが弓使いが巧く不自然さが無いのが耳心地いい。この団体で聞くべきはやはり弱音部なのだなあ、とシンコペ主題前の沈潜するヴァイオリンを聴いていて思った。その後のダイナミックな展開はきちっと出来てはいるが余り押しが強くない。しかしそこが「我々が思い浮かべるフランス的なるもの」をまさに体言している気もする。実に上品だ。それほど協和した音色でもなく、アンサンブル的に練られているわけでもないのだが、個々の技と全体の解釈の妙で(それほどあるわけではない「構造的な部分」になると敢えて内声を強く押し出し音楽全体の膨らみを持たせるなど、細かく聴けば発見がある)さすがと思わせるものがある。「踏み外さない演奏」というのを私は余り好きではないのだが、これは一つの立派な解釈だと思った。最後の協和音はきっぱり弾ききって清清しい。○。 (2005)

○ヴィア・ノヴァ四重奏団(ERATO)CD

注意深いテンポでヒポフリギアというよりイスパーニャな情緒をかもす通奏主題を「少しパレナン的に」ゆっくり、しかし柔らかくやった1楽章からしっとりした感触を残す演奏。若い感じもあるが、ファーストの震えるような細い音がいい。そのために迫力ある和音で弾けるべき表現に少しなよっとしたところがなきにしもあらずだが、野心的で荒々しいばかりがコノ曲の魅力でもなかろう。2楽章は1楽章に通じるピチカート主題を端緒として気まぐれに展開していく、かなり「やりづらい」楽章だ。パチパチ自在に跳ね回るとまではいかないものの、フランスの品を保ちイスパーニャな雰囲気も仄かに維持しつづけるバランスがいい(私はもっと激したほうが好きだが、結構演奏テクニックの相性が必要というか、じっさい難しい楽章です)。3楽章は重奏よりソロと和音という対照的な表現の交錯で微細な世界が形づくられるが、そのままやってもロマンティックで美しい。単にミューティングにより子守唄旋律を顕わにしないといういささか外道なやり方の発端から、中間部ではオルガン的な長いオクターブ重音とかけあうように単線で動く感傷的な音線で教会的な響きのうちに盛り上がりを作り、ミュートを外して解決の中間主題が陳腐に、しかし旋法的な動きにのって神秘的に歌われ、曖昧な調性の移ろいから冒頭の静けさに戻ってゆくが、そこにもミューティングにより陳腐さを暖かさにかえられた子守唄旋律がボロディンを模した締めにむかう。静かな独特の美しさをもった楽章で、ラヴェルはこの雰囲気音楽的な情緒(牧神の前哨とみなす人もいる)までは模倣しなかったが、古風なロマンチシズムすら感じさせるこの楽章、過度の浪漫を投入しないところがまたフランス派らしい表現である。終楽章はかなり謎めいたところがあり、3楽章と全く性格が違うにもかかわらず関連性があるかのような序奏部の静けさには4楽章構成という形式への挑戦の意図もあるのだろう。トリルの多用は単純に気を煽る効果と音色効果がありピアニスト作曲家にはよく見られる盛り上げ方だが、ドビュッシーの場合あるていど構造的効果を計算したトリルであり音の選び方も独特で、複リズム的発想が確かにある。スクリアビンが書くトリルとは違う(スクリアビンは弦楽器の曲を書いていないが)。焦燥感のある音線が従来的な勝利への方程式の「フリ」を独自の方法で提示しているが、このへんの書法については少し異論を唱えられそうな長たらしいかんじもある(形式打破にはこの有機的な「煮え切らなさ」の投入は仕方なかったのかもしれないが)。通奏主題のもはや三連符のリズムしか残っていない変化形の第二主題が、全曲の肯定的解決としてはじめD線音域で提示されるがこの下から入って最後高らかにうたう方法は前時代的であったりするものの、とても効果的だ。このへんはちょっと譜面を率直に読んだだけのような感じはするが下品にならないくらいに盛り上がる。焦燥感の表現として再現される第一主題から更に通奏主題やら2楽章第一主題(通奏主題の変化形)や第二主題が音を変えてリズミカルに織り交ざり、これもロシアの形式音楽の「大団円」への各モチーフ再現のやり方をぎゅっと凝縮したもので、非常にトリッキーな動きからいやおうにも気分を高揚させられるし演奏者はよく練習することを要求される。こういったところで煌びやかなアルペジオの繰り返しを投入する方法はラヴェルに受け継がれる。新鮮な音階を最も新鮮に聞かせることができる方法だ。いちいち創意を挙げだしたらとんでもないことになるのでこの楽章と3楽章はかなりはしょって書いているわけだが、コーダは結局エスパーニャなファーストの駆け上がりで大団円となる。ヴィア・ノヴァはまずは及第点といっておこう。

非常によく比較されるラヴェルのものに比べ、旋律性の高さから音感は単純素朴に感じるが、その新鮮な(決して「新しくはない」)和声感・移調+「リズム(ピチカートも一種の打楽器だし3拍を基準としたトリルやシンコペなども同様)による旋律表現」の構成の妙を押し出した、循環的形式のかもす直線性の裏に確かに極めて入念に巧緻に仕組まれた理知性が存在し、それこそがそれまでのカルテットになかった「新しい美しさ」の鍵となっている。前時代~ここには遠く飛び越えて古楽、南国やロシア経由のオリエンタリズムも含まれよう~の音楽への深い造詣が、更に独自の構成や創意をもって別の大成をなし、結局後代のカルテット作品表現をがらっと変え、いわば現代との橋渡しとなったものである。19世紀後半ロシアに多産された掟破りなカルテット群もドビュッシーへの伏線であったといえばとてもわかりやすい位置づけにおさまる。要素要素はどこからか持って来たものであるとはいえ・・・効果的な立体感と高揚感をもたらす「変則リズム」の源には確実に国民楽派の得意とした「踊りの主要素としての”リズム旋律”」がおり、構成論理的にはかけ離れたガチガチ形式的なボロディンを想起するのはこのあたりのせいだろう。また6連符の動きの上に不規則な4拍子の旋律を載せてくる、そういった二拍三連のようなものを効果を狙って投入してくる構造的な「創意」については、あるいはオクターブ重音のようなものをただの「音の増強」としてだけではなく音色表現の劇的変化を狙って突っ込んでくるといったやり方など、嫌っていたといわれる「しかし確かに革新者であった」ベートーヴェンもしくはワグナーの「王道」に源はある・・・「理念ではなく作品の完成度としては牧神すら凌駕するのではないか」?一部論者の述べるような「ラヴェルよりよほど落ちる」ものとは言い難い。今普通の人に聞かせて「どっちがわかりやすいか」と問われ皆が向くのはこちらであることは自明だろう。ラヴェルは自分で新しいものを生み出そうとしたらドビュッシーあたりに既に開拓されてしまっていて、結局数学的な理知性の追及に走りはからずも現代への扉を更に大きく開けてしまった人である。作品中使用される不協和音を吟味すればドビュッシーがあくまで「どこかに存在する”耳障りのいい不協和音”を発掘・”凌駕”しよう」という意識に立脚しているがゆえに「聞きやすさ」を獲得しているのに対し、ラヴェルが既に踏まれた轍のうえで「独自の別の音を創出すること」を目したがため、曲の一見優しげな表情に不適切なほど硬質で奇怪な不協和音が突出したりするのがわかるだろう。特殊奏法への意欲の差にもあらわれている(フラジオまで使うオクターブ跳躍を伴う装飾音など、古来演奏手法としてはあったものの、ここまで凝ったものを楽譜上に明記し無理に弾かせるなどラヴェル以外の誰もやっておらず、ちゃんと弾けている例も余りない)。まあ、聞けば聴くほどベツモノです。そして優劣などつけられない。ただ、ラヴェルのほうが後だったがために「影響を受けてしまったマイナス面」と「構造的完成度を上げることのできたメリット」はある。ここだけでドビュッシーをつまらんとは言えないよなあ。それぞれの作品の、同時代の目で見よう。 (2007/3/8)

○ガリミール四重奏団(新)(vanguard)

可も無く不可も無くといった感じもするが、聴いていて心地いいたぐいの演奏で、扇情的にも客観的にもなりすぎず、アメリカのすぐれた団体の演奏を聴いている感じがする。デジタル初期ということもあり、録音のほうにやや硬質で金属的な質感がのこり、そこが他の現代の音盤と比べて余り特徴的に聞こえてこないのが更に無個性であるという印象につながっている。しかしまあ、可もなく「不可も無い」わけで、○くらいには十分なりうるきちんとした演奏。ちなみに即物主義ではちっともありません。ちゃんとロマンティックです。

ブルガリア四重奏団(harmonia mundi)

古今東西の弦楽四重奏曲の歴史を一気に二巻のLPにまとめた後編の冒頭に収録されているもの。クロード・ロスタンによるブックレットなどクレジットより曲紹介に終始しており、基本的に「紹介」なので余計な解釈を入れずかなり生硬にやっているのかもしれない。つまりはつまらない。見せ所がない。譜面に忠実な演奏といえばそうかもしれないが、この曲に余り譜面の読みどうこうというのはいらない気もする。あくまで「紹介」としてしか聴けない演奏。うーむ。

○パレナン四重奏団(EINSATZ/PACIFIC)1950年代・CD

モノラル録音のほうで、ドビュッシーとラヴェルというステレオと同じ組み合わせではあるが、よりはっきりとしたコントラストをつけた激しい目の演奏にはなっている。ラヴェルのほうが集中度が高くスピードもあるように感じるが、こちらドビュッシーでは重いテンポでねっとりした感すらある1楽章からやや生硬な2,3楽章、そして4楽章では録音こそふるわないものの輝かしい終結に向けてしっかり設計がなされ、それまでの楽章で感じられた縦を意識した堅い表現というものがロマンティックさを帯びてなかなかに美しい。個性的な解釈が随所にみられるが基本的にはフランスの楽団という印象、技術的にもその「色合い」が強い。○。 (2007)

パレナン四重奏団モノラルLP期のPACIFIC録音だが、ドビュッシーに関しては師匠のカルヴェを想起させる感情的な動き、音色の暖かな揺らぎが感じられる。後年かなりクリアな演奏を志向しただけにこの若さや50年代的な力強さ、陶酔的な表現は意外でもあり、楽しくもある。時代のわりの音の悪さはかなりマイナスだが、参考盤としては十分か。○。 (2010/8/19)

○パレナン四重奏団(EMI)1969/7・CD

テンポが「遅いほうへ」伸縮する独特のスタイルを持ち、2楽章などかなり生硬ではあるものの、ラヴェルに比べるとずいぶんと情緒的な音色の感じがするのは曲のせいか、師匠カルヴェの影響か、ファーストのヴィブラートのかけ方が甘い古いスタイルのせいもあろう。この団体は技術的に特にすぐれているわけではなく、旋律勝負なところのあるこの曲のようなものでは、ファーストの音が細く弱いのは難しいところだと思う(もちろん録音当時のことであるしデジタル化時に痩せてしまった可能性も高い)。情熱的な表現が苦手なのかもしれない、と思った。テンポが遅く感じるのは勿論演奏があるていど制御されたレコーディングとして行われているという点が大きいだろう、終楽章最後のプレストで異常にテンポアップするところを聞いてもけっして技術的に速いテンポをとれなかったわけではなかろう(最後のファーストの駆け上がりでクレッシェンドが足りないし、頂点で音が揺れすぎとは感じた)。情緒的演奏ではあるのだが客観的に情緒を演じているように感じさせてしまう。3楽章は印象的な沈潜の仕方をする。今ひとつ乗りきれなかったが、独特さを買って○。 ensayo盤はこれとは別という説があるが未聴。

○ヴラフ四重奏団(SUPRAPHON)1959・CD

往年の東欧の名演のひとつとされるドビュッシー・ラヴェル集だが、非常に特異な演奏スタイルが聞いて取れる。ここにテヌートでつながった音符は存在しない。全部いちいち切られている。それが悉く四角四面で理知的な印象をあたえ、極めて人工的である。テンポはまったく揺れない。ひたすらゆっくりしたインテンポが維持されるが、しかしおかしいのはフレーズ毎にブツ切れにされた音符を、その切れ切れそれぞれの中だけで異常なくらい生々しく多彩な音色表現が施されているのだ。現代的なシャープな解釈とオールドスタイルのフレージング処理が平行線のまま最後まで続く。うまいのかヘタなのかまったくわからないが現代の耳からすれば下手なのだろう。ただ、異様な解釈が諸所に点在し、ロシアにもアメリカにもない、いや東欧にすらない、独特のドビュッシーがここにある。存在感、そして特異な解釈だけで○にしておくがしょうじき面白いとは思えない。録音はステレオ初期だがCD復刻では音が硬く倍音が減りとても聞きづらい。

○テシエ、ユーオン、バロー、コーディエ(musidisc他)

なかなか盛り上がる。演奏的にはフランス派のそれだがパレナン以降のような冷徹な方向にはいかず時には熱く時には丁々発止でわたりあう。このメンバーは知らないがいずれきちんとしたアンサンブルの訓練を行っている団体だろう。○。

○カーティス四重奏団(westminster)

この演奏の独創性は非常に大仰大胆な伸縮、アーティキュレーション付けとそれに反して分節をきっちり別けるように、音をいちいち切って思いなおすボウイングの細かく正確に計ったようなテンポ感、その両者の上に一種浅やかな音色が載っている点にある。前時代のロマンティックな演奏ではない、ロマン性を分析したうえでデフォルメし、あくまで譜面上に反映してから表現したような演奏ぶりはドビュッシーのこの曲に横溢する前時代的な音楽の激しさを、表層的な表現の過虐とは逆に落ち着いた客観的なものに引き戻すようなところがある。どちらかといえば硬質な音色についてはウェストミンスターの録音特有のものもあると思うが、楽器特有のものかもしれない。技術的には決して技巧派集団というわけではなく、技巧が表現しようとしているものについていかなかったりしているような場面も聞き取れる。面白い演奏で、ドイツ的アメリカふう解釈といったもので例えばロシア式とはまったく異なる感がある。○。

~Ⅲ

○ロート四重奏団(ODEON)SP

深い音色で丁寧に綴られる緩徐楽章。前時代のロマンティックな演奏様式はフレージングにあらわれるがそれほど鼻につく感はなく品がよい。ひそかに息づくようなテンポ運びが美しい。中間部はスピットにテンポが上がり躍動感ある、しかしインテンポで盛り上がる。頂点ではさすがに甘やかなポルタメントが入りまくるが、技術的に安定しているのでおかしくはならない。書法上旋律が薄くなるのは仕方ないが音色でカバーしている。非常に丁寧によくできている。○。
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ディーリアス 歌劇、合唱、歌曲(村のロメオ~楽園への道を除く)(2012/3までのまとめ)

2012年04月24日 | Weblog
1幕による歌劇「赤い鸚鵡(マルゴ=ラ=ルージュ)」(1902)

デル・マー指揮BBC合唱団・管弦楽団(arabesque)世界初録音1981

既に確立したディーリアスのサウンド・スケープが始まると安堵する。以後もゆったり安心して聞ける。これはフロリダなどの垢抜けた能天気から一歩踏み出した佳品であり、未出版であったのが不思議なくらいディーリアス風景を効果的に描き出す。冒頭からもう期待通りの音、ディーリアスは器楽曲などではあからさまな旋律的楽曲、大規模な歌劇ではワグナーふうの少し複雑で大仰な景色を見せ、後年ではヴァイオリン協奏曲など可成晦渋な内面世界を描き、総じて賛否分かれる作曲家だ。だがこれは完成度が高く、満足できるでしょう。蛇足で恐縮だが歌も美しい。ラヴェルがヴォーカル・スコアを起こしたのは有名な話し(極めて珍しいことだろう。ラヴェルのディスコグラフィにもちゃんと載っている)。

多分この盤しか無いが、ヴォーン・ウィリアムズの弟子デル・マーの棒はマッケラス張りのしっかりした、しかも繊細な配慮のあるものだから、安心して聞ける。「魔法の泉」も収録。

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歌劇「コアンガ」

~ラ・カリンダ

◎ビーチャム指揮?(DA:CD-R)1943/7/6ArmedForcesConcert・放送live

「コンサートホールオーケストラ」の客演記録。こういう曲でのビーチャムはすこぶる巧い!爽やかな一陣の風のように浮き立つようなリズムと憧れに満ちたフレージングで曲の若々しき魅力を存分に味わわせてくれる。オペラのアリアをコロラトゥーラ・ソプラノの名手リリー・ポンスとつづったコンサートで間奏曲的に挿入された演目。録音は劣悪であるもののノイズが抑えられ原音が失われていない。◎にさせてください。晩年ではないスタジオでもないビーチャムの「本来の魅力」を垣間見させる一片の名演。

(フェンビー編)

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD

ほんらいボロディン的な疾走する音楽のところ、しっとり落ち着いた壮大な音楽にしてしまっているところが独特の軟らかい演奏。管の音色はすばらしい。

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歌劇「ハッサン」

~間奏曲とセレナーデ(ビーチャム編)

○ビーチャム指揮シアトル交響楽団(DA:CD-R)1960/2/18live

インホール録音か。音がうぶなステレオで明晰過ぎるくらい明晰(雑音も無論ある)。弦楽ソロを多用したシンプルなものゆえに一音一音を明晰に響かせるビーチャムのアンサンブルはとても美しく、少ない音の中、ハープがドビュッシーのように響いたりとはっとさせられる。ビーチャムのイメージとも、アンコールピースというもののイメージとも離れた詠嘆の表現とも言うべき、しかしとても乾燥した美麗さをたもった演奏ぶりだ。客演でもここまで冷え冷えと硬質に磨かれた演奏ができたのである、ビーチャムという人は。○。続けて演奏されるセレナーデは本来歌曲。無歌詞テノール独唱への編曲も行っている(バルビローリがこの編曲を使用している)。

○フェリックス・スラットキン指揮コンサート・アーツ管弦楽団、ポール・シュア(Vn)エレノア・アレア(Vc)(CAPITOL/PRISTINE)1952/9/8,11

バックオケが強すぎるな、編成が大きいのか奏法を揃え音量を出させ過ぎているのか、でも、旋律がはっきりしている曲においては、このコンビでも違和感は薄い。どうもPRISTINEの原盤が状態がそれほどよくないようで、靄のかかったような音がちょっと気になる。○。

(無歌詞テノール版)

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団、ティアー(T)(EMI)1968/8/6-8・CD

連続して演奏される抜粋編曲で小夜曲では無歌詞によるテノール独唱と低弦アンサンブルが接いで旋律を受け持つ。バルビのディーリアスはビーチャムやマッケラスなどとまるでちがっていて、RVWの音楽のようなウェットなロマンチシズムを持ち込んでいる。有機的なフレージングとボリュームのある音質・音量が目立ち、音響的にはそれほど重心の低い安定感はないものの、フランス音楽よりはドイツ音楽、それもロマン派のそれに近いものを感じさせる。短い曲ではあるが、ビーチャムの同曲演奏が好きな向きにはとても受け付けない「臭気」がするだろうと思う。もちろん知らなければ素直に愉しめばいい。私は今は余りこういう演奏は受け付けない。録音最上。○。

~セレナーデ(チェロ編曲)

◎ベアトリス・ハリスン(Vc)マーガレット・ハリスン(P)(SYMPOSIUM)1929/10・CD

初期作品の編曲だがやはりボロディンの影響を受けていた頃のディーリアスは旋律が瑞々しくわかりやすい。ハリスン姉妹の中でベアトリスは際立って巧い。ヴァイオリンのような音色でまさに歌そのものを素直に聞かせる。アンコールピースに適した曲だが、見本のような演奏なので◎。 (2008)

ハリスン三姉妹の私的な記録なのだろうか、いかにも甘い初期作品の旋律をチェロ音域でロマンティックに描いており、ちょっと録音が悪いので楽しむまではいかないが、時代の雰囲気と、比較的若いころのディーリアスの思い描いた音楽のイメージが感じ取れるものである。個人的にはもっと自然に旋律の美しさをそのまま描くほうが入り易い。ちょっと胃にもたれる。ボロディンの中央アジア世界からくるオリエンタリズムの直の影響を受けていたころの歌劇作品からの編曲。 (2009/10/4)

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歌劇「イルメリン」

~前奏曲

○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(EMI)1956/10/28・CD

グリーグふうのロマンティックな小品だが僅かにフランスふうの先鋭な響きが交ざる。セルの厳しい統制はディーリアスの微細な動きや響きの揺れを的確にとらえ、効果的に刳り出している。モノラルで弱い録音が惜しい。

○セル指揮クリーヴランド管弦楽団?(DA:CD-R)1967/10/6live

録音も弱いのだが、客観的に整えた演奏という印象。こじんまりとして何の感傷もなく、すんなり過ぎてしまう。○にはしておくが取り柄のない演奏。

○バルビローリ指揮ロンドン交響楽団(EMI)CD

鄙びたような揃わない音が田舎ふうの卑近なディーリアス像を提示し印象的なハレ管ものに比べ、演奏的には安定しコンサートホールの音楽として安心して聞けるLSOとのものだが、録音も贔屓されている節がありとても聞きやすい。この感傷的な曲においても過度に感傷を煽らず少し客観性を持たせているようで、バランスよく聞ける。○。

○ビーア指揮国立交響楽団(DUTTON)1944/6/8・CD

SP期にはよくわからない指揮者の名前が比較的多く見られ、楽団名も定かではない場合が多い。イギリスは音楽消費国として今も一大市場を保っているが、録音に関してもエルガー自作自演を頂点として様々な、多くの録音を作ってきた(もちろん今もそうであるが中欧の有名オケに名を売る踏み台になってしまっている感も強い)。この演奏は古い録音ならではの感傷性があり、ビーチャムの速度感に近いものもあるのだが、気持ちの良い演奏となっている。録音の悪さはもうし方なく、DUTTONなのでこれ以上を望んでもしょうがない。最初ビーチャムかと思ったくらいだが、まあ、そのあたりは。○。この曲、私も記憶が曖昧なので申し訳ないのだが、ほんとにイルメリン前奏曲だったかなあ・・・

○フェリックス・スラットキン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(CAPITOL/PRISTINE)1952/9/8,11

特徴に乏しい解釈ではあるがディーリアスのスコアをしっかり表現した演奏としては特徴的ではある。ディーリアスのスコアはひょっとして下手なのかな。みんな手を入れてるのかな。室内楽もビーチャムとか手を入れているし。だが、ヴァイオリン曲はけっこういいのに。○。

~2幕と三つの情景

○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル、ステュワート(T)ラウンド(MSP)(WSA/DA:CD-R)1954/9/16LIVE

DAの放送盤はビーチャムによる舞台解説から始まるが、最初の管弦楽だけによる前奏はつまらない。初期ディーリアスのワグナー/リヒャルト的な、もしくは国民楽派的な生硬な部分が出てしまっている。しかし所々にあらわれる非ドイツ的な情景、ゆっくりたゆたう響きにビーチャムは絶妙なバランスと音色操作をほどこし、芯は残るものの美しくまとまっている。聴きどころはやはり歌が入ってからで、歌劇から名を売ったディーリアスの面目躍如たる、楽園への道にきかれるような明るく濃厚な表現が、アパラチアのアメリカ的音階や前時代的な通り一遍な作法を押し退けてきこえてきてよい。状態からいって歌が入って以降はスタジオ録音の放送の可能性もある。WSA(LP)は協会盤に近い頒布盤のようだが、2幕より3つの情景となっている。未検証。○。

*************
歌劇「フェニモアとジェルダ」

~間奏曲(フェンビー編)

○バルビローリ指揮NYP(DA:CD-R)1962/11/30live

まさにディーリアスといった様子のいい意味でも悪い意味でも「外れることがない」作品である。「楽園への道」をさらにわかりやすくしたような、更に微温的にしたようなやさしい作品であり、バルビの真骨頂ともいえる。ちょっと主張が強すぎると感じられる向きもあるかもしれないがオケのせいだろう。だがこのオケがよくハマっている。NYPというとどうしても余りバルビを受け入れなかった(オケか聴衆か今となっては定かではないが)イメージがあるが、どうしてマーラーに代表される50年代以降の演奏にはぴたりとはまった名演が多い。バルビはアメリカのオケの人工的な音にはあわない感もあるがNYPは別である。録音はモノラルで悪い放送録音だが、ここでは安定感があり聴きやすいほうに働いている。○。

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD

ディーリアスらしい、というとかならず含まれる曲のひとつで、ロマンティックな田園牧歌、そのものである。バルビもここではただ密やかに、軟らかな表現を提示するしかない。

*************
アパラチア

○ビーチャム指揮ロンドン・フィル他(centurion)CD

いちばん「びみょうな」時期のディーリアスの大曲で、たとえば「伝説」などグリーグをアマチュアが書き直したような浅薄で生硬な書法が前半支配的であるが、そこにアメリカの農園での経験に基づく黒人民謡ふうの素材が加わり、独特の雰囲気がやや機械的に付加されてくる。そして、やっと「ひたすら教科書的な三和音による安定した音楽」が「ディーリアス独自の響きを伴う音響」へと変化していくと、男声合唱がひそやかに加わり、さっぱりとした感じで颯爽と、音楽は流れていき、終わる。トラック分けが細かいなあとも思った。つまりは、余りにあっさりしている演奏様式なのに曲自体の冗長退屈な部分がちっとも改善されない、という何か凡庸な作品を聴いた印象だけが残ったという話。演奏のせい?何のせいだろう?

スリムで聴きやすい。この曲に透明感は逆効果の恐れもあるためロンドン・フィルの程度のいい音は耳なじみする。○。

(リハーサル付)

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団他(EMI)CD

リハーサルはモノラル。冗談交じりの暖かい雰囲気は、この指揮者最後の録音の一つとなった盤を一そう感慨深いものとしている。しかし指示はしっかりしている。曲はディーリアス生涯全般の作品群内では異色のブラックミュージックもので(と書くとイメージ違うでしょ?)放蕩者だった若きディーリアスがアメリカの農園に送られたとき聴いた「昔の農奴の歌(副題)」を主題として、都会の陰鬱で不健康な生活から離脱して経験したからっとした緑溢れる明るい風土の印象をもとに、同名のコープランドの作品をもちょっと思わせる、力感溢れるも浅薄単純な(RVWの民謡編曲的な)感じもするはっきりした表現を使用したもので、比較的若い生硬な作風を残したものとなっている。だからドイツ後期ロマン派ふうの重厚で非個性的な音楽も織り交ざり、バルビのドイツ音楽をやるときの芸風を寧ろ思わせる覇気を引き出されてもいる。演奏のせいというより曲のせいで合唱歌唱も至極明るく、バリエーション的に綴られる管弦楽曲の中にそれほど強烈な印象を与えることなく埋め込まれているのみだ。演奏的に起承転結が余りはっきりしないようにも感じるが、バルビが緩やかに衰えたのではなくほんとに突然死したのだなとわかる生気に満ちた表現が目立ち、いっそ印象的である。曲も演奏もそれほど記憶に残らないたぐいのものではあるが、○。

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牧歌

○フィッシャー(Sp)ウォルタース(B)バルビローリ指揮BBC交響楽団(DA:CD-R)1952放送

イディルを牧歌と訳すとパストラレと差がなくなり意味合いが多少ずれてしまう感もある。しかしパストラレという言葉のほうが似合うような、終始変わらぬ恍惚とした演奏ぶりで何とも言えない生暖かい雰囲気がある。歌唱はいずれも明瞭で沈殿する感じはないが、ディーリアスはこれだ、というバルビの確信が勝り曲の内容まで変えてしまったかのようなところがある。もっともオケが比較的冷静であるため生臭さがなく聴き易い。ハレのものより大人の演奏のように聞こえた。しかし、録音はかなり悪いモノラル。○。

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夜想曲「パリ」~大都会の詩

○シルヴェストリ指揮ボーンマス交響楽団(bbc,medici)1967/3/2live・CD

情緒深く表現されるディーリアスの世界。ワグネリアンそのものであるディーリアスのうねるような情緒がドビュッシー的なパセージや和声を絡め大都会パリの陰影を思い出をこめてうたわれる。求心力の弱い演奏であってもそれなりに聴けてしまう職人的なわざの篭められた大管弦楽曲として、しかもシルヴェストリだからかなり力強い情感が迫り、ディーリアスというよりもっとドイツ的な重厚さはあるにせよ動かされる部分はある。長くて飽きてしまう、みたいなことはありません、わかりやすい。○。

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高い丘の歌

○ロジェストヴェンスキー指揮BBC交響楽団、合唱団、BBCシンガーズ(IMP/BBC)1980/12/10ロイヤル・フェスティヴァル・ホールlive・CD

生気ある演奏で、かつ重厚な構造的表現はロシア国民楽派の「ましな」交響曲の解釈を髣髴とさせる。ミャスコフスキーの交響曲を思わせる音感があるが、しかし弱音部の静謐な表現はロシアものではありえない精妙な音響で唸らせる。ロジェストのイギリスものはほとんどみかけないがライヴではもちろんやっており、ややロシア臭が強くて演奏精度にも問題がある無骨なものもあるが、これは美しい。ディーリアスが作曲家として「プロフェッショナル」なのだということも考慮におくべきだろうが。しっかりした曲構造を持っている。

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人生のミサ(1904-5)

○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル、ロンドン・フィルハーモニック合唱団他(CBS)1952/12モノラル

無宗教を貫き終生リアリストであったディーリアスの、それでも魂を揺り動かすようなこの合唱曲は、平和な時代を生きるわれわれにも深い感動をあたえてくれる。ニーチェの「ツアラトゥストラはかく語りき」の抜粋を用いた、2部構成全11曲の大曲だ。ドイツの指揮者カッシラーに献呈され、抜粋もカッシラーによって選ばれている。通常英語版を使用するが、元はドイツ語版である(ディーリアスは何故かドイツで人気があった)。ソプラノ、アルト、テノール、バリトン全ての独唱者を必要とするが、決して独唱主導にはならず合唱と管弦楽と巧みに絡み合って、ディーリアスの鮮やかな手腕が冴える。支援者であり紹介者であり、それ以上に「ファン」であったビーチャムは、その機敏な棒と鋭くも暖かい音色によって輪郭の明瞭なディーリアス像を描き出す。その恣意性に対して好みはあろうが、優れた解釈者であることは間違い無い。このような合唱曲でも、歌劇を意識した如きドイツ風構築性を感じるところにビーチャム・ディーリアスの特徴が伺え、至極自然に楽しむことが出来る。しかし・・・ディーリアスの、繊細な音の綴れ織りは、先ずもって古いマイクでは拾いきれない。ビーチャムのモノラル旧録は、それゆえ推薦するには躊躇をおぼえる。流麗な曲作り、雑音の奥に聞こえる美の豊潤さは、意識して聴けばそれなりに楽しめるものではあるけれども。ビーチャムのモノラル録音は作曲家存命期からかなりの量が存在しているが、最近相次いで復刻され店頭を賑わしている(NAXOS)。でももしビーチャムのディーリアス未聴なら、先ずEMIのステレオ(ビーチャムの寿命はステレオ時代にギリギリ間に合ったのだ)盤から攻めてほしいとおもう。不用意なマニア盤への接近は悲劇的な結末を呼ぶ。と書いておいてなんだが、この大曲はモノラル録音しか残っていない・・・。ごめんなさい。壮麗で感動的な冒頭。1曲めは非常に印象的。ダイナミックな音楽で、マーラーの「千人の交響曲」を思わせるが、ディーリアスだけに野暮に感情を露にすることはない。特有のマニアックな音形が前面に立たないのでこれまた聴きやすい。ビーチャムは速めのテンポで音塊の俊敏な流れを作り、同時に威厳に満ちた美しい音響を紡ぎ出してゆく。集中力の高い好演だ。歌手陣も負けてはいない。管弦楽をバックにした合唱の扱いも老猾だ。録音の問題で音像がぼやけ気味なのが気になるが、進むにつれ安心して聴けるようになる。豊潤な楽想、隅々の創意が四方から畳み掛けてくるさまは「千人」以上に圧倒的で、兎に角この一曲め、全曲のききどころと言ってもいいだろう。3曲め、茫洋とし捕らえどころの無い霧の中で、微妙な不協和音が妖しい夢幻味を醸し出す。不思議な聴感だ。ディーリアス的個性は少し薄く、 ”子供の合唱”(にきこえる)が入るところなど、矢張り「千人」の第二部後半を思わせるが、その雰囲気は天国的というより異界的といったほうがいいかもしれない。さらに進むにつれ、楽想が沈潜しやや印象が薄まってゆく。反じて後半曲のほうがよりディーリアスらしい静謐な音風景を描きだしているとも言える。浸りきる音楽。その方がしっくりくると感じる向きもあるだろう。第二部の嚆矢では再び壮大なオラトリオが戻るがそれも長くは続かずに、やがてビーチャムもさりげなく流れを止め、大曲は終わる。同曲、無宗教による「レクイエム」とともに合唱曲における代表作となっており、グローヴス(EMI)やデル・マーなど新しい録音で一聴されたい。

○ノーマン・デル・マー指揮BBC合唱団等・交響楽団、テ・カナワ(sp)ダウド(t)ほか(bbc,intaglio)1971/5/3ライヴ

演奏の集中力の面ではビーチャムに水をあけるものの佳演である。録音はそれほど良くはない(歌詞がやや聞きづらいところがある)がステレオで明晰。グローヴス盤は1曲め”invocation”がビーチャムのように威張り胸を張る演奏よりも音の豊穣なひろがりを的確に押さえた優しい演奏で、ビーチャムをワグナー風解釈とすればさしずめヴォーン・ウィリアムズ風解釈といえるかもしれない。 3曲め「人生の歌」の響きには崇高さすら漂いテノール、ソプラノの恍惚の表情にしばし沈黙する。合唱が主張しすぎる感もあるが。同曲「楽園への道」と共通の素材が使用されている部分があり、のちのち雰囲気的にも似たアトモスフェールが支配する。マッケラスなど現代の素晴らしいディーリアス指揮者は、ビーチャムのような十字軍の時代に必要とされた、わかりやすくするための恣意性を排することで、よりディーリアスの意図した世界を近づけて呉れる。但し、ここに錯綜が生まれることもある。ディーリアンには堪らないが一般的には「わけがわからん・・・」それでも聴きたいなら、英語版で必死にヒアリングするか、ライナーや底本を読んで基礎知識を付けてから聴くべし。べし?

グローヴス指揮ロイヤル・リヴァプール・フィル、リヴァプール・フィル合唱団、ジャネット・ベイカー(Ms)他1968,EMI 1
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ディーリアス 管弦楽曲、協奏曲、室内楽、器楽曲(2012/3までのまとめ)

2012年04月24日 | Weblog
<(1862~1934)。ドイツ系。パリやパリ郊外に暮らし活動の場はフランスにあったが、生地イギリスでは国民的作曲家としてファンの多い人である。音楽的にはアメリカで生活したときに耳にしたアメリカ音楽にワグナーからの強い影響を加え、私叙したグリーグの繊細な民族的音楽からの強い影響が独特の折衷的作風に結実した。ドビュッシーと同世代だがその影響も受けており、ドビュッシーほど尖鋭ではないもののその初期に近似した和声感覚を導入、濃厚だが清浄という作品世界を確立。19世紀末のパリではそれなりに知られた存在となる。とくに現在は無視されているがオペラに旺盛な創作意欲を持っていたようである。一方でこの作曲家のメイン領域である小管弦楽曲もしくは交響詩も作られ始めた。国際的に活躍した作曲家であり、一筋縄ではいかない作風を持っているものの、ちょっと聴きすべて同じように聞こえてしまうかもしれないが、描写的表現の巧みさと心を抉り出すような実に感動的な音楽表現はすべて清澄なひびきに彩られ、水彩画のように美しい、まさにイギリス人好みの作品群として記憶に残る。若い頃のパリでの放埓な生活が晩年体中を虫食んだが、若いフェンビーの手を借りてその死まで作曲活動を続けた。晩年の作品群は音楽が純化され、もう目にする事のできない美しい風景に対する強いあこがれを託した傑作群となっている。>

春初めてのかっこうを聴きながら

○ビーチャム指揮LPO(DA:CD-R)1936/11/19

録音が非常に遠く弱いため(安定はしている)、いつもの独特の「スマートな押しの強さ」はないが、そのぶん曲の静謐さや繊細な動きに耳を集中することができこれはこれでよい。磁気テープの実験的初録音とあるが本当かどうかわからない。雑音があることは確かだ。あっというまに「あれ?」というように風の如く吹き抜ける細部に拘泥されない演奏。肝心のかっこうすら全体の田園風景の一部になっている。○。

○ビーチャム指揮シアトル交響楽団(PASC)1943/9/26live

ごく一部に欠損があるようだが気にならない。ビーチャムらしいディーリアスでまったく粘り気がなく、しかしながら構造を実に的確に把握し立体的な音響を聴かせるようつとめている。ディーリアスのような比較的ドイツふうで機械的な書法を駆使する作曲家にはこのような表現は向いている。さらさら流れるように進む中によく聴くと郭公の声が聴こえる、この絶妙さである・・・殊更に強調したりはしない。だが、私はケレン味が欲しいほうで、いつものことだが、ビーチャムのディーリアスは印象に残らない。綺麗さをとって○。録音は悪い。

○フェリックス・スラットキン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(CAPITOL/PRISTINE)1952/9/8,11

父スラトキンらしい強い表現で、室内楽団らしい輪郭のはっきりした(し過ぎた)アンサンブル重視の演奏。しょうじき、淡いディーリアス世界にこの即物性は違和感がある。そしてディーリアスのこのての作品はこうもあからさまに白日のもとに晒されると、よくわからない変な作品になってしまうのだ、という感慨も受ける。そう、演奏家を選ぶ。それに「室内楽団様式」では辛い。録音のせいもある。CAPITOLの太い音がLP特有のアナログな曖昧さと混ざって若干雑味を呼び込んでしまっており、それなのに芸風が上記のようだから、聴感がしっくりこないのだ。だからといって演奏技術は時代なりにではあるが研ぎ澄まされているし、情景描写的にはきついが、純音楽的に愉しむこともある程度は可能。室内楽団にしては大規模編成された楽団の上手さは他の演奏でも証明されている。○にはしておく。郭公の声がリアル。

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD

余りに感傷的な音過ぎて、描写的なフレーズがそのとおりに聞こえてこないほどの演奏。密やかで甘やかな、前時代的なロマンをしっとりうたう弦はハレ管にとっても絶後の表現を行なっていると言ってよいだろう。ディーリアスでは単純な弦楽合奏プラスの歌謡的音楽、こういうのを印象的に表現することこそが難しい。○。

○A.コリンズ指揮LSO(decca/PRSC他)1953・CD

コリンズは強い調子でいささかディーリアスの薄明の世界を損なうところがある。響きが分厚いのでどうしてもそうなってしまいがちなのは認めるが・・・これはカッコウがとても即物的だ。実際のカッコウはけっこう(爆)こういうぶっきらぼうな鳴き方もするのであながち間違いとも言えず、見識として敢えて描写的な表現を避けているのかもしれないがちょっと違和感があった。演奏は手馴れている。○。

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川の上の夏の夜

○バルビローリ指揮NGS室内管弦楽団(NGS)1927/1・SP

厚くもモダンで洗練された響きの移ろいを、纏綿とした旋律線で繋ぐやり方はまさに前時代の演奏様式ではあるものの、既に指揮者としての非凡な才能が開花していることを垣間見させる演奏。同時代のいろいろな管弦楽曲のアコースティック録音群の平均からすれば抜きん出ている。フランス音楽でもドイツ音楽でもないディーリアス独自の薄明の世界と同化したようなバルビと演奏陣の確かさに納得。録音は悪いが。正規ネット配信中。○。

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD

モダンなディーリアスがあらわれている、少し大人の点描的音楽だが、バルビはリヒャルトやシェーンベルクを取り上げたとき同様、音響やドラマを堅く組み上げるより、細かい近視眼的なニュアンス変化をつらねることにより官能性を薄く軟らかくたくさん重ねていくようなやり方で前衛的な不可思議さを感傷に逃がしている。

○フェリックス・スラットキン指揮コンサート・アーツ管弦楽団、ポール・シュア(Vn)(CAPITOL/PRISTINE)1952/9/8,11

この曲のほうがしっくりくる。地味なので、表現的に派手な楽団の個性が巧く抑えられているのだろう。薄明の音楽としてはやはり、不適当と言わざるを得ないお日さまのような演奏ではある。○。

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夏の庭にて

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD

バルビローリのディーリアスは軟らかい。やさしくてまとわりつく。ディーリアスが重厚なラインを骨太に響かせ構造に意味づけようとした部分でも、高音に力点をシフトしたまま妙なる色彩変化を繊細に穏やかに表現する。独特のやり方がしかし結果として最もディーリアスらしい世界を紡ぎ出しているところにバルビの才があるのだろう。反面とめどもなさに拍車をかけてしまうところもあるが、これは牧歌であり、叙事詩ではないのだ、これでいい。○。

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夜明け前の歌

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD

ディーリアスにとって夜は酒と官能のおりなすモダンな都会、朝は草いきれと靄がやわらかな日差しに照らされた田園である。前者は新ウィーン楽派ふうの洒落た硬質の響きで構成され、後者はマンネリズムも辞さないコード変化をつけられた民謡音楽となる。この曲はその変化を有機的に結合させたうえに描いたもので、バルビのようにさらに有機的に解釈されるとほんとうにとりとめもない起伏のないやおい音楽になるが、印象派的に聞けば悪くはない。○。

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北国のスケッチ

○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(M&A)1959/11/4BBC放送live・CD

2011年末新譜ビーチャムイントロントというカナダ客演集の付録盤に収録されているが、そうとう前に出た同レーベルの別盤に収録されていた記憶がある。音は悪いが圧はある。むせ返るようなというか、生命力の強すぎるビーチャム流儀のディーリアスで、民謡音楽の側面の強い楽曲をコントラスト強く表現していくさまは確かにディーリアスのある側面をよくえぐり出しているのだが、グリーグへの思いを漂わせながらも、さらに水彩画的なほのかな色彩の変化を楽しませたいところ、リヒャルト的な大仰さをロイヤル・フィルという強力で色のないオケに託したようなダイナミズムに違和感はなくはなかった。しかしこの統率力、ビーチャムは侮れない。○。

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ブリッグの定期市(イギリス狂詩曲)

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD

オケが天晴れ、ハレOにしては素晴らしく繊細で完成度が高い。バルビ最晩年の録音(スタジオ録音としては最後)であり、ロマンティックな重さ甘さがなくなって透明な情感がソロ楽器の「感傷的過ぎない研ぎ澄まされた表現」に象徴的にあらわれている。マッケラスを思わせる冒頭からの柔らかくも冷たい響きは、しかしマッケラスにみられる、ディーリアスにしてはシンプルな書法がはっきり出てしまったがゆえの一種世俗音楽的な軽さは出てこない。バルビ特有の震えるような匂いたつ音がここにはない、しかしやはり柔軟で有機的な音の紡ぎ方はバルビである。バルビの室内管弦楽団ものに時折聴かれるステレオ録音の妙な操作がここにもなくはないが、おおむねそういった「耳障りな要素」は無い。あきらかに「春の海」あたり和楽の影響のみられるフルート独奏からドビュッシー室内楽の影響色濃い木管アンサンブルの繊細さ、接いで弦楽合奏による響きは重厚だが単純な旋律についてはバルビがよく陥るロマンティックな臭気が抑えられやはり耳障りなところはなく、フォルテ表現でペットなどがのってきても、古楽的な純粋さは無いものの、それまでの穏やかな流れが邪魔されることはない。バルビのディーリアスを私はそれほど好まないが、これは最晩年らしいどこまでも横長で透明で、涅槃的な演奏として、録音状態のよさ含め薦められる。○。

○A.コリンズ指揮LSO(decca/PRSC他)1953・CD

グレインジャー譲りの夏祭りの民謡に依拠した限りなく透明度の高い曲でマッケラスあたりで聴くと美麗な反面中身も薄く聴こえてしまうが、アンソニー・コリンズはディーリアス集においては勢力のある態度を一貫してとっており、透明感とは程遠いロマンティックな重さと力強さを与えている。ディーリアス慣れしていない向きはわかりやすくこの世界への導入口を見つけることができるだろう。和声的な面白みもさることながらやはり旋律の盛り上げ方が絶妙でぐっとくる。私はバリエーションを好まないのだがディーリアスの変奏曲はブラームス的な臭さが無く、非常に注意深く独自の方法で構じられているので好きだ。○。

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交響詩「夏の歌」(1930)

◎バルビローリ指揮LSO(EMI)CD

グレ・シュール・ロアンの美しき夏。低弦の薄明の轟きからフルートの上昇音形とホルンの4音の遥かな対話にはじまり、長い序奏の中で明確な旋律を紡ぎだすことなく展開されてゆく朝の情景。絶妙の配合と起伏によって管弦楽が描くひろがりは、鳥達の囁きや草原のさざめき、農夫の欠伸、断片的なフレーズがいつのまにか一種の旋律構造を形成し、これが変奏の形をなしていることがわかる頃、別の民謡主題が加わってゆく。・・・農夫の口ずさむ歌。ディーリアスの開かない瞼の下に、耳から入った農村風景はどんなに美しく描きだされているのだろう。朝露の煌きに彩られて広がる音詩は、もはやそれ以上の何ら言葉を必要としない。バルビローリの感傷はわれわれの感傷として、クライマックスの哀しくも輝かしい慟哭をも、どうしようもなく込み上げる暖かい感動の中に、深く沈み込ませてゆく。ディーリアスにしては単純な曲かもしれない。フェンビーの口述筆記によるということは、他人の手が入っているということだ。しかし、これはディーリアスの傑作である。そしてこの盤は、バルビローリの傑作である。
(是非参考にしていただきたい本:「レコードのある部屋」三浦淳史著、1979湯川書房より第1章「夏の歌」)2005以前

単純でワグナー的な晩年作、演奏にも粗があるが、それでもバンスタにとってのマーラーのようにこれは、バルビにとって不可分の音楽になりきっており、もうそれほど長くはないこの指揮者が、死を目前とした~その目は既に開かなかったのだが~作曲家の、フェンビーの筆を使って描いた最後の想像の世界に自己を投入し、けして退嬰的ではなく、前向きとすら言える映画的な明るさのある音楽を、内部から再構築したものである。夏というはかない季節にたくした生命の賛歌であり、瞬の永遠性に対する「希望」。この作曲家の、それでも貪欲な生への希望が、この指揮者の、音楽をかなでることこそが生であり希望であるという信念と、まばゆいところで合致した。技術的にはいくらでも越えるものが現われようとも、未だ印象を拭うものがあらわれない名演。(2008/3/6)

○A.コリンズ指揮LSO(decca/PRSC他)1953・CD

最晩年のディーリアスがフェンビーの手を借りて書いたとされるものだがほとんどフェンビーが書いているのだろう。最盛期にくらべ極端に単純化されたスコアである。ディーリアスは自筆でものを書かなかったともいわれる(歌劇を書いていたころから既に訳者でもあったイエルカの手を煩わせていた)が、ここではもう「書けなかった」。四肢が麻痺し視覚も失われていた。でも70代まで長生きはしたんだけど・・・もう見られない美しき英国の夏の光景、その憧れがこのワグナーふうの黄昏を響きに籠めた名作を生み出した、と思われるが、表現によっては他の壮年期の管弦楽曲と変わらぬものになるのだなあ、と思ったのがアンソニー・コリンズの演奏で、書法の脆弱さや個性の退嬰がまったく感じられない。曲集の最後に収録されているからかもしれないがひときわディーリアス的な、とてもディーリアス的な曲として心に響いた。モノラルなのでおすすめはしないが。○。

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マルシェ・カプリス

○ボールト指揮ニュー・フィル(LYRITA)1973/8/15・CD

ボールトのディーリアスはきわめて珍しいが、ディーリアスの特にしっかり描かれた最盛期までの作品はドイツふうの重量感のある和声と明確な旋律性を帯びており、リズムは明確に打ち出されるもののそれほどリズミカルになる必要もないからボールトには寧ろ向いていると思う。この演奏もかなり上位に置ける素晴らしく立派な演奏になっており、晩年のボールトがまだまだ指揮において衰えをみせていない、しっかりした足取りにディーリアスのまだ初期の香りをとどめた民謡風旋律にも格好悪さを感じさせない響きの重量感で演奏を非常に上手くまとめている。短いのでこれだけで評価というのは難しいがボールトらしさというのが渋くて鈍重というイメージでは語れない部分というのを感じさせる演奏。RVWが演奏できてディーリアスが演奏できないわけはないのだ。

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アリアとダンス

○ボイド・ニール弦楽合奏団(HMV)1948-49・SP

ディーリアスはドビュッシーを先駆けた等々言われることもあるが思いっきりロマン派の人であり新しい領域に踏み出したというのはあくまでその「個性」という範疇を出ないもの。ディーリアス民謡とでも言うべき儚い旋律と重いハーモニーの連続がここでも物憂げな雰囲気をかもし出しており、ダンスでいきなりテンポが変わったとしても結局ディーリアスでしかない音楽。演奏もディーリアスとしかいえない音楽を提示している。

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ダンス・ラプソディ

○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(DA:CD-R)1951live

しわがれた声による軽妙なトーク付きだが演奏はいたって締まった爽やかなもの。録音は極めて悪いが、それでも心地よく、まだ初期の香りの残る曲の旋律性を楽しめる。1,2番どっちかわかんない。たぶん2番。○。

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二つの水彩画(フェンビー編)

○バルビローリ指揮ロサンゼルス室内管弦楽団(DA,VIBRATO:CD-R)1969/11/17LIVE

ウォルトンなどと一緒に演奏・放送されたもの。この曲は非常に簡素なオーケストレーションの施された弦楽合奏曲で、合唱曲「水の上の夏の夜に歌わる」から編纂されたものだが、動きのない和声的な一曲目と、民族舞踊ではあるが「早くはなく」との指示があるいかにもディーリアス的な二曲目からなり、演奏技術よりも、いかにアーティキュレーションを効果的につけるか、表現の振幅をこの揺れの無い微温的な楽曲のうえに描き出すかが鍵になっている。バルビは好んでこの曲を演奏したが、ディーリアスの他の「簡素なほうの」曲で示した独自の耽美世界をここにも描き出そうとしている。しかし曲自体それほど長くも激情的でもないだけに、バルビ的というほどの個性はきかれず、フレージングの節々でみられる微細なポルタメントなどバルビ特有のものはあるものの、爽やかに聞き流せてしまう。いや、この曲ではそれで十分か。○。録音の位相がおかしい。元からの可能性もあるが、左右逆かもしれない。

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ヴァイオリン協奏曲

○プーネット(Vn)ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(EMI)CD

即物的でちょっと聴き単調ではあるが非常に充実した演奏ぶりで、技術的にも解釈的にも完璧なのではないかとソリスト・オケ共に思わせる(両者が絡みあい不可分になっている曲だ)、では◎にしないのはなぜかといえば録音の悪さだ。正規録音とは思えない音質の箇所がいくつもあり、ディーリアスの要ともいえる微細な音調や装飾音、オクターブ重音といったものが聞き取れない。演奏振りからしてちゃんと弾いているとわかるがゆえに更にもどかしく、この一見とりとめのない狂詩曲ふう協奏曲・・・しかしディーリアスの真骨頂ともいえる様々な独創的表現の万華鏡ぶりが楽しめる・・・の構造すら見えにくくし、晦渋でわけがわからない雰囲気音楽という、ディーリアス本人にとって恐らく不本意な印象をあたえかねないものになってしまっている。

これはソロ譜をさらってみるとよくわかるが決して構造的に気まぐれな曲ではなく、巧みにオケとソロパートが組み合って初めてそれとわかるような旋律構造や音響的配慮が縦横に張り巡らされており(とくに前半)、退嬰的な後半部においてはディーリアスに期待される黄昏の情景が和声的なオケとラプソディックなソロという単純化された対比の中に効果的に描き出されたりし、聞き込むとけっこうにいろんな音が聞こえてくる。「ディーリアス」=民族音楽的、「ディーリアス」=リヒャルト・シュトラウス的、「ディーリアス」=ドビュッシー的、「ディーリアス」=スクリアビン的といったさまざまな局面での特徴が全て兼ね備えられているといってもいい。色彩的で煌びやかで決して重くならないスマートなビーチャムに弓圧をかけひたすら骨太に紡いでゆくプーネットという組み合わせはその多要素混在状態を綺麗に交通整理してあっさり聞かせてくれる。だがこの音質では「あっさり」「骨太」の二つの強い要素だけが印象付けられてしまう、それだけだと冗長でわけがわからない曲になってしまう。

リマスター版が出ているかどうか知らないが、それが施されるにふさわしい録音であり、また、楽曲自体が非常に繊細で細密であるがゆえにモノラルで聴くことにそもそも向いていないということから、たとえ何か欠けていたり過剰であったりしても新しい録音をとるべきかもしれない。

~抜粋

メイ・ハリスン(Vn)オースティン指揮ボーンマス・マニシパル管弦楽団(SYMPOSIUM)1937/5/13live・CD

シンポジウムの「状態の悪いSP並音質」はいつものこととしても、とにかく演奏が恍惚としすぎてウンザリしてくる。いや、さすがディーリアスと親交深かった人だけあるにはあるのだが、ちょっと法悦的すぎる。長いのだ。かつ、四箇所に分断されたSP録音なだけに聞きづらい。雑音まみれの物凄いロマン臭をはなつ曲だなあというかんじ。無印。

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ピアノ協奏曲

モイセイヴィチ(P)サージェント指揮BBC交響楽団(Guild)1955/9/13プロムスlive・CD

僅かに旋律や和声に工夫を加えた偽グリーグと言ってもいい三流ロマン派ピアノ協奏曲。ディーリアスを聴くには物足りなさこの上無い古臭い脂肪のついた重い楽曲だ。短い単一楽章であることが救いか、いや物足りなさに拍車をかけるか。モイセイヴィチの演奏は無難。なんか書くことが思いつかない。録音悪。無印。

モイセイヴィチ(P)C.ランバート指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI,HMV/testament)1946/8/24studio・CD

華麗なピアニストに腕利きのオケ、きびきびした指揮者による演奏・・・なのだが曲が余りに不恰好だ。単一楽章だが一応三部にわかれ、有機的に繋がっているというより古風なロマン派協奏曲が接合されていると言ったほうがいいような形式。何より余りに気まぐれな転調の連続と楽想展開に聴いている側が気持ちが悪くなる。これがピアノだけ、もしくはオケだけ(できれば弦楽だけ)であればそれぞれの楽器の持ち味を活かした「ディーリアスの夕凪」を描き出せたものだろう。ピアノには明瞭過ぎる音線が任される一方、オケには芳醇な響きと微細な動きを与え、それはグリーグの協奏曲がいびつに進化したようなもので、むず痒くも入り込めない。また録音が悪いのも悪評価のゆえんの一つ。ライヴ音源も辛い評価を与えたけれども、それよりは精度は高いものの、曲含め無印。

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チェロと管弦楽のためのカプリスとエレジー

○フェリックス・スラットキン指揮コンサート・アーツ管弦楽団、エレノア・アレア(Vc)(CAPITOL/PRISTINE)1952/9/8,11

やはりバックオケの分厚さが気になる。バランスが悪い。小編成で繊細に描くべき曲を多く書いたディーリアス、この指揮者が何故こういう録音をしたのか・・・比較的珍しい曲だが聴きやすいので、その点紹介盤にはなる。○。

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弦楽四重奏曲(1916)

<イギリスの心を謡う優しい作曲家のイメージがある。 しかし活躍の場はむしろフランスにあった。半音階的な音線や濃厚な管弦楽にはリヒャルト・ シュトラウスの影響がみられ、初期ドビュッシーの和声的影響も強く(年代的には ドビュッシーと同世代)、流行のロシア音楽や若い頃のフロリダでの黒人音楽経験も、 直接・間接的な影響を残している。根底に心の師グリーグの民謡音楽が流れている事は 誰しもが認める事だろう。ディーリアスは19世紀に既に活躍を始めており、 ヴォーン・ウィリアムズやラヴェルなどに比べて古い世代に属する。垢抜けないのは当たり前で、様々な要素を吸収し肥大化・退廃化していった後期ロマン派音楽の末路、 所謂「世紀末音楽」の作曲家なのだ。「人生のミサ」や「村のロメオとジュ リエット」など退嬰的でペシミスティックな作品が目立つのも、その時代性と 切り離しては考えられない。若い頃には 放蕩の限りを尽くし、ムンクらと共に昼も夜も区別 のつかない生活を送っていたわけで(「パリ~大都会の 歌」の心情)、結局性病の汚泥が晩年に一気に雪崩込み、目、耳、手足の自由全てを 失うことになったといわれる。尤もこの時代までの芸術家というのはそんなものだっ たわけだが、 ディーリアスの場合、そんな悲惨な最晩年に産み出されたノスタルジックで諦観に満ちた 作品群(遂に亡くなってしまったフェンビー氏の助力がなければ無理であったのだ が)のイメージが強く、夕映えに輝く哀しい幻想として心酔する者を続出させたわけ である。その末路は自業自得かもしれない。それゆえ、類希な魅力的な香気を放つのであり、大人しい人間であったならただたんに美麗な曲しか書けない群小 作曲家に過ぎなかったろう。個性は灰汁の強さに裏打ちされている のだ。曲想の豊かさはピンからキリまでの人生経験の深さによってもたらされているのだ。この曲は唯一といってもよい室内楽曲である。>

◎ブロドスキー四重奏団

3楽章は取り出して弦楽合奏で演奏されることが多い。「遅いつばめ」である。 退嬰の極みの音楽だが、バルビローリなど寧ろ恍惚を感じさせる危うき美を 演じている。だが、原曲の4本になると、かなり鄙びた感じがする。他楽章に並んで、農村牧歌的な趣を強くする。全曲で非常にまとまった作品に仕上がっていて、 一部曲を抽出(フェンビー編)した弦楽合奏とは別物として聞いた方が良いだろう。 1楽章は伸び縮みする不思議な民謡主題に始まるが、半音階でたゆたったり、俄かに駆け上る 妖しさは非常に個性的である。2楽章はファースト偏重傾向の強い同曲中でも一番偏重 していて、下3本は和音の部品を刻むだけの部分が多い。でも旋律そのものに魅力があり、 中間部ではドビュッシー的な入り組んだ構造も(個性的ではないが)特徴的に響く。 4楽章はボロディン的というべきか、やや長い。途中息切れするような部分もあるし、 後半収集がつかず断絶して終わるような感もある。影響関係を指摘されるヴォーン・ ウィリアムズの四重奏1番を彷彿とさせるところもあるが、よりラプソディックに自由に 歌われる牧歌といえよう。全編を通して比較的音符の数が少ない曲にもかかわらず、 良く響く独特の和音に彩られていて、ここに聞けるのは個性的なディーリアス世界 そのものである。協奏曲のような掴み所の無さは皆無。イギリスの数少ない 近現代室内楽の佳作としても貴重であり、一聴して損は無い。 フィッツウィリアム等他にも演奏がCD化されているが、先ずはブロドスキーの感傷的な音で たっぷり楽しんでみたい。またフェンビーによる弦楽合奏版についても耳にする 機会があれば、是非。ちなみにこの曲はオックスフォード版の楽譜ではビーチャムの手が入っていることになっている。

~遅いつばめ(弦楽四重奏曲第三楽章~フェンビー管弦楽編)

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD

レイト・スワローズをどう訳すかで諸説あるが単純に遅いつばめとしてみた。原曲はかなり鄙びた調子のしかしわかりやすいボロディン二番的な作品で、ビーチャムが手を入れたようだがディーリアス完成期後に特異な位置を占めている弦楽四重奏曲の、中でも特に妖しい響きの揺れる、えんえんと続くアルペジオに彩られた沈潜する楽章だ。フェンビーはこれも含めいくつかの編曲を組曲としてまとめているが、原曲とはやはり違うものとなっていて、余りに繊細すぎて合奏でやるには難しさもあり、弦使いバルビならではの巧さのみが可能とする部分があることは否定できまい。カルテット編曲ものはたいてい、スカスカになるものだがこれは軟らかくも詰まっている。○。

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ヴァイオリン・ソナタ(ロ調)

ストーン(Vn)スレルフォール(P)(PEARL)

私が最初に触れたディーリアスの譜面は、なぜかこの習作(といっても作曲家30歳の作品)ソナタだった。第一印象は全体的にはフランクのソナタ、旋律線はドイツ・オーストリア系のリヒャルトとかそのあたりのもの、そして、かなり冗長(3楽章制)といったところ。音源などなく、自分でかなでてみて、いかにも習作的で合理的でない曲、今思うとドビュッシーの初期作品に非常に近いと思うのだが、とにかく後年のディーリアスの隙の無い楽曲に比べ、スカスカな感じがした。だが、何度かかなでてみて、旋律の半音階的なゆらぎ、五音音階の奇妙な軋み、これらが同時期の「レジェンド」のいかにもあざとい前時代的な旋律に比べて、ずっと新しいものを示していて、しかもかなりすがすがしく気持ちがよく思えてきた。今無心でレコードを聞く。じつに雄弁なヴァイオリン、印象派的な音色のうつろい、習作は習作なのだが、捨てておくには忍びない美しい楽曲。これは技巧的にはそれほど難しくないので、もし触れる機会があったら演奏してみてほしい。きっとディーリアスの秘められた宝石を発見した気分になるだろう。この盤はヴァイオリンが心もとない。この曲は雄弁に太筆描きで弾いて欲しい。無印。

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ヴァイオリン・ソナタ第1番

メイ・ハリスン(Vn)バックス(P)(SYMPOSIUM)1929・CD

SP復刻で音が悪いせいもあるが、冒頭こそオールドスタイルの音色で引き込まれるものの、運指のアバウトさが目立ってきて、旋律線を見失うほどにわけがわからなくなる。曲のせいでもある。ディーリアスの室内楽や協奏曲は独特である。旋律が途中で半音ずれていくような進行、瞬間的で無闇な転調の連続、不規則な入り組んだ構造が気まぐれ感をかもし、非常にわかりにくい(しかし何か秩序だってはいるのである)。ある意味とても前衛的で、習作期の素直さが微塵も残らない番号付きヴァイオリン・ソナタや協奏曲は、作曲時期的には頂点にいたはずなのに、弾いている当人ですら根音がわからなくなるほどマニアックだ。そういう曲にはこういうソリストやメニューヒンのような柔らかいスタイルはあだとなる。鋼鉄線のように鋭く正確な音程を機械的に放っていかないと本来の意図は再現できまい(弦楽器向きではないという批判はあるにしても)。こういった晦渋さはRVWよりはホルストに受け継がれた。しかし、牧歌的なひびきの中に一種哲学的な抽象性が浮かび上がるような演奏では、疲れたものへの慰めになるものではある。その意味でもやや適任ではないと思うが、作曲家ゆかりのヴァイオリニストであり、むしろヴァイオリンより力強く個性的なコントラストをつけて秀逸なピアノは同僚バックス、資料的価値はある。無印。

サモンズ(Vn)ハワード・ジョーンズ(P)(DUTTON)1929/11/1・CD

年代からして驚異的な音質ではあるし、SPの硬質で明瞭な音を再現しようとした意図は認められるが、音色感が損なわれ人工的に操作された感が否めない。ここできかれるサモンズの太くて揺れの無い音はまったく色あいに変化がないため、とりとめのないディーリアスの音楽にあっては退屈至極、この両者の相性の悪さゆえか、録音操作の失敗のせいか。とにかくディーリアスはもっと綾のある作曲家で、目の詰まった音であるからこそ弱音部が要になってくるから、弱音なりの音質をきちんと出してこないとわけがわからなくなる。つまり、無印。DUTTONが初出らしい。

○カウフマン(Vn)ザイデンベルク(P)(concert hall society)LP

最初こそ無愛想で素朴だが、やはりルイス・カウフマン、只者ではない。安定感のある表現を駆使してぐいぐいと曲を引き立てていく。ドイツ・オーストリアや東欧のヴァイオリニストのような鋭く金属質で耳に付く感じが無く、この曲には太くてざらざらしたこういう音が似合う。連続して演奏される3楽章にいたって技巧派たる部分も見せ、ディーリアス特有の名技性を浮き彫りにする。これは最初で投げ出したら駄目。メイ・ハリスンとは対極的な設計。○。

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ヴァイオリン・ソナタ第2番

○サモンズ(Vn)ハワード・ジョーンズ(P)(DUTTON)1924/12・CD

縮緬のようなビブラートに甘く旧びた太い音、しかし非常にしっかりしたフィンガリング、ボウイングが現代的な精度を保証しているので安心して聴ける。かなり個性の強い美音が嫌いな向きには勧められないが、ディーリアス最盛期の雄弁な作品にサモンズ最盛期の技術が重なって、同時代最高峰の演奏となっているさまは一聴に値する。あっという間。旧いので○。

○マックス・ロスタル(Vn)ホースレイ(P)(westminster)LP

M.ロスタルが大人の音で落ち着いた雰囲気を醸す。技巧的にも余裕がありなお、ただ演奏するのではなく含みを持たせたような、ディーリアスの中に一歩踏み込んだような解釈をみせる。ディーリアスのヴァイオリン・ソナタは1,2番がほぼ同じスタイルの、気まぐれな半音階進行を駆使し旋律性を失わせる煩雑な曲となっており、最晩年の3番だけは使徒フェンビーが調整したせいもあり旋律があやういところではあるが原型を保っている。ロスタルで1番を聴いてみたかった。○。

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ヴァイオリン・ソナタ第3番

○サモンズ(Vn)ロング(P)(DUTTON)1944/1/20・CD

さすがにやや演奏精度が落ちているサモンズだが、この退嬰的な曲に即物的な感情を籠めて意気ある演奏を繰り広げている。音色が美しいとはいえやや生臭くもあり、曲想にあうかどうかは別れるところかもしれない。

ウィルコミルスカ(Vn)ガーヴェイ(P)(CONNOISEUR SOCIETY)CD

この曲も盤がまったく手に入らなくて、民音でコピーしてきた譜面をもとにつらつらと弾いていた。ディーリアスの白鳥の歌(のひとつ)で、全面的に使徒フェンビーの手に頼っており、たしかに1、2番の脂ののりきった充実した書法の作品にくらべ、音符の少ない平易な旋律と最小限の伴奏という、非常に単純な構造の作品になっている(但し短いながらも三楽章制にはなっている)。だが、これはディーリアスの最後の境地がどのようなものだったか、知らしめてくれるものだ。枯れに枯れきって、目もみえず手足も動かず、しかしそれでも最後の「うた」を、命を振り絞って吐露する、これはまさに「瀕死の白鳥」の、かなしい歌なのだ。この曲を弾くとき、私の頭の中には、シゲッティ晩年のかすれた音があった。ぼろぼろのフィドルで、毛のいっぱい抜けたぼろ弓を使って弾いてみたい。1楽章からもう退嬰的な、夕日のようなかなしくも美しい旋律が流れだす。やさしい、とても優しい旋律。2楽章は若干民謡ふうのラプソディックな曲想になっている(でも譜面づらは平易だ)。そしてふたたび緩徐楽章の3楽章、なつかしい民謡のしらべ、それこそ「最後の作品」にふさわしい、そこはかとなく懐かしくかなしい音楽がはじまる。「もっと生きたい!」という叫びのようなクライマックスも、やがてついえて、音楽はとおい追憶となって、消える。言ってしまえばピアノはいらない。無伴奏で描くのがもっともふさわしい表現の仕方ではないか?私は今でもそう思う。私はウィウコミルスカ盤を評価しない。ウィウコミルスカはこういう意味の曲であることを理解しているとは思えないほど「雄弁」だ。線の太い、乱れの無い音は生命力に満ち溢れ、無遠慮になりひびくピアノ伴奏ともども、「おしゃべりすぎ」だ。もっとデリケートな盤の出現を、期待したい。

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チェロ・ソナタ

○ベアトリス・ハリスン(Vc)クラクストン(p)(symposium他)1926/2,3・CD

ディーリアスの円熟期後の作品は旋律の半音階性を増し内省的になり(つまりそういう面では「才気が変容」し)、完成期ドビュッシーの影響下それ以上に「印象主義」的な楽想のうつろい、気まぐれ、だが一種限られた箱庭世界から出られないようなハーモニーの微妙な動き、個性的だが余りに曖昧冗長で、楽しんで聴くにはそれなりの気持ちと環境が無いと難しい。あくまで自己の音楽に忠実で技術的な難しさは無く(弦楽の書法は私は巧いと思う)、超絶技巧を楽しむことができない器楽曲というのは普通の聴衆には受けないわけで、演奏会に取り上げられないのも頷ける。チェロ・ソナタは特にそういった面が顕著に思われる。曖昧模糊とした美しさ、自然主義的というか環境音楽的な耳優しさがあるが、表現が単調だと飽きてしまうし、甘すぎると胃がもたれてくる。短い単一楽章制なので何とか聴き通すことはできるのだが。。当代一の女流チェリスト、B.ハリスンの音は前時代的な纏綿とした、ヴァイオリン的なもので、びろうどのように滑らかに震えるようなヴィブラートと有機的なフレージングでディーリアス世界に入っていく。だがそういう芸風なだけに、こういった旋律が半音階的でわかりにくく、全般平坦な風情の作品では正直、飽き無いとは言い切れない。なんとなく一回聞き流すなら美しい、でも何度も聴いたり、あるいは真剣に聞き込むという態度には向かない。何より録音が悪いのは仕方ない。この時代では確かに第一級の安定感であり、作曲家も満足したであろう確かさに優しさがあるが、曲自体の価値含め○以上にはならない。

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三つの前奏曲(1923)

パーキン(P)(UNICORN-KANCHANA)(CD2071)1983

泣いてしまいます。エリック・パーキン大菩薩の真骨頂。春にピッタリの曲。ディーリアス特有二大リヒャルトの生温い残響も、ここでは透明な抒情の中に溶けてゆきます。もうこの美しい水彩画に溶けてゆきましょう、みんな。

つづく
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ドビュッシー 神聖な舞曲と世俗的な舞曲(2012/3までのまとめ)

2012年04月24日 | Weblog
神聖な舞曲と世俗的な舞曲(1904)

○グランジャーニ(hrp)ハリウッド四重奏団ほか(CAPITOL/EMI)

ハープ独奏のためのアンサンブル集は録音当時としては珍しかったことでしょう。ラヴェルの序奏とアレグロ、グランジャーニ自身の作を含むソロ曲が併録されています。線が太くて耳に迫る音。ギター並みの迫力は、アメリカ録音のせいだけでもないでしょうね。はっきりした表現ですから好き嫌いはあるでしょうが、ラスキーヌのように透徹したアプローチとは異なるドビュッシーが妙に真に迫っています。この人については余り調べていないので、このレコード以外知りませんが、面白そうですね。ハープのイメージが少し変わりました。ドビュッシーと個人的に親交もあったとのことです。

○グランジャーニ(hrp)シルバン・レビン指揮ビクター弦楽合奏団(ANDANTE)1945/3/12・CD

作曲家ゆかりの男性ハーピスト、グランジャーニの旧録。野太く力強い音はやや悪い録音のせいか幾分後退し、寧ろロマンティックなニュアンスの微妙な揺らぎさえ感じさせる雰囲気あるものに仕上がっている。テンポは幾分速く爽やかさに拍車をかける。なかなか普通に聞ける佳演。

○グランジャーニ(hrp)F.スラットキン指揮コンサートアーツ弦楽合奏団(CAPITOL他)

しっかりした演奏、といってもドイツ風の重い堅牢な演奏ということではなくて骨組みのしっかりした緩くならない演奏という意味である。グランジャーニのまったく安定した表現は曲と時代と作曲家そのものを知り尽くした人ならではというものか。バックオケもしっかりしている。スラットキン父のおかげだ(自分も弾いているみたい)。グランジャーニは指がしっかりしていて、とにかくパキパキいうのが心地いい。品性の溢れるセンスあるエスプリに満ちた音色にも惹かれる。技術的にはずいぶんと余裕があり、もっとバリバリ技巧をひけらかしてもいいくらいなのに、ここが品格というものなのだろう。世俗的な舞曲の最後はちょっとテンポを落としてスケールを大きめに表現しているが、最後まで品は失わない。素晴らしい。録音マイナスで○。ハリウッド四重奏団共演盤と同一の可能性あり(スラットキンはハリウッド四重奏団のファーストヴァイオリン)。(2005以前)

同じ音盤を何度書くんだって話だが、こんかいは再生機器によって印象がこうも変わるかという話。ギタリスティックで男らしい演奏と書いていたけれども、わりと自然な環境で聴くと気にならない。音色が比較的モノトーンではあるのだが音楽が音楽だけに、それそのものの色は明らかに聴こえてくるし、野太さというのはマイクセッティングの問題のようだ、聴取環境によって不自然さは十分吸収できた。ラスキーヌらのような女性ハーピストならではの軽やかな幻想は無い。しかし、律動と緊密さの中に香気が程よく漂う細やかさで、アングロサクソン的なアンサンブルの中にあるからか、英国の演奏を聴いているような、穏やかで、サロン的過ぎない純音楽的感興をおぼえる。技巧的には完璧。○。 (2009/10/8)

○グランジャーニ(hrp)ブダペスト弦楽四重奏団(BRIDGE)CD

いかんせん古くて音が悪いがこのハーピストの芯の通ったリリシズムを存分に味わえる佳録だ。完全にハープを前面に押し出した録音となっており、グランジャーニの同曲の記録中でも最も細かいところまで聴くことが出来るものになっている。全く素晴らしい技巧と音楽性のバランスで、どこにも淀みも重さもなく、かといって軽く透明感だけしかない類の演奏とも違う。改めてドビュッシーの現代ハープの書法の素晴らしさにも感銘を受ける。また雰囲気がいい。ブダペストも表立ってはこないが完璧な音響を響かせている。世俗的な舞曲における彼らの急くように煽るテンポと、それに応えてハープの魅力を存分に振り撒くグランジャーニの極めて自然でなおかつ覇気のある演奏ぶりにかつてないカタルシスをおぼえた。録音マイナスで○にしておくが、今まで聞いた中でも第一級の演奏である。古い録音に慣れているかたには是非お勧めする。

○メイソン・ストックトン(hrp)F.スラットキン指揮コンサート・アーツ弦楽合奏団(CAPITOL)LP

遅めのテンポで確かめるように進むが決して表現が強くはならず比較的繊細にできているほうである。金属的な音がやや耳につくが(ハープ)ストレートに楽しめるものとは言えるだろう。とつとつとした印象すらあたえるソリストではあるが決して技術が無いわけではないと思う。味が無いだけだ。○。

○バートレット(HRP)バルビローリ指揮NGS室内管弦楽団(NGS)1927/1/3・SP

バルビローリ指揮活動初期の録音群のうちのひとつで、前にCD化していたと思うのだが・・・別記したWEB配信元によればバートレットはピアノとの表記があるがハープ。演奏は時代なりの纏綿としたフレージングを多用しそうなものだがそれは世俗的な舞曲の最後だけで、それ以外はテンポ設定もそれほど遅くは無く、音色はいいのだが解釈的には寧ろ無個性にも感じる。特に後年有名となった弦楽器の連綿と繋がるボウイングはここでは聴かれない。SP期ならではのやり直しのきかない、そのあたりの多少のアバウトさは仕方あるまい。全般私は普通に楽しめた。○。

サバレタ(HRP)フリッチャイ指揮ベルリン放送交響楽団(DG)1957/1

明瞭な輪郭の音楽は少しあからさますぎる感もあるが、サバレタのハープは一つの個性を示していて面白い。ラスキーヌのような完璧さはないし、グランジャーニのような表現力もないが、古代楽器のような、太鼓に弦をつけたような響きや実直な演奏ぶりは面白い。ともあれちょっと繊細さが足りない(オケ含め)からここでは無印としておきます。

ハリウッド四重奏団他(CAPITOL他)CD

やっぱり繊細さが欲しい、ドビュッシーには。まばゆく柔らかく儚いひびきが必要だ。舞曲表現も優等生的で確かに正確だが音楽を浮き立たせるような「揺らし」がない。いいんだけれども、私はよくある演奏、という聴後感。無印。

フィリップス(HRP)ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(ANDANTE)1931/4/4

変な演奏。なんだか妙に分厚い。雰囲気は悪くないし、音楽も流れて聴き易いのだが、録音の悪さもあって幻想が足りない。典雅な雰囲気の無い独特の演奏。

○ドゥローワ(Hrp)ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団のメンバー(MELODIYA/brilliant)CD

輪郭が明確な演奏だ。しかしガウクとは思えないほど表情付けが巧い。フランス的というか、少なくともハリウッド四重奏団あたりがやっていたくらいのレベルには達しているのである。ラスキーヌを思わせる力強いハープの音にドライヴされ、楽曲は至極まっとうに気持ちをドビュッシーの旋律と響きの「はっきりとした美しさ」を浮き彫りにされていく。そう、この曲は印象派でもなんでもない、まったく明確な旋律と構造をもった不明瞭のかけらもない曲なのであり、プロがまとめれば失敗しようがないのである。◎でもいいくらいだが、○にしておこう。何しろ、ガウクとは思えないくらいアメリカ的なニュートラルさがあったのだから。うますぎます。。

○ピエール・ジャメ(Hrp)キャプドヴィエル指揮室内楽協会管弦楽団(TIMPANI/ducretet thomson)1952/6/16・CD

P.ジャメの演奏はどこか地味である。だから逆に静かな曲には調和して美しくやわらかい光彩をはなつ。ただ・・・録音が悪すぎる。悪録音の場合よほどの個性を発揮していないと「ぱっとしない」以外の印象が残らないものである。けして悪演奏ではあるまい、しかし静かで穏やかという以外の感想はまったく出なかった。○にはしておく。

~断片

ピエール・ジャメ(Hrp)ブーレーズ指揮アンサンブル・アンテルコンタンポラン(AIH)LIVE、DVD

死の一年前のインタビュー映像をまとめた回顧的な企画で、私的な弟子の演奏会風景をまじえた最後に、「これで私は音楽人生を終えた」と感慨深く語るごく短い私的映像が入る。冒頭のみでほとんど全容はわからないが、娘マリ・クレールを通しての依頼に駆け付け指揮してくれたブーレーズへの尊敬と感謝の言葉が97歳の老教師から語られる、連綿と確かに繋がっているフランス楽派の結束に羨ましさを覚えたりした。短いが素晴らしい記録映画で英語字幕あり、機会があればぜひ。但し演奏は見えないので無印。
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ラヴェル ピアノ三重奏曲(2012/3までのまとめ)

2012年04月23日 | Weblog
ピアノと二つの弦楽器のための三重奏曲

○メルケル、マルチェリ・ハーソン、ズーフルー・テンロック(gramophone)SP

地味さは否めないが時代からするとすっきりした演奏で纏綿とした重たい演奏にはなっていない。微温的な音色に表現で良い意味でも悪い意味でも引っかかりはなく、ただこういう演奏であれば音が良くないとどうしようもなく、正直このSP音質でこのスタイルでは音楽的に耐えられる人は少ないかもしれない。参考にもならないような演奏ではあるが、ほぼ同時代の演奏としてこういう古臭くも先鋭でもない英国ふうの演奏もあったのだという認識をさせる価値はあるか。○にしておく。

○ペルルミュテール(P)ゴーティエ(Vn)レヴィ(Vc)(TAHRA)1954/5/7・CD

録音の悪さが如何ともしがたい。しかしこの類稀なる面子による演奏はいずれの奏者もきらめくようなそれでいて力強いタッチで曲を描ききっており、オールドスタイル(といってもペルルミュテールの非情緒的な美しい音に象徴されるようにあくまで「ラヴェルの時代の」である)の演奏としては破格の出来である。技術的にも三者じつにすばらしい。三楽章の冒頭からのチェロの音程がやや低い感じがする。これがなければ◎にしたところだが、録音撚れだろうか。一聴の価値あり、ペルルミュテール全盛の覇気と雅味の感じられる演奏。

オボーリン(P)D.オイストラフ(VN)クヌシェヴィツキー(VC)(harmonia mundi)1952

初期の弦楽四重奏曲とならびラヴェルの室内楽における最高傑作である。円熟期を迎えたラヴェルの独自性が顕れたなかなか面白い曲。
旋律も覚え易く、しいていえば終楽章が他楽章に比べやや聞き劣りする程度。さて、この演奏は模範解答のような演奏といったらいいのだろうか。技術的にはどこにも瑕疵はなく、完璧なアンサンブルだが、音色が単調で、特に繊細な表現に欠けている。これはフランス近代音楽を演奏する上で致命的である。「曲聞き」には向くが、「鑑賞」には向かない。そういう印象。

◎デカーヴ(p)パスキエ三重奏団のメンバー(erato)

パスキエ三重奏団は決してテクのある団体ではない。しかしそのかわりに何者にもかえがたい「味」がある。ここではデカーヴのピアノの素晴らしさもさることながら、ジャン・パスキエのヴァイオリンの音色に、”懐かしさ”にも似た何かしらの心に直接訴えるものを感じる。線の細い、しかしそうであるがゆえに儚く美しいものを表現するのにもっとも適した音。音程があやしくなろうがどうなろうが、
まず「表現すべきもの」を十分に理解し、それを音にすることに専念する。そしてそれがはっきり音として作り上げられていることに、感動する。いや、難しいことは言うまい。これは聞いてナンボの音楽である。まずは聞いてほしい。フランス音楽の粋がここにある。最近廉価復刻された。

○エルフェ(P)エルリ(Vn)アルバン(Vc)(eurodisc他)LP

シャンペイユのカルテットの裏面のものとして有名な録音で、原盤はクラブ・フランセか。異常な値段がついているのが不可解だ。オイロディスクあたりの再発は市場によく出てたのに(今でも毎月のように出るが値付けが異常)。演奏は特徴的で、いきなりアグレッシブに攻撃的に始まる。情趣より音楽の律動とやりあいを楽しむ、ピアノトリオとしては常道とも言える演奏でもある。けっこう飽きずに面白く聞けるが、これがこの曲のすべてではない、むしろ特異だということで○。

○ハイフェッツ(Vn)ピアティゴルスキー(Vc)ルービンシュタイン(P)(RCA,BMG)1950/8/28・CD

百万ドルトリオは必ずしもバランスのとれた団体ではない。典型的な一流ソリストによる「話題性先行」の売り方を「アメリカで」された団体で、かつ恐らく史上もっとも恐ろしい高レベルの技巧派ソリストのそろった「一定期間ちゃんと活動した」アンサンブル団体でもある。ロシアの「オレオレ」自己主張ソリストアンサンブルとは違いバラバラ感はなく、当時流行の「トスカニーニ様式」というか、速いテンポでさっさと、力強く進めていくスタイルにのっとって緊密な演奏にはなっているのだが、天性の「魅力」でいけばやはりこの三人には差がある。・・・とどのつまり、ハイフェッツが凄すぎるのだ。もっとも結構アバウトな演奏も行った人であり、現代的な視点からすれば「もうワンテイク」と言われたかもしれないギリギリな場面もあるのだが、そういった点ではルビンシュタインとて同じであり(カップリングのチャイコではてきとうに流すところでは細かい音をごまかしてたりもするがこれはこの録音に限ったことでは無いらしい)、いちばん実直にきっちり弾いているのはピアティゴルスキーなのだが、一方で魅力の点ではピアティゴルスキーがいちばん劣っているといわざるを得ない。音色と迫力の点で物足りなさを感じることしきりであり、ただ、たぶんこれは録音バランスのせいもあると思う。二人の名手に音量バランス的な遠慮がみられるのである。再生機器でチェロを強調してみよう。恐らく決して二人に負けては居まい(勝つこともないだろうが)。ピアノトリオはきほん、アンサンブルというより三人のソリストのバトルといった側面の強い編成である。ラヴェルにおいては三人が機械的に割り振られたフレーズをモザイク状にあてはめていくような、一本で練習するととても寂しい楽曲になってしまうものになっている。ここでは余り得意としていたとは思えないルビンシュタインが意外とリリカルな表現をみせ、スペインふう、ヴィニェスふうの雰囲気を持ち込んでラヴェルにダイレクトに当たる軽い洒落た演奏振りをみせているがやや引き気味でもある。ハイフェッツは雄弁すぎて他を圧倒しすぎ。ピアティゴルスキーは何をやっているのかよくわからなくなるところがあるが弾けてはいるのである。悪くはないが、感動的な曲のはずなのに何も残らない、しいていえばやはりルビンシュタインの表現に尽きるか。○。

○ボルツァーノ三重奏団(WESTMINSTER)

繊細で美しいのである。かといって怜悧に整えられた演奏ではなくオールドスタイルに近い感じのする演奏だ。フランスの団体かのような音の透明感と温かみがあり、メンバーの技量もセンスもマッチしていて変な突出や歌いこみは聞かれない。ラヴェルはこれが基本的には正しい筈である。○。

○プルデルマシェ(P)ジャリ(Vn)トゥムス(Vc)(EMI)CD

クラシカルなピアノトリオ編成の演奏としては珍しく、主張のし合いで衝突したり、逆に機械的に客観的態度を貫くようなこともせず、アンサンブル的なまとまりがある一方で熱気があり素直に盛り上がる。入り込み易い。フェヴリエの繊細さに溌剌とした動きとスピードをくわえたラヴェルの権威プルデルマシェールはやはりいいし、弦楽器ふたりも決していい楽器で高度な技巧を示すのではなく素直に音楽に腕をゆだねている(このヴァイオリンの音はいい音とはいえないが羊の腸の音がする。古ぼけていて「私は好き」、たぶん私の音を聴いた人はそうだろうなとか言うだろうなあ)。CDはやはりデジタル化により音が痩せて金属質になってしまうから、やや旧いアナログ録音の演奏を聴くには適さない。この音はアナログ向きだ。○。HMVだと1000円切ります。

○C.ボナルディ(Vn)シフォルー(Vc)ノエル・リー(P)(ACCORD)1987・CD

残響がかなりうるさいがスケールの大きな、かつセンスあるダイナミックな演奏。安定感のある演奏ぶりではあるものの、弦楽器二本の音は感傷的で主情的であり、今回二回目?の録音のノエル・リーが何よりラヴェル適性をはなって素晴らしい。この人のピアニズムは言葉で表現のしようのない清潔で軽く、明確で、しかしどこか感傷的である。ラヴェル向き奏者というのはほんと言葉で説明できない、それこそセンスの問題でもある。ミケランジェリあたりは私は余りセンスがあるとは思わない。完璧であればいいというわけではないのである・・・作曲家が認める認めないにかかわらず。ただ、どちらかというとこのトリオでは引き気味かもしれない。ボナルディの音は線が細く、細いがゆえにナイーブな表現が可能でヴィブラートも細かく感情的にかかるのだが、強い音が出にくいようだ。終楽章の強奏部で音程が「フランス的に」乱れる。惜しい。

○アルベネリ三重奏団(mercury)LP

なかなかいいのだ。とくにピアノに表現力があり、1楽章など解釈的にとても感傷的で美しい。トリオの中でけして支配的な雰囲気を醸さず(モノラルで求心力のある聴感だからかもしれないけど)、三者の音色が融合はしないが同調してほどよい。ただ、「正攻法的なロマン派様式」の気があり、解釈が鼻につくところも・・・いやラヴェルの表現として不足はないのだが、終楽章あたり飽きてくるのも否めない。個人的にはもっといい音なら普段聴きにしたいくらいのものだがラヴェル好きには異論あるか。○。
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ラヴェル ボレロ (2012/3までのまとめ)

2012年04月23日 | Weblog
<エキゾチックな単純な旋律が数々のソロ楽器に受け渡されひたすら繰り返されて、徐々に音量を増してゆき最後には大管弦楽で奏せられるが、転調して一気に雪崩れ落ちるという趣向。コロンブスの卵的発想はショスタコーヴィチに模倣されたりもした。誰でも知ってるラヴェルの代表作だが、本人は自作の中では評価していなかったらしい。>

作曲家指揮
○ラムルー管弦楽団(MUSIC&ARTS他)1930/1CD
ラムルー管弦楽団(PHILIPS)1932CD

前者16分6秒、後者15分30秒。この二つの録音は録音状態がかなり異なり、恐らく別のものだと思われるが、同じものが別々のSPで出された可能性も否定しきれないので(30秒程度の違いはSP盤の繋ぎかたや余白の取り方、回転数の微妙な差異で発生する可能性は十分にある)前もって断っておく。前者には詳細な記述があるが後者のライナーはアバウトで録音年以外の詳細がわからない(このころの盤の録音年表記は発売年と混同されたりもしていたようだ)。両者とも共通するのは不断のテンポ。まったく揺れることなくひたすら固持されるテンポが、最後には毅然としたボレロの舞踏に巧くハマってくる。ひとつひとつの音が強く、びしっと縦が揃えられているから尚更厳しく、また一個所ホルンソロのグリッサンドがわざとらしく入るところ(8分前後のところ)以外での感傷性は一切排除されている。しいていえば録音状態と楽器本来の音色が結果として感傷的な雰囲気を持ち込むくらいのものだ。ここまでは両者同じ。ここからは主観的に違いを言うが、前者はややバラバラ感がある。四角四面のリズムにソリストがぎくしゃくと乗ってくる、結果オケとソリストに微妙なテンポのズレが感じられるのだ。ただ、録音のせいということも否定できない。録音が不明瞭なためにそう聞こえるだけかもしれない。全般にはしっかりした演奏である。後者はまずピッチがやや高い。これは聞き比べるとけっこう違和感を感じる。ひょっとすると30秒の差はここであっさり吸収されそうだ(但し他の部分で両者の進み方にはズレがあり、合計時間だけではいちがいに言えない)。何よりこちらで気になるのは雑音。雑音のレベルが高いので聞きづらい。しかも、SP盤の継ぎ目が余りにはっきりしすぎている。ガラっと雑音の聴感が変わったりして少々興を削ぐ。ただ、M&A盤より音がちょっとだけクリアであり、M&A盤で書いたホルンのグリッサンドもしっかりテンポにハマってなんとも言えない独特の味を加えて聞こえる。念を押すような音の入れ方(ひとつひとつの音符でいちいち思い直すようなアクセント)が明瞭に聞き取れ、後年の他の演奏者とは違う個性があらわれている。こういう演奏を目指していたのか、と目から鱗が落ちます。雑音を加味して前者のみ○とします。

コッポラ指揮グラモフォン・グランド交響楽団(LYS/EMI)1930/1/8初録音盤CD

ラムルー管と自作自演レコーディングを行う直前のラヴェル立ち会いのもと録音された盤であるが、ラヴェル自身の演奏とはけっこう趣が違っている。最初はなんだかだらしない感じでリズムもしまらない。ソリストとオケがずれてくる珍妙な箇所も織り交ざる。これは録音のせいと信じたいが(無理あるが)、楽器が増えてくるにつれ、ソリストにもよるがとても懐かしい音色でヴィブラートをバリバリに効かせたり面白い。テンポに瞬間湯沸かし器的な抑揚がつけられているところがあるが、これなどラヴェルが認めていたとは思えないのだがどうだろう。EMI盤のライナーによると録音は終盤まではごく平穏に進んでいったという。だが終盤でラヴェルは突如コッポラのコートの端を掴み激しく抗議した。M&A自作自演集のライナーによるとコッポラがテンポアップしたことが逆鱗に触れたらしい。結局録りなおしになったそうだが、その結果は聞けばわかるとおり依然速い。但し15分38秒というタイムは自作自演盤とあまり変わらないので、このくらいがラヴェル想定範囲内だったのだろうか。単純に速いから非難したわけではなく、クライマックスで譜面に無いアッチェランドをかけたことに怒ったのだろうと思われる(それほど違和感無いが)。ちなみにラヴェル晩年のお気に入りだったフレイタス・ブランコの録音はラヴェルの指示をよく守ったものと伝えられるが(たぶん根拠なし)、史上最遅の演奏と揶揄されるおっそーい演奏。トスカニーニと衝突したという話もまさにコッポラと同じテンポが速くなりすぎるという作曲家のコメントからきたわけで(結局ラヴェルが納得し和解したが)、「速さ」に何かしらこだわるところがあったのだろう。ひょっとするとイダ・ルビンシュテインのための舞踊音楽という本来の機能を顧みるに、連綿と踊るには余りに速くなりすぎだ、という感覚が働いたのかもしれない。まあ単純に譜面に無い事をやるなということだったのかもしれないけど。ラヴェルは完璧主義者であり、試行錯誤を繰り返し悩み磨き抜いてやっと作品を仕上げることが多かった。そこに奏者が安易な解釈を入れてくることに抵抗があるのは当然のことだったのかもしれない。ラヴェルはのちにコッポラに、奏者は自動演奏機のように演奏すべきだ、とのたまったそうで、これはストラヴィンスキーの「奏者は奴隷である」という発言に繋がっていくわけだが、それほどに音楽が複雑化し、一方で演奏技術も向上して様々な表現が可能になった20世紀という時代の持つ矛盾を象徴するものであった。コッポラは元々速いテンポで感傷を排した演奏を行う即物的指揮者だったが、感情のままに突き進んだとしか思えない録音も少なからずあり、ラヴェルとは到底相容れないスタイルの持ち主だったとも言えるかもしれない。トスカニーニほどの説得力も持ち得なかったのだろう。話しがずれたが、最後の方で盛大に盛り上がる所では最初の音像の不安定さもなくなりラヴェル自身の演奏同様毅然としたリズムで威厳をもった旋律が進んでいく。このころのオケなので音色的なバラバラ感は否めないが、当時最高の録音技術によって録音されたこの盤は決して今のオケでは聞けない歴史的価値プラスの何かを持っている。といいつつ無印。オケはレコード社グラモフォンの専属オケでコッポラはこのタッグで精力的に録音活動を行い大量の骨董録音を遺している。

クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(RCA)1944/11/22,27・CD

余りに律義で正直びっくりした。速めのテンポは頑なに維持され、ダイナミクスにはデジタルな変化が聞かれるがSP原盤の継ぎ目に過ぎないだろう。録音がクリアなら誰しも歯切れ良いリズムと凝縮された響きに快感を覚えるだろうが、特に前半の雑音がきつい。最後の余りにあっさりした処理は一つの知見である。録音大マイナスに解釈の単純さを鑑みて無印。

○デゾルミエール指揮チェコ・フィル(SUPRAPHON,EURODISC)LP

素気ない速いテンポ、明晰な発音。スプラフォン盤は加えてくぐもった音響と弱音部の強調(大きすぎる!)という録音上の悪条件が加わる。チェコ・フィルのソロ楽器のレベルの高さがはっきり伺えるこのボレロは、和声的なバランスがよく、リズム感もすこぶるいい。ソロがよく歌うし(ホルンの謡い廻し!)チェコ・フィルにしては異例なくらい色彩感がある。パワーこそ足りないところもあるが(弦!)抜けのよい音が心地よく、クライマックスでも気品を失わない演奏となっている。貴族の行列を観覧しているみたいだ。こういう「味」は今の演奏ではめったに聞くことができないものだ。旋律の独特の歌謡的なフレージングが耳に残った。○。現在中古LPで容易に入手可能。(2003/12記)

流れるように軽快に進むボレロで、ピッチが若干高いのが気になるが、微妙に(音色的に)洒落たニュアンス表現がいかにもフランス風のエスプリ(の微温)を感じさせる。それにしてもテンポ的には一切揺れないラヴェルに忠実な演奏と言うことができよう。リズムセクションが極めて明瞭で引き締まった表現を見せており、水際立った演奏ぶりでダレを防いでいる。技術的には完璧に磨き上げられており凄い。ホルン以外は非常に上手いと言い切っていいだろう。最後まで律義で軽すぎて派手な歓興には欠けるが、清々しさでは他に類を見ないものだ。クライマックスで旋律の一音一音を短く切ってリズムを際立たせるのはいかにもリズム感重視のデゾならではの機知だろう。いかにもこの人らしいラヴェル、好悪分かつと思うが綺麗なので○。再掲。(2005/3/2)

○メンゲルベルク指揮ACO(pearl他)1920/5/31・CD

pearlレーベルは新しいものでもダメだ。このCD(90年代末)も肝心のこの曲の中間部分が思いっきし劣化していた。古い日本盤企画(andanteや最近のものじゃなくて)「メンゲルベルクの芸術」にも収録されているものだが、そもそも90年代初頭モノでは日本盤でも信用できない。80パーセントは聞ける状態にあるし、クライマックス前に復旧するのと他のトラックには影響はないようなので(ほんとに劣化か?)何とかとりあえず手段を考えようとレーザーの強力な(?)ドライブを探しているところである。演奏自体はかなり満足いった(だからこそ残念なのである)。パールにしては音もいい(だからこそ残念なのである)。聞きやすさは他のマイナーSP板起こしより上だろう。パワーには欠けるが元々パワー溢れる演奏ぶりであるからいい。メンゲルベルク(のとくに30年代くらいまでのSPモノ)の特徴は、

1.速い
2.ポルタメント

の二点である。速さはもちろんSPという収録時間をケチる媒体の特性上の理由もあることだろう。颯爽としたテンポに、弦の頻繁なポルタメント(統率が凄い)を織り交ぜたかなり強烈な揺らし(舞曲的な揺らし方である)をしなやかに織り交ぜてくる。そのためコントラストで「情緒纏綿」といった印象を受ける。じっさいはそれほど物凄くロマンティックに揺れることはない。基本は力強く突き進む、である。ボレロは殆ど音量変化は聞き取れないが(というか劣化のせいかもしれないが途中でいったん音量が落ちたりする(泣))ひたすら突進する音楽の楽しみはまさにショスタコのレニングラード冒頭を彷彿とする「軍隊行進曲」で、小太鼓の鼓舞にしたがって音楽は突き進み盛り上がる。かといってミュンシュなんかの芸風と違い恣意性の目立つやり方をしていないしオケの音色も統一されまとまりがいい。とにかく全般かなりいい。「メンゲルベルクの芸術」のこのトラック、誰か聞かせてくれないですかねー(笑)◎にした可能性をのこして○。

◎サバータ指揮ニューヨーク・フィル(FONIT CETRA)1950/3/5LIVE

「子供と魔法」の初演で作曲家の絶賛を受けた指揮者の演奏である。これはいい。録音はウィーンの「ラ・ヴァルス」に輪をかけて悪い(というか音場がかなり狭い)が、音像が安定しているので聞きやすい。早めのインテンポで進む演奏で、リズムがきわめて明確で音響は決然としており格好がいい。クライマックスで長い音符が僅かに引き伸ばされるほかは人工的な彫刻が無いのが却って個性となっている。とにかく強い発音がメリハリを与えて聞く者を飽きさせない。打楽器要素を目立たせるのもこの人流儀、オケもこの指揮者とすこぶる相性がいいようだ。最後フライング気味に入るブラヴォーの嵐がすさまじい。◎。

○レイボヴィッツ指揮パリ・コンサート・ソサエティ(音楽院)管弦楽団(CHESKY)1960/6

レイボヴィッツは色彩的な指揮ぶりが華々しい。テンポはわりあいとインテンポを通すがそのぶん音に華がある。このボレロはそういうレイボヴィッツにうってつけ、決して踏み外した演奏はしていないけれども、清々しく感情を昂ぶらせてくれる。変に民族的にするでもなく、変に感情を込めるでもなく、松葉を思い切りダイナミックに開ききらせるわけでもなく・・・と書くと魅力に欠けるオーソドックスな演奏ととられるかもしれないけど・・・これぞコンサート・ピースとしてのボレロだ、というところを見せてくれる。先入観なしに聞ける点で初心者向きかもしれない。○ひとつ。

○フレイタス・ブランコ指揮シャンゼリゼ劇場管(WESTMINSTER他)CD

威厳のある演奏、まるで王様の行列がゆっくり通り過ぎているのを見ているような感じである。いや、響きはいささか世俗的なのだが。この演奏、ラヴェルお墨付きの指揮者にもかかわらず異様な遅さで有名だ(ラヴェル自身の固い演奏やこれまたお墨付きのトスカニーニの演奏は割合と早めなのに)。しかしブランコの色彩的な指揮、シャンゼリゼの派手な音響とあいまって、面白さは抜群。決して弛緩しない。このテンポに慣れると病み付きか(?)。独特の演奏である。長らく店頭から消えていたが、復刻近いかも。デュクレテ・トムソン原盤。(2003/6/25記)

○アルベール・ヴォルフ指揮パリ音楽院管弦楽団(DECCA/NARROW RANGE:CD-R/Eloquence Australia)1950年代・CD

フレイタス・ブランコのウェストミンスター録音に近いものを感じる。テンポはあれほど遅くはないが、割合とクリアな録音がゆえに最初から最後まで細部が明確に聞き取れ音楽が多彩に聞こえるのと、はっきりとしたリズム表現に強い描線がブランコの演奏の威厳に近いものを感じさせるということだろう。若い頃のスピードこそないものの、情緒的に揺れない客観性が情緒的な音色変化とバランスをとり進むさまは変わっていない。○。

○デルヴォー指揮ハンブルグ・フィル(EURODISC)LP

不断のテンポに違和感はないのだが、音の切り方がすべてスパッと切り詰めすぎいささか堅苦しい。デルヴォにしては率直な演奏だがいくつか違和感ある表現もあり、ロマンティックというよりは人工的だ。オケのドイツぽさが露骨に出ているため重く、遊びに欠けるようにも聞こえる。やや技術的問題もはらむ。全般ボレロはこうやるべきというものにわりと忠実だが、反面面白みを失ったか。カタルシスいまいち。録音良好。広く見て○にはすべきか。

○デルヴォー指揮NHK交響楽団(KING、NHK)1978/11/17LIVE・CD

最初はやけに遅く朴訥とした表現にやはり・・・と思うが、ラヴェルの意図通りというか、まったく揺れないテンポに甘さのない音色を固持して踏み外すことを許さない、果てにスコア通りの積み重なりが破壊的な迫力をもたらす。デルヴォはケルンの録音が有名だが、冷血なまでに真面目な演奏として特筆できる。○。

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○パレー指揮デトロイト交響楽団(MERCURY)1961/3・CD

軽くて速い。確かに録音のせいもあるけど、決然とした重いリズムの演奏ばかり聞いてきただけに新鮮。単純に音楽として楽しい。TP外すなよー・・・おおらかな時代の録音ですね。

○パレー指揮デトロイト交響楽団(DA:CDーR)1961/11/24LIVE

軍隊。ここまで鋼鉄のインテンポで突き進められれば立派。物凄いテンションとスピードに終演後はすさまじいブラヴォの渦となる。ただ録音が悪くて最初何だかわからないのと、余りの速さにブラス陣がこけまくるのが問題かも。しかしパレーを知るには格好の記録です。○。

○パレー指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1975live

パレーのオハコであるがここではいつもの剛直直進演奏という超ドライな芸風からやや落ち着いて、小気味いいボレロのリズムを終始楽しむことができる。オケのひびきも心なしか華やかだ。録音が悪いので最大評価はできないが、終演後の大ブラヴォがパレーの晩年評価を物語っている。今なぜ忘れられているのだろう?○。

○パレー指揮カーティス・インスティテュート管弦楽団(DA/vibrato:CD-R)1978/2/13live

かなり激しく揺れ動く情緒的な演奏。繊細な微音表現もパレーらしくないほどに美しすぎる。この伸縮もけっこう芯のとおったテンポ設定ならではの一直線の上に展開されているといえばそう。ミュンシュではない。カーティス交響楽団と紹介されているが、まるごとコピーか同一音源を使用していると思われるVIBRATO盤で正式名称が記されているのでその名称にしておく。正規にならないのがおかしいくらいの高音質ステレオで演奏もパレーのライヴの、別の一面を見せてくれる面白いものだ。

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ミュンシュ指揮

◎パリ音楽院管弦楽団(LYS/GRAMOPHONE)1946/10/10・CD

歯切れの良い発音としっかりしたテンポ感が印象的。まとまりがよすぎてこじんまりしてしまうかと思いきやまったくそんなことはない。まさにボレロそのもの、イダ・ルビンシュテインの颯爽とした舞踊が目に浮かぶ。威厳すら感じさせる実にカッコイイ演奏です。ミスがあってもモノラルであっても支障なし。

ボストン交響楽団(RCA)1956/1/23・CD

じつはこの組み合わせ、苦手である。ボストン交響楽団ははっきり言ってそれだけではあまり面白い音楽を作れる団体ではない。だから指揮者の色がとても出易いと思うのだが、ミュンシュの場合個性がきつすぎてヘキエキしてしまう。いや、すべてがすべてオケのせいでもなく、録音のせいということもあるのだが。リヴィング・ステレオのこのCDも高音域が張り裂けるようなギリギリの音で耳触り悪く、中声部がスカスカでラヴェルのような身の詰まった音楽は骨抜きにされ宙ぶらりんになってしまう。ラヴェル得意の不協和音の妙もこのバランスだとうまく響かない。また、何より気になったのが、だいぶ大きくなったところで初めて登場するヴァイオリン、小さいこと小さいこと。そしてクライマックスの真ん中の抜けた奇妙なバランスの、やはり今一つ爆発力のない音楽。ミュンシュはダイナミックな音楽作りが持ち味だが、全ての録音中もっとも速い14分弱という時間も、伸び縮みの極端に少なく、ただただ高速で突き抜けるこの演奏の異様さを裏付けている。情熱が今一つまとまった音楽として聞こえてこない、これは余り面白くない演奏。知る限り同じ組み合わせで1958年にもRCA録音(15分弱)、DECCAでパリ音楽院管と入れた古い録音(17分弱)、そして恐らく最もダイナミックな起伏の施されたEMI録音(17分強)がある。時間バラバラ。

○パリ管弦楽団(EMI)1968/9/21~28・CD

ミュンシュのラヴェルは聴く人を選ぶ。じゅうじゅう肉汁の垂れ滴るような演奏に嫌気を催す人もいるだろうし、熱狂的な感興を覚える(といってもミュンシュは決してからっと明るいラテン気質の音楽を作り出す人ではないのだが)人もいるだろう。私はどちらかといえば前者のタイプなのだが、パリ音楽院管の流れを汲む因縁のオケ、パリ管のある意味とてもローカル色の「薄い」音は、ミュンシュのボストン帰りのスタイルにうまくハマっているようだ。やや雑味があるし、ミュンシュ独特の整えられないひびきが耳につかないといえば嘘になる。この盤に特徴的なのはねっとり粘着質のフレージングだ。後ろに引き摺るような旋律の重さは独特の味。ミュンシュのボレロで一番灰汁が強いと言われる録音、さもありなん。しかしラヴェル独特のキンキン耳に付くような金属質の不協和音はそれなりにしっかり響いており、最後のボントロなんかの重い響きもコケオドシ的で面白い。まあ、これをミュンシュ畢生の名演とは言い難いが、確かに独自のものを持っている。○。

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○アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(london)1963/4

アンセルメもちょっと不思議な距離感をもつ指揮者だ。バレエ・ライクでリズミカル、感情的な演奏もあれば、至極客観的で節度の有る、言ってしまえば「面白くない」透明な指揮をしていることも多い。ラヴェルにおいては前者の色が強い感じがするが、独特の恣意性がはさまるのが特徴的ともいえよう。ワルツ音楽における独特の「間」、あまりにはっきり意識的に入れているがために、現代音楽ぽい雰囲気すら持ち合わせていて面白い。この「ボレロ」も独特。響きはスイス・ロマンド特有の無味無臭といった感じでは有るが、徐々に迫り来る音響は非常に明瞭で、ラヴェルの精妙な和声を巧妙に再現しており出色だ。ピッコロの不協和なひびきが自然に聞こえてくるのが嬉しい。なかなかです。しかし圧倒的というまでにはいかなかったので○ひとつ。

ルイ・マルタン指揮パリ・ソリスト管弦楽団(CHRISTOPHORUS)LP

うーむ。普通だ。ちゃんと出来上がった演奏なのだがどこか物足りない。この曲にはいろいろな演奏があるから、普通に演奏しても面白味がなく聞こえるのだろう。音色はフランス的でいいオケなのだが。無印。

○モントゥ指揮ロンドン交響楽団(PHILIPS)1964/2LONDON・CD

僅かに萎縮したような危なっかしい所が見られるが、歯切れの良い発音と小気味よいリズムが魅力的な演奏。舞踊音楽としての出自を強く意識しているようだ。奇をてらわずオーソドックスな解釈といえばそうかもしれないし、余りスケールが大きくないといえば確かにそうだが、録音の明瞭さと速い速度だけでも充分スリリングで楽しめる。○。

○ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団(WEITBLICK)1985/5/9,10・CD

なかなかラヴェルらしい演奏になっている。ケーゲルはラヴェルをけっこう演奏していたようで、「子供と魔法」なんかもあったと思う。理知的で合理的なラヴェルの書法はケーゲルの几帳面でエキセントリックな解釈と意外と相性がいい。快く聴きとおせる演奏です。言われるほど凄まじいというわけではないが、冷たい肌触りがする独特の熱演と言っておこう。○。

ボルサムスキー指揮ライプツィヒ交響楽団(URANIA)

ああっ、録音が悪いんだよう!あまりに音飛びするので評価不能としたいところだがあくまで私の盤だけの問題なのでおさえておく。音色変化はないが漲る力感が曲の不断の前進性を強調してすこぶる効果的、圧倒的な音量、スピーカーの紙が破けるほどの破壊的な大音量に忘我。それだけではない。音量がぜんぜん安定しない。これは録音か編集のせいだとは思うのだが、短いスパンで変な抑揚が付きすぎである。音量ツマミを握りながらの鑑賞にあいなった。小さいところはぜんぜん聞こえず大きい所は割れんばかりの大音響(と破裂音)、電車の中でヘッドフォンで聴くときは気をつけないと。苦労はするが面白演奏だった。録音マイナスで無印。

シュヒター指揮北西ドイツ・フィル(IMPERIAL)LP

LPと書いてますが12インチとか小さいのも含んでます。シュヒターはシュヒターらしくじつに実直でテンポを崩さない手堅い演奏をしている。重みのある音響やきっぱりとした発音にはドイツらしさが出ているものの、それ以外の部分でドイツっぽさというものはとくに感じられない。客観的というのともまた違うのだが、とにかく強烈な個性をぶつけてくる演奏でないことは確かだ。まあ、この演奏内容なら水準よりは上か。録音は古い割に意外とクリアでした。無印。

○フリッチャイ指揮RIAS交響楽団(DG)1953/4

フリッチャイにしてはかなり速い。けっこうスピードを感じる。発音が細部まで明瞭なので冒頭より音量が大きすぎる気もしなくもないが、きっぱりとして力感ある表現はなかなか聞き物だ。透き通った音が印象的。○。

○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(URANIA)1953/3/22

早いテンポで押しまくる演奏は私は好きだ。だがこの盤ピッチが高いのが気になる。雑音も継続的に入るし、ウラニアのCDにしてもいささか条件が悪すぎる。オケの好調、シャープなオーマンディの指揮ぶり(とくにリズム感のよさ)を加味して○ひとつとしておく。このころのオーマンディは凝縮された力感がある(モノラルのせいもあろうが)。

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ムラヴィンスキー指揮

レニングラード・フィル(multisonic)1953

この盤どうも古いせいかピッチがおかしいような感じがして、それが若干評価に影響はするのは仕方が無いだろう。この演奏はムラヴィンスキーいうところの「運命のメトロノーム」がフルに活用された演奏で、強固なテンポ感により安心して聞かせる。決して奇をてらったところがなくあくまで正攻法だが、オケの独奏楽器の音色がいかにも特徴的で、面白い効果をあげている。派手ではないが、よい演奏である。

レニングラード・フィル(RUSSIAN DISC)1960/2/26LIVE

ロシアン・ディスクもいーかげんなレーベルで、表記間違いが相次ぎロシア音楽ファンを翻弄してくれたものである(ちなみに2003年6月現在、一応まだ存在している)。でも、10年ほど前、怒涛のように流れ込んできたロシアン・ディスク盤は、その発掘音源の希少性からロシア音楽ファンを狂喜させた。今や昔である。もっと質のよい音で別レーベルから再発された盤も少なくないが、再発から漏れている秘曲のたぐいも残されているのは事実である。さて、このボレロは「幻想」「亡き王女のためのパヴァーヌ」とカップリングされている(録音同日)。幻想はとんでもないロシア流儀の幻想で余りの恣意性に驚くが、このページの対象外の作品としてここでは深入りしない。ボレロはマルチソニック(チェコ)盤を以前ご紹介したが、このロシアン・ディスク盤はより洗練された感じがする。マルチソニック盤の鄙びた音色はここでは聞かれない。この盤も決して録音状態はよくないのだが、聞けないほどではない。むしろムラヴィン芸術のアクの強さが音の多少の瑕疵をものともしない、といえよう。クライマックス近くでペットが事故っている箇所がいくつかあるが、流れゆくライヴならではの前進性がさほどの事故も気にしなくさせ、気分をほどよく浮き立たせてくれる。最後にはかなりロシア色の強いえぐい音表現になるが、面白い。最後の雪崩れかたが今一つびしっと決まらないが、全般にはまあまあといったところだろう。聴衆の反応はそれほどでもない。ムラヴィンファンは当たってみるのもよいだろう。

○レニングラード・フィル(MELODIYA)1952

ムラヴィンスキー100歳記念盤(2003年)の2枚目。「ロシアでは」初リリースとあるが、書かれているデータが正しければ、国外でも初リリースとなるものも含まれているようだ。このボレロは記載されている情報が正しければ他に挙げた2演奏とは異なるもの。モノラルで録音も若干聞きづらいが、非常に正攻法の演奏で、ソロ楽器にちょっと不安を感じる部分もあるが、全体としてはよくできている。気持ち良く聞ける一枚。

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◎スヴェトラーノフ指揮ボリショイ劇場管弦楽団?(MELODIYA)1960'?

個人技の曲である。ロシアオケにとってはお手のものだ。中には余り曲に共感していないようながさつなフレージングの楽器も混ざるが、総じて特徴的な音質、適度な前進性、ひずんだ音響があいまって、とても面白い演奏が出来上がった。弦楽器が余り浮き立ってこないのも面白い。恐らく意図的なものなのだろうが、却って新奇な感じがして格好良く感じた。開放的に豪放に鳴り響いて終わるような激情的な演奏ではないが(スヴェトラーノフがまだ直截であったころの演奏である)、聞いた後に何かしら残る演奏。わたしはとても気に入った。◎。ステレオ。

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(bescol)?

唐突にあらわれたバルビローリのラヴェル集。モノラルだが、手元のディスコグラフィー(HUNT[MUSICAL KNIGHTS])にもまったく書かれておらず、ライナーもないため、出元も年もさっぱりわからない。まあ、ホンモノだと信じて素直に音楽を楽しもう。ハレはハレとは思えないほど精妙に音を重ねて行く。各ソロ楽器の艶めかしい音が「これってハレ?」と聞き直してみるくらいに綺麗に響いている。指揮者の個性が出るたぐいの楽曲ではないため、バルビ節も発揮のしようがないが、意外に「踊れる演奏」になっているのが面白い。バルビはリズム処理がヘタという面があるが、この演奏はまるでメトロノームを置いたように粛々と進んでおり、気を浮き立たせる。素朴な味わいがあり、弦楽器まで入ってくると、スケール感は小さいものの、和声がとてもきれいに響いているのが印象的だ。全楽器が一斉に謡い出してもたいしてスケール感は変わらないが(爆)いちおう壮麗と言っておこう。最後までテンポは一貫して変わらず、フレージングもわりと平坦だが、その一貫性こそボレロの真実であり、この演奏が正統であることのあかしだ。最後の盛り上がりは物足りない感じもするが、耳優しい音楽にたいして○ひとつをあげよう。

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チェリビダッケ指揮

ミラノ放送交響楽団(HUNT・ARKADIA)1966/2/11LIVE

じつに律義で堅固なテンポの上に四角四面の音形を載せていくチェリ。独特の解釈だ。オケがラテンなのでそれだけでも瑞々しいリズム感を持っているはずが、チェリはあくまでドイツふうに「遊び」を許さない。結果として自由に謡いたいオケと独自のテンポを崩さない指揮者の間にとてもスリリングな関係が構築され、いびつな結果が産み出された。どちらかに偏ればまだ聞けるものを、こう拮抗していると少々疲れる。たとえばヴァイオリンが追加されるところであえて音量を抑えて下品なクレッシェンドを避けていたり、縦のハーモニーを意識して各パートに繊細な音操作を加えているなど、面白いことは面白いのだが、奏者が混乱しているところも聞かれる。単純な音形の中にちょっと細かい音符が入るとバラけるのはそれ以前の問題だが。ライヴで聞けたら異常に透明で繊細な「チェリの音」を味わえたろうが、録音が悪くてどうにも不満。最後いささか軍隊調で幕を閉じると、異常なブラヴォー渦にびっくり。ブーイングも少し混ざって、ミラノはこの日も熱かったようだ。

シュツットガルト放送交響楽団(MORGAN'S:CD-R)1975/4/11LIVE

引き締まったオーソドックスな演奏で、晩年のものとは違い前進的ではある。ブラヴォが物凄いけど、正直かなり茫洋とした放送エアチェック録音のせいか特筆すべきところもなく、平板で平凡な演奏に聞こえる(精度は認める)。左のチャネルが拍手に入るまで(つまり「終演後」まで)少し弱く聞こえるのも気になる。盤として無印。他盤と同じ可能性あり。

○シュツットガルト放送交響楽団(TOPAZIO)1975LIVE・CD

MORGAN'Sの4/11録音とされるものと同じ可能性あり。チェリビダッケのボレロであり、ブレは無い。前進的でガツンガツンと盛り上がっていくが、かといって何か徒に気を煽ることについては抑えているようでもある。音質は70年代にしてはいいステレオ。拍手はすごい。オーソドックスに楽しめるが、ほんらい求められるボレロではないかもしれない。○にはしておく、今回は。ほかにフィンガルの洞窟が入っているが、更に後年のマーラーの亡き子が著名な海賊盤CD。まとめてCDR化されたと思う。

○シュツットガルト放送交響楽団(LIVE CLASSIC)1982LIVE

かなり聞き易いインホール録音。音響バランスがいびつな感じがするのは私だけだろうか。ピッコロが鋭い不協和な音をたてる場面、私はこの中間音を抜いた硬質な響きが好きなのだが、この演奏ではあまりに強すぎて不協和性が強調され、むしろ耳障りの悪い音楽に聞こえる(このへんのさじ加減が微妙なのだが・・・録音だとそれがいとも簡単に崩れてしまう)。チェリのバランスのせいでなく、録音のせいと信じたい。なかなかしっかりとした量感のある演奏で(この録音に限らずだけれども)、晩年は精巧な構築性が持ち味だったチェリのまさにそういうところを感じさせる。音色が若干地味なので(ていうかこれが普通か)派手な南のオーケストラには負ける気もするが、機械細工のような冷たいラヴェルに聞きなれた向きにはおすすめ。にしても私はチェリのフランスものを聞きすぎていて、新味を感じないのがいけない。チェリ・マニア以外は2枚(モノラルの南欧ライヴとステレオの新盤)あれば十分でしょう。

○ミュンヒェン・フィル(EMI)1994/6/18LIVE

踊りの音楽ではない。几帳面にぴっしり揃えられた音楽であり、軍隊行進曲に近い。しかしながら聞き進めるうちに心地よく浸ることができるようになってくる。テンポの遅さも後半になるとまったく気にならない。足踏みするような感じは最初の方は気になるが、音楽が流れていくうちに前進性も伴ってくる。ボレロの面白味を引き出すたぐいの演奏ではなく、ボレロという音楽そのものに立ち返らせるような演奏ではある。それは過去の演奏も同様ではあるのだが。海賊盤で出ている演奏よりも純粋であり、また録音も最上である。スケール感も無駄に大きいのではないのがいい。最後の最後で雪崩落ちるところのテンポがはじめて少しルバートするところが面白い。たぶん他盤では聞けない。ブラヴォー拍手は盛大だ。注目盤。

○ミュンヘン・フィル(VON-Z:CD-R)1994live

やや引き気味に聞こえる弦楽器が物足りないが、そこにいたるまでの各ソロ楽器の、自主性はないが完璧なハーモニーをもたらすアンサンブルの妙、もちろんソロとしての技量にまったく不足はなく楽しめる。爆発的エンディングは残念ながら客席のブラヴォーほどには伝わってこないがホール録音というものの限界だろう。恐らく既出盤だと思うが正規と聞き惑うほどに音がいい。

ミュンヒェン・フィル(METEOR)?

録音がまたしてもラジオ・ノイズにまみれ、冒頭の弱音部が聞きづらい。でも演奏は次第に盛り上がり、音が気にならなくなる。規律正しいテンポ感、安定感有る音響、破壊的とまではいかないし、世評のように圧倒的に壮大とも思わないが、とても整えられた演奏で聞き易いとは思う。思ったよりまともな演奏で正直拍子抜けしたが、終演後の熱狂的なブラヴォーと拍手の嵐はすさまじい。たぶん演奏の凄さを録音がとらえきれていないということなのだろう。生で聞くと全く違ったろう。そんな想像をさせる。

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◎ホーレンシュタイン指揮フランス国立放送管弦楽団(MUSIC&ARTS)1966/7/1LIVE

あっけらかんとしかし不断のテンポで格調高く進み、とてもホーレンシュタインとは思えない明るさとすっきりした美しさをはなっている。ひたすらフランス風の音色をブレなくひとつの響きで統一し、ソロ管楽器はカツゼツのしっかりした発音で明確な音楽を作り上げていく。聴き進めるにつれブラスと打楽器、リズムセクションの音に切り詰めた激しさが加わり・・・でも決して音もテンポも外さない。柔らかなニュアンスなどなく、ただただ不断のテンポがある。ミュンシュの肉汁滴る演奏とはまったく異次元の演奏だ。ここまで高潔で、ここまであっけらかんとボレロを演じ上げてみた指揮者がかつていただろうか。ホーレンシュタイン・ラヴェル不得意説は瞬く間にぶっとんでしまった。フレイタス・ブランコの明快なテンポを聴いて以来の「あっけらかんとして明るい系」ボレロの究極を聴いた気がした。終演前には・・・ブラスの激しく付けられた松葉や轟音の中で・・・私の耳は他の自然音を認識しなくなっていた。終わった後、聴衆の一斉に熱狂する声と共に、私も狂喜しながらプレイヤーの針を止めた。◎としか言いようが無い。個性とかそういう問題ではない、ラヴェルの意図したボレロの姿を自己の個性と感覚的にシンクロさせ、しかも聴衆に訴えることのできた名指揮の記録である。このボックスはまったくホーレンシュタイン像を一変させるライヴ音源の宝庫だ。。。

○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(MUSIC&ARTS)1939/1/21LIVE・CD

テンポが速すぎると文句を言った作曲家を、腕ずく(もちろん「演奏」という意味ですよ)で納得させた(とロザンタールが言っていた)トスカニーニのなぜか唯一の記録。30年代にしては破格のいい音だと思う。これはもう各ソロ楽器がトスカニーニの敷いた線路に乗ったうえで勝手にそれぞれ表現しつくしている感じがして面白い。つじつまがあうギリギリまでテンポを揺らしかっこよく歌いこむ人もいれば、つんのめり気味にどんどん先へ突き進もうとする人もいるし、ボレロらしくきっちりインテンポを守る人もいれば思いっきり音を外して恥をかいている人もいてさまざま。こういう楽器おのおのの表情変化を楽しむ曲だ。面白い。

トスカニーニに「不断のテンポ」があるかといえばそうでもない。長い長い旋律の後半部分でシンコペから3連符に入る音の高いところ、必ずテンポを思い直すように落としているのだ。これは・・・現代の耳からすれば違和感がある。これは踊りの音楽である。こういう盛り上がりどころでのスピットなリタルダンド挿入というのはどうなんだろう?更にクライマックスあたりでもいっせいにテンポを落とす箇所がある。こうなるとトスカニーニ解釈ここにありというか、前近代的なロマンティックな解釈とは隔絶した硬質さはあるのだけれども、まるでムラヴィンスキーのように(影響関係逆だが)確信犯的で予め準備された「崩し」が入るところに独特の作家性を感じるし、違和感はあるけど、それなりに面白くもある。最期はもちろんブラヴォー嵐。何度聞いても面白いですよ。

○カンテルリ指揮NBC交響楽団(MUSIC&ARTS)1952/12/15LIVE・CD

かなり速い。軽快だ。カラッと乾いていて、じつにあっけらかんとしている。まさに南欧ふうだ。ブラスにミスが目立つが全体の流れを妨げるものではない。この速さはラヴェルなら怒るだろうが客席は拍手喝采ブラボーの嵐。○。ちなみにこの録音、CDのオモテ面に記載が無い。最近ままある現象だが、収録時間の問題で入れるか入れないかもめたのだろうか。

○カンテルリ指揮NYP(ASdisc)1954/3/19live・CD

打楽器的な演奏というか、とてもリズムが明瞭で切っ先が鋭い。録音はやや悪いがカンテルリの(色艶はなくとも)鋭敏な耳と確かな腕がオケを細部まで統制しきった演奏ぶりがうかがえ、演奏者も盛り上がれば聴衆も熱狂する。NYPにこういう演奏をさせるだけでも凄い。○。

○モートン・グールド指揮ロンドン交響楽団(varese sarabande,JVC)1978/9/18-20,CD

これちょっと変なので持ってる方はスコアと比べて聴いてみてください。いじってるみたいです。
不良爺さんのボレロといったかんじで軽いんだけどリズムがやたら明瞭でカッコイイ。足踏みの音が聞こえてきそうだ。音は横に流れない完ぺきにリズム重視、でもラテンのあのリズム感とも違う、でもノリはすこぶるいい。アメリカ的派手さには事欠かない。低音のリズム系楽器が物凄く強調されるのでクライマックスなんてスペクタクルですがオーマンディのゴージャスなブヨブヨとは違う凝縮力を感じる。物凄い個性的とは言えないけど確かに個性の有る演奏、うーん、コトバでは言い表わしづらいな。モートン・グールド自身オーケストラを知り尽くした作曲家だけあってどうやれば最低限の力で最大限の効果を生み出せるか知っている。それが逆にここではただラヴェルの手の上でゴージャスな広がりを展開させるのではなく、割合と小編成のアンサンブルのように整理して組み上げる事でまるでコープランドのバレエ曲のような「軽い響き」を持たせ、そのうえでドガジャカタテノリ解釈を持ち込んで独自の舞踏音楽(これは踊れます!)を作り上げる事に成功している。佳演。ラヴェル指揮者ではないけれど、近代名曲選の中の思わぬ拾い物、といったところ。

○チラーリオ指揮ルーマニア放送交響楽団(ELECTRECORD)CD

ラテンっ!最初はおとなしく規律正しい演奏振りでむしろつまらないかもと思ったが、クライマックスは豪華なイタリアオペラの一幕を見るように派手でかつ威厳ある表現が無茶かっこいい。前半マイナスとしても十分後半だけで○はつけられる。録音は遠くあまりよくない。イタリア指揮者の面目躍如、オケも脂っこさがないため聞きやすい。ぐちゃぐちゃに歌うたぐいの演奏でも、がちゃがちゃに鳴り響かせるたぐいの演奏でもないが、かっこいいとだけ言っておく。若き王子の颯爽たる戴冠式行進曲。

○リグノルド指揮ロンドン・フィル(RCA)

律然としたリズムが格好いい。終始崩れない速めのインテンポで押し通し、ボレロの王道といった演奏ぶりである。管楽器の巧さは言うまでもないが、決して個性を出さずに総体としての響きを重視しており、ソロを楽しむ演奏にはなっていないが、「ボレロ」という音楽を全体として楽しむのには最適といっていいのではないか。久しぶりに「正統派」のボレロを聞いた。特徴には欠けるが、最後までわくわくして聞ける演奏。トスカニーニを彷彿としたが解釈的な恣意は全くない。モノラル。

○ウォレンスタイン指揮ヴィルトーゾ・シンフォニー・オブ・ロンドン(AUDIO FIDELITY/LEF他)CD

これがウォレンスタインの廉価盤にしては音がよく(ブラームスとか音の悪い盤もある)演奏は言わずもがなの引き締まった、激しさも併せ持つもので非常にいい。どこをどう、という批評はしづらい曲だが(ソリストの腕でどうこう言う声が多いのはそのせいでしょうね)この演奏はバランスがとれているというか、パリとか南欧とかアメリカとか、どっちに転ぶわけでもなく正しくこの曲のイメージを表現している、としか言いようが無い。初めての人にも薦められます。○。タワーがこのレーベルを長く売ってくれているおかげで、ウォレンスタインがルビンシュタインの伴奏指揮者というイメージから外れて評価されることを祈ります。このCDは長く品切れ状態だったが今は店頭に並んでいる。オケはLPOか。(2005)

恐らく板起こし。しかし音質は柔らかく透明でいい。オケマン出身指揮者だけあって山っ気というかシロウト臭い解釈を入れずアンサンブルの調和を重視する点で聞きやすさがある。テンポは実直に速めのインテンポ、奇をてらわない演奏振りは好感が持てる。それだけに繊細で美しい響き、とくに木管はさすがロンドン・フィルの精妙な表現が生きてきている。最後も派手になりすぎずバランスが非常にいい。スコアを厳しく音にできれば変な伸び縮みを入れなくても十分効果的に仕上がるのがラヴェルなのだ。○。指揮者としての腕より曲への真摯さが伝わる演奏。(2007/7/17)

○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団?(DA:CD-R)1967?live

クレジットに無いものが入っている場合もあればあるべきもんがない場合もあるこのレーベル、クレーム出しておいてから、しっかりこのクレジットなしトラックについて書きます。多分67年のフランスの放送ライヴ。ラヴェルは正直、ギリギリアウトの不協和音を駆使した作曲家だと思う。そのアウトをセーフに聞かせるのに非常に繊細な各楽器の音量操作がいる。だがストコははっきりいって「アウトでいいのだ!」と不協和なコードを立体的にはっきり響かせてみせる。これは録音のせいでもあろうが却って現代性が引き立ち面白い。ただ、最初からそんな調子なので一本調子にそのまま高みのパレードで終わってしまう平坦さはある。だが面白いことは確か。録音よし。

○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(SCC:CD-R)1969/5/4live

効果を狙った極端な音量操作が非常に気になる・・・とくにスネア以下パーカスの突発的表現。また、ラヴェルにたいする挑戦のような変更に近いものも散見され、ストコフスキ・クレッシェンドで極限まで引き延ばされる終止和音のあざとさはブラヴォを叫びたくなくても叫ばせるたぐい。オケミスは非常に多いし余り誉められたもんでもないが、不断のリズムはけっしてよれることなく迫力を積み上げていく、これは凄い。○。

○フランツ・アンドレ指揮ブリュッセル放送交響楽団(capitol)

がっしりした演奏ぶりで揺れがなく、ひたすら重厚なリズムが叩かれていくが、肉厚な響きが音量があがるにつれ目立ってきて、とくにブラス中声部が必要以上にブカブカとやるものだからドイツふうからだんだんラテンノリにシフトしていってしまう。しかし曲の構成自体はいささかも崩れず、特異な響きの印象を残して格調高く終わる。ばらつきはあるが堅実。

○ゴルシュマン指揮ラムルー管弦楽団(PHILIPS)

やはり構造の見えやすいクリアな演奏ぶりで、直線的で情緒的な揺れのなさ、曲そのものの持っている力だけで聞きとおさせる啓蒙性には、アメリカで活躍したのがうなずける。「棒吹き」にはやはりどうも違和感があるのだが、各ソロ楽器の名技性を数珠つなぎしていくだけが能の曲でもないだろう。こういう演奏のほうがラヴェルの理想に近いのかもしれない。けっこういいです。情緒派には薦めないけど。○。

ル・ルー指揮フランス国立放送管弦楽団(concert hall)

ちょっとハッキリしすぎる感もある出だしだ。録音がよすぎるのかもしれない。かなりしゃっちょこばった規律正しいソロ演奏を指示しているようである。ラヴェルの自作自演あたりに近いとても機械的で堅い解釈のように感じられる。数珠繋ぎのソロ楽器の音色表現がいずれも非常に単調である。というか、余りに個性が無い。抑え込まれている感すらある。元々持っている楽器の音の美しさだけだ。全体の音響はしかしとても整えられている。遅めのインテンポなうえにただ音響がどんどん重くなってゆく。クライマックス近くで音量が若干抑え目に修正されているのもどうかと思う。とにかくこれはとても「正しいボレロ」だとは思うが・・・面白くは無い。

○フバド指揮リュブリアーナ放送交響楽団(MEDIAPHON)CD

手慣れた演奏ぶりでからっと明るく楽しめる。派手過ぎも重すぎもせず、ボレロのイメージそのままを味わえる。演奏もうまい。

○ベイヌム指揮ACO(DECCA)CD

ベイヌムが得意とした分野の一曲だが、しょうじき「スタンダード」であり、それ以上でもそれ以下でもない。録音ほどよく明晰だからファーストチョイスにも向くが「それなり感」が否めず、カラーも迫力も「それなり」なボレロに意味はあるのか?と言われるとびみょうだ。ACOは中欧オケにしてはフランスものにも強かったが、この演奏でもソロ楽器は「それなりに」巧みで音色も「それなりに」繊細。○にするに躊躇はないが、破壊的ボレロを期待すると裏切られる。節度派向けですな。
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レスピーギ ローマの松(2012/3までのまとめ)

2012年04月20日 | Weblog
○コッポラ指揮パリ音楽院管弦楽団(Gramophone/RICHTHOFEN:CD-R)1920年代

有名な録音にもかかわらずSPでしか聴けず(盤自体の流通量は多かったが)復刻が待たれていたもの。戦前仏グラモフォンで近代音楽の網羅的録音を使命とされたピエロ・コッポラ(割と近年まで存命)。フランスものはイタリア盤CDでかなり復刻されていたが、同時代にあっても雑味も厭わずただ高速で突き通す、ワンパターンな指揮者として余り評価されていなかったようである。しかしこれは他のSP指揮者のものにも言えることで、収録時間の制約があってそのテンポを取らざるを得なかったという説もある。派手な表現、特にオケの色彩を引き出すことには長けており、ただテンポとリズムが単調なためにドビュッシーのような繊細な音楽には向かなかっただけである。

従ってこのようなテンポとリズムが単調でも聴けてしまう音楽には非常に向いている。私はこの異様なテンポは好きだし、中間楽章は確かにこの録音状態では是とはしがたいけれども、終楽章の突進はトスカニーニとは違ったスケールの小さな爽快さというか、世俗的な喜びが感じられ、表現の振幅は全然違うけれどもクアドリを彷彿とさせる楽しい音楽になっている。変なケレンがなく、ただスコアの面白みが存分に表現されている。この時代のフランスの弦楽器は確かにちょっと雑過ぎる。しかし、この曲は弦楽器なんかいらないから大丈夫(暴論)。○。

◎クアドリ指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(WESTMINSTER)1950'S

プレヴィターリに比べて派手だがぐだぐだ。でもそこがイタリア人らしくていい。この個性に私は◎をつけたい。この指揮者と縁深いウィーンオケも重量感がある(ウィーンオケの常?としてブラスの技巧がすぐれないが)。クアドリも日本にゆかりが深いそうだが私は初耳。なかなか爆演系の指揮者で、細部はアバウトだが入り易い演奏だと思う。ジャニコロの松の陶酔的な謡いまわしは情緒たっぷりで印象的。色彩変化も鮮やかで美しい。アッピア街道は文字どおり爆演。ブラスがへたろうが構わない圧倒的なクライマックスだ。録音のレンジが広いせいもあろうが(モノラルだが)。面白い。◎。

○プレヴィターリ指揮聖チチェリア音楽院管弦楽団(DECCA)1959

イタリア人指揮者の「松」となるとこの人とクアドリのものがまっさきに挙がるそうである(トスカニーニは別格)。これはメリハリのきいた色彩的な演奏。日本にも来ていた指揮者だそうだが私は初めて聞く。このオケはレスピーギゆかりのオケだそうだ。私はサバータの噴水の録音でしか知らなかったがこれがけっこう巧い。軽やかできらびやかだ。とてもまとまりのいい演奏に聞こえるが、抜けのいいブラスも楽しい。アッピア街道の松にもうすこし圧倒的なパワーがほしかったが録音のレンジの狭さのせいか。ジャニコロの松のいち早く入る鳥の声や弦楽器の歌謡的な表現など、やや美に徹しすぎる感もあるが、品のよいいい演奏だと思う。○。

○ガルデッリ指揮ロンドン交響楽団(EMI)

超廉価2枚組CDで発売中。LPで手にいれたあとそれを知って愕然としました(泣)。イギリスオケの軽量級の音はこの曲に意外に合う。1楽章など特長には欠けるが美麗だ。淡彩のため曲によっては力感に欠ける印象もあるが、3楽章など余りにも美しい音詩に陶然とする。ディーリアスの世界だ。高音打楽器が懐かしい余韻をのこし秀逸、ちょっとホルスト的な神秘の怜悧を秘めた音響である。4楽章はブラスがはじけないのが気になるが(バンダが弱い?)ティンパニがダンダンと気分を高揚させる。ドラやら鈴やら打楽器大活躍、最後にはブラスも力感を取り戻し立派なクライマックスを築く。やや音量変化がぎごちなく大きなクレッシェンドの効果が出ていない感じもするが、最後は壮麗に盛りあがるからいいか。指揮者がいいのだろう、「松」らしい演奏になっており、○ひとつはあげられる。「松」のスタンダード盤として如何。(2003記)

○ガルデッリ指揮ハンガリー放送管弦楽団(HUNGAROTON)

開放的でいかにもイタリアの指揮者らしい色彩感と「やる気」にあふれた演奏だが、オケが技術的に不安をおぼえるところもあるし、音もやや冷たく南欧的雰囲気を損ねている感もある。1楽章は予想を裏切らない楽天的な演奏。2楽章は表現が世俗的であざといようにも思えたが、この曲はそれでいい気もしないでもない。3楽章はソロヴァイオリンが音末を切上げるように弾いているところがラベルのダフクロ終盤を思い起こさせた。感情を煽らず雰囲気を徐々に盛りあげていくところなど印象派的と感じる人もいるかもしれない。最後はロマン派ふうに雄大に盛り上げる。私は好きだが音が重すぎると感じる人もいるかもしれない。全体的にはなかなかの出来である。○ひとつ。

ミュンシュ指揮ニュー・フィル(LONDON)1966/1

イマイチノリの悪いオケのせいもあるが、鈍重で野暮に聞こえる。1楽章はロマン派的くぐもりが支配しており、内声部が充実しているぶん前進性が損なわれている。2楽章も濁っており鈍重だ。3楽章は逆にロマン派的アプローチが功を奏している。色彩的で心象的で、哀しいほどに美しい。ゆっくりした楽章だから、ミュンシュのアバウトなところが目立たないせいもある。4楽章は重々しい。そのせいか重い。どっしりしすぎて行進に聞こえない。オケも何か「こなしている」という感じしかしない。全般、無印。

○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1960/12/23LIVE

モノラルで、録音が悪ければ悪いほど良いように聴こえるというのは、つまるところ悪い演奏だった証拠だが(「悪いステレオ録音」というのもあるけど)、録音を聴く側は聴き易ければ問題ないわけで、こちらのほうをおすすめする。派手なだけでハスッパなブラス陣もバンダ含めインホールの茫洋とした音響の中ではその荒さや欠点を補われ、立体感はやや損なわれても総体的に美しい音響に昇華される、よくあることだ。1楽章に違和感がなく、2楽章から重心の低い音響がドイツ的なしっかりしたカタコンベを提示するのが面白い。モノラルなのに立体的に聴こえ、3楽章も低い音がしっかり響いて、鳥の声も含めて単なる環境音から抽象音楽として昇華されている。ミュンシュのデフォルメがやや気になる4楽章も大きなクレッシェンドという音量変化がはっきり聴こえてわかりやすい。最終音を異常に引き伸ばすのはしかし成功しているのか・・・終演後の冷静な拍手・・・

○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1961/8/6LIVE

ステレオ録音が明晰すぎて荒が目立つ、、何かぶよぶよしていて済し崩しにはいる拍手も構成力の弱さを象徴しているようにおもう。起伏が起伏としてきちんと録音されておらず、聞こえなくてもいいブラスの隅々まではっきり聞き取れてしまう。あと、この曲はやっぱり一楽章冒頭で決まる。壮麗なだけだとリズムがしまらずテンポをしっかり印象づけられない。以後すべてだらだら聞こえてしまう。三楽章はさすがに綺麗に決まっている。○にはしておく。

◎モントゥ指揮ORTF(M&A)1956/5/3live・CD

余りに音作りというか旋律作りがリアルで、音楽自体が単純化されイマジネイティブのかけらもないトスカニーニふうの即物表現なので、はじめはどうかと思った。しかし、次第にこの演奏の凄みを感じだす、けっして少しも端すらもイマジネーションをかきたてられないし旋律ばかり耳につき音量変化も小さくひたすら強音、みたいなかんじなのに、何か得体の知れない魔物の強靭なかいなに首ねっこをつかまれ、アッピア街道に引きずり出されそのまま土煙にまみれてローマへ連れ去られるような、ものすごい「迫力」に圧倒された。演奏陣がまた稀有なくらい完璧なのである。充実した響き、内面からの共感にささえられた瑕疵のかけらもない表現、隅々まで完璧なのである。ああ、カタコンブは生命力に満ちたミイラたちがカラオケをがなる様だし庭園の鳥たちはスピーカーの音量つまみを最大にひねったように騒々しいし、アッピア街道は最初からもう軍隊が轟音たててる感じ、なのに、これは、◎以外思いつかない。圧倒的、というひとこと。モントゥはハマると凄い。珍しいブラヴォが飛ぶ。録音はモノラルとしては深みも広がりも最高。環境雑音以外の瑕疵ゼロ。

○ベズザラブ指揮ルーマニア・フィル(MELODIYA)

オケ名がジャケ上ではソヴィエト国立放送交響楽団と混同されているが金管や弦の音がぜんぜん違うのでルーマニア・フィルのほうが正しいと思う。無名指揮者に無名オケということだが演奏面はよく練り上げられていて完成度が高い(この曲に完成度という言葉が適当かどうかわからないが)。オケの技量的にもまったく過不足なく、解釈は常套的ではあるが2楽章終端から3楽章への陶酔的な雰囲気や4楽章の圧倒的な表現などなかなかどうして楽しめる。モノラルだがとくに違和感は感じなかった。3楽章の鳥の声がなんだか低い声でカラスみたいだが、あまり重要ではない要素だからいいだろう。個人的に◎をつけたくなるくらいのめり込めたのだが、冷静になると録音条件を鑑みて○が妥当か。アッピア街道のぶっ壊れかた?はちょっと感動モノ。

○カラヤン指揮ベルリン・フィル(DG)1977-78

磨き抜かれたひびきの美しさと節度ある表現の上品さがこの演奏の特徴である。2、3曲めがやや印象に薄い感があるが、サウンドとして聞けば決して看過できるものではない、すばらしいサウンドだ。ベルリン・フィルの田舎びた剛直さからここまで柔らかく透明な音を引き出すことができたカラヤンという存在の特異さを改めて思う。アッピア街道はもう少し派手な盛り上がりが欲しい気もするが、それは下品な人間の趣味なのだろう。瑕疵のない、何度聞いても飽きない演奏である。何よりあけっぴろげに明るいのがよい。

○カラヤン指揮ベルリン・フィル(KARNA:CD-R)1984/10/18LIVE

とてもドイツ臭い重量感あるレスピーギだが、これがまったく、ライヴでこの演奏ぶりというのはまったく凄まじいのであって、生前はそれがカラヤンだから普通だとおもっていたのが、そのじつこんな強烈な力感と充実した響きの威容を誇る非常な完成度のライヴを創り上げる演奏家など滅多にないことに後から気づいた不明である。これはもう余りに重々しく力づくすぎるかもしれないけれど、爽やかなレスピーギの色彩感とは無縁だけれども、異常なブラヴォーの渦に熱狂がしのばれるカラヤンという孤高の究極のひとつのかたちである。このあたりもラジオでやってたなあ、とおもうと時代であるが、海賊盤のかたちであっても当時聞くことの叶わなかった若い世代にこれをつたえることに意味は絶対にある。名演とは言わない、○以上にはしないが、圧倒された。

○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(melodiya/scribendum)1980/2/20live

レスピーギはじつは苦手だ。いや、小規模な曲に面白い曲があるのは認めるが、このローマ三部作にかんしては、印象派的にぼやけたテーマが、いたずらに効果的なオーケストレーションに染め抜かれている、空虚な作品であるという色メガネを外せないのである。「噴水」はワグナー・師匠リムスキー、そしてドビュッシズムの影響が顕著だし、それほどではないものの後二作はストラヴィンスキーなどを思わせる無個性な楽想が派手なオーケストレイションを加えられている、いわばハッタリ的な音楽に思えてしょうがないのだ。しかし、きょうスヴェトラーノフの「松」を聞いて、じつは感動してしまったのである。とくにアッピア街道の松、ボロディンの「中央アジアの平原にて」にラヴェルの「ボレロ」が加えられたような巨大松葉(クレッシェンド)のおりなす非常に強力な音楽。スヴェトラーノフの繰り出す轟音は我が家のステレオセットの小さなスピーカーを揺るがす。強力なブラスの響きにのって、壮大な音楽の伽藍が構築されていく。いや、これがライヴなのだから凄い。さすがにこれにはブラヴォーの喝采が投げかけられている。素晴らしい演奏であった。

○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(KARNA:CD-R/weitblick)1999/9/10ベルワルドホールlive・CD

晩年のこの人らしくテンポが落ち着きすぎており奏者同志の纏まりもイマイチだが、奔放で軽やかな色彩感、音粒の明瞭な煌びやかさは流石、師匠リムスキーの国の人といった感じである。細かいソリスティックな動きへのこだわりが全体の流れを壊しているものの、逆に細部をたのしめる。しろうと指揮あるいは作曲家指揮者に近い解釈ぶりではあるけれども、健康を害しもう長くない指揮者の、その最後の境地をうかがい知るというところで興味深くも有る。だからニ楽章から三楽章が生きてくるのだ。カタコンブはまったくRVWのように哀しく悠久なるテンポのうえにひびく。地下墓堂に男らしい哀愁が日差しなす。この楽章の歌はやや弱いけれどもそのあとの庭園に場所をうつした三楽章の思い入れのたけを籠めた歌いぶり、陶酔ぶりはソヴィエト時代を思い起こさせる。確かに元々感傷的なロマンチシズムのある楽章だけれどもどこか「ロシアの憂愁」チャイコフスキーの世界を思わせるのは独特だ。この人も作曲家なのだ、ということを思い出しながら直前にきいたカラヤンとの対極ぶりに感慨する。カラヤンは大局的な視点をつねに失わない完全なるプロフェッショナルだったが、スヴェトラはお国柄でもあるアマチュアリスティックな近視眼をハッキリ「両刃の武器」として選んでいた。だから出来には非常にムラがある。豪放にやりっぱなしなところもある、正規のレスピーギなどもキ盤の謗りを受けているゆえんだが、一時代すぎてスウェーデンの実に清涼感溢れる中性的な音で改めてきくと独特の垢抜けた感傷を醸し出していることに気づく。ロシアオケの脂を抜くとこう響く、スヴェトラはロマンティックなフレージングを駆使しながらも音響的な清涼感を意識しつづけ透徹したまなざしを送り続ける。繊細で金属質の響きへの拘りが、ああ、スヴェトラはじつはこういう音がほしかったのだ、国立響の前に確かにそういったものを追っていたふしはあった。

いささか鳥が怪鳥的に巨大だが非常に美しく録れているのでこの三楽章は聞きものだ(旧盤でも聞きものではあったのだが・・・それはまったく、寧ろリムスキーの称賛したところのスクリアビンの天上性であった)。キャニオンのラフマニノフ全集に代表される「あの」壮大なスケールはマーラーに顕著だがそれまでのロシア国内オケものとはあきらかに違う方向性を指示している。さあアッピア街道はもうデモーニッシュなスヴェトラの独壇場だ。序奏からして細かく纏めることを拒否している。カラヤンの求心力はこの視点からすると音楽をせせこましくしている。スヴェトラにとってこの楽章はボレロである。それもミュンシュではなくフレイタス・ブランコだ。これはスタイルであり、是非を問うべきものではない、素直に聞くべし。期待と、結末。最晩年様式のテンポに支えられた異常なスケール感は「爆演」という青臭い言葉では断じられまい。オケがオケだけに音の目の詰まり方がややすかすかしており、もっとボリューム感がほしかった気もするがそれはひょっとすると、チェリの晩年と同じ録音の穴かもしれない。テンポはひたすら遅く、重い打音を繰り返し音楽は地面の上をひたすら行軍しつづける。スヴェトラは北の大地の地平線の彼方へと行軍し続ける。北の赤く燃え立つような陽光のなかに、異常に引き伸ばされた終和音の中に、この強大な軍隊は振り返ることなく咆哮し、消えていったのだ。 (KARNA盤感想)

かつてweb放送され非正規でも話題になったもの。音質やノイズは正規化されているとはいえ放送録音レベル。1楽章はテンポが後ろに引きずられるようで、これに拘泥してしまうと後が楽しめない。先入観のない人向けか。ちょっとストラヴィンスキーのバレエ曲を思わせるソロの踊らせ方をするところはスヴェトラらしい。2楽章はそのテンポと重いリズム、ロマンティックなフレージングが壮大なロマンチシズムにつながり、けしてそういう曲ではないのに納得。3楽章は美しい。白眉だろう。ロマンチシズムが晩年スヴェトラの志向した透明感のある高音偏重の響きとあいまってこの清澄な音楽にとてもあっている。4楽章は賛否だろう。早々とローマ軍が到着してしまいひたすらその隊列を横で見ている感じ。譜面を見ていないのでわからないがクレッシェンドとデクレッシェンドがそれほどの振幅なく、音量的には大きく煌びやかな側面を見せ、最後に、巨大な音符が待っている。ストコに似ているが、ここまで音符を引き伸ばすことはしない。だいたい、ブラスがもたない。ここでは何らかの方策をとっているだろう。この一音だけを聴くための演奏といっても過言ではない。全般、松の新しめの演奏としては面白い、という程度だが、物好きには、音も旧録よりいいし、どうぞ。ちなみに迫力やテンポの速さ等、スヴェトラらしさとエンタメとしての完成度の高さは旧録のほうなので念のため。技術的にはこちら。(weitblick盤感想)

○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(YEDANG)1960/2/3LIVE

レスピーギは周知の通りリムスキーの弟子であり、天才的に華美なオーケストレーションはこの曲で最大に引き出されている。ロシア系列の作曲家の曲をロシア陣がやる、というのはちょっと期待させるものがある(ロシアの強力なブラス陣の面目躍如たるパッセージが多数内在されているし)。ガウクはロシア臭の強い指揮者だがその演奏については爆演も行う一方割合と緊密であったりする。このライヴ、終始旋律線を強調し印象派めいた演奏を行うことなく分かり易い音楽を目している。冒頭のボルゲーゼのテンポがややたどたどしくてハラハラしたが、カタコンブあたりの不気味な雰囲気からぐっと引き込むものがあり、ジャニコロにいたっては(録音の悪さが惜しいが)美しい旋律が法悦的な感情を惹起する。やや無遠慮な鳥の声の録音が流されたあと、アッピア街道では(古い録音のせいで今一つ迫力には欠けるが)素晴らしく引き締まった力演を聞かせてくれた。モノラルに向かない曲だし、録音もいいとは言えないが、ガウクに敬意を表して○ひとつ。ブラヴォー拍手あり。

マキシム・ショスタコーヴィチ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA)

かなりあっさりめで軽い演奏だが、瞬敏さは特筆すべきか。ロシアオケのローマ三部作といえばスヴェトラーノフだが、およそ違う解釈である。ロシアオケの個性は抑えられ、響き重視の節度ある表現は物足りなさを感じる。表面的な演奏と言い切ってしまおう。そういう演奏。

◎ケンペ指揮ロイヤル・フィル(SCRIBENDUM他)1964/5/22-25・CD

明るい。そしてあったかい。あきらかにドイツ系の音作りをする指揮者だけれども、それでもそんなところが存外イギリスのオケにあうのである。イアン・ジョーンズのマスタリングは正直あまり好きではないのだが(変にクリアでささくれだったように感じるのだけれど)これは元のリーダース・ダイジェスト録音がよかったのだろう。60年代のものとしてはこの上ない良好な状態である。この人といったらまずリヒャルト・シュトラウスだそうだが、末流ロマン派作曲家の充実したオーケストレーションを生かしたすこぶる立体的な演奏を行えることの証しである。この演奏ではっとさせられるのはまずは瑞々しいリズムのキレだ。1楽章のウキウキした音楽は本当に楽しい。オーケストラの華やかな響きもこの上なく瑞々しく表現されている。金属質の硝子のように硬質で明るい響きが求められる楽章だがケンペはそんな砥ぎ方整え方はせず人間的な柔らかさを持った響きを創り出している。この曲中では一番陰うつなはずの2楽章はなぜか明るい。というか優しいのである。語り口が巧いのでこういうアプローチもアリだと思わせるものがある。幸福なカタコンベ、ちょっと不思議な感覚だ。3楽章にはそのままの幸せな気分で入るが、この楽章、ケンペの性向にあっているのだろう、同曲中白眉の美しさである。とにかく色彩的で煌びやかだ。ここにはとても素直で穏やかな気分の発露がある。録音がいいせいかいくぶんリアルな夕暮れの風景といった感じだ。ただここで余りに存在感のある演奏を行ってしまったがために4楽章は既に頂点に来てから始まってしまうような感じがあり、クライマックスへ向けて進軍するローマ軍の行進というより、ただ騒々しいフィナーレといった感じが拭えない。それでも迫力はあるのだが。ケンペの紡ぐ華麗な音楽は幾分オリエンタルな趣を内包し、レスピーギの師匠リムスキーの後香を嗅ぐ思いだ。このオケ、フィルハーモニア管かと思うくらいに素晴らしい技術と感性を発揮していて、とくに管楽器群の巧さには舌を巻く。ただ、2楽章で遠くからひびくペットソロに始まり、とくに4楽章、ブラスの一部(バンダだけか?)のピッチが低い感じがする。マイクからの距離のせいでずれて聞こえてくるのかもしれないし、ひょっとすると和声的な整合性を計算しての微妙な音程操作がクリアな録音のせいで逆方向に働いた結果かとも思う。あまり指摘する人がいないので私だけの妄想的感想かもしれない。だがこれはチューリッヒのライヴでも同じ感想を持ったので、あながち妄想とは言えないような気もするのだが、小さい事なのでいいです(でもこの完成度の高い演奏の中では目立った)。全般、カラッと乾いた南欧的な明るさが持ち味の「松」という曲に対して、紫外線を感じさせないというか、ちょっと生ぬるい湿度のある明るさを通した演奏であり、その意味では特異である。中欧の指揮者のやる構造的でがしっとした重い演奏とももちろん違う。ケンペ独自の境地だろう。ここには生身の人間の暖かさがあり、音楽の生き生きした脈動がある。音楽が生きている。◎。

○ケンペ指揮チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団(BMG)1973/12/11live・CD

シャンデリアの揺れるような煌めきが印象的。弾むようなリズム感で色彩的にまとめあげた1楽章。録音がやや遠くオケも瑕疵が目立ち精彩に欠けるがまあ、ライブだからこんなもんでしょう。2楽章のしっかり立体的に響く音響には安定感がある。カタコンベの陰欝さはないが聞きやすい。そのままの感覚で3楽章の優しい音楽に入る。この幸福感はケンペならではで映画音楽ギリギリでも美しい。やや重心が低い響きだが悪くない。後半で弦楽器の大きく息づくような抒情旋律が顕れるところなど、余りの香気に咽んでしまう。4楽章も細かいフレージングまで手を抜かない。一部ピッチの狂った楽器があるのが大きく興を削ぐが、ケンペのリヒャルトを振るような威厳のある表現はそれなりに楽しめる。途中譜面に無い凄いダイナミクス変化がつけられているのにびっくり。録音が落ちたのかと思った。構築的で透明感の有る音が印象的な演奏です。あまりいい評価がされていない録音のようですが、○です。

○ストコフスキ指揮シンフォニー・オブ・ジ・エアー(旧NBC交響楽団)(EMI)1958・CD

THE ART OF CONDUCTINGのシリーズ6巻に収録。分離のはっきりしたステレオ録音だが一部モノラルになっているような(ようは一本のマイクしか稼動してない所がある)。譜面には当然のように手が入っているようだし、ブラスにちょっとキビシイ場面があるが、意外なほど正攻法な感じがする。前半これといって気になる作為は感じられなかった。弦、木管は善戦しており、とくに3楽章はストコならではの美しいフレージングの応酬。なかなかロマンティックだ。ロマン派過ぎる気もする。4楽章は割合と自然に響いているけれども、結構耳触りの面白い演奏だ。たぶん手が入っているが、楽器配置も独特で、左から弦、右からブラスと完全に別れている。ピッチが低いのが古風な感じもする。さすが盛り上がりどころはかっこいい。ブラスが充実している。ちょっとアメリカ的な中音域の抜けたスカっとした響きが曲によくマッチしている。後半楽章は面白いので、前半楽章の拙さを割り引いても○はあげられます。

ストコフスキ指揮ハリウッド・ボウル交響楽団(DA:CD-R)1945LIVE

ブリキのおもちゃのような音。往年のアメリカが前面に出すぎている。構造の見えやすいコントラストのはっきりした演奏ゆえ理解はしやすいが、それにしては録音が貧弱。オケも「芸」としてしか感じられず、とくにアッピア街道が(音量ではなく音楽的に)迫力不足。無印。残らない。

○ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(SCC:CD-R他)1960/2/12live

有名なフィラデルフィア凱旋ライブで盛り上がりもすさまじいが、日本ストコフスキ協会盤LPで舞台上で動く管楽群がよく聞き取れる云々書いていたと思うが、SCC盤のうぶい音でもそれはよくわからない。フィラ管の弦は明るく華々しいがヴィブラートの根があわないような雑味は否定できず、恣意的な三楽章、クレッシェンドが抑え切れない四楽章などいつものこととはいえこの曲の第一には推せない。ただくりかえしになるが音はいい。やる気も。瑕疵が少ないし。○。

○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(SCC:CD-R)1969/11/24LIVE

ストコフスキの松は遅い。鈍重でぶよぶよしており、リズムが引き締まらない。響きが雑然としてしまう。中間楽章はロマンチックでいいが(ローマだけに)、とくにアッピア街道の松は息が続かなくなりこけたりバラけたりと、開放感のないなんとも締まらない感がある。早々とクレッシェンドの頂点に達してしまい、そのまま吹かしているような。悪くはないが、よくもない。

ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1969/11/23live

最初からのんべんだらりとした拡散的な演奏で集中力がなくただ明るくて響きだけ派手。表層的と言われても仕方のない印象だが、録音のせいだろう、ストコの広がりのある音響空間を再現するのに昔のステレオエアチェックではこの聞こえ方は仕方ないか(松はバンダまで入れてそもそも音響空間的発想を取り入れてやることが多いわけで)。アッピア街道までわりと遅めのインテンポで進み派手に散漫に終わる(ように聞こえる)のだが、客席はブラヴォ拍手喝采の渦。うーん・・・生きているうちに聞いておきたかった、ストコの松。。

◎ライナー指揮シカゴ交響楽団(RCA)1959/10/24

ここまでの精度のものは現代でもなかなかない。透明度が高く、音が万華鏡のように絡み合うところでの色合いがなんともいえず美しい。ボルゲーゼの煌く音のシャワーもさることながら、カタコンブの哀しくも美しいしらべ!ヴォーン・ウィリアムズの音楽を想起した。オネゲルの「夏の牧歌」とともに、RVWの音楽にもしかしたら影響を与えていたのかもしれない。という妄想を抱くほどに暖かな平安を演出している。ライナーもシカゴ響も、舌を巻くほどに巧い!ジャニクロからアッピアへの流れは自然で、節度ある盛り上がりのもとに高潔なローマ軍の行進が描かれている。総じて完成度の高い演奏だ。

ムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団(emi)初出1985

オケが少し遠い。あと、録音もまるで綿にくるんだように茫洋とした感があり、不満だ。オケのパワーは諸所で開花しており、今更何を言うまでもないことだが、とくにアッピア街道の松の適度に粘ったスペクタキュラーな表現は特筆すべきだろう。ただ、他の楽章の魅力がいまいちである。フィラデルフィア管弦楽団の演奏としては、この前にオーマンディの2枚があるが、それも個人的に皮相な感触が好きになれなかったので、要はこの曲に私が求めるモノを、フィラデルフィア管が持っていない、というだけのことだろう。そのモノとは何か?少なくとも、トスカニーニ盤にはそれがある。

◎デュトワ指揮モントリオール交響楽団(london)1982/6

このハデな曲にはやっぱり古い録音はダメだ。というわけで現代の名盤の登場である。フランス的抑制がきいているため、もっとやっちゃってほしいのに、という口惜しい場面もままあるが(たとえばアッピア街道の松)、響きの美しさ、交響楽の充実ぶりは比類無いものだ。どんなに陰うつな主題でもけっして重々しくならないし、逆にボルケーゼ荘の松のシャンデリアが揺れるような表現はまったく壮麗で言葉も無いほどすばらしい。これは録音のクリアさのせいでもあることは間違い無い。ここにきて「やっとキたかー」という嘆息が思わずこぼれた。名演。

○ドラティ指揮ミネアポリス交響楽団(MERCURY)1960/4・CD

どうも作為的な録音操作の匂いがして好きになれないリヴィング・プレゼンスだが、この曲ではやはり元来の華美さもあって色彩的で華やかな演奏となっている。とくに終楽章の力感はなかなかのものだ。依然音場の狭さや近視眼的な解釈の匂いは消えないが、十分鑑賞にたえうる充実した演奏と言うことができる。○。オケがやや弱いか。

○デ・サーバタ指揮ニューヨーク・フィル(urania)1950/3/12live

擬似ステレオ。ヘッドフォンで聞くと気色悪い。ちなみにローマ三部作はやはりおおきなスピーカーで大音量で聴くのがよいらしいことに気が付いた。それにしても録音状態は悪くはないのに、こういう余計な効果を付けられると却って演奏の質が落ちたように感じてしまう。デ・サーバタは颯爽としたスタイリッシュな指揮ぶりだが、アッピア街道の松の結部ではかなりリタルダンドして曲を盛り上げ、すかさず入る熱狂的な聴衆の拍手につなげている。ニューヨーク・フィルは少々粗いところもあるように聞こえたが、総じて楽しめた。佳演である。

◎トスカニーニ指揮ニューヨーク・フィル(history他)1945/1/13live
○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(rca)1953/3/17

前にも書いたが私はローマ三部作が苦手である。でも、きょうは”勉強”のためトスカニーニ/NBC盤を5回ほど聞いた。派手なボルケーゼ荘の松とアッピア街道の松については前々から魅了されてはいたのだが、こんかい特にジャニコロの旋律のふりまく切ない独特の美しさにも感銘を受けた。ナイチンゲールの声挿入も嫌味な感じがして好きではなかったのだが、慣れた。この盤、手元にあるのが12年前に出た中古CDのためかもしれないが、音場が狭く、派手な場面での派手さの再現がいまいち足りないような気がして、これまであまり聴いていなかったのだが、この時代にしては音質は良いし、トスカニーニの速く颯爽とした指揮ぶりも板についていて、ああ、この盤はやはり作曲家直伝?のスタンダードな盤といってもいい良質のものだな、と思った。思ったところに、超廉価盤で、NYPのライヴ盤が手に入った。これが、やはりといっていいのだろうか、超名演であった。モノラルならモノラルなりの音の生生しさが好きなのだが、音質では段違いに悪いものの、音の抜けがよく、まさに生々しい。ニューヨーク・フィルの魔力というべきか、まるでジョン・ウィリアムズの映画音楽を聴いているかのような甘く切ない感触もあるし(J.W.は確実に影響を受けていると思う)、オーケストラの威力を誇示するような場面では期待に大きく答えてくれている。ブラス陣の強力さは格別だ。アッピア街道の松はひときわ速いテンポで進められるが、それがかなりかっこいい。トスカニーニはやはり凄い。熱狂する観衆の拍手もさもありなんと思わせる出来だった。

○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(NBC,TOSHIBA EMI:DVD)1952/3/22LIVE

RCA録音1年前のテレビ放送実況録画である。私はあまり映像には興味が無いのだが(実演に興味薄なのもそのへんの感覚)動き額に汗を垂らすトスカニーニの姿は感慨深いものがある。80代とは思えない。じつにしっかり振る指揮者だなあ、と思って見入ってしまう。そういえば遠目にはカラヤンに似てなくもないか。音は貧弱。やはりテレビの音声だから、しっかり録音録りしたRCA盤にはかなわない。高弦や金管が安っぽく聞こえるし、なんとなく微妙に映像とズレているような気がしなくもない。スケール感にも乏しい。やはりこの記録は映像あってのものだろう。爆発的な迫力というものはこれでは望めない。しかし、ライナーにもあったが、「ジャニコロの松」の、繊細で、やさしい響きにはかなり魅了される。トスカニーニのしかめ面、静かな曲なのに同じ調子で大きく振っている、汗も垂らしている、なのにこのやさしいハープのひびき。もともと多分にイマジネイティブで印象的な音楽であるが、他のことをやっていても、この楽章がくると画面を見詰めてしまうのは、もはや説明を超えたトスカニーニの「オーラ」のせいか。続くアッピアはもう独壇場だから、まあ録音のレンジは狭いけれども、画面を見て想像力を膨らませると、この時この場にいられたら、どんなに幸せだったろう、と思われ、いかめしく口を開け歌うように振るトスカニーニの顔が、最後のクライマックスで、古代の英雄的なフリーズに見えてくる。にしてもブラスうまいな・・。すごいっす。音色的にも完璧ですペット。テレビの解説だとこれがトスカニーニ最後のライヴ映像ということだが、たしか最後のライヴ(ステレオ録音だそうで。。)も映像があったのではないか、と思うが、まあいい。高価なボックスですが、「運命」も入ったこの1枚だけのために買ってもいいでしょう。ドビュッシーやシベリウスもあり。

○バティス指揮ロイヤル・フィル(NAXOS)1991/4

ちょっと残響が多いというかオケが遠い感もあるが、録音状態はまずまず。よくまとまっている。オケコントロールの巧い指揮者だ。壮麗なボルケーゼ、陰うつなカタコンブ、天国的なジャニコロ(素晴らしい!)、破壊的なアッピア、それぞれの楽章の性格を極めて明瞭に描き分けており秀逸だ。弦にもう少しパワーが欲しい気もするが、ロイヤル・フィルはおおむね巧い。アッピア街道の松の繰り広げるドラマティックな情景は力強い打楽器群によってそのパワーを増し、聴くものを圧倒する。総じて佳演だ。

○シルヴェストリ指揮ボーンマス交響楽団(bbc)1967/9/20live

非常にドビュッシズムの影響の大きい曲であるが、より派手で装飾がかっているのが特色だ。これは古いライヴにもかかわらず瑞々しい音で聞かせる。シルヴェストリが手塩にかけたボーンマス交響楽団は、合奏力にやや難があるし、音の個性にも欠けているが、シルヴェストリのロマンティックな味付けをよく反映した演奏になっておりなかなかどうしてやってくれている。イギリスのオケでこの曲だと、ヴォーン・ウィリアムスのようなどこか鄙びた雰囲気が漂ってしまう場面もあるが(2、3楽章)、それは寧ろ心地よいものといえよう。「アッピア街道の松」ではすがすがしく壮大な行軍描写がいやがおうにも心浮き立たせる。この楽章についてはどんな演奏を聞いてもそれなりに感動してしまうものだが、ライヴであるということが心なしかより迫真性をもって響いているような気にさせる。ブラヴォーが叫ばれる結末。佳演である。

○カンテルリ指揮ボストン交響楽団(ASdisc)1954/12/25live

噴水とともに演奏されたものだがこちらのほうが聴き易い。悪い録音でも目のさめるような音楽が終始耳を楽しませてくれる。もっとも、同曲どんな演奏でもそれなりに楽しめるほど良く出来た作品だから、たとえばこれと同じ水準の演奏を現代聞きたいと思ったら、けっこう聞けるのではないか、とも思う。まあ、難しい事は置いておいて、素直に楽しもう。

○カンテルリ指揮ボストン交響楽団(BSO)1954/12/24LIVE

ボストン交響楽団自主制作盤ボックスの中の一曲。これ、カンテルリには12/25のライヴというものも残されており、果たして違う演奏なのか、同じではないのか、と思って聴いてみたが、決していい録音ではないものの、音のフォルムは割合とはっきりしていて、キンキンとソリッドに高音が響く感じが25日盤より随分高く、ミックスの違いという可能性も残るものの、いちおう違う演奏であると判断しておく。基本的な解釈は25日盤と変わらないが、原色が破裂しシャンデリアのように響く(響き過ぎて耳が痛い!)ボルケーゼ荘の松は印象的。カタコンブはもう少し陰うつさがほしい。ジャニコロの松ももう少し情感がほしい(鳥の声が作為的・・・仕方ないのだけれども)。アッピア街道は言うことありません。そんなところ。

○カンテルリ指揮NYP(DA:CD-R)1955/3/27live

あまりの速さにびっくりしてしまうが、カンテルリにしては雑音が少ないので(細部が潰れているから2,3楽章はイマイチ伝わらない部分もあるが)煌びやかで前進的な、トスカニーニ的とはいえ明らかに若々しく、より細かい構造への鋭敏な対応ぶりとフランス的な冷美な響きへの感覚の存在を感じさせる演奏ぶりが楽しめる。スピードにブラスソロがついていけない部分があっても、やっぱりアッピア街道は盛り上がり、ブラヴォー大喝采となるわけである。ちょっと即物的な感じはあるし録音のせいでスケール感もないが実演の迫力は凄かったのだろう。○。

シノーポリ指揮ニューヨーク・フィル(DG)1991/4

節度ある表現をもってスタンダードな演奏を指向したもののように聞こえる。この演奏で特筆すべきは緩徐楽章での繊細な響きの交感、むせかえるような香り。暖かみを感じる。終楽章アッピア街道の松は希有壮大であり、いくぶん作為的で情緒的な盛り上がりは少ないものの、ニューヨーク・フィルの本来持つロマンティックな性分がその情緒的な部分を補い、感動的な結末へといざなってくれている。

○マゼール指揮クリーヴランド管弦楽団(decca)1976/5/ベルリン・フィル(DG)初出1959

音はよく引き締まっているし、構成感がはっきりしている。この統率力はたいしたものだ。ベルリン・フィルを前にしてここまで取りまとめる力はなかなかのものである。第二楽章カタコンブ付近の松が少々垢抜けすぎているか。余りに巧く彫刻されているのでケチをつけたくなるが、オケの音色がフツーすぎる、くらいのことしかみつからない(クリーヴランド盤)。さて、ちょっと他の指揮者の演奏と違う聴感をもった。情におぼれず理知的に解釈しているせいか、描写音楽という感じがしないのだ。どちらかといえばシンフォニックなのである。そう考えて聞き直したとき、この曲のまったく異なる姿が見えてこよう。孤高の佳演である。

○サージェント指揮ロンドン交響楽団(EVEREST他)

スタイリッシュなサージェントの指揮である。アプローチはロマンティックでやや重いもの。録音が鮮やかなので比較的派手な音楽に聞こえるが、解釈的には派手では必ずしもない。面白いのは3楽章で、ドイツ・ロマン派的な旋律の歌い込みが聞かれる。非常に感傷的で余韻がある表現だが少々重め。垢抜けた棒ではあるが、解釈は決して新しくはない。終楽章もイマイチ盛り上がらない。録音がかっこいいので○をつけておくが、オーマンディ的というか、レスピーギの本質的にラテンな感興には欠ける演奏である。

チェリビダッケ指揮トリノ放送交響楽団(NUOVA ERA)1968LIVE

5回聞いた。で、やっぱり入り込めなかった。四角四面で今一つノることができない演奏。録音の悪さが全ての悪因である気もしなくもないが、それにしてもある意味厳しく純音楽的なものを追求した演奏であり(イタリアオケなのに「遊び」がまったく感じられない!)、そうであるがために1楽章の喜遊性、2楽章はいいとして3楽章の夢幻性、4楽章の爆発的なダイナミズムにおいて全て一歩引いてしまっているから面白くない。終演後の物凄いブラヴォーと拍手は、ひょっとすると実演の迫力を録音がとらえきれていないのかな、とも思うが、これはどう転んでも「イイ録音記録」とはいえない。無印。

チェリビダッケ指揮シュツットガルト放送交響楽団(DG)1976/6/20LIVE

ものすごく透明感があり、非常に美しい。晩年の肥大傾向のまだ薄い時期のため、聞きやすい演奏に仕上がっている。大きな硝子の伽藍を打ち立てるようだな、と思った。客観的で構築的な演奏である。だが、個人的にはもっと「情」が欲しい。オケは感情を排し音を発する道具になりきってしまっているきらいがある。ジャニコロなどもっと艶のある音が欲しい。あまり艶を出しすぎると映画音楽になってしまう曲ではあるが。でもヴォーン・ウィリアムズっぽく淡い感傷を込めて弾く演奏が私は好きだ。まあブーレーズのドビュッシーのようなやり方に似ているといえば似ているのだが、チェリの場合もとが熱血男のため余計に残念に感じてしまう。とにかくジャニコロにはもっとイマジネイティブな音色の綾を聞かせて欲しかった。アッピア街道は見事だが他の指揮者の演奏と比べそう特徴的なものではない。それにしてもこの盤、かなり高価なセットもので財布が痛かった。。。

○チェリビダッケ指揮不明(C&R:CD-R)1978live

演奏様式的に70年代中盤のイギリスでのものか。録音が極端に悪くとても人に薦められる代物ではないが、3楽章の美しさはそれでも伝わってくるものがあり、精力的な音楽作りの中でも後年の精緻さを伺わせる繊細な美観をもったものになっている。なので○。

○シュヒター指揮NHK交響楽団(king,NHK)1959/11/8放送・CD

完璧主義者として知られたシュヒターの記録である。私は「日本だから」というようなレッテルをプラスにせよマイナスにせよ貼りつけて評価するのがキライで、これはシュヒターの松であること、たまたま日本の楽団であること、という前提で聴くわけだが、なかなかによく鍛え上げられた演奏、という印象に尽きる。シュヒターの燻し銀の演奏は時にロマンティックな方向にも振れ、そこがチャイコなどでは魅力になるわけだが、ここでもヴィブラートすらかけさせないような(まドイツ式といえばそれまでだけどソリストの「棒吹き」「棒弾き」はちょっと気を削ぐ)厳しい統制があるからこそ、リリカルで透明感漂うセンスに富んだ演奏がなしえているわけである。とくに聴き所は3楽章であろう。逆に、もっと破壊的に、突進する迫力が欲しかったのは4楽章だ。数々の即興的名演が産まれている「アッピア街道」だけに、相対的には「普通」という感じ。シュヒターらしい中庸さと言うこともできるだろう。オケは決してドイツ的な雰囲気が濃いわけではない。ただ、記譜外での音色変化に乏しく、無個性な感が否めない。解釈のせいでもあろう。総じて○。

○ケルテス指揮ロンドン交響楽団(london)CD

困った。「どこにも欠点が無い」のだ。何を突っ込もうにも、どこにも欠けたところがないのだ。スタンダードで中庸といってもいいが寧ろ端正でかっこいいと言ったほうがいいだろう。たぶんこの曲を知らない人に薦めるのに一番いいたぐいの演奏と思う。どこかケレン味の欲しい人には物足りなかろうがそれでもこの演奏のどこをとっても「欠点が無い」ことには同意していただくしかない。従って◎にはできない。○。

○ムーティ指揮フィラデルフィア・フィル(PO)1998/10/5LIVE・CD

ボテボテとやややぼったい。でも派手だし雄大だしいかにもイタリアっぽいところがある。主兵であったフィラ管の特性をよく生かしたスケールでかい演奏ぶりには最後物凄いフライングブラヴォーと拍手の渦が巻き起こるが、生演奏ゆえ精度の点や技術的な面でイマイチと思わせる所も有り、最大限の評価とは到底いけない(勿論音盤としての評価である)。3楽章の美しさは筆舌に尽くし難いものの飛び抜けてるとは言えず、結果として○にとどめるのが妥当、といったところか。始演前の拍手が終わらないうちにフライングで始まったのにはびっくりした。前代未聞。何やら祝祭的雰囲気が感じられる。

○サッカーニ指揮ブダペスト・フィル(Bud.PO)CD

響きの重心が低いことと金属質な透明感、テンポが比較的落ち着いていることから客観性を感じる。しかし旋律のカンタービレ、特に三楽章、かなり情緒的な揺らぎが聴かれて面白い。陶酔的な表現はこの曲の録音盤では珍しいほうだろう。音色はこの曲向きではないように思えるが全体のバランスのいいオケなので聞きごたえはあり、四楽章など「パシフィック231」かとききまごう重厚さが面白い。迫力がある。音域が高くなると開放的で派手な吹かせかたをするのはイタリアぽいがやや雑味を呼ぶ。○。
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アイアランド (2012/3までのまとめ)

2012年04月19日 | Weblog
アイアランド

<20世紀英国ピアノの抒情詩人。管弦楽曲も少なからず残し、ピアノ協奏曲など比較的知られているが、ブラームスを代表とする中欧のロマン派音楽など様々な同時代要素に翻弄されたようなところがあり、寧ろピアノ独奏曲に純粋な感性があらわれ熱心な愛好者をもつようになっている。初期のピアノ曲はかなりモダンな晦渋なものも多かったが、次第に平易な方向に向かい、まるでドビュッシーの時代に引き戻すような夢見る美しさをほこる独奏曲「サルニア」に代表される、華麗な技巧を盛り込む一方でそっと染み入るような深い感動をもたらす静かな作品群が産み出された。自身も相当ピアノ演奏をこなしたようである。時代を考えれば保守的ではあるが、英国では今も親しまれる魅力的な作曲家。>

ピアノ協奏曲

○アイリーン・ジョイス(P)ボールト指揮LPO(LPO/naxos)1949/9/10ロイヤルアルバートホ-ルlive・CD

作曲家70歳記念演奏会の記録で、一貫してボールト・LPOがその役をになっている。ソリストは「逢引き」の劇伴でも知られるスターピアニストのジョイス。しかし演奏はしっかりしていてロマンティックに揺れることは無い。穏健と見られがちなアイアランドの、同時代イギリスの作曲家に対して先鋭ではあっても後衛では決してなかった「渋さ」を明快に描き豪快に弾き切っている。素晴らしいものだ。

チェロ・ソナタ

○サラ(Vc)作曲家(P)(columbia)1928/10/25・SP

古い録音だが、英国ではこのころ同時代音楽が沢山録音されており、その中で取り立てて音が悪いわけではない。しかし、バックスのように多様な表現手法をつぎ込んだりディーリアスのように独特のロマンチシズムを作為的にしつらえていくようなところのないアイアランドの曲は、録音群中いまひとつ記憶に残りにくいものがある。偏愛する旋法的表現や和声によってのみ個性を主張するため、保守的で幅が狭い印象をあたえる。ただ、逆にアイアランドに、たとえばピアノのための「サルニア」だけを求めるような偏愛組にとって、アンサンブル以上の規模の楽曲の中では親しみやすい内容だと思う。チェロの音域はこの音質ではやや聴きづらいが、特に特殊なことはやらせていないし、オーソドックスな楽曲構成ゆえわかりにくいことはない。晦渋に聴こえるのはとりとめのない音線の問題もある。女性チェリストを輩出した英国においてこのソリストの位置づけはわからないが柔らかくも纏綿とし過ぎずちゃんと弾いている。○。 (2010/3/25)

だいぶ後にdeccaに録音しduttonが復刻したヴァイオリンソナタ1、2番と、この録音が自作自演のソナタとして残っているもののすべてだそうである。曲はピアノの秘教的な雰囲気と名技的な書法にくらべ、ソリストはどこかで聴いたようなフレーズをならべ、3楽章の最後などほとんどドビュッシーのチェロソナタである。この楽章に関してはシャープなピアノとコントロールのよいチェロが瑞々しい音楽を紡いで秀逸だが、そこまでの陰鬱だったりロマンティックだったりする音楽はちょっとだれる。冒頭からしてソリストがふるわず、ろうろうと歌うのが得意なソリストではなかったのだと思う。ぎくしゃくしている。アイアランドは特殊なリズムも小気味よく跳ね上がるように、実に適切に処理していく(自作だから当たり前か)。ピアニストとしてとても腕のある人だったことが伺える。総じて○。時代なりの音。 (2011/11/9)

サルニア(1940-41)

エリック・パーキン(P)(CHANDOS)新録・CD
エリック・パーキン(P)旧録・LP

~アイアランドの作品には昔から興味があった。保守的なイギリス二十世紀音楽界にあって、フランス的な洗練された新鮮な精神の煌きが、音符の間から零れ落ちるような室内楽曲に触れた事があったからだ。しかしアイアランドのレコードはすこぶる少ない。現役盤としては恐らくパーキンの独奏曲全集が殆ど唯一のものだろう(シャンドス)。だが耳にした瞬間に自分がこの曲を切無い程に好きだと悟るような威力を持つ「サルニア」に遂に触れる事が出来た今、この作曲家がバタワース、ホルスト、ヴォーン・ウィリアムズの系譜に並ぶ、優しい、自然、太陽の柔らかな陽射しと限りない草原のおりなす大地のうねり、それそのものの音を織り上げることのできる、本当に数少ないクラシック作曲家であると確信できた。今までもそうだったし、これからも恐らく再評価されレコードが増える類の作曲家ではあるまい。しかし、フェデリコ・モンポウのように、本当に一部のファンが限りなく愛で続けるであろう、珠玉の響を持つ独奏曲群、これがあるだけで、それがあることを私は知っている、それだけで良いように思えてしまうのだ。(1995記)

アイランド・スペル(1912)

<組曲「感謝祭」の一曲目。ごく単純なフレーズの執拗な繰り返し、それがやがて "decolate"されて、ドビュッシーの”金魚”のように夢幻的な音彩を繰り広げる。言ってしまえば通俗・安易な発想と片づけられるものだが、その余りの美しさゆえ「けなす」言葉も忘れてしまう。これはサティ、ドビュッシー、ラヴェル、モンポウ等に連なるかけがえの無い、しかし国際的には無名なイギリス穏健作曲家の「指の滴り」である。これ以上に単純平明で、かつ詩的繊細な曲を私はそうそう知らない。元々前衛を出発点としてのちロマン派の世界に立ち戻り、長らく亜流音楽を作り続けてきた作曲家であるが、ピアノ独奏曲に関しては、他の大規模の作品とは比にならない程の煌きを放つ。一旦その手法に慣れると、曲によっては飽きも来るが、例えばこの「ケルトの呪文」や3曲目「緋色のセレモニー」冒頭の極度に蟲惑的な走句など、永遠の水晶球の輝きを持っている。(1995記)>

エリック・パーキン(P)(CHANDOS)

二つの小品

~第1番「4月」(1924-25)


作曲家(P)(EMI)1950s・CD

素朴で世俗的な雰囲気がある。独特の抒情世界はアイアランドの詩人的気質を物語る。特に晩年のノスタルジックなピアノ独奏曲は、慰めに満ちた心優しい響きに溢れている。作曲家自らのピアノによる「4月」の録音からは、ディーリアスよりも純粋で、ヴォーン・ウィリアムズよりも身近な、人間らしい暖かさが滲み出ている。自然をうたうアイアランドの世界は、広大な空虚の中にある小さな命を見詰める優しい視線を感じさせる。泣けます。アイアランドのピアノ曲は良いです。エリック・パーキン大先生の録音が容易に手に入ります(ゆったりとした演奏です)。お勧め曲はあと「サルニア」です。アイアランドは20世紀のイギリスの穏健作曲家です。アイアランド自身は2回録音しています。

○作曲家(P)(columbia)1929/2/18・SP

自作自演の旧録。50年代の新しいものよりも快活で明るく、速さもあって若々しい印象。クリアな音ではあるが、どうしてもSPなりのノイズが気になるところもある。いい曲。○。
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ガーシュイン その他(2012/3までのまとめ)

2012年04月19日 | Weblog
パリのアメリカ人

○シルクレット指揮ビクター交響楽団、作曲家(P、チェレスタ)(PEARL/HISTORY)1929/2/4・CD

イイ時代のイイ音色が聞ける演奏だ。廉価セットのヒストリー盤ではガーシュイン指揮とあるがパールのライナーのほうが正しいと思われる。ガーシュインは非常に正確にクラシック的に演奏しているが、時代の空気が懐かしい雰囲気を盛り上げて程よい調子、これこそほんとのジャズとクラシックの融合シンフォニック・ジャズだ。中間部の印象派風の情景がとても美しい。澄み切った美しさではなく、生ぬるい美しさ、都会の酒場の紫煙くゆるる情緒。古きよきアメリカを感覚的に捉えるにはとても向いている。音が浅いのは録音のせいだろうが、録音年代からするとよく音を捉えられているほうだろう。それにしても木琴は非常に勘所を捕らえたシャープな演奏になっているが、ほんとにガーシュインが弾いたのだろうか。だとしたらガーシュインの天才性を改めて認識させられるところだ。音的にやや辛いが作曲家の参加した演奏としての希少性を鑑みて○をつけておきます。

◎ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィル(NYP/ASdisc)1944/10/1live

鄙びた音だがそこがまたよい。ロジンスキの情感のこもった解釈はニューヨーク・フィルを存分に歌わせて、なかなか聞きごたえのある演奏にさせている。いたずらにポルタメントをかけさせることもしないし、必然性の無い伸び縮みはしないのはロジンスキ流儀。このスウィング、クラシカル・ミュージックの表現ではもはやないかもしれないが、これはそういう音楽。ただ音の楽しさに心浮き立たせよう。名演。

◎オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(SCORA,ARTE)1958/5/28ロシアLIVE

ブラス陣のすばらしい表現が光る。中間部の後半で「そろそろいくか!」と言わんばかりのペットがジャズふうにリズムを崩し始めてからはもうこのオケにしかなしえない名人芸で、「どうだ、これがアメリカだ!」とでもいわんばかりの雄弁さがある。スベトラの野暮な演奏とは天地の差だ。弦も最初から唸りをあげるような強靭な合奏を聞かせている。これだけノりまくっているのに合奏が崩れないのは驚異的だ。このころの脂ののりきったオーマンディの技術の勝利である。軽音楽に落ちないウィットに富んだ語り口も絶妙。大盛り上がりの末、やっぱりブラボーが飛ぶ。名演。

◎フィードラー指揮ボストン・ポップス(RCA VICTOR)

うまい!流石フィードラーというところ。時にボストンのソリストが固すぎたりもするが、このくらいなら許容範囲だ。静かな場面の意外に精妙な響きは、ガーシュウィンが印象派の影響を受けたと言われるのがよくわかる。雰囲気作りの巧い指揮者、ガーシュウィンの自作自演盤よりもガーシュウィンっぽい。これはクラシック専門指揮者にはできない芸当だ。メタ・クラシックのとびきり楽しい音楽に胸躍らせよう。名演。

○フェリックス・スラットキン指揮ハリウッドボウル管弦楽団ペナリオ?(P)(EMI)

親父スラトキンさんの録音としては比較的よく見るもので、最初はかなり楽しめる。だが何度か聞くうちに、この人にしてはいささかこなれていない部分が散見されることに気が付く。解釈の綾(主としてテンポ変化)が時々非常に人工的なのだ。これはデュナーミク変化とうまくシンクロしていないという単純な言い方もできる。もちろんバンド的な演奏ではなくクラシカルなフォームを保った演奏であり、そのせいもあろう。緊密でリズミカルなのはハリウッド四重奏団のころを彷彿とさせる。意外だが響きががっしりしており(速度は保たれる)、そのせいで曲のいわゆる「ライトクラシック」系の魅力と齟齬を生じていると言えるかもしれない。とりあえず私は最初は面白かったが、次第に楽しめなくなった。後半イマイチかも。○。

私のLPはジャケットはホワイトマンとなっているが中身がフェリックスとなっている(泣

◎ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団(AMIGA,ETERNA)

モノラルのLPも出ていたのだが、これはステレオでけっこう新しい録音だから、ひょっとすると別物かもしれない。この演奏を聴きながら、「あの」ケーゲルがスウィングするさまを聞いてああ、この人はガーシュインが好きだったんだな、と思った。ちょっと立派すぎるけど、意外と楽しそうだ。かなりジャズを意識しており、調子っ外れなラッパやリズムのずらしなど、音の明るさや純度はケーゲル流でありながらしっかり軽やかにやりのけている。ラウ゛ェルでも驚かされたが、聴くものを飽きさせない仕掛けに溢れた解釈の巧緻さに感嘆する。静かな場面の美しさったらなく、明らかに印象派的な響きを意識した丁寧な仕事ぶりはケーゲルならでは。芸術的要素と娯楽的要素の高度な融合は他の東側指揮者とは一線を画したものになっている。結構「解釈された」長丁場だが、飽きないで最後まで楽しめます。◎。

○ジョン・ワルサー指揮コンサート・ホール交響楽団(CONCERTHALL/MMS)LP

ガーシュインのまとまった管弦楽曲ではダントツに面白い曲で、他人の手が(ほとんど?)入っていないからこそ独自の夜の色彩感と濃厚な感傷の煽られる旋律がいっそう生で感じられる。かなり感情的起伏が大きくジャジーな奏法への理解もある、かつスケール感ある指揮ぶりゆえ、恐らくユルゲン・ワルターではないとは思うが、アメリカの職人どころの中堅の指揮者だろう。血のメリット。オケは弦楽器がなつかしくイイばらけかたをしていてザッツ・ハリウッド!だがブラスしょっちゅうコケている。しかしイイ。クライマックスなんて崩れるのもいとわずルバートつけまくり。懐かしくて感動します。瑕疵引いて○。

○バーンスタイン指揮RCAビクター交響楽団(SYMPOSIUM)1947・CD

冒頭少し乱れるが、いかにもこの時代の演奏という感じで前のめりの速いテンポが維持され、後年の独特の伸縮は聞かれない。力強い表現で古い録音というハンデをものともしない、生まじめだがスマートでかっこいい。ジャズふうの弾き崩しは殆ど無いが、とても生き生きしていていい感じだ。
これほどマジメなのに楽しい。バンスタの偉大な才能ゆえか。ちょっとアレンジしているよう。シンポジウムゆえ録音復刻は劣悪。

○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(RCA,BMG)1945/5/18・CD

ガーシュインの代表作。あれ、ラプソディー・イン・ブルーは?と言われてもあれはグローフェが編曲したものだから、クラシックの管弦楽曲としてはこの曲が文句無し一番でしょう。渋滞する車のクラクションもクラシカルな視点からすればゲンダイオンガクの不協和音。20世紀的なもの同志の幸福な出会いがここにはある。トスカニーニは律義だが決して萎縮していない。楽しげではないが心は浮き立ってくる。完成度の高い演奏というものはとくに特徴がなくても何度も何度も聞けるものだが、この演奏はそのたぐいのものだ。私はガーシュインの憂愁が苦手で、中間部のうらぶれた雰囲気は余り好きではないのだが、この引き締まった演奏で聞くととても爽やかで聴き易い。遊び心を求めると失望するが、ゲイジュツオンガクを求めると満足できるたぐいのもの、と言えばいいだろうか。○。大戦末期の演奏としても特筆すべき録音だ。

○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(ARKADIA)1943/11/14カーネギーホールLIVE・CD

楽しげです。録音はちょっと悪いけど、トスカニーニとは思えない自由さというか、リラックスした感じがある。オケの音色もいい。古き良きセピア色の音、でも決してダレダレではない、締めるとこ締めている。緩徐部がダレ気味になりがちなガーシュインの曲でも、トスカニーニにかかれば一定の緊張感とスピードが保たれるため、飽きがこない。○。それにしてもトスカニーニに似合わない曲・・・。

○コンドラシン指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ(PHILIPS)1978/6/17LIVE

なかなか聞かせる。これは素直に「交響詩」として聞こう。軽音楽として聴くならフィードラーあたりにあたること。リズム感が野暮ではあるが、クラシック的には十分引き締まった演奏と言うことが出来る。ロシア人でここまでできれば凄いものだ。中間の静寂の場面でしっかり印象派的な空気を漂わせるところなどなかなかやるもんだ(でも甘く感傷的な雰囲気はゼロなわけだが)。特筆すべき演奏といえる。スタンダード、と言ってもいいかもしれない。○ひとつ。

スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)1980/1/16LIVE

なんだこりゃ。
こんなに違和感があるとは思わなかった。スヴェトラーノフはやはりスヴェトラーノフ流にこのアメリカ音楽をさばいており、アメリカ流に演奏するつもりはさらさらないようだ。とくに最初、あまりにぎくしゃくとしていて、ハナから滑稽なリズムパターンでノリノリといく曲のはずなのに、テンポが定まらず結果としてものすごく遅くなり、統制がとれず方々でぶかぶかいっててんで形になっていない。この曲の新しい像を描き出してくれる事を期待していたのに、ちょっとこれはあまりに独創的だ(好意的に言えば、ね)。このとてつもなく野暮な感じ、ある意味貴重である。ライヴであることを勘案しても、ちょっと奇演としか言いようがない。緩徐部くらい綺麗に響かせるかと思ったら、ロシア流の演奏者たちがみんな我流で・・・

○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(WEITBLICK)1996/9/20live・CD

ガーシュインのクラシック畑における最高傑作であり、これを聴いたかラヴェルやストラヴィンスキーが弟子入りを拒否したのも当然であり、まったく単純にして独自の極地というべきものである。アメリカ音楽をブラームス・ドヴォルザークの呪縛から軽々と解き放った、技法的にはコードとリズムと特殊楽器の導入にすぎないとしても、旋律の素晴らしさが加わるとこうなる。移民が多く戦乱起因のものも含むコスモポリタンなこの時代、ただでさえ母国の音楽を持ち込み留学先の音楽を持ち込みが繰り返されるなか、ガーシュインもロシア系ではあるのだがロシア音楽などまったく関係のないジャズという、アメリカで生まれた黒人音楽を素地とした作品を作りあげた、アイヴズもそういうことをしていたけれども、短いながらも醸成されていたそういう文化をクラシックに持ち込み、しかも国民楽派の保守的態度を真似ず、アメリカに拘泥することなくパリの街角のクラクションを鳴らす。スベトラもまたコスモポリタンだった。コスモポリタンとはほど遠い位置から、自国の作品にこだわらず積極的に多くの国の作品を取り上げ、ソ連崩壊後は各国のオケを振ってまわった・・・節操ないくらい。作品が語ってくれるからあとは美しく楽しく響かせればいい。最後だけ、異常に伸ばしてクレッシェンドさせてくれさえすれば。スベトラと曲のシンクロを感じ、ソリストの上手さを堪能し、このライブ一番の演目であったことを確認した。

○タッキーノ(P)不明

音質より恐らく正規音源によるものだがweb配信のデータでは不詳。ブラスのあからさまな瑕疵があることから放送ライブか。クラシック音楽スタイルながらもきっちりジャズ風を吹かせ、楽しさと理知性のバランスをとっている。同時代のクラシック楽壇によく学んでいるなあ、と細部の響や動きを楽しめる精度。そういう現代的なスタイルだからこそライブ感はなく、凡百感もあるが、日常に楽しむには十分。

セカンド・ラプソディ(1931)

◎シーゲル(P)スラットキン指揮セント・ルイス交響楽団(VOX)
レヴァント(P)モートン・グールド&彼のオーケストラ(SONY)

私がガーシュインをクラシック音楽家として初めて意識したのがこの”ピアノ協奏曲風作品”であり、(「パリのアメリカ人」を彷彿とする)喧騒の主題が展開した副旋律(リズミカルな伴奏音形にのって夢見るようにかろやかに謡われる)はガーシュインのクラシック中では一番好きな旋律だ。ブリッジ構造の中間を謡い尽くす緩徐主題(まさにガーシュイン・アリア)の直後で、小太鼓のリズムに乗って勇壮に再現されていくところは、跳躍にあきらかなプロコフィエフの影響がみられるものの、秀逸。ここだけでも当時脂の乗り切っていたガーシュイン自身をして「これまでの自分の交響的作品中もっとも優れている」といわしめたのがうなづける。ガーシュインをソングライターあるいはめまぐるしい旋律の連環を聞かせる作曲家と考えていた聴衆の半数はしかし、長いわりに主題が二つしかなく、しかも変奏曲としてみるにはいささか平板でお定まりの音色変化や他のクラシカル・ミュージックからの剽窃的表現に終始する、などといって余り評価しなかった。ハードカバーの評伝「アメリカン・ラプソディ」では多少好意的だったように思うが、どこかへいってしまったので(すいません)引用できないのは口惜しい。クレルマンの「ガーシュイン」ではあきらかにそういった意味のマイナス評価がくだされている。でも、たとえばラプソディ・イン・ブルーやハ調のピアノ協奏曲に感じる、大管弦楽におけるガーシュイン・ミュージックの「座りの悪さ」が、このハナから大管弦楽で演奏されるよう企画された曲には殆ど感じられず、特にここに挙げたスラトキンの廉価盤など、ピアノ独奏以外の部分がじつに明るく透明なニュアンスに富んで耳を惹き止まず、立派な近代クラシックとしての「まとまり」を強く感じさせる。

作曲家はこの曲を「ピアノ独奏とオーケストラのための曲」ではなく「ピアノを伴ったオーケストラのための曲」とした。其の点を良く意識した演奏だけが真価を探り当てることができるのだろうか。ガーシュインが自ずより巧いと評価したレヴァント盤の即物的表現(オケも恐らく版が違うのか手を入れられていて、編成が細く生彩に欠ける)はあくまでピアノ独奏をきわだたせるような演奏だ。この力強いだけの演奏を聴く限りでは、クレルマンや同時代の評論家のいう”素材に対して長すぎる音楽”という表現は当てはまる気もする。・・・要は演奏なのだ。ちょっと目を転じこれをロシア音楽として捕らえた場合、 14分前後はけして長くはない。トスカニーニをへてクーセヴィツキーにまわった初演権は日をあけずに翌年早々ボストンとニューヨークで披露された。作曲家独奏による。ちなみに作曲家は今までの例にならい、完成前に独自のオケをやとって試演したものをNBCに録音しているが現在一般にきくことはできない。はじめに言ったとおり評価は二分され再演機会は殆どなくなってしまったのだが、スラトキンの引き締まり徒にジャズ・ラインを取り入れない真摯な棒は、この曲がガーシュインの管弦楽曲にしてはかなり凝った音響を目していると再認識させるに十分だ。パリのアメリカ人に比べれば水をあけざるをえないが、秀作といっていいだろう。もともと映画「デリーシャス」の素材を流用したものである。作曲家が一時期呼んでいた「マンハッタン・ラプソディ」の名を、個人的には凄く気に入っている。

作曲家指揮管弦楽団(MusicMasters,HISTORY)1931/6/26REHEARSAL PERFORMANCE

非常に貴重な録音で驚愕の発掘である。これは公開演奏の通しリハの記録だそうだ。そのためか音が篭りまくっていてとにかく聞きづらい。ピッチも低い感じがして違和感しきり。オケの演奏も散漫でしばらく流れがつかめないほどだ。このソロ・ピアノはガーシュインではなさそう。やっとノってきたというところでふと思った。あれ、アレンジが違うぞ・・・。作曲家自身が校定したのかどうか定かではないが、楽器の重ね方やフレーズの処理、表情記号については今聞かれるものと違うみたいだ。録音のせいでしばしば聞こえなくなる旋律線を一生懸命追っていると、とても一本調子で下手な棒だな、という印象。ガーシュインは指揮は下手だったのか。折角仕掛けた様々なフレーズの妙味が生かされていない。曲の後半で律動的な旋律がプロコフィエフ的なオクターブ下降を行う展開を私は偏愛しているのだが、そのあたりではまあまあまとまってきている。レヴァントの直線的な演奏スタイルを思い出したが、あれほど引き締まってはいない。まあ、総じて歴史的記録として留めておくべきもの。無印。historyには1929/2/4の記載があるが同じ。(2005以前)

これを放送本番演奏と書いている人もいるがリハ記録。なぜそう思うかというとオケがどうも本気ぽくない。弱いし、音がだらけているかんじがする。とにかく精細に欠ける演奏で、録音が悪いのも敗因か。いずれこれが本番記録というわけはないだろう。オケ×だが希少録音ゆえ無印としておく。うーん、なんとも。 (2005/12/28)

○ペナリオ(P)アルフレッド・ニューマン指揮ハリウッド・ボウル交響楽団(CAPITOL,東芝)

この曲が目新しくて買った盤だが、ビニル盤ゆえ音が飛びすぎ。うーん、飛んでなかったら、と考えると非常に凝縮され流れ良く引き締まった、でもとびきりごきげんな演奏だったように思う。ライナーには編曲は施していないように書いてあるが、おそらくオーケストレーションも構成も手を加えていると思われる。そのため違和感が無いわけではなく、編成も小さすぎる気もする。だが小さいがゆえに集中力の高い演奏になったことも確かで、物語的なドラマティックな起伏よりも心地良い流れや激しいリズム表現を主眼に置いたような演奏ぶりは印象的だ。緩急の緩が欲しい人もいるかもしれない。寧ろ即物的なレヴァントのスタイルに近いかもしれない。勿論ペナリオはレヴァントより腕は落ちるが、何かイイ香りがする要素があり、侮れない。都会の憂愁よりも精力的な生活の活写といったイメージで作曲されたこの曲、摩天楼の建築現場でリベットを打ち込むエア・ハンマーの強烈なリズムが基調となって一大音画が描かれる(岡俊雄解説より抜粋)、とても前向きな楽曲だ。だから明るくあっけらかんとやるのがいい。結局予想以上にはならなかったが、貴重なこの曲・・・キューバ序曲と並び作曲家最後の純然たるクラシカル・ミュージックの巧緻な筆致を堪能するには十二分です。○。ステレオ。・・・でもこの曲は元々のオーケストレーションが素晴らしいので原曲でやってほしかったな、やっぱり。

「アイ・ガット・リズム」変奏曲

○ペナリオ(P)シェリー・マン(ドラム)ラス・チーヴァース(CL)アルフレッド・ニューマン指揮ハリウッド・ボウル交響楽団(CAPITOL,東芝)

ガーシュインの大規模な楽曲では一番人気の作品だろう。ドラムは原曲にはないと思うが、とにかく「ガール・クレイジー」のナンバーから作曲家自身が編み出した痛快なピアノと楽団のための作品である。ジャズ・ナンバーとしても有名な曲に基づいているけれども、ジャズ的な書法が目立ちはするものの、このようなゴージャスなオーケストレーションを施されているとやはりクラシカルな面が際立ってくる。ガーシュインの書いたシンフォニック・ジャズの最も成功した作品ではないか、と思えるくらい面白い。変奏はクラシックとジャズ各々のアレンジを交互に繰り出してくる巧みなもの。リズムの重視される(まあジャズはリズムだが)ガーシュインの曲の中でも際立ってリズム変化の効果的な楽曲であり、この演奏はそのツボを良くおさえている。明るく開放的な演奏だが、決してはみ出した演奏にはならない。だらしなくはならない。素直にメロディとリズムを楽しみましょう。「ガーシュウィン・バイ・スターライト」という題名のアルバムにふさわしいフィナーレの曲です。○。ステレオ。

ワイルド(P)フィードラー指揮ボストン・ポップス(RCA)CD

あっというま。古い録音に多い楽しげな雰囲気がここでは余りにあっさりと灰汁抜きされ、何も残らない。無印。

○ワイエンベルク(P)アムステルダム・サキソフォーン四重奏団(brilliant)CD

このガーシュインアルバムでは一番成功しているかも。ワイエンベルクも音色こそ軽くアップライトピアノのようですらあるが、柔らかいタッチで透明感を損なわないながらもパッションを破裂させテンポを煽りスウィングする。サックスがちょっと生硬な感は否めないし編曲も平板だが、ワイエンベルク全盛期を髣髴とさせる部分もあり、なかなか聴き応えがあります。○。

歌劇「ポーギーとベス」

~交響的絵画(交響詩)


◎イワーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)LP

最初オネゲルかと思った。シンフォニックな演奏ではあるが要領を押さえた見事な解釈ぶりで聴かせる。珍演奇演を求めるならお門違いだ。イワーノフはガウクとスヴェトラにはさまれて損をしているが、オケの特質を損なわずに一本にまとめあげる名人で、意外と国外モノにそのテクニシャンぶりを発揮する。この録音は中でもかなり上手く出来上がったもので、各パートの地力を引き出しながらも強い求心力でグイグイとドライヴしてゆく。メドレー集にもかかわらず一貫した起伏ある流れが出来ていてまるで一大交響詩そのものであり、ノリもまとまりもいい上にソビ響各楽器の素晴らしい音色表現も抜かり無く堪能できるから嬉しい。スヴェトラには出来ない洗練されたわざだ。のっけから木管楽器のように歌うペットにのけぞらされるがブラス陣の圧倒的な力強さ上手さは奏法のローカリティを越え、ロシア系移民の子ガーシュインはまさにこうあるべきなのだという説得力をもって迫ってくる・・・いや、決してガーシュインをロシア側に引き寄せたような演奏ぶりではなく、ジャジーな香漂う喜遊的で色彩味溢れる演奏ぶりで、これなら笑われるまい、という満足げな確信まで聞き取れるのだ。弦楽器の充実した音にも傾聴。リズムが極めていい。冒頭書いたように、弱音部の響きも面白い。イワーノフならではというか、スクリアビンなど現代前夜の作曲家の表現を思わせる。クラシカルな世界でいう印象派的な響きを鋭くとらえ、行き届いた配慮で隙無く聴かせる。最近何度も聞きたくなる音盤はほとんどないのだが、これは何度聞いても気持ちいい。名演と言っていいだろう。ソビ響を暴走させずにここまで完璧にドライヴできたイワーノフという(ロシアらしからぬ)弛緩を知らない指揮者の存在を、世は再び見直さなければなるまい。◎。モノラルが惜しい。

○ライナー指揮ピッツバーグ交響楽団(LYS)1945・CD

録音は弱いがライナーのきっちりしいの演奏スタイルが往年のアメリカオケの情緒的な表現スタイルとマッチして清々しく聞ける。たしかに生硬な解釈ぶりはおもしろいとは言えず、響きの精度を重視したクラシカルなスタイルゆえガーシュインとしてどうなのか、というところもある。オケは往年のスタイルなりの巧さはあるが生硬な解釈に対して人工的に聞こえてしまう場面もある。まあ、○にはしておく。全曲と書かれている資料もあるが管弦楽だけによるメドレー。音の迫力はあります。

(ベネット編)

○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)1980/1/16LIVE

さすがに二曲めとなればこなれてくるわけで(前半のパリのアメリカ人は散々だった)、なかなかに聞かせる。編曲もいいのだろう、充実した書法が聞きごたえの有る音響を産み出している。サマータイムが出るところでゾクゾクした。なんだか前半物凄く田舎者だったのに急に都会的な洒落た雰囲気をかもしだすソヴィエト国立響に驚いた。さすがだった。印象派的と言われるような静かな場面の繊細な表情がしっとりと身に染みてくる。やはりジャズではなくクラシックに足を置いた解釈ではあるのだが、それはそれで新鮮でいい。ガーシュインはロシア系移民の子だからロシアと関係がないわけでもないのだが、書いている音楽はあきらかにアメリカの黒人音楽の延長上にあるもので、ロシア風味は微塵もない。強いて言えばその天才的なメロディメイカーぶりにロシアの音楽センスに通じるものも感じようと思えば感じられるがそれはあまりにこじつけだ。よくぞここまでしっかり綺麗に小洒落て表現してくれたもの。ロシア流のソリストの音色もしっかり枠内にハマっているので違和感なし。さすがにこの演奏ぶりに最後は盛大なブラヴォーと拍手が贈られている。この曲
のためにこの盤を買ってもいい。

○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(WEITBLICK)1996/9/20LIVE・CD

スベトラ晩年の肩の力の抜けた楽しい演奏。編曲のせいもあって非常にシンフォニックでガーシュインらしさの薄い演奏になっていて、それでも感傷的で甘やかな指揮ぶりは十分に魅力的なのだが、意外や意外、ラストはとてもリズミカルなガーシュインそのもの、オケが低温なので温まる時間が必要だったのかスベトラが温まる時間が必要だったのか多分後者だが、この一夜のガーシュインプログラムの中では頭ひとつ抜けて感情の入った演奏になっている。○。これはスラットキン(同じようにナマズ横丁組曲版を録音している)とは違う。

~「組曲」

スヴェトラーノフ指揮ハーグ・フィル(RO)1995/11/25,26LIVE

クラシカルな曲のせいもあるが、キューバ序曲よりは随分堂に入っている。しっかりした演奏で変に立派にもならず、雰囲気音楽らしいところを上手に掴んで浸らせてくれる。サマータイムもちっともサマータイムらしくないが、クラシカルな情緒の中に上手く昇華されており、それと意識しなければクラシカルな意味での主題の一つとしてすんなり看過してしまうところだ。他のソングも同様で、やや掘り下げが足りない感もあるが、この曲に掘り下げはそもそもいらないから問題無し。取って付けた様なポルタメントのほうが気になるが美しい音色には魅力があるし好き好きだろう。情感の表現がぎごちないのは自然なテンポの揺れが無くひたすらゆっくり歌い上げる芸風のせいだ。これはスウ゛ェトラの本質にかかわるところなので仕方ない。無印。

○ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団(DREAMLIFE)1956/2/1・CD

シンフォニックな演奏で厳しく締め上げられ磨ぎ上げられたガーシュインが耳を切り裂く。スケール大きくゴージャスな、しかし金属質の響きをとどろかせる宇宙的ガーシュインはやや耳に厳しい感もあるが、クラシカルな範疇ではやりたいほうだいの表現の幅を持っている。ガーシュインがクラシックの世界に構築されるとこうも先鋭な音楽に聞こえるものか。ケーゲルらしい。○。

(グレイグ・マックリッチー編)

○ペナリオ(P)アルフレッド・ニューマン指揮ハリウッド・ボウル交響楽団(CAPITOL,東芝)

なかなかご機嫌です。メドレーで綴られる作曲家畢生の大作「ポーギーとベス」のメロディたち。もうここまでくると映画音楽かミュージカルか、といったところだが、ガーシュインの天才的な楽想、メロディの妙を、この編曲でお手軽に楽しむ事が出来る。ピアノ独奏とオーケストラ、という編成はそれほど違和感はない。楽曲名だけ並べておくと、サマータイム、「そんなことはどうでもよい」、ここでピアノのカデンツァ、「ベス、お前はおれのもの」そしてポーギーの門出をえがく黒人霊歌のフィナーレ。僅か11分半の無茶な編曲だが、それなりに楽しめる。何といってもガーシュインのメロディが全てだ。それを彩る楽器が何であろうと元々の天才性はいささかも陰ることはない。ステレオ。

~三つの抜粋(バシリエフ編)


コーガン(Vn)P.コーガン指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)LP

押し付けがましい音が情緒を削る。もっと洒落た表現はできないものか。オケはなかなかいいのに、力み過ぎ。技巧はすごいけど、音色に幅がないから違和感しきり。場面転換のできない音なのだ。2曲めは艶が出てきていいけど、クラシカル臭は抜けない。3曲めになるとかなりよさげ。編曲者の功績も高いかもしれない。なかなかおしゃれだが、無印。

キューバ序曲

○ハンソン指揮イーストマン・ロチェスター管弦楽団(MERCURY)CD

正真正銘ライトクラシックなわけだが、ガーシュインの晩年作といってもいい円熟期の作品で、シンフォニックジャズという理念を越えて純粋に楽しんで作られた感じが何とも(人によっては軽薄と受けとられようが)耳軽くうれしい。カリブのリズムがガーシュイン節と不可分なまでにミックスされ、手法的にはガーシュイン・ジャズの範疇からいささかも離れてはいないのだが、出世作代表作のたぐいの雰囲気とは明らかに違う。ボンゴの存在は大きい。関係性を指摘されるミヨーがやはり南米のリズムや旋律を使いながらも複雑な本質をいささかも変えなかった様相とは違って、この曲が(たとえセレブと呼ばれる階級の別荘地でしかなかったとしても)かのカリブの島々で流れていても少しもおかしくない。普遍的な魅力をもつのは天才ならではの純粋な歌心あってのものだろう。

ハンソンは緊密でリズムもいいが堅苦しい。統制が厳しすぎて奏者が縮こまっているように聞こえる。だから手堅いのだが楽天的な楽曲の表現としては物足りない。ただ、すぐに飽きる類の旋律荷重の重い曲ゆえに逆にこういう隙のない演奏で純音楽として聴かせたほうが「長持ちする」とは思う。○。

スヴェトラーノフ指揮ハーグ・フィル(RO)1995/11/25,26LIVE

重い。最初かなりやばい。曲が進むに連れ流れ良くなってくるが、前半はテンポ感はいいものの何処か借り物のような感じで、オケがノるのに時間がかかっている。また、録音バランスがおかしい。弦が右から聞こえるのは違和感がある。どこをどう聞いてもガーシュインではないが、メタ・クラシックでは辛うじてある。無印。

スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(WEITBLICK)1996/9/20live・CD

この人はガーシュインが好きだったそうだが向いてはいない。ガーシュイン特有の響きを楽しみたい人にのみこの「音響的演奏」をおすすめする。マーラーのときと同じで、とにかく間延びして遅く、音符も長く、結果和音がしっかり聞こえるから、しかもオケが比較的冷たく正確に響くオケなので、そういうのが「リズミカルで楽天的なガーシュイン最後の作品」より好きというのなら止めない。やたらうるさくがなり立てるところは往年のスベトラを思い出させるが、リズムが四角四面なのでノリが悪い。一夜のガーシュインコンサートの一曲。スベトラはソ連時代にもガーシュインライブを盤にしている。どちらかといえばそちらのほうが、らしくはある。

○レヴァイン指揮ミュンヒェン・フィル(OEHMS)2001/12/30,31LIVE・CD

ボックス単バラ共によく売れているミュンヒェンとのシリーズ。この人、けっこう爆演系の人に人気があるみたいだが、私個人的な印象としては響きは雑で開放的だけれども基本的に揺れが無くマトモな解釈をするというイメージがある。この演奏にしても気持ちのいいライト・クラシックではなくしかめっつらのクラシカル・アプローチでもなく、どちらかといえば真面目な中庸の解釈といったところだ。キューバ序曲の生臭さが嫌いな人はミュンヒェンのやや濁るも透明感がある音、勢い良い中にもドイツ的構築性が緻密な響きを造り上げるさまに興奮を覚えるかもしれない。かくいう私も実はこのような演奏は解釈的にはつまらないが面白がる気持ちを抑えられない。アンビバレンツな感覚を持たざるを得なかった。ただ、けして名演とは思えないので○としておく。ガーシュインじゃない。

(サックスアンサンブル編曲)

○アムステルダム・サキソフォーン四重奏団(brilliant)CD

超絶技巧だがいかんせんクラシカルだ。音は透明でリズムは四角四面、テンポも安定しすぎており地味さは否めない。悪くは無いし、アンサンブル的には特殊な面白みはあるのだが、基本的にガーシュイン晩年作品のカリブ的な楽しみは無い。丸にはしておく。

(グレイグ・マックリッチー編)

○ペナリオ(P)アルフレッド・ニューマン指揮ハリウッド・ボウル交響楽団(CAPITOL,東芝)

ステレオだが私のLPは赤ビニールのやつで音飛びや音質低下が気になる・・・。しかもそのしょっぱなの曲「キューバ序曲」・・・ここまでアレンジしちゃったらもう違う曲ですよ(笑)華やかすぎる。でもまあ、その派手さゆえに、単なるムード音楽にならずに済んだとも言える。違うな違うなと思いながらもその楽しさ、品の良いノリに肩が揺れる。ヴァイオリンのポルタメントも多用されているわりにしつこくならないのが印象的。音色が爽やかなせいだろう。垢抜けたカラッと乾いた南国の雰囲気が横溢する面白い曲(編曲)です。○。テーマさえ原曲のものを使っていれば、あとはなんでもありなのかな、この時代は。ピアノ小協奏曲ふうに改作されたそのソリストであるペナリオは高く乾いた音でそれほど自己主張無しにぱらぱら弾いて見せている。印象には残らない。こういう曲こそペナリオの真骨頂になるはずなんですけど、ま、編曲のせいでしょうか。原曲を知っている人が聴くべき盤です、原曲のもっと旋律的で素朴でセミ・クラシック的な品のいい音楽にまずは触れてみてください。スラットキンあたりの演奏が丁度いい感じです。ステレオ。

ガーシュインメドレー(編)

○ワイエンベルク(P)アムステルダム・サキソフォーン四重奏団(brilliant)CD

落ち着いた室内楽編成の無声ガーシュウィンだがこれはこれで結構楽しい。清新だ。聞き慣れたフレーズも有名な節も、何か別物に昇華されたような、でもやっぱりガーシュウィン。ワイエンベルクも指回ってる。○。

三つの前奏曲

作曲家(P)(PEARL他)

完全にラグやジャズ畑の人とわかる演奏。そういう観点から見ると無茶苦茶巧い。指がよく回り、スポーツ的感覚を持ったプレイヤーであることがわかる。

○シュテッヒ(P)(AMIGA,ETERNA)

かなり速い演奏で楽しむ前にあっさり終わってしまう。起伏があり決してしゃっちょこばった演奏ではないのだが、どこかしら遊びが足りない気もしなくはない。でも気分がいい。○。

ワイエンベルク(P)(brilliant)CD

アムステルダム・サキソフォーン四重奏団とのガーシュインアルバムのおまけに入っているものだが、衰えたな・・・と苦笑してしまう。しょうがないのである。もともとバリ弾きでそれほど「深い表現」を突き詰めないピアニストだったので、ましてや老齢となると指先ももつれ1楽章などかなり危うい。3楽章になると復調するが、タッチの弱さは感じられるし、音の強弱の制御も自然さが失われている。録音が極めてクリアであるがゆえに、グルーヴを出さんとリズムを崩しにかかる一方で基本的にはクラシカルなこの人のピアニズム(音色表現)がちょっとちぐはぐで、テンポも上げられず指がついていかないさまはちょっと聞きづらい。好きなピアニストだが・・・無印。

(ハイフェッツ/ヨーヨー・マ編)

ヨーヨー・マ(Vc)カーン(P)(SONY)1992/6/15-19

ハイフェッツがヴァイオリン用に編曲した譜面をさらにチェロ用に書き直したものだ。当代一の技巧派チェリスト、ヨーヨー・マのアメリカ室内楽集からの一曲である。はっきり言って、原曲を知っていると聞けない(笑)ヨーヨー・マの音は実直すぎる。クラシカルすぎるのはピアノも同じ。なんでそう聞こえるかって、ガーシュインの自作自演(ピアノソロ)をさんざん聞いたあとだからだ。こんな耽美的なガーシュインなんて(2楽章)ガーシュインじゃない!でも、終曲なんてCMででも使えそうなアレンジ(洋酒とかのCMでね)、この楽章がいちばんハマっているかも。

~第2番(ブレックマン管弦楽編)


クレンペラー指揮ロス・フィル(SYMPOSIUM/RADIO YEAR)1937/9(8?)/8・CD

いちおうそれらしくはあるのだが、原曲のジャジーさが管弦楽によって大仰すぎるものに化けた感もある。高音打楽器の響きに美しい要素があり、演奏自体は精緻でクラシカルなものだが、ジャズ的な予想通りのオーケストレーションとのちぐはぐさもある。全般、ゆっくり沈潜するような雰囲気はガーシュインメモリアルコンサートにふさわしいとは言える。無印。
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ミヨー 室内楽曲、歌曲、歌劇(2012/3までのまとめ)

2012年04月18日 | Weblog
組曲「ルネ王の暖炉」

○フィラデルフィア木管五重奏団(boston records)1960/9/21・CD

速くてあっさり、しっかりしすぎているのが気になるといえばなるが、純粋に音楽としてはよく出来上がっている。ミヨーがプロヴァンス民謡を意識した牧歌的で平易な曲の中でも特に人気の高い曲、案外録音は少なくない。バレエ組曲のようにも聞こえるが元は管弦楽による映画音楽である。アンサンブルとしてもよく組みあがった曲群で、速いパッセージが多く低音楽器には辛いぽい場面もなくもないが、一部楽器に偏らないゆたかな響きが耳を楽しませる。ミヨーらしい微妙なハーモニー+明快な旋律を表現するにこの老舗アンサンブルの確かな技量が生かされている。「ルネ王の暖炉」~日だまりの雰囲気をもう少し軽くしかしニュアンスを込めて表現してほしかったが、贅沢というものか。健康的な力に溢れた演奏。ミヨー室内楽の最高峰を楽しむのには十分だ。

○デュフレーヌ(FL)含むORTF木管五重奏団(EMI)1953・CD

明晰なモノラル後期の音。ORTFメンバーらしい繊細なそつのない音色で美しいこの曲を美しく表現しきっている。ミヨーはヴァイオリン出身の人だが(勿論この時代の人なのでいろいろ吹き弾き叩きはできたのだが)弦楽器よりも木管を使った室内楽のほうがアピールできる美質のある人だったとこのような曲をきくと思う。擬古典の範疇にある楽曲でリズム要素には南国の変則的なものも含まれるものの全体的に南欧風の牧歌的な微温性を保ったものになっており、その表現には柔らかい音色の木管楽器だけによるアンサンブルが最も適している。ミヨーは大編成の曲よりこのような小編成の曲のほうが工夫の凝らしようがないぶんわかりやすい(ミヨーは工夫しすぎるのだ)。ラヴェルの管弦楽組曲作品を彷彿とする旋律と構造の繊細なバランスがここにも存在して、リズムさえ克服すればアンサンブル自体はそれほど難しいものはないと思うが、声部間の音量や音色のバランスには配慮が必要である。しかし木管アンサンブルという性質上、ロシア吹きやアメリカ吹きする人でも織り交ざらないかぎり妙なバランスになることもない。美しくさっとした演奏で、如何にも現代的な「オケマン」による演奏、何か突出した個性を聞きたかったとしたらデュフレーヌのそつのなさ含め裏切られるかもしれないが、楽曲の要求はそこにはなかろう。◎にはしないでおく。

二つのスケッチ

○デュフレーヌ(FL)含むORTF木管五重奏団(EMI)1953・CD

二曲ともミヨーの牧歌として典型的な作風を示している。構造的には簡素だが響きは六人組の仲間と共通する一種の「気分」を示した少し陰のあるものが織り交ざり(とくに後者)、ピアノ曲ではあるが「家庭のミューズ」を想起するものの、木管アンサンブルという点では小交響曲などのいくつかに近似していると言ったほうが適切だろう。典雅さや幻想味より素朴で無邪気な雰囲気を押し出した作品ではあり、サティの分裂的な作風に似たところもあるが、それは俊敏に入れ替わる変則的なリズムや少々オリエンタルでジョリヴェの日寄った室内楽作品を想起する旋律線によるかもしれない。それらが南米由来なのかプロヴァンス由来なのかどうなのかなどわからないくらいに、ここでは「ならされて」演奏されており、過度に激しくならず、落ち着いた美観が保たれている。録音が少々弱い。古びていて、ちょっと技術的にも色褪せているように感じるところもある。技巧的な断片を織り交ぜるミヨー節が活かされた演奏かというと、ちょっと足りない気もする。デュフレーヌはとくに強調されない。基本的にはアンサンブル曲でありソロ曲ではない。○。

人生の喜び(ワトーを讃えて)

○作曲家指揮ロスアンゼルス室内アンサンブル(DECCA他)

小交響曲のような古雅で牧歌的な曲。ただ優しい音楽というだけではなく小規模アンサンブル的な面白さがあり、ゆったりした流れの上で新鮮に楽しめる。平易な曲ではあるが技術に穴のない奏者陣によってしっかり明瞭に進められていく。ミヨーには珍しく前衛の影がなく、かといって無邪気なだけでもなく、しっかり新古典を意識した作りになっているからわりと飽きない曲。○。

弦楽四重奏曲第1番

○WQXR四重奏団(POLYMUSIC RECORDS)LP

第一ヴァイオリンに技術的不安定さを感じる。アンサンブルとしてはけして物凄く上手くはないとは思うが、他メンバーはなかなかである。WQXRはNYのラジオ局で、当時の放送局はたいてい放送用の専属楽団をもっていた。この団体のチェリストのハーベイ・シャピロ氏は現在齢95を数えてジュリアード音楽院マスタークラスで教鞭をとっている。もともとトスカニーニ下のNBC交響楽団で10年近く演奏をおこない最後の三年は第一チェリストの座にあった。そのあとプリムローズ四重奏団で4年活動、さらに以後16年間この放送局楽団をつとめあげた。スタジオミュージシャンとしてしばらく各レーベルをわたったあと、渡欧。名声が高まり、ミュンヘンではカサルスと並び賞されるまでに上り詰めたが、台北のレストランで腰を打ってのち教職に転換、1970年からジュリアードに教授として就任以後、名教師として知られるようになった。

弦楽四重奏曲以下の器楽曲を末流ロマン派(そうとうに幅を拡げた私の定義内)の範疇において少なからず書いた作曲家の、習作を除く作品番号1番と2番にはある種の共通した傾向がある。1番は折衷的だが当時前衛的とみなされた要素をふんだんに盛り込んだ野心的な作風により、散漫でまとまりに欠けるもののマニアックに読み解くのが面白い。物凄く乱暴な例をあげればグラズノフのカルテットやアイヴズのピアノソナタである。対して2番は洗練され本当の個性が最小限の編成の中に純度高く反映されたもので、一般にアピールする率が極めて高いものの雑多な面白さには欠ける。従って情熱的に聴きこんだあと一気に飽きる可能性もある。ショスタコは例外的に書いた時期が遅いこともありここに1番がくるが(プロコもかな)、ボロディンなどはまさにこのパターンである。ミヨーももろにそうである。この1番は書法的にあきらかに「人のもの」がたくさんつぎこまれ・・・たとえばドビュッシー、ロシア国民楽派、新ウィーン楽派といったもの・・・、本来の縦のリズム性と歌謡的な旋律を基調とした楽天性は余り浮き立ってこないが、よくよく聴くと後年あきらかになる独特の複調性や高音処理方法が、後年は殆ど浮き立ってこない清新なひびきの連環による観念的な楽曲構成の中に織り込まれている。その点で欲張りな作品でありそこが野心ともいうべきものだろう。正直あまり好きではないのだが、2番のあからさまにわかりやすい世界との対比できくと、ボロディンのそれに相似していて面白い。世代的にウォルトンのニ作品との相似形ともとれるだろう・・・ウォルトンは初作でさらに前衛を狙っていたが。

演奏的に特筆すべき部分はあまりないが、不可でもない。○。 このLP割れやすい(割ってしまった・・・)。

○アリアーガ四重奏団(DISCOVER)1994/11・CD

簡単に言えばRVW1番のような曲。ドビュッシー後の国民楽派室内楽の典型といったところか、民謡旋律を中心に手堅い書法でまとめている。しかしミヨー特有の表現、和声も確かに現れており、冗長な曲に新風を吹き込んで耳楽しい箇所もみられる。アリアーガ四重奏団はイギリスの楽団のよう。激しさはなく響きは穏健で美しい。○。

◎ペーターゼン四重奏団(capriccio)CD

これは快演。鋭い表現で同曲の叙情性よりも前衛性を抉り出し、高い技術をもって完璧に再現してみせている。メロディ重視を公言していたミヨーの魅力は叙情的な部分に尽きる、とは思うのだが、ここまでメカにてっしてスピード感溢れる音楽を演じてみせてくれると、こういう聴き方もできるのだなあ、と曲自体の評価も変わってくる。線的な書法で楽器同士の絡みが弱いミヨー初期カルテットではあるが、ここではそういう弱みもまったく気にならない、1番の演奏としては第一に推せる。

弦楽四重奏曲第2番(1914-15)

○アルカナQ(CYBELIA) CY808

昔国内盤でも全集で出ていた記憶があるのですが、とりわけこの演奏が良いというわけではないので今手に入る音源で一聴頂ければ幸いです。オネゲル同様ミヨーの怪獣もとい晦渋な世界は四重奏曲に遺憾無く展開されているわけですが、この22歳のときの作品は素直な感情と美への賛美の心が現れており、18曲中の異質となっているものの、多分一般に最も受け入れられる要素を備えた佳作であります。3楽章の軽妙さと4楽章の鄙びた味わいは絶品です。特にソルディーノで奏でられる3楽章のきらめくような律動は、フランス近代四重奏曲の中でも傑出した表現のひと
つではないかとも思います。

◎パリジー弦楽四重奏団(AUVIDIS/naive)CD

強靭さのないアンサンブル。しかしそのアンサンブル能力の自然さ、高さと柔軟性が長所に感じた。柔らかく線の細めな、フランスというよりイギリス的な融和しやすい音に惹かれたわけでもあるが、ミヨーのカルテットでいちばんわかりやすく、かつ魅力的な旋律が理知的な構造の中に組み合わされ配されて、しかもその中に非凡な技巧的工夫が過剰にならずさらっとミヨーならではの形で篭められている。「雑多で硬派なミヨー」のファンにはまだ「六人組の描く牧歌」の範疇を抜けていない日寄った作品ともとられかねないわかりやすさだが、コントラストの著しくとられた各楽章にも鮮やかに統一主題が変容され導入されて形式感をしっかり維持していたり(かなり中欧の古典的作品を研究したようである)、2楽章には宗教的な暗い主題がミヨーの代表作にも一貫してみられる独特の雰囲気をカイジュウなハーモニーにより(また構造的に懇意だったシェーンベルクあたりに通じる萌芽も感じる)しっかり内容あるものに仕立て、四、五楽章のボリュームとともに力作大作感を強めている。この演奏はとくに構成が練られており意図を理解しやすい。三楽章を軽く風のように流しているのは少し物足りなさもあるが実に安定し上手い楽団だなあと感心させる無理のない柔軟性を兼ね備えた俊敏さだ。とにかくプロヴァンスのあたたかな日差しを思わせる融和的な音色と、作曲の技巧や先鋭さを強調したような分析的演奏に走らず音楽として綺麗なものを聞かせようという意図に惹かれた。◎。パリッシー四重奏団と表記していたが原音のパリジーに直した。(2005以前)

全集の一枚。これは少し客観的というかおとなしい感じもするが技術的には高い。よく構造を分析した演奏という感じで、まだ生硬な部分のあるミヨーの書法をきちんと読み解いて、三連符のモチーフが表や裏に出ては隠れしながら統一感を保っているとか、基本はロシア国民楽派の弦楽四重奏曲を意識しながらもそこに皮肉をさしはさむように無調的フレーズや複調的構造を織り込んでいる部分が明確に聞こえる。ミヨーにはやや構造が重過ぎて旋律線がわかりづらかったり速筆のせいか勢いで押し通さないと首尾一貫して聞こえないなどといった楽曲も散見されるが、この曲は全弦楽四重奏曲の中でも一番わかりやすいだけに、却ってマニアックな書法の出現が唐突で違和感を感じさせるところもある。だからこうやって整理されてくるといくぶん均されて聞きやすさが増す感もある。4楽章では牧歌的ないわゆる「ミヨーのプロヴァンス民謡」が少しあからさまに出てくるが、こういった部分ではもう少し感情的な温もりが欲しかった。小粒だがしっかりした技術に裏付けられた演奏。○。パリッシー四重奏団と表記していたが原音のパリジーに直した。 (2006/12/20)

○アリアーガ四重奏団(DISCOVER,Koch Discover International他)CD

同曲はミヨーにしては疎な譜面で拡散的でだらだらする部分もあるけれども(5楽章制でアーチ構造を頑なに守っている)、各楽章で変容する南欧旋律の美しさ、簡素にまとめられた響きの透明感(ミヨーを取り付きづらくさせている複調性が分厚くならずほとんど気にならない・・・演奏する側としてはやはりやりづらさはあるのだけれども)は実に魅力的で、番号付きだけでも18曲ある、時に実験場と化しもした全ての弦楽四重奏曲の中で最も聴きやすく、コーフンする曲だと信じて疑わない。前記のとおり構造に執拗に囚われ音楽の流れが停滞する場面もあるにせよ、ノイジーな響きで耳を濁らせるよりはましというもので、とくに、ベートーヴェン的な弦楽四重奏が好きな向きには薦めたい。ミヨーらしさを残しながらも、前時代的な弦楽四重奏曲を踏襲している、この絶妙さはドビュッシーでもラヴェルでもない、ボロディンの気は少しあるけれどもロシア的ではまったく無い、まさにフランス近代のミヨーそのものである。アリアーガ四重奏団は落ち着いた演奏ぶりに円熟が感じられるが、多分ミヨーの書いた最もスポーティな楽章、ミュートされた四本によるスケルツォ3楽章が余りに落ち着きすぎていてがっくりした。しかし、冒頭よりヴィオラ以下がしっかり音を響かせ主張していて、ドイツ的な面もある同曲の勘所をよく理解した解釈だなあと思った。○。

△クレッティ四重奏団(新星堂EMI盤)

ほぼ同時代の録音として特筆できるが、余りに音が不利だ。高音部のレンジが非常に狭く、装飾音などの細かい動きは殆ど聞き取れない。ききどころの3楽章など旋律が聞こえないためヒンデミットのようなひたすらの運動になってしまい、若々しく勢いづいた雰囲気だけを感じる演奏になってしまった。

弦楽四重奏曲第3番

○ディエシー(Msp)パリジー四重奏団(naive)CD

前二作とはまったく違って、無調の世界に突入している。レントの2楽章からなり、二楽章には女声独唱が入るということからも「シェーンベルク・ショック」の背景は自ずとあきらかである(ミヨーは「月に憑かれたピエロ」パリ初演も担っている)。だがこの歌唱部分はシェーンベルク式の厳しいものではなくサティまで想起する比較的メロディアスなもので、もちろん弦楽四重奏は無調的な耳障りの悪い響きを静かにうねらせているのだが、ちょっと中途半端な感がある。1楽章はひたすら晦渋。演奏はこんなものだろう。○。

○デュモン=スルー(msp)レーヴェングート四重奏団(vox)1960年代・LP

レーヴェングートらのミヨーはフランス近代の一連のvox録音ではこれだけ、あとはライヴ録音があるのみである(恐らく既記のものだけ)。しかも作風を一変し晦渋な曲想で通した異色作という、溌剌とした技巧的表現を持ち味とした後期レーヴェングートQにはどうにも合わないように感じるのだが、聴いてみれば意外とロマンティックというか、旋律の流れを素直になぞる聴きやすい演奏となっている。シェーンベルクの影響を受けた最初のSQであり歌唱が導入されるのもそのためと思われるが、無調には踏み込んでいない。寧ろ後期サティ的な単純さが感じられる。比較対象が少ないので評は難しいが、透明感ある演奏が重い響きを灰汁抜きして美しい暗さに昇華している、とだけ言っておこう。○。

弦楽四重奏曲第4番

○パリジー四重奏団(naive)CD

パリッシーと英語式に表記していたがどうやらパリジーとのことなので直します。この曲は3番に引き続き晦渋な様相をていしているが、3楽章制をとっており、楽想も決してわかりにくくなりすぎないところにミヨーの楽天的な特質が残っている。複雑な構造は演奏的にはけっして技巧的ということではないので、この前に収録されている12番にくらべ落ち着いて曲の内面に入り込める演奏にはなっている。ものの、やはり若いというか、硬質な音で小さく機械的に組み立てるようなところも否めず、このような曲では別にそれでも構わないとはおもうが、もう一歩踏み込みが欲しいか。

弦楽四重奏曲第6番

○タネーエフ弦楽四重奏団(melodiya)LP

短調で始まるミヨーの室内楽というのは余り聞かないように思う。とくにこの曲の冒頭主題はあきらかに古典派を意識したものでありちょっと聞きミヨーかどうか迷う部分もある。もっともこのくらいの時期のミヨーの作品にはシェーンベルク派や新古典主義なども顔を出し、晦渋さがいっそう濃くなってはいるのだが。よくオネゲルは晦渋でミヨーは明るい、という誤解があるがミヨーはそもそも聞かれる曲が限られているので、なるべく多くを聞いていくと、作風の傾向として両者ともに晦渋さも明るさも兼ね備えており、実はその両者の傾向がよく似ていることがわかる。作品ごとの性格分けがかなりしっかりしている点で両者ともにやはりプロフェッショナルなのだ。オネゲルにミヨー的な高音旋律を聞くこともあれば、この曲のようにミヨーに非常に目のつまった隙の無い構造を聞くこともできる。また両者の室内楽に共通する雰囲気としてルーセルやイベールの室内楽(の無調的なほうの作品)も挙げられよう。

この盤に同時収録されているオネゲルの3番より、寧ろこちらのほうが計算ずくで斬新さもあり、よくできていると思える。難しさで言えばある種「作法」に囚われたオネゲルのものよりこちらのほうが数段上とも言える。それは単に弾きにくいということではなく、書法的に難しくできているということだ。ただ、両作とも「名作」とは言いがたいのは難点。どうも頭で書いた作品という印象が拭えない。まあ共に短い曲だが、なかなか曲者だ。タネーエフはとても巧い。内声のぎゅうぎゅうに詰まったミヨーの作品で旋律性を如何に浮き彫りにするかは重要だと思うが、タネーエフは正直その点十全とは言えないものの、この「外様の曲」をやはりショスタコのように料理して、しなやかにまとめている。ミヨーって凄いな、とつくづく感じられるのもタネーエフのびしっと律せられた演奏のおかげか。ミヨーが「勢いで演奏すべき類」の作曲家ではないということを証明する意味でも、よく表現していると思う。○。

弦楽四重奏曲第7番

○レーヴェングート四重奏団(FRENCH BROADCASTING PROGRAM他)LIVE

レーヴェングートSQのミヨー録音は2,3あるらしいのだが手元にはこの英語放送音源しかない。放送用ライヴではなく公衆ライヴ録音の放送のようである。ちなみにこの音源、アナウンスと本編がそのまま収録されジャケットも内容も一切記載されないのだが、昔「夏の牧歌」などエントリした盤については本編にも演奏家について触れた部分がなく且つ恐らく通常のスタジオ録音の切り貼りだった。この二枚組はライヴとスタジオが半々のようで、全貌のよくわからない音源ではある。

演奏のほうは、ミヨーを「ちゃんとした同時代演奏家たち」がやればこうなるのだ、というかなり感情を揺さぶられるものになっている。暖かい音色が違う、フレージングの柔らかさ、優しいヴィブラート、技巧と音楽性の調和、即興的なアンサンブルのスリル、どれをとってもミヨーを新しいスタジオ録音(と現代の生演奏)でしか聴いていない者にとっては目から鱗の「ほんもの」である。しかも曲がミヨーの中ではやや抽象度の高く旋律主義ではない、晦渋さもあるアンサンブル重視のものだけに(それでもまあ小交響曲にかなり近似しているのだが)、こういうふうにやればスカスカの音響に惑わされず緊密で適度な美観をもった演奏になるのか、と納得させる。もっとも技術的に難のある箇所もあるし、ミヨー特有の超高音での音程の悪さはプロらしくないが、しかし、盛大な拍手もさもありなん。モノラルで環境雑音もあり、曲も短く比較対象になる演奏もないのでひとまず○にとどめておく。

○スタンフォード四重奏団(M&A)CD

哀しげな表情を湛えた牧歌的な小品だが、コントラストを強調せず密やかに優しげに表現する楽団には好感をおぼえる。譜面自体に力があるミヨーには、案外エキセントリックでない表現のほうがしっくりくる。技術的に弱いかというとそういうこともなく最高音の音程もしっかりしていて、曲が比較的大人しいせいかもしれないが、ミヨーの楽曲演奏には珍しい音楽的安定感が漂う。イギリス近代の弦四を聴くように楽しめる演奏。ブリッジ、フォーレとのカップリング。

弦楽四重奏曲第9番

○パリジー四重奏団(naive)CD

作曲家が「曲数において」意識していたというベートーヴェンの弦楽四重奏曲を思わせる厳しさを持ち合わせた4楽章制の曲で、ミヨーらしい楽天的な主題から始まるものの最後はヤナーチェクかというような重いやり取りのうちに幕を閉じる。けして楽しい楽しいの曲ではないが、たとえば3,4番などにくらべると「らしさ」が垣間見えるところはプラスに感じられるだろう。演奏はこの曲にあっているように思う。冷たく重い音がうまく、わりとドイツ的な曲が得意なのかもしれない。○。

弦楽四重奏曲第12番

○パリジー四重奏団(naive)CD

ミヨーの極めて美しいミニアチュールだが、演奏が現代的過ぎるというか、もう少し柔らかいニュアンスが欲しい。気合いを入れないと弾けない超絶パセージがあるのは認めるが、技術面を多少おろそかにしても曲に「入り込む」余裕がほしい。技巧は闊達だが。。○にはしておく。

弦楽四重奏曲第14番

○ブダペスト四重奏団(COLUMBIA)

ミヨーのカルテットはいろいろある。ショスタコーヴィチのようにしかめ面なものもあればシェーンベルクのように不条理な?ものもある。その中でこの14番、ならびに姉妹作の15番は牧歌的で比較的わかりやすい作品と言えるだろう。いずれもイベールのように暖かな響きと快活な主題の躍動する明るい作品だ。14番は終楽章がいい。快活で楽しい音楽だ。ブダペストは音色が揃っていて巧い。曲の性格上ちょっとごちゃっとしなくもないが、作曲家お墨付きだけある演奏だ。

○パレナン四重奏団(EMI)

例によって15番と八重奏曲(14,15番を同時に演奏することにより八重奏曲としたもの、ベルネードQとの合同録音)の組み合わせだが、この14番は、最初の旋律だけが目立つ15番にくらべ対旋律まできちっとした旋律になっている(ミヨーは旋律重視の人です)がゆえの、ミヨーならではの弱点が目立つ。高音二本と中低音二本がしばしば完全に分離し、おのおのが違う楽想を流し、構造的には組み合っているが和声的には「耳ごたえのある」分厚く衝突するものになる場面がやや多いために、楽器元来の威力的にどうしても高音部が負けてしまう。耳に届く音として、とくにミヨーのように高音旋律の作り方が巧く、更に超音波に達するくらいの(大げさ)高音を個性として駆使する人においては、確かにはっきり届きやすい要素はあるのだが、もちろん音量的に(倍音含め)出る音域ではないため、チェロが楽器角度に左右されずしっかり収録できてしまう「録音媒体」となると、土台のしっかりした深い響きに消し飛ばされてしまう。ミヨーの低音はかなり低い位置でひびくことが多いが、音が永続的に鳴り続ける擦弦楽器となると通奏「重」低音としてアンサンブル全体の響きをかき乱してしまうことがあり、低すぎて明確な音の変化まで聞き取れなくても、牧歌的な楽想にたいしては「強すぎるデーモン」になりうる。小規模アンサンブルでこのような明るい主題の曲で、どうしても両方に主張させたい場合弱者側にはピチカートなどの奏法を織り交ぜさせ書法的に対抗するか(ミヨーもやってるが)、演奏者側が意識して音響をととのえないと、数学的には合理でも音楽的には非合理になりうるもの。この演奏が、あきらかに耳ざわりのよいはずの14番より15番のほうが聞きやすく感じがちな理由は、チェロとヴィオラが「田園に射し込む一握の雲の綾なす陰」を逸脱し「田園を覆い尽くさんとする暗雲のドラマ」になってしまっているせいだと思う。まあ、録音のせいかもしれないが。ミヨーの厚ぼったい書法を解決するのにパレナンの透明感はマッチしているので、ちょっと惜しかった。○。しかし・・・この曲に更に4本追加して8本にするなんて無茶だ。この曲だけで十分お腹一杯な音響なのに。

○パリジー四重奏団(naive他)CD

全集の一部。しっとりした魅力のある一曲で、「ミヨーの晦渋」はほとんど出てこない。祝祭的な終楽章にいたるまで簡素なまでに美しい。それはこれまた可愛らしい15番とあわせて八重奏曲としても演奏できるように作られたためだろう。この楽団はいかにもフランス的という仄かな感傷と明晰な表現を兼ね備え秀逸である。技術的瑕疵はみられず少しパレナンを現代的にしたようなところがある。聴いて損はない。朝のひとときに。○。

弦楽四重奏曲第15番

○ブダペスト四重奏団(COLUMBIA)

この15番は譜面を持っているが1パートだけ弾いてみると実にわかりやすい旋律性の強い音楽に思える。しかしあわせて弾いてみるとこれが重層的でわかりにくくなる寸法。ただ、ミヨーの中ではかなりわかりやすい作品であることは確かで、とくに1楽章ファーストがスピッカートで刻む旋律はささやかで美しい。尻すぼみな感じもあるが、暖かなプロヴァンスの田舎風景を思わせる佳品だ。演奏は非常に調和したもので技巧に走らず美しい。

○パレナン四重奏団(EMI)

師匠格のカルヴェと違いケレン味の無く素っ気ない、しかしアンサンブル技術をきわめいわゆる現代フランス的な美しい表現を持ち味とする団体だ。ミヨーは厚い響きの複調性的な重奏を多用するわりに基本は南欧の牧歌的世界を軽い旋律で描こうとしていることが多い。この作品はカルテット作品でも成功した良作と思うが、それは高音域の非常に美しい旋律線を、低音域のカイジュウなアンサンブルが邪魔しない程度におさまっているせいかと思う。じっさいこの曲の旋律は旋律作家ミヨーとしても屈指のインパクトがあるからなおさらバランスよく感じられるのかもしれない。完成期以降のミヨーの緩徐楽章は前衛嗜好のあらわれた耳辛いものが多いがこの曲も多聞に漏れない。しかしここでパレナンならではの軽やかな響きが楽想の暗さを薄め、はっとさせる、そうか、ミヨーの意図は20世紀の作曲家としての辛苦を表現することではなく、この演奏で感じられるような、けだるい午後の空気感の創出にあったのだ、と。終楽章はかなり派手に表現しており、曲もそれを求めているので大団円。とはいえ、○にとどめよう。

弦楽八重奏曲

○ブダペスト四重奏団(COLUMBIA)

ミヨーの自伝にこの録音についての記述がある。ここでブダペストQは相当困難なことをやってのけた。これは14、15番のカルテットを同時に演奏することにより成り立つ八重奏曲で、ミヨーの筆のすさびというか、バッハやモーツァルトの遊びの精神を持ち込んだというか、とにかくはっきり言って音が重なりすぎて律動しか聞こえてこないという珍曲である。ミヨーによるとブダペストQはとりあえず14番を演奏・録音したあと、全員がヘッドフォンをして、14番の録音を聴きながら15番をあわせていったのだそうである。結果できあがったこの録音は、確かに前述の欠点はあれど、まさか同じ楽団が録音を聴きながら重ね録りしたとは思えない出来なのである。音色はまったく調和し不自然さはない。そう聴かされなければまず気がつかないだろう。残念ながら曲は不発だが、ブダペストQに敬意を表して○ひとつ。

○ベルネード四重奏団、パレナン四重奏団(EMI)

○パリジー四重奏団、マンフレッド四重奏団(naive他)CD

パリジーによる全集の一部。14,15番SQを一緒に演奏する趣向のもので、ブダペスト四重奏団の依頼だったようだが、正直、音が多すぎる。ミヨーは音の多い作曲家だが無駄はそれほどない。ここでは縦線があっただけのような動きが多く、複調性にしてもやりすぎ。演奏はうまい。

永遠の主題による練習曲

○パリジー四重奏団(naive他)CD

エチュードなので決して面白いとは言えない単調さもあるのだけれど、確実にミヨーである、という明るい響きと新古典的な構造を示している。演奏レベルを要求する曲集ではないが手だれのパリジー弦楽四重奏団のそつない表現が楽曲理解につながっている。

イーゴリ・ストラヴィンスキーへの追悼

○パリジー四重奏団(naive他)CD

僅か一分半程度の小品だが自身の晩年も迎えつつありながら依然若きミヨーを思わせる透明感を保った優しい曲になっている。演奏どうこう言う曲ではないので仮に○。

弦楽三重奏曲

アルベール・ルーセル三重奏団(cyberia)

曲的には全くプロヴァンス的なミヨー節で、しかも三重奏という比較的軽量な響きを持つアンサンブルであるがゆえにミヨー節の一種鈍重さが抜けて、とても合理的でバランスのいい、ひょっとしたらこれがミヨーに一番あっていた編成なんじゃないか、と思わせるほど適合性を感じる。ただ、旋律の魅力が薄いのと、2楽章と4楽章のよく魅力のわからない暗さ、5楽章の常套性から、余り演奏されない理由もなんとなくわかる。旋律に高音を多用するミヨーがゆえに仕方ないかもしれないが、この決して巧いとは言えない団体のヴァイオリンの音程は、ちょっと心もとない。柔らかい運指はうまくやればいい感じの雰囲気をかもすが、ひたすら高音域で動く曲となるとその一音一音の変化が聞く側の耳に捉えきれなくなる。これは痛い。ピアノ的に明瞭な音程をとっていかないと、わけのわからない印象しか残らなくなるのだ。この演奏の弱点はまさにそこにあるといってもいい。無印としておく。曲的に一番の聞きどころは3楽章のギター的な重音ピティカートにのって楽しげに動く旋律線だろう。イベールなどの室内楽にも似たようなものがあるが、ああいう世俗性(親しみやすさ)が無い、旋律に溺れず複雑なリズムとしっかりした書法に支えられた構造的な面白みは独特のものだ。

ヴァイオリン、クラリネット、ピアノのための組曲

○アンサンブル・ポリトナール(CHANNNEL CLASSICS)CD

ミヨー100歳記念で結成された団体でそれだけにオーソリティぶりを発揮して巧い。リリカルな面とラジカルな面を同時に提示するミヨーに対しあくまでリリカルなものとして描いているようで聴き易い。この曲集は曲数が多くけして多様とは言えない部分もあるが(作曲時期的にやや異なる趣がみられる程度)ミヨーの挑戦したのは音楽自体よりむしろその楽器の組み合わせにあり、とくに、この曲のようにピアノが入るとアンサンブルが締まり非常に引き立ってくる。ピアノが難しいのではなくサティの伝統を継いで必要最小限の効果的な転調を繰り返し音楽に変化をつける。この作品は36年作品でミヨー最盛期といってもいい時期のものだが、最盛期をどこに位置づけるかによるが、実験的時期は既に過ぎていて、実用的側面での個性を濃くし、いい意味でマンネリ化している。晩年になると本当にマンネリになるのだが、ここで面白いのはクラの存在で、通常ヴィオラなど想定される位置に置くことで音色的な幅を出している。とてもよくできており、演奏もすばらしい。

ヴァイオリン・ソナタ第2番

○ボナルディ(Vn)ビリエ(P)(ARION,CBS)

じつに美しい曲で、武闘派は日寄った作品とみなすだろうが現代の人間にとってはイデオロギーなんかどうでもいい。ジイドに献呈されたこの作品はミヨーのわかりやすく暖かい楽曲のカテゴリの中に含まれる。やや薄いかんじも一連の牧歌的作品と共通した、ミヨーの職人的なよさがあらわれたものと好意的に聞ける。演奏はアクの強さもなくミヨーのこの作品におけるスタンスを綺麗に提示している。

ヴァイオリンとクラヴサンのためのソナタ

○キャッスルマン(Vn)ハーバッハ(HRPS)(ALBANY)CD

とりとめのない一楽章、印象的な旋律をもつ二楽章、ミヨーらしい機知が感じられる三楽章と性格分けのはっきりした新古典的な作品で、よく聞けば牧歌的なミヨー節を楽しめるが、ハープシコードの音の奇異さに前衛性が先に立つ節もあり、好き嫌いはあるかもしれない。演奏は荒いが、まずまず曲の雰囲気は出ている。



○ギドン・クレーメル(Vn)エレーナ・クレーメル(P)(PHILIPS)1980版・CD

非常に美しい小品で「ミヨー臭さ」のない交響曲第1番第一楽章をもっと薄めたような感じ。確か何かの自作からの引用だと思うが忘れた。ミヨーには春と名のつく曲は他にもあり、有名なところではピアノ小品集の中の組曲「春」、一番有名と思われる「春のコンチェルティーノ」がある。ミヨーの南欧的な暑苦しさは多少硬質な音で薄めないと重すぎる。シゲティがこの曲を録音していたり、ゴールドベルグがコンチェルティーノを録音していたり、これは現代曲専門演奏家だからという以上の意味があると思う。プロヴァンス風の暖かく軽やかな曲想の魅力が複調性的な音の重なりによって損なわれている場合も多くあり、そこにユダヤ系作曲家としての個性が発露していると解釈することもできようが、「このメロディにそれはもったいない・・・」と思うところも多い。その点この数分程度の曲だけなら、余裕で楽しめると思う。クレーメルの音も適している。○。

フルートとピアノのためのソナチネ

○ランパル(fl)バイロン・ラクロワ(P)(HORIZONS、AJPR/BAM)1949/5/18・CD

1922年才気煥発な時期のミヨーの新古典的な三曲のミニアチュールで、ミヨーらしいピアニズムが前面に立ちフルートは比較的低域で地味にしている感はあるが、最後は名技的な表現で締める。ここにきてやっとランパルらしい技巧が出るものの、やっぱりまだ少しヤワだ。録音がよくレストアされているだけに何か高音が思うように伸びないような焦れを感じる箇所がある。しかし、やはりランパルはこういった現代的な作品を自由にやるほうがあっている、そう思わせる雰囲気はあった。

マルティニーク諸島の踊り

○カサドシュ夫妻(p)(cascavelle/columbia)1941/12/18・CD

クレオール主題によるごく短い二つの曲。まったく楽しく南方的な音楽で、若き頃南米時代のミヨーを思わせるがもっとスマートで聴き易い。一曲めはまさにクレオールの歌と題されているが、響きには優しいミヨーのピアノ曲特有の抒情が染み出している。尖鋭さや奇矯さはすっかりなりを潜めているが、穏やかで瞑想的な主題と突然踊り出す派手な主題が交互にあらわれ、楽しいし、ほっとする。ミヨー円熟期以降のピアノ曲はほんと、ほっとする。二曲めのビギーンはビギン・ザ・ビギンのビギン(ほんとか?)。南米のボレロ調の音楽だがここではもっと洗練され、しかも汗臭さや嫌味の一切無いほんとの「楽しみ」だけが奏でられている。打楽器的というか、硝子を弾くようなカサドシュ夫妻の音色のせいもあって至極透明で繊細でもある。主題は単純なものでその繰り返しだが、和声にミヨーらしい微妙なズレやサティ的な意外性のある展開が込められており飽きがくるのを辛うじて避けられているといった感じ。総じて○。

組曲「パリ」

○イヴァルディ、ノエル・リー、ベロフ、コラール(P)(ANGEL他)CD

確かBRILLIANTの廉価箱にも入っている音源で、FRENCH BROADCASTING PROGRAMの放送録音は恐らく同じ音源を用いていると思われる。若々しく溌剌とした表現が明るくもニュアンスに富んだ佳作の魅力をよく引き出している。音の数からいって二人でもいいのではないか?とも思わせるけれど、サティの流れをくむ隠れたピアノ作曲の名手ミヨーの作品として楽しめた。○。

家庭のミューズ(1945)

○作曲家(P)(ODYSSEY)

泣けます。このLPは中古屋で比較的良く出回っているので、突っ込んで聞きたい方は中古通販等で入手される事をお勧めします。ミヨーの巨体からなんでこんなに優しく暖かい音が出てくるのか不審にすら思います。ミヨーのピアノ曲は6人組でも特にエリック・サティの影響が強いと思うのですが、題材はともかく、珍奇に走らず練られた曲であるだけに、数倍聞きやすいと思います。単純だけれども密やかな美しさを醸し出す旋律に傾聴。ミヨー自身の演奏でなくてもきっと満足させます。お勧めです。この盤は録音が非常に悪いので○ひとつにしておく。



(全曲)

○フェヴリエ(P)(EMI)CD

ファンタジーに溢れた美麗な演奏で、起伏が比較的明瞭につけられており場面によってはちょっと主張が強すぎる感もあるが、録音の綺麗さとあいまって曲の煌く光彩のような魅力を引き出しまくっている。ちょっとした指の細かい動きのセンスにさすがのものを感じる。ここを譜面通りのテンポで弾いてしまっても面白くない。地味で自作自演でも面白味の感じられなかった2楽章、ここではサティの舟歌ふうのテンポどりが巧く、ああ、そういう曲だったのか、と合点。3曲めは地味。4曲めはなかなか派手で煌びやか、これはフェヴリエよく解釈しきっている。この人こんなに指が廻ったっけ?5、6曲めは落ち着いていっておわり。自作自演では1、2、4曲めが選ばれているがやはりその楽章がいちばん聴き映えがする。フェヴリエの技がよく顕れたセンスある演奏で、ミヨーのピアノ曲の包蔵する叙情的な魅力をよく引き出しているといえよう。○。

~第一組曲 OP.25-1

作曲家(P)(SACEM他)1930/1/13・CD

かなり古い音のため演奏を楽しむというより曲を楽しむので精一杯といった感じだが、純粋なピアノ曲としては最も有名な作品で、合計5分に満たない3曲からなる組曲だが、春の気配に満ちた可愛らしい作品である。牧歌的な表現を得意としていたミヨーの作品中でも無邪気なほどに牧歌的で花畑と蝶くらいしか想起できるイメージが無い。2楽章がやや暗いがあっというまに終わるので気にならない。小交響曲群と共通する世界なので、あの雰囲気が好きなかたには向くだろう。録音が悪いので無印にしておくが、ミヨーのピアノはイマジネイティブでかなりウマイので演奏面では万全であると付け加えておく。6曲中の1、2、4曲めのみ。

ロンサールの四つの歌

○リリー・ポンス(Sp)コステラネッツ指揮管弦楽アンサンブル(cascavelle/columbia)1947/4/2・CD

じつに美しい。透明感のある管弦楽が高音域で醸す爽やかで牧歌的な雰囲気と、安定した伸びやかな高音を発するソリストが(三曲めの中ほどの表現にはやや荒さが出ているが)ミヨー独特の超高音アンサンブルを実にプロヴァンス風味たっぷりにかなでている。これはミヨーの「美しい方」の作品、とくに前半二曲が素晴らしいので、小交響曲や春のコンチェルティーノあたりが好きなかたは一聴の価値あり。コステラネッツのオケは抒情が優り「ハリウッド的艶」がなくはないが、基本的に俊敏で瑞々しく十二分に聴ける。

ヴナスク伯爵領人の典礼op.125

○ブヴィエ(A)作曲家指揮アンサンブル(VERSAILLES)LP

ストラヴィンスキーっぽい削ぎ落とされ骨ばったアンサンブル(サティ的でもある)にオーケストレーションで、音楽はシェーンベルク的に重く晦渋なものはあるが旋律をはじめ根底には南欧の楽天性が流れる。「結婚」とか、あのあたりに影響されたフランス近代の作曲家もまた多いが、ミヨーは換骨奪胎のさまが聞きやすい方向に向かっている。そのぶん脇も甘くなるがミヨーなのでそこは構成の妙で乗り切っている。短いのでまだ耐え切れる範囲か。演奏評はしづらいけど、いかにもフランスの典雅さが漂う範疇にはある演奏ぶり。前後収録の曲の間にあっては少しへこんだ感じか。○。

四行詩の組曲

○マドレーヌ・ミヨー(語)作曲家指揮ランパル、モンタイユ他(Ades/everest)

これはアスペン・セレナーデと弦楽七重奏曲とともに録音されたもので、それらは別の組み合わせでACCORDよりCD化されている。ミヨー特有の、各声部の独立した音線(それぞれは美しいラテンふうの旋律を持つ)のおりなすポリトナリティが無調感を醸す曲だが、楽器数を絞っているのと典雅な木管楽器とハープを中心とした響きで統一しているため聞きづらい部分は少ないほうである。ミヨー夫人の語りはいつもの調子。何か比較対象がないので評しづらいし曲的にも小規模なので、○ということにしておく。奏者はいずれも一流どころではある。

カンタータ「栄光の冠」Op.211

○デミニ(B)作曲家指揮アンサンブル(VERSAILLES)LP

「三つの聖なるカンタータ」と題されたミヨーの宗教カンタータ集で、「ヴナスク伯爵領人の典礼」および「格言カンタータ」という多少時期のずれた作品が裏面に入っている。この曲は題名からして聖書めいているが祭儀の進行を8曲(4節)のいずれも音楽的にはプロヴァンス風味たっぷりで(それを言えばそもそも裏面だって思いっきりプロヴァンスな主題の曲なのだが風味は違う)1940年の作品とはいえ未だ六人組のもっとも輝かしい時代の、素直な牧歌的室内楽の系譜につらなる雰囲気をもった作品である。前年の有名な「ルネ王の暖炉」に似たものを別の編成で別の目的のもとに作り上げたといったふうである。ユダヤ系であることに対する迫害をおそれアメリカに亡命したまさにその年の作品であることは、懐古的でなつかしい曲感の示す意味をストレートに示している。

RVWが第一次大戦で外国人として戦下に見たプロヴァンスの暖かい風景を、緩やかな音線にうつした曲をもって世に名を轟かせたことを思い出す。ミヨーはパリジャンとしての生活がありながらも、まさに国がどんなに戦に乱れようとも暖かな情景を保ち続けたエクサンプロヴァンス生粋の作曲家であったことを思い起こさせる。RVWは客観的な時代には戦争をそれなりに苦々しく描いたが、いざ戦争の害に逢ったところでストレートに描くことをやめ、田園の哀しくも美しい情景をひたすら美しい音にたくした5番交響曲をまとめた。ミヨーの心情もまさにその、戦争に向き合い闘争するのではなく、戦争を遠く見守り収まるのを待つ、懐かしい風景がせめて壊されないようにと回顧する、そういったところにあったのかもしれない。

やや古めかしい歌唱に対して僅かフルート、トランペットに弦楽四重奏という擬古典編成のバックがとても親密な雰囲気をもち、田舎教会のミサ(ユダヤ教だと神聖祭儀とでも言うのだろうか)の進行風景を思わせて秀逸である。演奏自体は戦後の録音だが、安堵と喜びの生々しさをどことなく感じる。ミヨーの指揮はかなり巧みなので安心できる。素直な曲なのでもっと演奏されてもいいと思うが宗教曲は難しいか。○。

歌劇「クリストファ・コロンブ」

○ロザンタール指揮リリーク放送管弦楽団、フランス国立放送合唱団他(DISQUE MONTAIGNE)放送LIVE・CD

極めてダイナミックな大作で多様な表現の散りばめられたミヨーのいわば集大成的な作品である。クレーデルの本による歌劇だが映画音楽を元にしているのではなかったか?描写的でわかりやすく、ウォルトンのベルシャザールに更に慎重なワサビを効かせて、後半は新大陸のリズムや楽天的旋律を過不足ない書法で巧みに組み入れ、「男とその欲望」を彷彿とさせる原始主義も洗練された都会的な無駄無い表現により陳腐に陥らせることなくそのエッセンスだけを伝えている。複調性や不協和要素は無いわけではないのだが殆ど目立たない。新大陸の場面で感傷的にあらわれるプロヴァンス民謡ふうパセージも新大陸に爽やかな風を吹き込むだけで違和感はない。ジャズが顔を出すのは御愛嬌。最後はまさにオネゲルのダヴィデ王を彷彿とする雄大で感動的な盛り上がりをみせる。ロザンタールは明るく乾いた音で色彩感溢れる生命力に満ちた表現を最後まで崩さない。他曲のスタジオ録音にきかれるような弛緩は無い。フランス流儀としての声部間のバラバラ感も全く違和感なく寧ろ色彩感を倍加している。終演後の盛大な拍手も演奏の成功をつたえる。モノラルであることをマイナスと考えても○をつけざるをえない。このCDは今はなき六本木WAVEで長らく棚を飾っており、金を貯めてやっと買おうとしたら売れてしまっていて、「ミヨーなんて聞く人が俺以外にもいたんだ」と落胆した覚えがある。当時なんばでミヨーのカルテットを集めていたら「研究家のかたですか?」と訝しげに見られた、そんな頃である。

~第一部

○ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル他(nickson)1952/11/9放送liveCD

ロザンタールのディスク・モンテーニュ盤を手に入れ損ねて長らく不完全燃焼だった私にミトプーのライヴ録音イシューは福音のようだった。コロンブスの偉業を称える?大曲だが、第一部だけの演奏会(放送初演というがそもそも放送でこのどでかい曲を流すことなど以後あったのだろうか)であるこの盤だけを聞いても親しみ易く気持ちのいい流れを70分余り味わう事が出来る。ミトロプーロスの弛緩しない音作りのせいもあろうが、ミヨー自身が理解される事を念頭に書いたと思われる世俗的な魅力がある。いちばん近いのはオネゲルの「ダヴィデ王」あたりの雰囲気だと思うが、もっと表層的というか、たとえば「男とその欲望」を思わせる太鼓のドンドコいうリズムの上にナレーションが入り、時々歌詞のない男声合唱が「ワーオ」というようなイカニモ土人的合いの手を入れてくるところなど、面白いけど、、、、いや、面白いです。クローデルの台本によるがここでは英語で歌われており比較的わかりやすい。でもわかりやすいがゆえの何か浅薄な感じも無きにしもあらず。私の記憶が確かならこの曲はそもそも映画音楽かなんかだったと思うが、それも肯ける内容である。ちょっと長いけど、ミヨー好きは聴いて損はありません。ミヨーとくに好きでない向きも、聴いて不快ということはない。と思う。だといいんだけど・・・。ミヨーのいちおう代表作ですから。集中力が途切れず、不協和音を余り尖鋭に響かせない配慮がこの演奏の大魅力。

創世記組曲(一部の曲のみ担当)

○エドワード・アーノルド(ナレーション)ヤンッセン指揮ロスアンゼルス・ヤンッセン交響楽団、ウッドワース指揮ボストン交響楽団(ARTIST RECORDS/PASC)1945/12/11、ナレのみ1946/6・SP

PRISTINE配信CD化可。大戦末期ヨーロッパよりアメリカ西海岸に避難または移住していた名だたる作曲家たちに恐らく委属され編まれる「プロジェクト」として知られる。往年のキャピトル録音やRCA録音、最近の発掘スコアによる考証版録音の他に、じつはこのような作曲直後の録音(ツギハギだが)があったというのはおどろきだ。作曲家たちは全く統一感なくそれぞれの作風で貫き通しており、旧約を読み上げるナレに惑わされず音楽を聴けば言い当てることは容易だ。ミヨーの作品が聴きやすい。タンスマンも入りやすい。後半テデスコからトッホ、ストラヴィンスキー、シェーンベルクと一気に前衛化しシルクレットなどホルスト的な映画音楽ライクな音楽を軌道修正している。録音は悪い。資料価値で○。
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ミヨー 管弦楽曲、協奏曲(2012/3までのまとめ)

2012年04月18日 | Weblog
男とその欲望

作曲家指揮

○ロジェ・デゾルミエール・アンサンブル(SACEM他)1948/6/21・CD

自作自演にはVOXの新しいものも有るのでこれがどの程度価値を持つものなのか評価は分かれよう。ただ、作曲時の息遣いを感じさせる一種の生生しさがあるのは事実。古い演奏家の艶めいた表現様式のせいもあるだろう。曲はミヨーの代表作の一つと言ってもいいとても演奏効果の高いもので、原始主義的な嬌声と打楽器主義的なオケ・アンサンブルのかもす雰囲気は、ジョリヴェより簡潔でストラヴィンスキーより人好きするも
のだ。この曲の裏に南米体験があるのは言わずもがなで、旋律性は失われない。旋律の重要性はミヨーが著書で力説していたものだが、ここには確かに旋律が有る。後半では第一室内交響曲の終楽章と同じ楽天的なメロディが使われていことも親しみやすさを増す元になっている。暑苦しくはなく、乾いた都会的な雰囲気もあり、ミヨーの欠点である音響の徒な肥大も殆ど無い。最初から最後まで太鼓の音にのせて気分良く聞いていられる楽曲です。近いといえばストラヴィンスキーの「結婚」が近いか。演奏は古く聞きづらいが十分楽しめる力がある。○。

○BBC交響楽団他(BBC,IMP)1970'放送LIVE?・CD

BBCの放送録音。非常にクリアで明晰な録音である。余りに音がいいためなんだか堅苦しい感じもあるが、かなり完成度が高い演奏と言っていいだろう。音はBBCだけあって冷たく硬質であり、曲構造が物凄くよく浮き立って聞こえる。レントゲンをあてたような演奏で、客観性が勝り熱気や本能的な舞踊を行うための音楽としてはいささか薄い。この曲を分析的に聞きたいかたにはとても向いている。改めてこれを聞くと、どういう曲なのかをよく理解できる。小交響曲の気分をもった序奏部から、リオのカーニバルのような笛やサイレンが鳴り2拍3連的なリズムの交錯ががしゃがしゃ五月蝿いシンバルに彩られる南米的な感興に包まれた主部にうつり、その気分のうちに華やかに終わるのが筋だが、この演奏では序奏があまりにクリアで美しくまた複調性が硝子の砕けるような響きそのままで耳を攻撃してくるのがちょっとうざい。その次に俄かに南米的音楽が盛り上がるが、音響的には完璧なのにどことなく空々しくイマイチ乗れない。綺麗すぎるのだ。BBCは現代曲に馴れすぎてミヨーの尖鋭さを叙情性以上に引き出してしまっているようにも感じる。ライヴでこの精度というのも凄いし、演奏レベルを鑑みると○より下は付けられないが、終わり方もなんだか謎を残すような感じで今一つ締まらない。これとデゾルミエール・アンサンブルの録音を足して二で割ると丁度いいのに。○。

プロテー組曲(第二組曲)

○フルニエ指揮ヴェルサイユ管弦楽団(ARIES)LP

エキゾチックでもかっこいい出だしから、平易という意味ではなく、大人が非常に聴きやすい娯楽的なミヨー節が展開。ルーセルのように力強いリズム表現にメカニカルな構造のかっこよさはミヨーの南米ふう作品の中でも極めてよく作られており魅力的なものだ。力溢れる演奏ぶりは楽しむのに十二分なもので古いものとしては音響的にも不足はない。ステレオ的な音場の広がりもいい。古い録音がメリットになるのは難しいフレーズや調性が崩れる細部がほどよく「ぼやかされて」聞こえ、耳易いところだけに集中できるところだが、演奏自体もミュンシュ的にわかりやすい音を選んで強調しているようにも感じた。イキのいい楽しい曲に演奏であるから楽しみましょう。録音マイナスで○。

○モントゥー指揮オケ名不詳(サンフランシスコ交響楽団?)(DA:CD-R)1952/4/19live

元はクローデルのための劇伴音楽で合唱付。1910年代初期ミヨーの「穏健なほうの」作風が同時代のストラヴィンスキーのバレエ作品や前時代のロマン派音楽の香りを嗅ぎながらも、しかし極めて緻密で完成度の高い作品としてあらわれている。映画音楽的に楽しく聞ける牧歌的な音楽ではあるが、浅い曲感をもつ南米的・南部フランス的な民謡編曲作品群にはない、オネゲルに匹敵する鮮やかな技巧的手腕を楽しめる楽曲だ。のちにアメリカ・アカデミズムへ与えた影響の現れ方やヒンデミットとの必然的な交流(第二曲のがちゃがちゃした構造的な音楽はヒンデミットやその影響下にあるもっと「わかりやすい」作曲家の作風を思わせる)などいろいろなことも考えさせられる。しかしミヨーの特に六人組時代に威を張っていた才気がもっともわかりやすい形であらわれた曲であることには変わりはない。

コープランドの円熟期における「丸くなった」作風がいかにミヨーのこのての作品の影響を受けているか、しかし入り組んだ管弦楽法の巧みさはいかに「アンファン・テリブル」コープランドをもってしても上をいかれている気がする。ラヴェルが嫉妬したのもうなずける才能というよりほかない。ただ、作品をよく吟味し選ぶという態度にやや欠けていた(というかオーダーメイドで作曲しすぎた)のが今もって正当な評価を受けられないゆえんだろう。膨大な作品数が邪魔しているのだ、ラヴェルのように容易に全集化できないから、名前の通った作品(おおむね通俗的なもの)以外音源数的にも選びようがない「と思われてしまっている」のが惜しい。「フランス組曲」「プロヴァンス組曲」なんかよりよほど内容も濃く深く楽しめると思うんだけどなあ。あ、モントゥーの弾むリズムと推進力のせいも多分にある。スピーディにこの曲を通して楽しめる演奏だ。録音もこの時代の非正規記録としては悪くはない。ミヨーの複雑晦渋な響きも全体のわかりやすい流れの中に的確に織り込まれ、勘違いして現代性ばかり強調する余りわけのわからない聴感にしてしまう指揮者とは一線を画している。終盤のドラマツルギーはドイツ的な重さを伴うロマンティックな趣があり、これはもうちょっと透明感が欲しい人もいるかもしれないが、高音でポリフォニックに織り交ざる通奏旋律の断片がフランス的な牧歌性を辛うじて保っている。作曲の妙に救われている。最後の締め方ももうちょっと盛り上がりが欲しい気もした。全般楽しめたが、客席反応もそれほどよくはなく(贅沢な客だな)○としておく。おそらくこの安定した音なら既に他レーベルでCD化していてもおかしくはないが、いちおうDAとしておく。

○スタインバーグ指揮ピッツバーグ交響楽団(ASCAP)1952live・LP

編成が大きいためか押し出しが強いので牧歌的な同曲の美観を楽しむ向きにはすすめないが、理知的な指揮者のしっかりした構成感にもとずく演奏であるためミヨーらしい重なり合う響きがよく聞こえる。和音の衝突が楽しめる向きには薦められる。リズム取りは単調で浮き立たない。録音良好。○。

バレエ音楽「青汽車」

○マルケヴィッチ指揮モンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団(ConcertHallSociety/SCRIBENDUM)1972/7・CD

ブルートレインである。ディーアギレフのロシアバレエ団のための軽音楽で擬古典的な書法を基調としつつ特徴的なリズム(コープランドなんて影響受けまくりですな)と解放感のある清新な和声(楽器法~プロヴァンスに材をとった一連の牧歌的作品と共通点がある)を織り交ぜることによって「上流階級のランチキ騒ぎ」のようなものを仕上げている。繊細な音響表現が綺麗すぎるきらいもあるマルケだがミヨーでもかなり日寄った作品ではあり、フランセあたりを聴くような軽い気分でどうぞ。ヴァイオリンソロなんてありえない。ブルッフじゃないんだから。

フランス組曲

チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(AUDIOR)LIVE

おそらくCD-Rで出ているものと同じ。録音状態は劣悪。ラジオ・ノイズがひどく、まるで戦前の録音のようだ。でも、思ったより熱い演奏だ。チェリものっている。大した曲ではないが、いたずらに壮大にやるでもなく、等身大の演奏をしているところが意外だし気に入った。楽しい。ま、録音が悪すぎるので無印。

プロヴァンス組曲

◎ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA/brilliant)CD

こりゃ名演だ。大変だ。南フランス国民楽派(南欧ユダヤ人集落民謡楽派)ともいえる楽曲をしばしば書いたミヨーだが、アメリカ時代はとりわけ民族問題をこえて自国を心配しこのような楽天的な民謡に基づく牧歌や舞曲による組曲をえがいている。しかしそれは敢えてローカライズを演じたような薄っぺらい演奏様式でやられることが多く、ミヨーがとくにアメリカで軽音楽作家とみられがちなゆえんの一つでもあるのだが、ガウクは全く異なる地方からフランスを応援するかのような(ステレオのきわめて明瞭な録音ゆえ戦後演奏ではあるのだが)気合の入った演奏をしかけており、ミュンシュのような我の強いやり方ではなく、とても整えられたうえの揺れの無い力強い表現が「ローカル音楽ではないプロヴァンス組曲」の純粋な発現と感じられた。自作自演もあったと思うが全然に巧い。ガウクってこんな技術に至っていたのか・・・もっと復刻され、普及されるべき「ムラヴィンスキーの師匠」である。プロヴァンス組曲の一流の名演。◎。

◎ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(BMG,RCA)1960/11/21・CD

ミュンシュがミヨーの曲にすぐれて適性をもっていたことが伺える演奏である。ミヨーの曲の演奏ではしばしば声部間がスカスカにあいてしまい、高音域と低音域が完全に分離して、結果として音線もリズムも派手で明瞭な高音だけが耳に届くようになるケースが多い。書法に問題があるといえばそれまでだし、曲によってはそもそも複層的な音楽の流れを狙った意図でもあるのだが、ミュンシュの場合そういったスカスカ感は皆無といっていい。そのためこの曲のようないかにもミヨーの民族的素養が発揮された職人的作品と見られがちなものにおいても、中声部まで目の詰まった響きがしっかりと噛み合って重くひびき、メカニカルなリズム構成にみられる構造的創意も、雑然と堆積させられるのではなくきちんと納まるところに納まって、最大限の威力を発揮している(ここを理解しないでやるとたんなる民謡旋律音楽に聞こえてしまうのだ、ミヨーは・・・そしてミヨー自身の指揮も決して自作の威力を発揮しきれているとは言えないのがまた難しい)。ピストンらアメリカ・アカデミズムに多大な影響を与えたことが理解しやすい演奏ともいえよう。じっさい、アメリカ60年代テレビ音楽などに聴かれる特徴的なひびきをラッパなどの重奏に聴き出すこともできる。ジャズ的な表現と民謡素材が不可分なほど融合した変則リズムは冒頭から聞かれるところだが、ここでは明るく開放的な民謡としてより暗くテンションの高い動きの絡みで楽しませるジャズ的な側面がより強く感じられる。ミヨーのやたら楽天的なところが苦手な向きでも聞けると思う。

ユニゾンでのパウゼ頻発によりいちいち止揚するリズムというのもミヨーの特質であるが、流れを損なうそういった要素は極力抑えられている。とにかく耳なじみがいい旋律音楽というのではなく、純音楽として聴きやすい。二つの大戦で戦乱の渦中でありつづけたフランス南部、それでも陽気で美しいエクサンプロヴァンスの情景が描かれた、戦争とは不可分の作品と扱われることが多いが、だからこそノーテンキにナショナリズムを歌う、と見られがちなところ、ミュンシュのように「この曲は新古典主義にしっかり立脚したうえでの独創的な作品で、ストラヴィンスキーの擬古典様式にひけをとらない巧緻な設計のもとに創り上げられたなかなかに複雑で抽象化された作品なのだ」と主張してくれる演奏は、ミヨーがプロフェッショナルな作曲家として如何にすぐれた技巧と創意を持って作品に真摯にのぞみ、創作の場に「他意」がなかったのかを改めて認識させられる。いや、他意は多分にあったろう、故郷への思い、心痛は通奏低音のように流れていたと思うが、それは創作の場には影響していないのではないか、とこのようながっしりしたヨーロッパ的演奏をきくと思う、いや、演奏がそう聞かせているのだろう。独墺系の分厚い響きをもつボストンの弦、とくに中低音域の弦が「たとえ自身わけがわからなくても」オケの1つのパーツとして割り切り、大編成のもとに要求されるまま主張したら、ミヨーはこのように合理的にひびくものなのだ。その点ラヴェルなどの機械的な書法を思わせるところもあり、ミヨーが硝子職人ラヴェルと互いによきライヴァル関係にあり、鉄鋼職人オネゲルが六人組でプロの職人作曲家として唯一認めていたのもわかる気がする。オネゲルは低音域の弦をわかっていたからともかく、ラヴェルは完全にわけのわからない「パーツ」を受け持たせることがままあった。ミヨーはどちらかというとヴァイオリンからせいぜいヴィオラの人なのでラヴェル同様のところがある。補うのは解釈者と奏者の役割である。

インディアナ州のための音楽

◎作曲家指揮BBC交響楽団(bbc,carlton,imp)1970/9/21

3楽章の瞑想的な音楽の美しさよ!硬質なひびきが仄かな感傷性をはらみ、とくにヴァイオリンのかなでる高音ヴィブラートの美しさといったらない。BBC響の怜悧な響きが、逆に怜悧であるがゆえの蒼白い光彩をはなっているところが秀逸で、これは作曲家本人にしか為し得ない神懸かり的な技かと思わせる。長い楽章で、不協和音も頻出のアイヴズ風雰囲気音楽だが、素直に清潔で爽やかな空気感を楽しもう。重ったるいミヨーの
ハーモニーも、透明で軽いBBCの音で聞くと意外といけます。2楽章などもミヨーらしからぬわかりやすさがあり、完成度が高いのでおすすめ。4楽章のトライアングルも戦後ミヨーにしては新手で面白い。インディアナ州150周年記念作品。戦後ミヨーの書いたオーダーメイド的作品群のひとつで、一連の大交響曲群と似通った作風ではあるが、「4楽章の組曲」としての完成度の高さはさすがである。

プラハのための音楽

○作曲家指揮チェコ・フィル(multisonic)live・CD

交響曲第10番と共に録音されたもの。いい音で、ミヨーらしい折り目正しい演奏だが、曲もまたいい。管弦楽組曲的に見られがちな題名だが、むろん楽器の用法や旋律に皆無とは言えないまでも「~のための音楽」というのはたまたま受けた仕事にかこつけて「交響曲」という題名のかわりにつけられた即物的な命名方法に基づく、と「幸福だった~」に書いてある。言葉どおりに受け取って素直に交響曲として聴くとなるほど、しかも更にそれまでで「完結」したはずの大交響曲とまったく同内容の、いい意味でも悪い意味でも「ミヨーの常套的な型式音楽」になっているのが面白い。しかも既に数多の中でも出来はいいほうだと思う。3楽章構成だが、1楽章中のブラスの用法、それに伴う響きの饗宴が耳をひく。管弦楽法はいよいよ簡素化しリズム的にはユニゾンが目立ち一種型にはまった不協和音を重ねるという戦後ミヨーそのものの音楽だが、そこにもいつも、「一つ」違うものを挟んでくる。得てしてそれはシェーンベルクふうの前衛的なパセージであったりもするのだが、ここではチェコのブラスの音色を聴かせるため挿入された、ととって不思議はない、そこがヤナーチェクとまではいかないまでも、中欧的な硬質さを音楽にもたらし、南欧風のマンネリズムに陥らないで済んでいる。この1楽章、弦楽器なんかは常套的でつまんなさそうだが、耳には適度に新鮮だった。そのあとはますます常套的だがライヴであるせいか作曲家の権威のせいか、とても引き締まったオケの好演が目立つ。ミヨーは腐ってもミヨー、構築的なアンサンブル技術はしっかり要求し、ヒンデミット的ではあってもちっともヒンデミットではない聞き応えの結末まで面白く、弛緩なく聞けた。きっぱり短くしすぎたり、変に展開させすぎたりするものもある中、いいバランスだと思う。○。multisonicは録音データが明示されないことが多く困る。

4つのブラジル舞曲

○ストコフスキ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1944/1/9live

録音が近くて物凄い重い音!それこそ大砲を連射されるような感じだ。冒頭のペットからして強烈。重いし強いし前進力はあるし、まさにミュンシュを思わせる。一曲めはあきらかにストラヴィンスキーのバーバリズムを意識しており、ハルサイぽい音や楽想が頻発する。曲感は「男とその欲望」に近く、リズムと旋律の南米性はストラヴィンスキーと全く違う地平を指し示している。二曲目からミヨーらしさははっきりしてくる。一筋縄ではいかないのはやはり新古典末期のストラヴィンスキーの三楽章のシンフォニーや同時代英米圏の管弦楽曲の感じに近い。ただ、ストコは(というかNBCは)重い!書法のせいもあろうが、録音のせいもあろうが。最後のヴァイオリンの超高音の動きはミヨーの特許的なものだろう。三曲めはポルタメントが荒れ狂う。音色は明るく硬いが、録音が近いから生々しく迫力がある。四曲めは「フランス組曲」あたりの舞曲に近く、楽天的なミヨーらしさが完全に支配した楽曲である。物凄いわかりやすいのに現代的な書法のワサビもきいている。楽しめます。ただ、ミヨーマニアは何と言うかな。

「ニューヨークのフランス人」組曲

○フィードラー指揮ボストン・ポップス(RCA VICTOR)初録音盤

この演奏以外知らないので相対評価のしようがないが、ノリの良さを買って○ひとつとしておく。ただ、「ノリの良さ」とはいえこの曲は全くもってポップスの雰囲気を汲んでいない。もともとRCAビクターがガーシュウィンの「パリのアメリカ人」に対抗する曲としてミヨーに委属したもので(無論、”この”録音のためである)、当初からガーシュウィンとは対照的な異なる雰囲気の曲が求められていたようである。そして出来上がった音楽はいかにもミヨーらしい牧歌と複調性のおりなす心象風景、最初のほうなどガーシュウィンというよりアイヴズの情景音楽だ。ガーシュウィンのことをほとんど意識せず我が道を行っている。とても美しい明朗さ、肉太の快活さ、ミヨーの晩年作風の典型かもしれないが、ガーシュウィンとは「階層の違う」立派な曲。フランス組曲やプロヴァンス組曲に並ぶものだ。オケも当然のことながら好演。クラシカル・ミュージックの語法も難なくこなしている(まあ、主にボストン響のメンバーで構成されているのだから当たり前か)。フィードラーの俊敏な棒はミヨーの複雑な構造やリズム、楽器法も難なくクリアして曲の魅力を引き出している。もっと演奏されても、聞かれてもいい曲だ。

オパス・アメリカナム

~2番「モーゼス」

作曲家指揮ORTFのメンバー(CAPITOL)LP

陰鬱とした大管弦楽曲である。しょうじき聴きとおしても何か腑に落ちないような感じは否めなかった。大交響曲の晦渋な緩徐楽章をえんえんと聞かされるかんじである。それでもオネゲル風の構造の面白さや真面目な顔のミヨーを真摯に受け止められる局面もあるのだが、録音が古いのも手伝って少々辛い。別に演奏だけのことを言っているわけではないが、無印。

劇音楽「エウメニデス」前奏曲

○モントゥ指揮ボストン交響楽団の管楽メンバー(DA:CD-R)1958/7/25live

モントゥらしい脈絡無く詰め込まれたロシア&フランスプログラムの中の一曲で、とち狂ったようなチャイ4の後休憩を挟んで演奏されたものか。チャイ4同様性急かつ覇気漲り、このブラスバンド曲として単品で演奏されることの多い荒んだ楽曲を演じきり、上品なお客さんがたに少し戸惑いある拍手を促している。ミヨーでもコエフォールのようなかなりやり過ぎたあたりの作風に近く、それだけに楽天的なものは求めるべくもないが、モントゥの職人的なさばきがこういう曲に寧ろ向いているのではないかと思わせる意味でも貴重な記録。

バレエ音楽「屋根の上の牛」

○ゴルシュマン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(CAPITOL)LP

このてのメタ・クラシック音楽はたくさんあるが、ルーツをたどればミヨーあたりがその原流になるのでは。品のよい美しい音の楽団だが、薄いヴァイオリンあたりがフレージングにケレン味を出そうとしてポルタメントめいた「うにょーん」を入れているところなど面白い。なつかしい音色だ。ゴルシュマンはリズム感のしっかりした指揮者らしくそのテンポには乱れがなく颯爽とした歩みをしるしている。音は優しいがテンポ的には即物主義的
指揮者の範中に入る人だろう。○ひとつ。それにしてもこの雑音なんとかしてくれー(LP)。音も飛びすぎだ。

管弦楽のためのセレナーデ

◎スウォボダ指揮ウィーン交響楽団(WESTMINSTER他)CD

すごくいい曲!きよらかで抒情的で、いやミヨーは決して抒情の欠けた作曲家ではないのだが、音やリズムを重ねすぎて一般聴衆を寄せ付けない雰囲気を作ってしまっている事が多い。この人のどんな尖鋭な曲でも一声部の旋律を取り出して聞けば楽しく素直な抒情を歌っていることがわかる。一般受けするにはその歌の扱いかた、手法に問題があった(もちろんミヨーは一般受けを狙う事などしなかったろうが)。だがこの21年作品ではもう「春のコンチェルティーノ」に近い素晴らしく聴き易く耳に優しい音に彩られており、晦渋な響きは皆無に近い。この素直さはオネゲルの「夏の牧歌」を彷彿とする。南欧のあたたかい空気を感じることができる。演奏も素晴らしい。溌剌とした音楽は引き締まって且ついかにも楽しげに跳ね回っており、とにかくリズム感がいい。素晴らしい。このオケの本来の力量をつたえる水際立った演奏ぶりだ。乗りに乗りまくっていて、いつもの乱雑の微塵も無い。あるいはこのオケの好演のために曲が良く聞こえてしまうのかもしれない、とさえ思った。ミヨーでここまでのめりこむ曲・演奏には久し振りに出遭った。◎。ウィーン響ブラヴォー!

エクスの謝肉祭

マデルナ指揮ローマ放送交響楽団、ボジャンキーノ(P)(ARKADIA)1960/12/23LIVE

「サラダ」からの編曲。サラダは悪巧みの意味。ラヴェルが賞賛したバレエ音楽であるが、このピアノ協奏曲ふうの編曲の方が有名である。ただ、この演奏どうもソリストが鈍い気がする。また、オケもラテンのオケなのに遊びが無く、魅力に欠ける。ミヨーの音楽は「お祭り」だ。調性を失うほど派手に騒いでジャンジャンジャンで終わる、それでいい。この演奏は堅苦しさを感じた。まあ、曲も内容の薄い断章の堆積にすぎないものだし、そんなに深く考える音楽ではない。ミヨーを聞きなれた耳からすると典型的なミヨーであり、ジャズふうの楽想にいたってはいささかライト・ミュージック臭く感じる。真剣に聞くと馬鹿をみるので、遊びながら聞きましょう。無印。

バレエ音楽「世界の創造」

○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1953/7/26live

壊滅的な録音状態で酷いノイズが支配的だが、けたたましくも迫力のオケの表情がしっかり聞き取れそれなりに魅力がある。ミヨーが借りてきたようにジャズ表現を取り入れて、ガーシュインのシンフォニックジャズと共時的に制作したバレエ音楽だが、ここでは舞踏要素よりも、純粋に音楽的な魅力を刳り出し比較的透明度を保っているさまが新鮮だ。ミュンシュにはスタジオ録音もあったと思うのでこれを取り立てて聴く必要はないが、ライヴならではのひときわの集中力を味わうことはできる。○。

○ミュンシュ指揮?(DA:CD-R)1961LIVE

ミュンシュは基本的に4拍子の人でリズム系の楽曲には向いていない。しかし楽曲を自分のほうに引き寄せ直線的にとりまとめて換骨奪胎するのが無茶うまいので、このシンフォニックジャズふうのバレエ曲もアメリカ楽団の表現力の助けを借りておおいに楽しませてくれる。メロディの多いガーシュイン、といったていでパリの異国趣味を露骨に示した曲、それを異国の側から見事にハスッパにやってのけた。楽しいです。ミヨーじゃないけど。

ブラジルの思い出(ソーダード)

○ロザンタール指揮ORTF(INEDIT,Barkley)LP

薄く莫大なステレオ期ロザンタールらしい演奏。私にはミヨーの肉汁垂れ滴るような感じがちっとも伝わってこないので、ただすらっと長々しく聴きとおすだけになってしまった。繊細で美しい響きはよいがリズムの表現に難があるように思う。

○チェリビダッケ指揮シュツットガルト放送交響楽団(SARDANA:CD-R)LIVE

新古典主義的な面を強く打ち出した透明感のある響きが特徴的な演奏。特殊楽器の新奇な音よりもペットのアカデミックな響きや構築的な弦楽器の動きに耳が惹かれる。ポリリズムやポリフォニーが余り奇矯さを目立たせることなく、結果として凡庸な軽い曲に聞こえてしまうところがウマイだ
けに付けられるケチとなっている。ブラジルの熱気は微塵も無いのでご注意を。軽く聴くにはマジメすぎるしじっくり聴くには底の浅い音楽。ミヨーが苦手というかたにはいい演奏だろう。ミヨーだとシンフォニーをよく聞くというかたには、この構築的でしっかりした演奏は面白く聞けるかもしれない。雑然とした不協和音もここでは気にならない。「らしくない」ところが好悪分かつ気もするが。キレイなので○をつけときます。チェリの響きへの拘りを損なわない録音状態。

○チェリビダッケ指揮シュツットガルト放送交響楽団(GREAT ARTISTS/DA:CD-R)1979/10/31LIVE

録音時間が異なるため恐らくサルダナ盤とは違うもの。正規盤が出ていたかもしれない。録音は最悪。しかしチェリビダッケが何故この曲を得意としていたかわかるくらいには楽しめる。ともすると旋律とリズムだけに単純化された形で猥雑に演奏されがちなミヨーを、精妙な響きの作曲家として意識的に構築している。ミヨーの真価が伝わる演奏スタイルは、ただでさえ単純化される録音音楽を、楽器個々の独立し統制されたさまを体感させる生演奏に近づける。まあ、録音のいいにこしたことはないけど。オケは表記のまま。シュツットガルトか。ペットの高音が出てないところが気になる。○。

~「ラランジェイラス」

○チェリビダッケ指揮フランス国立管弦楽団("0""0""0"CLASSICS:CD-R)1974/9/17LIVE

サウダージかソーダードか、それとも端的に「思い出」か、けっこう訳しづらい題名ではある。リオ・デ・ジャ・ネイロの細かい地名や通りの名前、名所などのついた12もの小品により構成される即物的発想の曲で、ピアノ曲に序曲を加えて管弦楽編曲されている。ミヨーの代表作のひとつだ。
チェリのアンコールは1分程度の曲がいくつもいくつもやられてそのどれもがけっこうマニアック。これはフランスだからだろうか、チェリ自身も何度か取り上げている作品の断片をアンコールの一曲としてやっている。前後にラヴェルやストラヴィンスキー、ドヴォルザークがやられているわけだが、その中でもやはり強い個性を放っている。ミヨーはしばしば忘れられがちだがなんだかんだ言ってもフランス20世紀音楽の巨匠。ごつごつした調性同志の衝突、同時にふたつのリズムが進み独特の音響を醸す場面、それはしかしすべて南米の音楽体験をベースとしているので娯楽的に楽しめるようにはなっている。ミヨーの複雑で錯綜した音楽はじつのところチェリのような砥ぎ師に砥ぎ上げてもらうとその意図する所が明瞭な名演が生まれたろうに、残念。アイヴズのような混沌一歩手前の音楽断章、これは無難にそれほど盛り上がらずに終わるが客席の反応はいい。○。

~ピアノ版

○スコロフスキー(P)(COLUMBIA)LP

わりと著名な南米系作品であるが、しっかり落ち着いた表現でミヨーの内面的な部分を意外と的確に表現している演奏。サティよりも作風として確立している常套的な手法(ミヨーのピアノソロ作品の作風のすべてがここにある)によるとはいえ、魅力的な旋律の醸す儚げな楽天性の魅力は南米のリズムにのって、パリの社交界を彷彿とさせる都会的な不協和音を織り交ぜた抽象化をへたものになっている。古さもあってちょっと感傷的になれる演奏。けして旋律の魅力や民族的な舞踏リズムを煽るほうに逃げないどちらかといえばクラシカルなスタイル。なかなかに引き込まれる演奏ぶりで傾倒していることが伺える。ミヨーにレパートリーとして4番協奏曲をオーダメイドしてもらった気鋭のピアニストが同曲の裏面に収録したもの(作曲家自伝に記述がある)。協奏曲のみ最近CD化されたようだ。

二つの行進曲OP.260

~Ⅰ.思い出に(パール・ハーバーの日の)

○作曲家指揮コロンビア放送(CBS)交響楽団(CASCAVELLE/COLUMBIA)1947/1/8NY・CD

なんだか派手なブラスの響きでヒンデミットの戦後作品を彷彿とさせる感じで始まる、行進曲というより挽歌。基本的に分厚いミヨーの響きだが、リズムは単純で踏みしめるように進む暗いながらもどこか楽天性も無くはない音楽だ。だいたい主題が主題なので(戦後すぐ、1945/9/23-30 の作品)ひとしきり重厚に歌ったあとは静かにレクイエム的終結を迎えるのだが、ここはとても美しい。全編通して戦後作品らしく前衛性の微塵もない曲で、戦前の牧歌性も無く、後期ミヨーの典型的作風の発露といえる。演奏は手慣れている感じだが短くてよくわからない。カスカヴェッレはラヴェルやミヨーなどの貴重な歴史的録音を2年位前から続々と出してきていたがいずれも非常に高価なうえ大部分は再発なので今一つヒットしていない(それでも15分くらいのために買う私みたいなのもいるわけで)。まったく歴史的録音を所持していなくて、これからフランスを中心に集めようという向きにはお勧めではある。ANDANTEも似たような位置づけにあるが、あちらのほうはちょっと信用できないところがあるので言及は避けておく。ちなみにラヴェルやストラヴィンスキー集は殆ど他のCDの再発。

序奏とアレグロ(原曲クープラン)

○ゴルシュマン指揮セント・ルイス交響楽団(cascavelle/RCA)1941・CD

隠れたフランスもの指揮者として知られるセントルイス響の名シェフ、ゴルシュマンの依頼によりアメリカ到着間も無いミヨーが管弦楽に編じたクープランのサルタネスからの二つの抜粋。まったく古典的な書法で、アレグロに関してはやや分厚く、ブラスによりゴージャスな響きを加えているが、ミヨーらしい油っぽさや近代的美質は皆無といっていい。いずれにせよ後年は名教師としても知られたミヨーの名技のみが投入された作品といえるだろう。オークランドで二日で書き上げられた。演奏は嫌味が無くしっかりしたもの。

四季のコンチェルティーノ(1934/1950-53)

○ミヨー指揮ラムルーO、ゴールドベルク(Vn)他(PHILIPS)CD

「春」だけはゴールドベルクの記念盤CDでミヨー指揮オランダ室内o伴奏の演奏がきけます(後註:全曲盤もCD化しました(2003年))。ゴールドベルクの硬質の音がミヨーの生暖かい音響をすっきりとまとめて、春の未だ霜のおりる朝の情景のように、ひんやりとしていても陽の温もりを感じることの出来る清浄な印象を与えます。ミヨーの紹介版として格好の曲です。ジャズ風のフレーズも明るくきれいに決まり、キラキラ流れて実に格好良い。他の季節も各々独奏楽器を立てたコンチェルティーノになっていますが、それらはやや時代が下りミヨーが複雑化していったころの作品であるため,耳ざわりのよさでは「春」と比べようがありません。このLPは当初モノラルで発売されましたが、国内ではステレオで出ました。

ヴィオラ協奏曲第1番

○ルモイン(Va)ロザンタール指揮ORTF国立管弦楽団(FRENCH BROADCASTING PROGRAM)LP

近代ヴィオラ協奏曲の隠れた名作と言われ新古典的な趣はストラヴィンスキーよりはやはり同曲の立役者ヒンデミットを思わせる。ただ先すぼみの感も否めず、牧歌的な1楽章においてもヴィオラの音域が浮き立ってこず音色の魅力も余り引き立たないように思った。30年代くらいのミヨーは可聴音域ギリギリの超高音で旋律を響かせその下でメカニカルな構造を面白く聞かせていく魅力的な方法をとっていただけに、更に音盤にあっては高い音が引き立たないとよくわからない音楽に聴こえてしまう。このソリストも力は感じるがそれほど魅力的ではない。ロザンタールが意外ときびきび動きを聴かせて来て、そこは魅力になっている。第二番のまだ作曲されていない50年代前半のモノラル放送用録音か。

ピアノ協奏曲第1番

アントルモン(P)作曲家指揮パリ音楽院管弦楽団(cbs/towerrecord)CD

ミヨー自作自演の新録は若きアントルモンとの競演。ロン盤に比べて遅くもたつくようなテンポ感があり、録音も(ステレオのせいでもあるが)拡散気味で、ミヨーの和声的に噛み合わないアンサンブルの妙を聞かせるには少々音場同士が遠すぎる感がある。じっと聞けば特にイマイチな2楽章でも繊細な音色の世界を感じることができないことはなく、決して悪くはないのだが。両端楽章はこの曲を特徴付けるじつに敏捷で無邪気な楽章だ。明るく旋律的な音楽は初期ミヨーらしさ全開で、ミヨーのプロヴァンス風牧歌が好きな向きには堪らないものだ。多数のピアノ協奏曲の中でこの嚆矢の曲が一番受けるのもそういった素直さが原因だろう。ただ、あまりに素直すぎて飽きるのも確か。そうなるとソリストがどのようにもってくるか次第だが、アントルモンはやや生硬で解釈にキレがない。指先の細かいニュアンスが無く、そのまま音にしているような感じがする。全般に、ミヨーにしては素直すぎる曲がゆえに演奏を立派にゆっくりやった結果底の浅さが見えてしまった、そんな感じを受けた。でもこの曲、親しみやすさのみならずちょっと聞いただけでミヨーとわかる独自性はラヴェルの作品に比肩しうるものがあり、フランス近現代ピアノ協奏曲の系譜の中にも確実にその足跡を残したと言えると思う。ようは演奏次第でしょう。無印。

○ジャッキノー(P)フィストゥラーリ指揮フィルハーモニア管弦楽団(naxos他)1953

テンポ取りなどややたどたどしさを感じる。ミヨーの特殊性を意識せず古典的な協奏曲をやるように正面から取り組んだ結果のようにも。モノラルというとどうしてもロンの演奏と比べてしまうが、細かいリリカルな表現にはオケもろとも惹かれるものの、何かプロヴァンスではない、北のどこかの協奏曲に聞こえる。アントルモンのようにやたら派手に一気呵成に攻めるのが良いとも言わないが、半分は篭りがちな録音のせいと思うが、勢いや説得力が足りない気もした。オケは上手い、美しい。ソリストも繊細で技巧に陰りはない。○。

ピアノ協奏曲第4番(1949)

○ザデル・スコロフスキー(P)、作曲家指揮ORTF(COLUMBIA他)

~この曲は壮麗な第4交響曲の後、弦楽四重奏曲第14、15番(一緒に演奏すると八重奏曲としても「いちおう」演奏可能)と前後して書かれた作品。アメリカ時代以降の典型のようなところがあり、多くの弦楽四重奏曲と同様、折角魅力的な旋律と明晰な和音が、複雑なテクスチュアの中に沈殿し結局かなり晦渋な印象を残す。オネゲルのチェロ協奏曲あたりを思わせるところもある。 1楽章ではいきなりの律動的なソロ、対してヴァイオリンのピチカートにはじまるバックオケの煌くような音響的伴奏が鮮烈な印象を与えるものの、曲想は複雑怪奇となり、わけがわからなくなってゆく。ヒンデミット張りに疾走しつづけるソロと対位的な構造の豊潤さにだけ耳を傾ければ面白く聞けるだろうが(3楽章も同様)、 1番にみられるような素直な美感は失われているといわざるをえない。依属作品としてやや軽く書き流したのかもしれないが、それにしては2楽章の晦渋な重みが少し奇異にもおもう。ミヨー好き向きの作品とはいえるが一般向けとはいえない。同盤2003年CD化済。(2005以前)

焦燥感のあるピアノの雪崩れ込みからいつもの牧歌的なミヨーが高音部で鳴り響く。高音部が管弦楽によって前期ミヨー的な暖かな音楽を繰り拡げるいっぽうで中低音域のピアノはひたすら動きまくる。依属者らしく表現に不足はなく危なげなく強靭に弾きまくる。せかせかした音符の交錯する結構入り組んだ楽章ではあるがさくっと終わる。2楽章は低音ブラス合唱で始まるこれもミヨーらしい人好きしない前衛ふうの深刻な音楽だが、ソリストは繊細な表現で音楽の無骨さを和らげている。3楽章は比較的有名なメロディから始まる楽天的な音楽で、打鍵の確かなこのソリスト向きの打楽器的用法が印象的である。喜遊的な雰囲気はミヨーの手馴れたオケさばき(必ずしも最高ではないが)によって巧くバリ弾きソリストをかっちり組み込んだ形で保たれていく。リズムが明確で押さえどころがしっかりしているゆえ、ミヨー演奏の陥りがちなわけのわからない冗長性は免れている。テンポ変化はほとんど無いが、そもそもそういう曲である。作曲家の職人的な腕による手遊びを楽しもう。○。(2008/5/9)

律動、律動、スコロフスキーは流石依属者、嬉々として技巧をきらめかせている。

「ダリウス・ミヨー~幸福だった私の一生」別宮貞雄訳音楽之友社刊(1993)は 20世紀フランス音楽を語るうえでは見逃せない書籍だ。同時代の貴重な証言に満ちており、作品表含めて資料的価値は計り知れない。その279、80ページにこの作品についての記述がある。ミルス・カレッジのミヨーのところへ紹介を受けてやってきた若いヴィルツオーソ・ピアニスト、スコロフスキーが未出版のピアノ協奏曲を欲しがったので、この作品を書き上げた、と簡単に記されている。「それを彼は何度も演奏し、次の冬にパリで、私の指揮で録音しました」そのLP化がこの緑ジャケットのレコードだ。人気曲「ブラジルのソーダード」のほうが大きく記されているけれども。この記述直前に触れられている弦楽四重奏曲第14、15番+「八重奏版」の録音も同じcolumbiaでLP化されている。ブダペスト四重奏団がレシーバ耳に録音した涙ぐましい話しは別項に置いておく。

ピアノと管弦楽のための5つの習作

○バドゥラ・スコダ(P)スウォボダ指揮ウィーン交響楽団(WESTMINSTER他)CD

この曲もいい曲だ。ピアノの音線は感傷的で、選び抜かれた最小限の音符で密やかな美をうたっている。習作とはいうが確かにミヨーらしくない不思議な感傷性を感じさせるものも織り交ざる。しかしそれらを総合してみると、サティという作曲家の姿が浮かんでくる。これはサティの延長上のピアノ曲なのだ、と半ば確信めいたものを感じた。ミヨーのピアノ曲にサティが色濃く影を落としているのは周知のとおりだが、サティよりも美しい
旋律と暖かな感傷性をあわせもったミヨーの真骨頂を見る思いだ。スコダのピアノもじつに要領を得た演奏で、音楽の前進性は際立っている。オケは多少晦渋ないつものミヨー節も聞かれるが短い曲ゆえそれほど気にはならない。 ○。

田園幻想曲

○アンダーセン夫人(P)スターンバーグ指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(OCEANIC)LP・初演者初録音

10分程度のプーランクふうの散文詩だが、ミヨーの職人的なピアノ協奏曲にみられる硬質の響きと機械的な律動が後半目立ってきて、興味深いところもある。美しい六人組的楽想がピアノのとつとつとしたソロに沿うように展開されていき、穏やかだが思索的で、演奏もミヨーらしさを殊更に強調するわけではなく、抽象的にすすめている。○。

マリンバ、ヴィブラフォーンと管弦楽のための協奏曲

○チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル、ピーター・サドロ(M,V)(EMI)1992/4/16,17LIVE・CD

チェリの手にかかるとミヨーやルーセルもここまで綺麗に磨かれるのか、という見本のような一枚。両者とも響かせにくい過度に重ねられたハーモニーが特徴だが、チェリの響きへの拘りは余りにあっさりそのくぐもりを取り去って、透明な音響に仕立ててしまった。ミヨーにおいてはそこがとても素晴らしく垢抜けた印象をあたえ、ミヨー本来の田舎臭い野暮ったさが全く感じられなくなる。そこが大きな魅力だ。二回の演奏会のツギハギとはいえライヴでこの精度は尋常ではない。ルーセルの録音には少し無粋な硬さも見え隠れしたが、こちらでは実に気持ちのよい清々しさのみが感じられる。ここまで立派に表現されるとは、草葉の陰のミヨーも照れくさかったろう。これはミヨーのプロヴァンス風味たっぷり盛られた牧歌的作風によった作品であり、やや長々しいが、聴き易い曲である。特徴はやはり二つの鍵盤打楽器の導入であり、木と金属の硬質な響きがミヨーの柔らかな抒情に異質の怜悧な刺激をあたえ、長くぶよぶよしがちな音楽を引き締める役割を巧く果たしている。ただでさえ硬質に磨き上げられたチェリの音楽にこの打楽器の響きは加速度を与える。これはもうミヨーではないかもしれない・・・。とにかく楽想の割に長い曲なのでチェリの熱して前進することのない比較的遅い解釈では、最後には飽きる可能性がある。縦にぎっちり揃えられた音楽は決してフランス的な美質を持てていないわけではないのだが、ミヨーの洒脱を期待すると、どこか違和感がある。非常に盛大な賞賛を受けた演奏であり、私もこの完成度というか立派な構築性には大きな評価をつけるべきだとは思うが、◎をつけるのには躊躇させるものがある。涙をのんで○。

オーボエ協奏曲

○ヴァンデヴィル(Ob)スーザン指揮ORTFフィル(barclay,INEDIT)LP

比較的晩年の作品で筆のすさびのようなものの多い中、協奏曲と言う点を除けば無難な牧歌的小品に仕上がっている。

協奏曲のジャンルに並ならぬ情熱を注ぎあらゆる楽器の組み合わせで書いていたミヨーだが、いずれの作品も楽器をよく知り特質を引き出しつつも自分の作風をはっきり打ち出すという高度なわざを見せ付けるものになっているが、ここでもオーボエという楽器の懐かしく輝かしい音色を技巧的パセージを織り込みつつも表現させてゆく手腕が鮮やかである。

ヴァンデヴィルは舌を巻くほど上手い。相対的にバックオケが貧弱過ぎると思えるほどにである(音はどちらとも暖かくよい)。終楽章などオーボエなの?というような技巧的なフレーズも気合一発吹き飛ばしている。明るく軽快な演奏を楽しめる。○。

ハープ協奏曲

○マーン(hrp)P.ミュール指揮ORTF(FRENCH BROADCASTING PROGRAM)LP

ミヨーのえがく南欧の牧歌がハープの神秘的な典雅さを身近な調べに見事に変換して美しくやさしく聞かせている。ミヨーの作風はもうワンパターンの安定したものだが同時代の円熟した作曲家たち同様楽器の組み合わせや新しい響きの導入によって幅を持たせようとしており、たんなるドビュッシーの末裔ではない。わりとしっかり長めの形式的な作品である点にも仮称反ドビュッシイストのリアリズムの反映が聴いてとれる。演奏はクリアがゆえに少し音が鋭過ぎて、浸るべき曲なのに浸れないもどかしさがあった。録音もよくない。

つづく
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ミヨー 交響曲 (2012/3までのまとめ)

2012年04月18日 | Weblog
<(1892-1974)ロシア五人組を模して評論家が名づけた所謂「フランス六人組」の旗手。エクス・アン・プロヴァンスのユダヤ人集落に生まれ、パリに出て流行の印象派音楽にアンチテーゼを唱える若き作曲家集団の中心となる。反ドビュッシストと目された単純の作曲家にして、ダダイストの祖
エリック・サティを理念上の師としたジャン・コクトー周辺では、最もサティに近しかった存在であり、「家具の音楽」の共同作業に象徴される前衛的な気風を最も受け継いでいる。ピアノ曲にはほぼサティに倣ったような曲もみられる(但しこの時代ラヴェルを始めとしてサティの影響範囲は広かったのだが)。サティ自身のエピゴーネンを忌み反骨精神を貴ぶ考え方は、即物的で新古典的というだけで、作風がバラバラの六人組のゆるやかな結束にマッチした考え方であった。ソーゲやデゾルミエールの「アルクイユ派」のサティ取り巻き的様相とはまったく異なる。ストラヴィンスキーやシェーンベルクにも深く傾倒していたが、ミヨーの個性を根本的に変えるものにはならなかった。また、歌唱を伴う曲ではドビュッシーの影響も指摘される。反ドビュッシイストのレッテルはミヨーに限って言えばあてはまらなかったのだ。

ミヨーの得意とした複調性に代表される新鮮なハーモニーや、ポール・クレーデルの秘書として渡った南米での音楽経験を肥やしにした、自由で楽天的な旋律の創造は、ラヴェルの言葉を借りればまさに天賦の才と呼べるものであった。あらゆる分野のあらゆる規模の曲を残した多産家であるが、頂点は初期の6人組時代前後にあったともいえる。単純化・古典/アルカイズムへの傾倒があらわれた、短編歌劇や室内交響曲などごくごく短い曲の群れは、類希な美しい芸術的結晶であり、其の時代のフランスにおける最も優れた作品群である。反じて言えば作曲活動開始時よりほぼ独自の作風を確立していて、長い生涯はその純化や複雑化の循環に終始していた。とくに後年戦争のためアメリカに避難して後は、ロマンティックな傾向が強まるのと並行して凡作が増えたようである。戦後パリ音楽院に復帰したときにはすっかり時代遅れであり、メシアン門下のブーレーズらから攻撃される側にいたように感じるが、著作を読む限り晩年まで現代音楽に非常に好意的で、自身の作風とは別物であったようだ。教育者としてもヒンデミットとならび非常に優れており、日本人作曲家も多数学んでいた。 >

交響曲第1番(1939)

○作曲家指揮 CBSso(cascavelle/columbia他)CD

このプロヴァンスの作曲家は膨大な数の作品を残しているし、20世紀音楽史上にも名を残した人物であるにもかかわらず、その音楽はマニアとプロ以外には殆ど知られていないのではないでしょうか。CDにしてもフランス6人組時代の喜遊的な表題音楽が、「ジャズの影響」「ラテンのリズム」と称して出る程度。弦楽四重奏曲など純音楽指向の曲もたくさんあるので、もっと聞かれて欲しい、と思います。交響曲については、小交響曲と題されたミニアチュールが集中的に書かれた後、円熟期より本格的に取り組まれたもので、晩年まで15曲位(?)作曲されました。分かりやすさという点では、1桁番号のもののほうが良く、番号が若いほどみずみずしい感性が溢れた才気溢れる歌を聴くことができます。1番は冒頭のフルートソロから古雅な雰囲気を漂わせ、春の陽のように美しい曲想は小交響曲1番によく似ています。旋律の流れを時折不協和音が横切るところは好悪別れると思いますが、私などはエリック・サティの思想の昇華といった好意的な聞き方をしてしまいます。各楽章に共通する楽想はなく、全体に組曲風ですが、総じてある種の心象風景を描写したようでもあり、RVWの田園交響曲に共通する思考の発露すら見出してしまいます(出てきたものは全く違いますが)。新古典的といいながらはっきりとした古典回帰はなく、「空想の古典主義者」といった趣であります。終楽章は対位的な構造を用いながらも独特の複雑なハーモニーを乗せて、祭典の気分を盛り上げています。LP時代にはミヨー自身の指揮のものがありました。4番8番の組み合わせでエラートから出ているCDもお勧めです。他3、10番と小交響曲が2組までは確認していますが、他にも振っているかもしれません。(註:1番自作自演盤は2003年CD復刻した)

交響曲第2番

○ツィピーヌ指揮パリ音楽院管弦楽団(EMI)1953/11・CD

かつて日本では協奏曲の伴奏指揮者としてのみ知られる知る人ぞ知る存在であったが、比較的多数の録音を残したモノラル期の名匠であり、EMIの復刻は再評価への恰好の指標となるものである。ドイツ偏重のこの国にもこれら復刻によってフランスやラテン諸国の十字軍指揮者への評価が一過性のものではなしに定着すればいいのだが。

手堅いながらも非常に計算された演奏で、散漫でアイヴズ的カオスを呼びがちなミヨーの音楽に一本筋を通している。複調性によるフレーズも聞きやすい響きに整理され、繊細で牧歌的な色彩を強めている。2楽章あたりの硬質で烈しい楽想もオネゲルふうに緊密に仕立てられ飽きや理解不能といった事態を避けることに成功している。リズムにみられる南米ふうのズラしは余り強調されないが、このスタイルにはそれが正解だろう。半音階的な奇妙な旋律も奇妙と感じさせないまっとうさに○つけときます。

交響曲第3番「テ・デウム」

ロジェストヴェンスキー指揮ロシア国立交響カペッラ(OLYMPIA)1993/4LIVE

現役盤(CD)としては自作自演盤があるのみだと思う。神秘を孕んだ2楽章がいい。1楽章はどことなく野暮ったく、ミヨーの欠点とも言うべきぶよぶよな面が強調されてしまった感があるが、緩徐楽章における合唱の教会音楽的効果が印象的だった。オケがコレなので、どうにも今一つノれないのだが(たぶん演奏者たちもあまり乗り気ではない)、この楽章だけは別、です。3楽章パストラレ、あまりに南仏の雰囲気が「無い」ためがっくり。もっと暖かく、もっと軽やかな音楽のはず。妙にハマっている木管が唯一救いであった。終楽章もまあ原曲がコレなので(さっきからこればっかりや)、無難にこなした、といったふう。才人ロジェストヴェンスキーもわざわざこんな曲を持ってくるとは恐れ入った。このひとのフランスものは悪くないので期待はしたのだが、ライヴではこれが限界なのだろう。無印。オケ名は国立交響楽団と国立室内合唱団の総称とのこと。

交響曲第6番

○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(WHRA)1955/10/8LIVE・CD

ミュンシュはオネゲルばかり振っていたわけではなく、ルーセルとともにミヨーも好んで演っていたと言われる。ミヨーは構造的にオネゲルより緩く聞きづらさもあるように思われるかもしれないが、決してアマチュアリスティックだからではなく、先鋭な響きや複雑な運動性を大胆な持論で実現しようとしていたからこそ、座りの悪さや聞きづらさ、疎密の粗さを感じさせる部分が混ざるだけである。保守的な態度を示した交響曲など平易な趣旨の作品では、おおむねそつのなさが美しくあらわれ楽しく収束する。ミュンシュは意外と勢いだけでやっているわけではなく、フランスの作品ではスコアにあらわれる響きの繊細な交感をとらえ、演奏上適切に整理して提示する。ラヴェルくらいになると整理できない複雑さがあるため強引な処理がみられることがあるけれども、精密さにそこまで重きが置かれていないミヨーでは、無造作なポリトナリティを絶妙のバランスで調え、これはしっかりかかれているポリリズムはしっかりなおかつ弾むような明快さをもって表現し、ミヨーの「難点」に滑らかな解釈を加えている。この曲は田園ふうの雰囲気が支配的で聴きやすいので、ひときわ演奏効果があがっている。緩徐楽章にはくすんだミヨーらしい重い楽想が横溢しているが、さほど長くないことと、これは少し適性の問題かもしれないが、北の内陸のほうの曲をやるときのミュンシュのようながっちりした構築性が、ミヨーの意図を直接汲めているかように板についている。最後の壮麗な盛り上がりはミヨーの交響曲録音ではなかなか無い感情的な表現でききもの。ただ録音は悪い。せっかくプロヴァンス的な旋律から始まる一楽章も、無造作に始まりデリカシーなくきこえる(録音のせいだけでもないか)。○。

メスター指揮ルイスヴィル管弦楽団(FIRST EDITION)1974/11/12・LP

不思議な魅力をもった曲でいつものミヨー節(物凄い高音でトリッキーなリズムの旋律をきざむ弦と低く斉唱するブラスといったかんじ)ではなく中欧的であり、もろヒンデミットふうでもある。ミヨーはシェーンベルクに惹かれていた時期があり弦楽四重奏曲にはかなり影響を受けた硬質な作品も残されているが、その部分がとくにこのような「どっちつかずの団体」によって演奏されると浮き立ってくる。フランス人がやったらこんな演奏にはならないしドイツ人だったらまた違うだろう。非常に工夫の凝らされた曲なのだが、演奏、いかんせん下手だ。合奏がなってないし、流れも悪い。盤数をこなすように録音していた指揮者・団体のようで、これは同年の半年前くらいになくなったミヨーを偲んだものと思われるが、アマチュアっぽさは否めない。指揮者も同様である。印はつけられません。

○プラッソン指揮トゥールーズ市立管弦楽団(DG)1992/10・CD

有名な録音で出た当初は決定版の趣すらあった。ミヨーの「田園」である。まあ、これまでもミヨーは田園ふうの大交響曲(少なくとも楽章)はいくつも書いてきているわけで、これだけを田園と呼ぶのは相応しくないかもしれないが、古典的な4楽章制でありながら、気まぐれな楽想がただ管弦楽だけにより綿々と綴られていくさまは自然の移りゆく様を彷彿とさせ、牧歌性をはっきりと示している。いきなりミヨー特有のヴァイオリンの超高音の煌くところから筆舌に尽くしがたい美観を魅せ、ヒンデミットに近い管楽器の用法には古雅な音色が宿り、いつもの「踏み外したミヨー」は殆ど姿を見せない。構造的にも円熟したものがあるがそれは余り重要ではなく、素直に聴いて、プロヴァンスの大地にひろがる広大な畑のビジョンを受け取り、ウッスラ感傷をおぼえる、それだけの曲なのである。それ以上もそれ以下も必要ない。プラッソンはゆったりとしたテンポで、繊細な音の綾を紡いでいく。ミュンシュとは対極の「印象派的な」表現である。晦渋な主題にも余り暗さが感じられない。終楽章もミヨー的なあっさりした断裂は無く自然に終焉するように盛り上げられる。オケは上手い。というか、曲をよくわかって、それにあう表現をとっている。解釈がやや茫洋としているため交響曲というより組曲であるという印象がとくに強くなってしまっていて、そこに違和感がなくはなかったので○にするが、本格的なミヨー入門としては相応しい出来だ。

交響曲第7番

○フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(cpo)CD

ミヨーの人好きするほうの交響曲といえる。晦渋な部分は殆どなく、新古典にたった合奏協奏曲的な音楽は緻密で胸のすくような聞き応えがあり、自在な旋律が複雑なリズム構造をまじえ魅力をはなっている。ミヨーの旋律はときどき失敗するがこの曲の旋律は素晴らしい。形式に縛られたような構成感は好悪あるかもしれないが、普通の人には面白いだろう。オケは個性はちょっと弱いかもしれないが透明感ある響きと技巧レベルは十分。

○プラッソン指揮トゥールーズ市立管弦楽団(DG)1992/10・CD

掴みが完璧なミヨーの傑作。この並びの交響曲群は初期の不格好な前衛性や末期に表題的に交響曲名称を避けただけの才気が職人的技法に凌駕される頃と比べても、構成はややワンパターンだが聴きやすい。演奏も透明でミヨーを邪魔しない。○。

交響曲第10番

作曲家指揮チェコ・フィル(multisonic)1960年代live・CD

分解して聞けばわかりやすく頭の体操的に楽しめる曲なのだが、まあ、曲が悪いと言うべきか指揮技術の問題と言うべきか、かなり崩壊的な演奏である。とくに1楽章は無茶な装飾音が旋律線を崩壊させ、無闇に縦を揃えようとする余り却って各声部がバラバラになってゆくさまが痛々しい。音程が狂うのも仕方ない跳躍的な展開が多くヴァイオリンは特に大変だ。結果としてタテノリなだけの物凄くたどたどしい演奏になっている。装飾音は個々人の表現は綺麗ではあるがまとまらず、また残響の多いホールのせいもあって細部が殆ど聞き取れないのが痛い(クリアなモノラル録音ではある)。ただ、この残響のおかげでなんとなくごまかされて聞けてしまう部分もあると思う、一長一短だろう。リズムのズレだけはごまかしようが無いが。緩徐楽章は心象的で硬質な響きがモダン好きミヨーの感覚未だ新鮮なところを聞かせて印象的である。チェコ・フィルを使ったのは正解(技術的にはアメリカのバリ弾きオケのほうがよかったのだろうが)、金属質で抜けのいい音がすばらしく美しい音風景を形づくっている(部分的にはこの楽章に限らないが)。3楽章になると入れ子的な構造が面白く、まあ殆どヒンデミットなのだが、厳しく叩き付けるような打音で縦を揃えたのがここではきっちりハマってきて耳心地いい。スケルツォ的表現の中に寧ろ安心して聞けるものがある、ミヨーならではの逆転的な感覚だ。4楽章フィナーレではスケルツォと違い横の流れが必要になってきて1楽章同様ぎごちないリズム処理に弾けてない装飾音がひたすらのインテンポに無理やり押し込められていく。その軋みが音程の狂いとなって全体を崩壊させてゆく。フィナーレ前の静寂にヴァイオリンが一生懸命左手で音程を確かめている音が聞こえるが、この無茶な高音多用では全楽章を通してその繰り返しだったのだろう。結局ほんとにわけのわからないクラスター状の音楽のまま断ち切られ終了し拍手と僅かに戸惑いの声が聞かれる。新ウィーン楽派的であったりプロヴァンス民謡的であったりといった(ミヨーにとっての)同時代要素がぎっしり緻密に詰め込まれているがための雑然~まるでいくつもの美しい原色の絵の具を点描にせずぐちゃっと混ぜ合わせたら灰色の汚い色になってしまったような感じ~が残念だ。これはしかし、ほんとにちゃんと音楽に仕上げるのは演奏技術的にそうとう大変である。机上論理の産物であることは否定できない。でも、現代なら可能だろう。曲が面白いのは確かで、もっと録音が増えてくると真価が認められるものと思う。

○フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(cpo)CD

全集盤の一枚。よく整理された分析的な演奏で、透明感や細部の仕掛けの聞き易さに一長がある。美しい反面勢いに欠け(もっとも三楽章は素晴らしく愉悦的)、ミヨー自身が強調していたメロディを始めとする曲の聴かせどころが明確でないところや、弦楽器の薄さ(じっさい本数が少ないのだろう)も気になるところだが、全体のバランスがいいので聞きづらいほどではない。戦後ミヨーの職人的なわざが先行し実験性や閃きを失った、もしくは単にオーダーメイドで流して作ったというわけではない、しっかりした理論の範疇において交響曲という分野で4番で確立した自分の堅固な作風を純化していった中でのものであり(ヒンデミットを思わせる明快な対位法がこのようなしっかりした構造的な演奏では非常に生きてくる)、アメリカのアカデミズムにあたえた影響を逆手にとったような響きがいっそう際だっている点はこれがオレゴン州100周年記念作だからというより元々の作風の純化されたものという意味あいの中にあるにすぎない。余りにあっさりした断ち切れるようなフィナーレも元々旧来のロマン派交響曲の御定まりの「形式感」に反意を持っていた証であろう。もっとも単純にこの曲の四楽章の落としどころを失敗しただけかもしれないが。録音秀逸。ミュンシュらやミヨー自身のやっていた流れ重視の主観的な指揮とは違う、繊細な響きと構造の明快さの魅力がある棒だ。○。

○フルニエ指揮ヴェルサイユ管弦楽団(ARIES)LP

恐らくライヴ。引き締まったリズミカルな演奏でミヨー自身の演奏スタイルによく似ている。細部はともかくちゃんと押さえるところ押さえているので楽曲の把握がしやすい。聴き所のスケルツォ的な三楽章などなかなか面白く仕上がっている。四楽章は勢いに流されてしまった感もあり雑然としてやや凡庸だが、ライヴだから仕方ないかと思う。全般「誰かと置き換え可能な演奏」だとは思うが、この曲の数少ない音盤としては価値があるだろう。二楽章などの静謐さの描き方はやや要領を得ない。四楽章の途中でハープ等から出てくる音列技法的な主題は、委属元であるまんま「OREGON」の文字を織り込んだものとミヨー自身が言及している。こういった名前を織り込むやり方は古来特に珍しいものではなく、現在ショスタコーヴィチの専売特許のように見られがちなのは何か変な気がする。フランセもそうだが、わかりやすい楽曲に突然無調的な静謐な音列が導入されると、曲にワサビがきくというか耳に残りやすくなる。この演奏では旋律性と強引な流れがある程度重視されているがゆえに、そこだけに流される凡庸な印象というものが、無調的主題により覆されるというのは逆説的にミヨーの作曲技法の巧さでもある。晩年作では比較的有名であるのは、単に演奏録音機会が多かっただけでもなかろう。

交響曲第11番「ロマンティック」

○フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(CPO)CD

全集の一部。ミヨーもこの頃には依属による作曲が多くなり、最終的に交響曲の名を捨てて「~のための音楽」という露骨な皮肉な?題名の曲を量産することになるわけだが、これはダラス交響楽団とダラス・パブリックライブラリーの共同依属作品である。当然初録音だが初演はクレツキ。内容はけして過度にロマンティックに寄っているわけではない。アメリカ新ロマン主義に近い表現はあっても複調性による独特の響きと、これは新たな試みの一つとして投入されているようなダンサブルなリズムがミヨーという未だ挑戦的な作曲家の刻印を刻んでいる。もっとも、型にはまった戦後様式、という主として「内容」にかんする評は変わらない。3楽章制をとっている。演奏は立派である。ちょっと硬くて冷たい感もあるが、ジュネーブで亡くなったミヨーが目指したものに近いところがきっと、この演奏にはあらわれている。○。

交響曲第12番「田舎風」

○フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(CPO)CD

全集の一部。カリフォルニア大デイヴィス校農業科の依属により作曲されたものだが、パストラルから始まる短い4曲にもかかわらず、昔の小交響曲にみられた牧歌的雰囲気は薄く、わりとラジカルな印象をあたえる。複調性のミヨーというイメージにとらわれない新鮮な書法もあらわれる。演奏は過不足ない。

小交響曲

~第1、2、3、5番

○作曲家指揮ミュージカル・マスターピース室内楽団(MMS他)

頒布盤で出ていたモノラル録音でCDになったことがあったような気がする。楽団名は臨時のもの。わりとクリアな音で迫真味がある録音。楽団は緊密でみな力がある。いかにもフランスのアンサンブルの音を、牧歌的な曲想の発露のなかで愉快に楽しめる。曇った響きの曲も愉快。後年のステレオ録音全集よりミヨー自身の指揮もアグレッシブで前のめりなテンポだ。抜粋だが価値はある。○。 voxにステレオ全曲別録音あり。

~第1~5番

○ロジェストヴェンスキー指揮レニングラード・フィルのメンバー(MELODIYA/WESTMINSTER)

恐らくCD化されている。合唱入りの6番を除く五曲が収録。同曲の早い時期の録音であり古い人には馴染みのある盤だろう。一番いきなりのゆったりスローテンポでびっくり。しかしさすがオケが違う、指揮者の粗さや激しさが抑制され非常に繊細なアンサンブルが聴く者を引き付ける。極めて美しく、しかし空疎さがなく、暖かい。ミヨー特有の重層的な響きも美観を損ねないように精密に解釈されている。◎に近い○!

つづく
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ガーシュイン ラプソディ・イン・ブルー(グローフェ編)(2012/3時点でのまとめ)

2012年04月17日 | Weblog
○作曲家(P)ホワイトマン指揮彼のオーケストラ(PADA他)1924アコースティック録音・CD

依属者コンビは2録音が知られいずれもbrilliantの集成ボックスに復刻されていたかと思う。これは古いほうだが、ガーシュインの録音は非常に人気が高いせいか、様々なノイズリダクションが様々な人によって試みられており、かなりよい録音当時の状態に近いと思われる音質の復刻を耳にすることができる。作曲家はしゃっちょこばっており録音を意識した機械的なピアノを駆使し、バックもジャズとは思えないリズムの硬直ぶり、踏み外さない表現が際立っている。テンポも録音条件にあわせた速いインテンポ。ただ、そうであるからこそ音色で勝負している。冒頭のクラリネットから赤銅色の古きよき音がベニー・グッドマン様式とは違う、下品と上品の合間スレスレの感情を駆り立てる。編成を絞ったバックのいずれのソリストも、厳しく引き締めにあいながら、ただ音の質だけで起伏を作っていくのだ(この録音時期では音量による変化も期待しえない)。ピアノだって音色勝負である。もちろん、復刻により改変されそう聴こえるよう整えられたせいもあろう。しかしこれは、ポール・ホワイトマンの提唱したシンフォニック・ジャズの本質を今一度意識させるような記録であり、ガーシュインの天才がそこに注ぎ込まれた結果である。音作りは硬めなのにやわらかい印象を与える、こういう中庸のジャンルが当時あった。今はどっちかに別れている。○。

○作曲家(P)ホワイトマン指揮彼のコンサート・オーケストラ(pearl他)1927/4/21NY・CD

有名な由緒正しい録音で超廉価ボックスに入ったこともある。至極一本調子で即物的だが(特に有名な叙情主題があっさりハイテンポで弾き抜けるところはびっくり!収録時間の関係かもしれない)力強い。20年代の録音としては非常に聞きやすい復刻と言えるだろう。ノリまくるというわけでもないが、ガーシュインの主として細かいテンポ操作における巧さが目立つ。まあ、クラ的にそう固く言うより、即興的な謳いまわしが絶妙、と書いたほうが正しいか。聞いて損は無い演奏。○。決してジャズ寄りではない。

〇リスト(P)ハンソン指揮イーストマン・ロチェスター管弦楽団(MERCURY)CD

曲のよさというべきか、この色彩的なオーケストレイションにジャズ的なソロの見せ場の多さが(こちらのリストは録音の明瞭さもあり細部まで聴かせる)、派手にぶちまける力技の邁進力とぎちっと纏まった堅苦しいアンサンブルぶりとあいまってミスマッチな、一種雑然とした賑やかさを醸し有無を言わせずとりあえず聴かせる魅力をはなっている。飽きるほど聴いた曲でもまだこのように楽しめるものだな、と思った。緩徐主題あたりの雰囲気も(そこまででお腹いっぱいになるような密度なのだが)いいのである。リストのクラシカルな技術も申し分ない。まあ、録音技術の勝利という感もあるが、押せ押せ演奏の最右翼として価値は認められるだろう。〇。派手にぶっぱなすブラスが耳に痛い。

○カルディッロ(CL)ワイルド(P)フィードラー指揮ボストン・ポップス(RCA)CD

うわーもう舌を巻くほどすごいや。最初聴きはじめて、あまりのフィードラーのカッコよさとアール・ワイルドの超絶技巧に圧倒された。もうこれ以上のガーシュインはあるまい。あるまい、と思ったのだが・・・あれ?こういうフレーズだったっけ?あれ、このパッセージおかしくない?・・・嗚呼ガーシュインの常、当たり前のように編曲されている。勿論より清新で面白くなってはいるのだが違和感しきり。この曲はまだましな方なので○にはしておくが。惜しいなあ。グローフェの通りにやってくれたら最高だったのになあ。シンフォニックジャズってシンフォニックの部分が結構重要ですよう。

◎ネロ(P)フィードラー指揮ボストン・ポップス(RCA)CD

ちょっと聴いただけでアメリカ、それもセミクラシック(セミジャズ)の相当の手練れによる演奏だということがすぐわかる。フィードラーのガーシュウィンは、まずこれを聴けというくらい板につき、特に創意が凄い(ソリストの力かもしれないが)。ガーシュウィンはジャズ的な創意を演奏者に要求する。そのまま演奏しても面白いが、数少ない旋律を繋いだだけでつまらない曲、という誤解を招きやすい。この演奏では、特にピアノの表現において、一音一音に実に俊敏な創意が篭められている。それはクラシック音楽に比べて(あくまで譜面上)単純に書かれている音楽ジャンルでは極あたりまえの行為なのだが、元来この曲がシンフォニック・ジャズという概念を実現しようとしたポール・ホワイトマンが自分の理想を余りにクラシック側にアピールしすぎたために、今だにクラシカルなアプローチ、つまり楽譜の忠実な再現に予定調和的解釈といったやり方が優先されすぎている。まるで飽きてしまうたぐいの、旋律と楽器用法の新奇さだけしかない曲にされてしまっている。この演奏には閃きがある。実は勿論予定調和であるのだけれども、それでも瞬時の閃きが音符の一つ一つから眩く放たれているのである。理解という点で、クラシックしか聞かないかたは是非フィードラー盤を聴いてみていただきたい。ここにはライヴではないにも関わらずライヴの熱気溢れる音楽が溢れ生き生きと躍動している。明確な打鍵と胸のすくような解釈で魅せるソリストにも拍手を贈りたい。このような大規模編成のジャズ風音楽で拡散的にならずここまで凝縮されまとめられるというのも凄い。名演。但し、録音が悪いのが生憎・・・ステレオではあるが篭もる・・・でも◎!ちなみに前に書いたフィードラーの別演にかんしてのコメントと全く正反対のことを書いているのは楽曲受容方法の多様性を示すものとして許してくださいね。人間ずーっと同じ感覚ではいられない、だから何度も書きなおす演奏もあります。

◎シュテッヒ(P)ゴラッシュ(CL)ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団(AMIGA,ETERNA他)

テンポ変化が派手なのにびっくり。ケーゲルのしかめつらを想像してると面食らうだろう。まるきりガーシュインを狙っており、クラシック流にやろうとははなから考えていない。ピアノに牽引されることの多い曲ゆえケーゲルの存在が希薄な箇所も多いが、総じての技術水準の高さの後ろにはケーゲルがいることは確か。ピアニストはクラシック流儀だがこれまた舌を巻くほど指がまわる。パリのアメリカ人ではブラスにミスが聞かれたが、こちらは完璧。グローフェの腕かも知れないが水際立った響きの美しさはちょっと感動ものだ。こういうのは本国でも滅多に聞けまい。全般に出来の良さに感嘆。この曲に今更感動するとは思わなかった。◎。

○ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団(DREAMLIFE)1954/3/18・CD

このソリストはほんとうに巧いな。不詳となっているが、LPで出ていたものとは別なのだろうか。二種あるとは聞いていた。モノラル。演奏はあいかわらずスケールの大きな力感溢れる、統制されたやりたいほうだいであり、完全にクラシカルな世界での表現主義を体言したような、いささか勘違いに過ぎるようなものである。いや、ガーシュインはこういう演奏があったら喜んだかもしれない、同時代に。クラシックとしてかなり聞ける。○。

カッチェン(p)ロジンスキ指揮ローマRAI管弦楽団(CDO)LIVE・CD

どうも四角四面で堅苦しい。ロジンスキらしいガシガシ急いたクラシカルな音楽作りにも違和感しきりである。機械的で、得意の集中力が変な方向にまとまってしまっている。ガーシュウィンにこの芸風はあわないのだ!しかも一応バックオケを意識しているせいかテンポがかたくなに守られているし個性も薄いというか、みんな萎縮していて凡庸でつまらなすぎる。カッチェンも堅苦しくて辛そうだ。ジャズ奏法を取り入れてはいるけれど、よそよそしい。終演後の拍手もやや冷めている。これはどうも、曲に相性のない演奏スタイルと言わざるをえない。無印。録音悪し。

○カッチェン(P)マントヴァーニ楽団(RCA)CD

何故ジャズ・ミクスチュアー音楽というだけで大胆なアレンジが許されるのか?クラシックだってこんくらいいじってもいい。指揮者の意図がより明白に見えていいではないか。屈託無くドラマチックに煽情的に(音は普通で単調だけど)スピード感溢れる演奏を提示してみせるこの演奏は示唆的であり、自身の編曲でなかったにせよ本人の録音ですらアレンジまくりである。オケ譜だっていじられるためにとりあえず仕立てられたような乱暴さがある。やはり、オーケストレイテッド・ジャズが本来の形なのだ。ラヴェルやストラヴィンスキーがホワイトマンの招きにせよ真面目に客席でこの曲を聞いていた様子を想像するだに可笑しい。あの原典主義者たちが、である。商業音楽のありようのひとつの原型だろう。クリエイターみんなが一人の天才的メロディライターのもとに結集して「ガーシュイン」が生まれた。シンフォニック・ジャズが生まれたのである。ガーシュインがウタダとすればランバートはさしずめクラキか(わかりにくーい)。やや単調なため○にしておく。

○アントルモン(P)ゲール指揮コンサート・ホール交響楽団(CONCERTHALL/MMS他)

ちょっと真面目にクラシックをやってしまっているかアントルモン。滅法上手く詩情あふれ美しいが、ガーシュインとして面白いかというとどうか。ガーシュイン(グローフェ)は割合積極的に表現することを求めるが、その点ややつまらないかもしれない。ゲールのほうは、オケが余り上手いどころではない仮面オケなのが、人により好嫌別れるところだろう。比較的解釈的なものを入れてきているが激することはない。総じて知見だけを評して○。

○ユルゲン・ワルター指揮ハンブルグ・フィル(SOMERSET)LP

ハイテンションで弾ききる娯楽的スピードの演奏で、生々しい録音が更に気を煽る。余りに率直だと感じられるかもしれないが、この力感にメタ・クラシックらしくハスッパな発音で応えるオケもまたやる気が漲り、クラシカルな演奏家にもジャジーな演奏家にも見られないまさにライト・クラシックはこれだ、という自信も漲り清々しい。◎にしたいくらい飽きないが、解釈上の工夫がないので○くらいが妥当か。

○タッキーノ(P)不明

音質より恐らく正規音源によるものだがweb配信のデータでは不詳。曲がよくできているのでソリストさえ万全なら言うことない。おしなべてうまく、適度に遊んでいるのがいい。美しく透明な音が印象的。

○ワイエンベルク(P)プレートル指揮パリ音楽院管弦楽団(EMI)

なかなかガシガシくる演奏で、ジャジーさは少なくクラシカルではあるのだが、クリアな録音でいやおうにも感興を呼び覚まされる。ロマン臭さもなく過度な透明感もなく、ガーシュインなりのアレンジを求める人はやや物足りない感じもするかもしれないが、クラシックの範疇ではこれが最大限「引き出された」表現と言えるだろう。○。

~小編成編曲

○ワイエンベルク(P)アムステルダム・サキソフォーン四重奏団(BRILLIANT)CD

かなり大人しいクラシカルな演奏。余りにスウィングしない「透明感だけの音楽」に違和感を感じる。だが、流石に年齢的にタッチの弱弱しさは否定できないものの、ワイエンベルクらしい美しい音の煌き、カデンツァでは実に軽やかな「胡麻のばら撒き」を愉しむことができる。録音操作か何かやっているのかもしれないが、サックスと音量的に拮抗できており、いや、オケが相手ならかなり辛いのかもしれないが、いや、前半はちょっと辛い部分もあるものの、生真面目なカルテットを相手に生硬なテンポを維持しながら、これが俺のガーシュインだ、と言い切っているような、往年のバリ弾きピアニストの片鱗を垣間見せる。ロンの弟子らしい、クラシカルな美学がこの生々しいロシア系アメリカ人の音楽を灰汁抜きしている。個人的には感銘は受けた。○。

~抜粋

○イタルビ(P)伝クレンペラー指揮ロス・フィル(SYMPOSIUM)1937LIVE

即物的な速さと意外とジャジーなオケの音色表現にメリハリが聞き取れるくらいで、ほとんどピアニストとロスフィルに任されている。テンポの切り方の律儀な頑なさくらいか。ピアニストはジャズ的かと思ったらシンフォニックな部分ではしっかり協奏曲している。なかなか巧い。前半のみのSP復刻。

~アンダンテ(ピアノ編曲)

◎作曲家(P)(History他)1928/6/8・CD

あっぱれです。これは下手するとオケ付きのものより本来の意図を伝えられているかもしれない。オケ付では即物的に演奏される緩叙主題がここではいくぶんゆったりとして感傷が感じられるのがいい。サクサクした商業ピアニストというよりソロピアニストとして立派に弾きあげている、さすが作曲家。
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