湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

バーバー (2012/3までのまとめ) 協奏曲、室内楽、器楽曲、歌曲、合唱・歌劇

2012年03月30日 | Weblog
ヴァイオリン協奏曲

(原典版)

○スポールディング(Vn)オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(WHRA)1941/2/7live・CD

残っていたのが奇跡、公開初演の記録になる(世界初演ではない)。つまり原典版であり、全体に長ったらしく別の曲かと思うようなところもあり、また厚ぼったいが、三楽章はほぼ現行版に近い無窮動となっている。音は悪いが名手スポールディングによる名技的表現を楽しむにはギリギリokといったところか(個人的にはスポールディングの圧力のある音は好きではないが。。)。驚嘆の声を伴う拍手は曲に向けてのものというよりソリストに向けてのものかもしれないが、二度聴きたいとは思わないものの、改訂版にはない重厚で壮大な作品世界は、ロマン派好きにはアピールするだろう。

(改訂版)

○ポッセルト(Vn)クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(PASC/WHRA)1949/1/7改訂版初演live・CD

pristine配信音源。すさまじいソリストの迫力とそれにひけをとらないオケの集中力に圧倒される。正直後年の同ソリストの録音よりもバックオケのぶん秀でている。とにかくこの曲は新古典で平易だからこそ表情付けがわざとらしくなってしまいがちで難しい。その点まったく心配なし。この時代の流行ともいえる押せ押せわっしょいの演奏様式のうちにありながらも、恐らく改訂版初演という理由もあるとは思うが厳しく緊張感が漲り、クーセヴィツキーって腕よかったんだ、と今さらながら気づかせるオケやピアノの操りぶり、ソリストとがっちり組み合って決して離れない、まさに協奏曲の醍醐味である。録音もよくレストアされている。心底からのブラヴォが飛ぶ、○。

○ポッセルト(Vn)バーギン指揮ボストン交響楽団(WHRA)1962/4/13live・CD

夫婦共演である。だからといっては何だがわりとオケも前面に出て絡むこの曲では強みに働いていると思う、堅固なアンサンブルである。ちょっとブルッフ1番を思わせるところもある柔らかさとのちのち晦渋な重さを加えていく若き作曲家の志向があいまって、長い難産の甲斐もあり20世紀の名作協奏曲、しかもアメリカ産という特異な作品になったわけだが、初演期には(それほど技巧的な作品でもなく寧ろ簡素で基本に忠実な構成の作品ではあるのだが)技巧的側面がかなりクローズアップされ、非常に速いテンポと強いボウイングで、ロマンチシズムはあくまでビンビンに張った弓の隙間をぬって譜面から立ち上ってくるぶんでいい、みたいな感じのものが多かったようだ。

これも荒いソリストでいかにも戦後アメリカで活躍したふうの名技性と、音色で滑らかにロマンチシズムを奏でることとは皆無のある種の新古典性を発揮している。とにかく腕は凄まじく、女流的な細さはあるのだが、どんなに音が荒れようとも力ずくで押さえつけるやり方が随所にみられ、バーバーにあっているのかあってないのか、ちょっとロマンティックすぎる曲、とくに名技的な三楽章には向いているのかもしれない。結構盛大な拍手である。かといって二楽章も悪くは無い、何か「世界的には無名なヴァイオリン科教授の演奏」のようだ。ミュンシュの補完的立場で、またコンマスとしても働いていた指揮者はさすがボストン響を掌握しているというか、強い個性は決して出さず、弦中心のアンサンブルを効率よくまとめあげた。

ポッセルトは同曲の初演者と記憶しているが異説も聞いた(部分初演がある模様。また現在の無駄の無い版は改訂版でありその初演ライヴはクーセヴィツキーとの共演がCD化している)。少なくとも録音を残したソリストとしては最初であろう。○。

◎ボベスコ(Vn)ホーレンシュタイン指揮フランス国立放送管弦楽団(MUSIC&ARTS)1952/2/11LIVE

平明な1楽章はどうってことないのだが、地味な2楽章が超名演なのである。盛り上がりどころで指揮台を踏み鳴らす音が聞こえるほど熱の入った深刻な感情が重量感をもって印象的に表現されており、ソリストも独特の音色が、この曲をレパートリーとする最近のソリストとは異質の暗く渦巻く情念を感じさせる。こ、こんなに深刻で、こんなに感動的な偉大な楽章だったのか。バーバーというとアダージオのためになんだかヤワで大衆迎合的なわかりやすい作曲家のイメージを持つ人もいるかもしれないが(とくにこの協奏曲においては)、これを聴いてみて欲しい。私は初めてこの曲で感動した。2、3楽章の内容深さに改めてバーバーの悲しみと怒りを感じることができた(この人はもともとそういう人だ)。充実した曲だ、ということをも再認識させてくれる演奏、決してスタンダードとは言わないが、紛れも無い名演である。ソリストの情念に個性、指揮者及びオケの熱情的で重厚な表現がスケールの大きな感動をもたらす。このボックスの白眉のひとつと呼ばせて欲しい。

○オリヴェイラ(VN)スラットキン指揮セント・ルイス交響楽団(EMI)1986/4

やさしく語り掛けるようなヴァイオリン、時折現代的な厳しい側面をみせながらもあくまで夢のようなロマンスをうたうオケ。期待していなかっただけになかなか感動した。ヴァイオリニストはけっしてヴィルツオーソ系のバリバリ即物タイプではなく、柔らかく馴染み易い音色にときおり痙攣ヴィブラートを加えて親しみ深く表現しているところが共感が持てた。この曲はバーバーの中でもとりわけネオ・ロマンチシズムの傾向が強く、それだけに近年は演奏される機会も増えてきたようだ。コルンゴルドのそれくらいには演奏・録音されている。二楽章の痛切なうたに感涙。三楽章は無窮動的なソロの動きがヴォーン・ウィリアムズのヴァイオリン協奏曲終楽章に似るが、RVW独特の異次元世界とは隔絶しており、不協和な音響の中にもはっきりとしたリリシズムが感じられる。断ち切れるような終わりかたも新古典主義を経験したネオ・ロマンチシズムの作家ならでは。

◎カウフマン(Vn)ゲール指揮ルツェルン祝祭管弦楽団(ミュージカル・マスターピース交響楽団)(MUSIC&ARTS/MMS)1951・CD

バーバーのこの曲はリバイバルしてもう10年以上たつ。現代ヴァイオリニストの間にレパートリーとしてすっかり定着した作品と言っていいだろう。1楽章の親しみやすいメロディと19世紀的なくぐもり・・・たとえばブルッフの作品のような・・・に、ワサビのように効く重厚硬質の不協和音が入り込む感覚は非常に世紀末的である(勿論19世紀末)。現代作品が陥った特殊な超絶技巧の世界を敢えて無視したような、かなりやさしいソロパートはバーバーの反骨精神をもっともよく示したものと言えるかもしれない。バーバーはわかりやすい作曲家に見えるが、シンフォニー1番やカルテットにしても結構晦渋で焦燥感がある。そのイメージはこの協奏曲や歌曲によるところが大きいだろう。あ、もちろんトスカニーニも録音した「弦楽のためのアダージョ」(カルテット中間楽章の改作)もそのイメージを固定化した曲のひとつだ。オーマンディとスポルディングにより41年に初演されている。このCDはあまり録音がよくなく、録音の継ぎ目がかなり露骨に聞こえたり、カウフマンの甘い音色がイマイチはっきり響いてこないと欠点が多い。1楽章などこのヴァイオリニストお得意のロマンティックな音楽なのに、この不明瞭なCDではちょっとぱっとしない。無印としておく。まあ、モノラルだと映えない曲でもあります。ヴォーン・ウィリアムズ(ORIONでLP化した録音)とラーションとのカップリング。おそらくMMSで出ていたレコードと同じ音源と思われる(あちらはミュージカル・マスターピース交響楽団というレーベル名を冠した楽団の演奏ということになっている。指揮者はゲールで同じ)。改訂版と記述。(2005以前)

だんぜんレコードのほうが音がいい。◎にしたのは改めてLPで聴いてカウフマンの生めかしい音色に聴き惚れたからだ。前の時代の演奏様式(主としてボウイングとヴィブラートと微妙な音程操作、アーティキュレーションの付けかたにあらわれる)というのはロマンティックな曲想を最大限に生かすようにできているのであり、ロマン派回帰をうたったかのようなこの作品においてただ冷徹に音だけを表現するのは曲の価値自体を損ねることになりかねない。きわめて叙情的な旋律と流れよく効率のいい構成によって現代のロマン派協奏曲というものを(いくぶん古風になりすぎるところは新古典派の影響だろうが)表現しきっている。ウォルトンの作品とよく似た響きや構造的な部分があり(更に元ネタとなっているプロコの1番のほうを思い浮かべる向きのほうが多いだろうが)、3楽章などは尊敬していたヴォーン・ウィリアムズの「コンチェルト・アカデミコ」終楽章の世界を換骨奪胎したものとも思える。同時代性というのもあるのだろう。そしてカウフマンもまた「同時代の演奏家」なのである。しかも戦後モノラル期の演奏家というのは前時代の艶と現代の技術の共に兼ね備えた超人的な技巧家が多いわけで、カウフマンはその中でも非常にバランスのとれた技巧家であり、オイストラフの安定感とシゲティの表現性にフランチェスカッティの美音(あれは完全に奏法の勝利であり解釈の勝利ではあるが、音はよく似ている)がのったような演奏を時折していたようで、これはその範疇にある。つまりは、名演。よくわからない曲、という印象はきっと、こういうのめりこむような演奏に出会えていないということだと思います。 (2007/1/16)

コーガン(Vn)パーヴェル・コーガン指揮ウクライナ交響楽団(ARLECCHINO)1981/5/9・CD

作曲家の追悼に録音されたそうである。だがこれはもう固くて乱暴なコーガンの悪い所が出まくった演奏と言わざるをえない。無窮動的な3楽章ではとくに余りの力みぶりに音になってない箇所まである。とにかく力みすぎで雑だ。しっかりしたいい曲なのだが、どちらかといえば陽の気が多い曲なためにそのまんまヴィルツオーソ的に演奏すると正直聞いててついていけないしんどい演奏になる。バーバーは確かに明瞭で構築的な曲を書いたが、だからこそ緩急の緩の部分に柔らかな情感も盛り込んで欲しいものである。起伏があまりにデジタルだ。無印。ハイポジの音程が低く聞こえる場面が目立つのはオケとの音響バランスを考えてのことなのか、それとも単に失敗したのだろうか?

ピアノ協奏曲

ブラウニング(P)セル指揮クリーヴランド管弦楽団(SONY)1964/1


一楽章、いきなり晦渋なピアノ・ソロから始まるが、オケが入ってくると若干ロマンティックな趣が加わる。バーバー独特の語法はわかりやすさと晦渋さの掛け離れたバランスをうまく保っているが、オケとソロのからみがそもそも少ないせいでもあろう。また全般やや冗長か。ちょっとウォルトンのチェロ・コンの雰囲気を思い出した。ピアノ・ソロはプロコフィエフのピーコンの打楽器的用法を彷彿とするところもある。セルはソリストを圧倒するほどうまくやっているが、初演者ブラウニングの汗の飛び散るような強靭なピアニズムもめげずにがんばっている。セル・・・ちとうるさいか。二楽章、一転して穏やかなアメリカの夜。一楽章もそうだったが、現代の映画/ドラマ音楽を思わせる雰囲気でもある。第一主題(?)はノスタルジックで美しい。いくぶん官能的でもある(弦の入る所)。現代フランスものっぽい繊細な不協和音の導入も曲の雰囲気を芸術的に高めている。三楽章、不協和音なバーバー全開!やや無調的な旋律やピアニズムは雰囲気的にはシマノフスキの中期(もしくはスクリアビンの後期)に近い。しっかし終始せわしない動きをするピアノ。疲れそう・・・

○ブラウニング(P)セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1965/6/24live

中間楽章はラヴェルの両手やプロコフィエフを、両端楽章はジョリヴェを彷彿とさせるモダンな作品だが、緻密な書法とソリストに要求されるテクニックの高度さにかんしてはそれらを凌駕する部分がある。大して叙情的でもない中間楽章よりも、いきなりのソロからぐわんぐわんと拡がる一楽章、さまざまな楽想を取り込みながらけたたましく突っ走る三楽章に魅力がある(三楽章にはバーバーの好んだRVWの、ピーコンに類似した主題もある)。いずれテクニックがないと無理だ。初演者によるこの演奏は正規録音もある組み合わせだが、さすがのそつのなさで聞かせる。湿り気のなさが気にはなるがこの曲はそれでいいのかもしれない。オケはバックにてっしている。

弦楽四重奏曲

(原典版)

○カーティス四重奏団(WHRA)1938/3/14live・CD

原典版、ということで現行版とは似ても似つかない曲になっている。もっとも二楽章はアダージョへの編曲元のまま、となっているが、両端楽章がまるで違う。一楽章冒頭の印象的な主題はそのままだが、大した変容もせず楽章内の両端を締めるのみで、三楽章では回想されず、いや、三楽章はまるで別の曲と差し替えなので当たり前だが、簡素で現代的な骨張った楽曲という印象はまるでなく、後期ロマン派のヤナーチェクあたりを想起させる楽曲としてまとめられているのである。

バーバーの面目躍如たる機知に満ちた書法は随所にあらわれ、時にしっかり新しい音楽への志向を示しはしているのだが、ああ、このアダージョはこういう形で組み込まれていたのか、あの唐突感は改訂時に発生したものなのだ、という、結局新ロマン派の曲だったということをはっきりわからしめてくれる。テクニカルな完成度も既に素晴らしいものがあり、要求される技術レベルも相当なもの。カーティス四重奏団がこの精度の演奏をライブでやったというのは、時代的にも驚嘆すべきことである。非常に悪い音なので細部はわからないが、拍手の様子からも成功は聴いて取れる。カーティス四重奏団はけして個性を強く出しては来ないので、音色が単調だとか、表現が即物的でアダージョがききばえしない等々あるかもしれないが、贅沢というものだ。○。

(改定版)

○ストラディヴァリ・レコーズ弦楽四重奏団(stradivari records)LP

ストラディヴァリウス四重奏団とは違う模様。チェロのGEORGE RICCIはジャズやポップス畑で活躍。ドイツ的な演奏を行う非常に巧い団体である。この曲の演奏にも緊張感が満ちていて、山っ気のないマジメで真摯な態度が聞いてとれる。その意味で古いモノラル録音時代のものとしては貴重な記録とも言える。いつも聞いているのと違う曲かと聞きまごうほどである。有名なニ楽章はしかし結構テンポの起伏はつけていて、音色が渋く非常に安定しているため派手さがないだけで、実は結構感情的な演奏様式をとろうとしているのかもしれない。とにかく私は始めブダペスト四重奏団かと思ったくらい緊密で、弦楽四重奏という形態をよくわかった構造的な演奏ができる団体とみた。◎にしたいが録音が弱いので○。バーバーのカルテットの、ニ楽章以外にみられる現代的なごつごつした特質にかんしては、けして浮き彫りにしようとせず、丸めて聴きやすくしてくれているところが寧ろ特徴。

ボロディン四重奏団(melodiya他)CD

チェロ・ソナタ

ピアティゴルスキー(Vc)ベルコヴィッツ(P)(RCA)LP


渋い曲。作曲家22歳の若書きだが、既に「ドーヴァー・ビーチ」や「スキャンダル学園(悪口学校)序曲」といった代表作を仕上げている。晦渋な曲想の上にふと美しく煌くようなピアノの散発音が降り重なるところなどバーバーらしいロマンチシズムが感じられる。第一楽章の6分くらいのところで出てくる感傷的な旋律は出色。作曲家はこの曲の構想を欧州滞在中に9日間の休暇をとってアルプスを歩いたときに得たという。確かに冷たく澄み切った空気感があり、それまでの作品とはちょっと異質なところがある。ただ、チェロという楽器をあまり巧く使えていないようにも感じられる。技巧的なパッセージで音がよくひびいてこないのだ。ピアティゴルスキーがゴリゴリと気張って演奏してやっと伝わるくらいで、それこそ普通のソリストがやったらマイナー曲のしかもあまりうまくない曲という印象しか残らなかっただろう。まさにピアティゴルスキーの暴力的なテクニックの勝利。でもここに甘い陶酔はない(ピアティゴルスキーはそもそもそういう奏者だが)。無印。(2005以前)

○ピアティゴルスキー(Vc)ベルコヴィッツ(P)(columbia,WHRA)1947/5/29・CD

CDには初出とあるがLPで出ていたものと同じだろう(例の紫雲を燻らせているジャケだ)。芯のとおった音、ぶ厚い音を雄弁に奏でさせる曲、すなわちRVW的な音響の重さを持つバーバーにピアティゴルスキは向いていて、やはりフルトヴェングラーのピアティなんだと思わせる。ややわかりにくいが恐らく初録音であろう曲で、仕方なかろう。ピアノのソロも目立つがそちらも技巧的には素晴らしく、ソリストに沿って一本の音楽としている。ピアティがまだいけてた時代の技巧を味わえる。色彩的な演奏家ではないから色彩が暗く重いバーバーでは弱点がない。○。 (2010/6/6)

○G.リッチ(Vc)ミットマン(P)(stradivari records)LP

ビル・エヴァンスやハンコックやらとやる畑違いの人になるとは思えないしっかりした骨太のクラシカルな演奏をする人で、音色が深くていい。ストラディヴァリ・レコーズ四重奏団に参加していたチェリスト(ルジェーロ・リッチと関係あったか?)がカルテットの裏面にいれたもの。ドビュッシーのソナタを彷彿とする枯れ葉のような哀しさをかもす音楽ではあるが、高潔で叙情的な第二主題はまさにバーバーならではの美しいメロディで、この曲、よく聞きこめば余り渋さは無い。響きはもちろん現代のものであるが、ディーリアスのあたりに近いかもしれない(もっと硬質だが)。しっかりした作曲技術に裏づけされた作品である。演奏は手堅さもあるにはあるもののバランスに優れていると言ったほうが適切だろう。技巧をひけらかすより素直に叙情的に弾いていくことに向いたさほど起伏のない作品である。ピアティゴルスキーだったかで聴いたときにはわけがわからない感じもあったのだが、この演奏では非常に理解しやすかった。○。

ストップウォッチと軍用地図

○ゴルシュマン指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア(NBC交響楽団)、ロバート・デコーミア合唱団(VANGUARD)


いかにも第二次大戦の惨状をかんじさせる暗い男声合唱曲で、バス領域の打楽器とブラスしか伴奏がないというのも鬱々とした情景を盛り下げる。元の詩がそうなのだが、比較対象もなく評価不能なので○。

キルケゴールの祈り

○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団&セシリア協会合唱団、レオンタイン・プライス(Sp)クラフト(Msp)ミュンロ(T)(WHRA)1954/12/3live・CD


ミュンシュはバーバーを得意とした指揮者ではないがロマン性を色濃く残したバーバーの分厚い管弦楽を捌くに適した特性を備えていたと思う。この大規模な曲でも合唱団やソリストと一体となり巨大で力強い音楽をつき通し、あっという間に聞き通させる名人芸を見せている。○。

過ぎゆきしものの歌

○ベルナック(B)プーランク(P)(原盤CBS)1952/2/15NY

これもびっくりした盤だけれども、リルケに材をとったフランス語のうた、全曲初演はこの組み合わせでダンバートン・オークスで行われたということで、不思議はないわけで。アメリカの作曲家がフランス語のうたをつくるのは不思議だが、プーランクの非常にセンスにあふれる洒落た伴奏できくと、まるでフランスやイギリスの近代抒情歌曲をきくようで、不協和音すら美しく儚く(いや、儚いがゆえに美しい)こころに響く。

作曲家はリルケの詩をフランス語で歌うのは当然としている。プーランクのレコーディングについてバーバーは好意的に語っており、プーランクは「ダーリン・マン」だと言っている(ベルナックとプーランクとバーバーって三角関係?冗談)。彼が夢中になるのは彼の曲に対してだけで、自分の曲に夢中になったとは思えないが、と前置きしておいて、この曲を弾いて聞かせたところ、とても気には入ってくれた、とかたっている。伊達男プーランクについてもちょっぴり語っているが、かなり仲はよかったようだ。この曲はプーランクに献呈されている。短い曲だしベルナックは多少癖があるが、楽しめると思う。

ドーヴァー・ビーチ

○作曲家(B)カーティス弦楽四重奏団(原盤RCA/PEARL)1935/5/13

古い録音だが渋い編成ゆえ余り音の古さが気にならない。最初この盤を見たときは目を疑ったが、どうやら若きゴホンニンが歌っているのに間違いないようである。たとえばディースカウのような深みはなく、25歳の若き作曲家は若き情感を痙攣的なヴィブラートにこめて、これまた古き良き味をもつカーティス四重奏団とのセッションをやりとげている。本人はセッション当時の自分の声について、
あのころはプリティ・グッド・ヴォイスだったからね、と語っている。そうとうリハをやったようだがこのレコーディングの話しが来る前から私的にもずいぶん演奏していたらしい。くすんだ半音階的な伴奏はいくぶん無調的な晦渋も含んでいるが、カーティス団のポルタメントをきかせた艶めいた音がずいぶんとロマンティックな方向に曲を持っていっている。後半になると少し古典ふうの曲想もあらわれてくるが、他の楽想と有機的に繋がっていてそれと意識しなくても楽しめる。薄暗い天候で暗い気分のときには、この曲を持って海へ行こう。遠く乱舞する鴎を見ながら、灰色の海をみつめて。

○フィッシャー=ディースカウ(B)ジュリアード弦楽四重奏団(sony)1967/4/8

バーバーは本質的にロマンティストだ。アメリカ実験主義とは無縁な存在であり、コープランドでさえかれに比べれば前衛的といえる。アイヴズのことは大嫌い(”彼はアマチュア”)だった。古いLPにバーバーのインタビューが載っていたが、かれ自身そのことをかなり意識してロマンティストでいたようである。少なくとも、歌曲においては。(ちなみにその中でバーバーは「わたしはバイセクシュアルである、両刀だ」などとのたまっている。コープランドしかりバーンスタインしかり・・・アメリカって、まったく、もう。・・・いや、じつは
このインタビューには前後があり、バーバーは比喩表現で口にしたにすぎないのですがね。

インタビュアーがイギリスの批評家の「バーバーの音楽の”中核”には”人間の声への理解”がある」という言をひいて、あなたは何を書くときもつねに人間の声を思い描いて書いていますか、ときいたところ、バーバーはそんなことはまったくない、どんな旋律も頭から直接出てくるし、声によって曲を書くことなど全くない。つねにそれぞれの曲の編成を思い描いて書く。管弦楽を書くときに人間の声を想定して書く必要があるなどと考えていたならば、作曲家としてかなり窮屈な感じを受けざるをえない、と言う。そこでインタビュアーが、アメリカには声楽を意識的に避けている作曲家もいます、というと、彼らはおそらくそうするのがまったく正しい。たとえばウォルター・ピストンのような作曲家はまったくぜんぜん叙情的ではない。ピストン、セッションズ、コープランドは、まあ後者ふたりは声楽やオペラも手がけてはいるが、本質的にインスツルメンタルの作曲家なのだ。「その意味では、わたしはバイセクシュアルである、両刀だ」

・・・というわけでした。でも、そんなところに本心が露呈することって、あるような)

ドーヴァー・ビーチは比較的若書きの作品だが、弦楽四重奏に独唱といういくぶん渋い色彩によってえがかれた一幅の絵画である。バーバーの歌曲にはいろいろな過去の作曲家の曲を想起するところがある。サティの「ソクラート」、ヴォーン・ウィリアムズの「ウェンロックの断崖にて」などなど(と書いておきがてら前記のインタビューを読んでいると、インタビュアーが「あなたはドーヴァー・ビーチ
を確実にRVWに見せたでしょう」、バーバー「もちろん」。RVWがレクチャーしているところに押し掛けていって、歌いながら聞かせたとのこと。RVWはとても喜んで祝福してくれ、「ワシも何度もこの詩集にはトライしたんじゃが、きみがそれをなしとげてくれた!」と言ったとのこと)。つねにリリカルであり、またときにはニヒリスティックであったり、ノスタルジックであったり。人間の素直な感情を表しており、ゲンダイオンガクが人間のオクソコにネムるフクザツなケイショウをドウサツして奇妙奇天烈な音のカタマリを産み出していた状況とはおよそ遠く離れたところにいる。かといって俗謡作家ではけっしてない。マシュー・アーノルドの、海の形象によせて無情をうたう詩につけた「ドーヴァー・ビーチ」、これを少しでも耳にしたならば、そのそこはかとなく哀しい歌に、俗謡からは与えられるべくもない深い心象をあたえられるだろう。ディースカウはかなり雄弁だが、ジュリアードの美しくも暗い色調にのって8分20秒を歌いきっている。さすが、表現に瑕疵はなく、しいていえばそのそつのないところが弱みなのかもしれない。繊細な味わいをもつ曲に、雄弁さは少し鼻に付くかも。

遠足

1、2、4番


○ホロヴィッツ(P)(HALL OF FAME)1945LIVE

煌くような音の魔力。他の演奏家のものとは比べ物にならない本質を突いた(からこそ楽しい)演奏だ。バーバーはときに晦渋だが、ホロヴィッツの手にかかるとすっきりとわかりやすい小品に仕立てられる。ダイナミクスの変化が俊敏な感覚によって激しくつけられ、しかしそれほどの外面的の変化にもかかわらずホロヴィッツの両手にはいささかの危なげな所も無く、これはソリストの物すごいテクによるものであることは明白、さすがホロヴィッツといえよう。初演かもしくはその直後の演奏と思われる。この盤、古い録音だらけだが今まで見なかったものも含む5枚組、それで2000円台だから超お買い得だ。

ピアノ・ソナタ

ホロヴィッツ(P)(RCA)1950/5/15


晦渋な曲である。聞き込めばいろいろと聞こえてきそうだが、ホロヴィッツも無機質と思えるくらいそつなく弾いており、どこが盛り上がりどころでどこが聴きどころなのか、いまいちはっきり聞こえてこない。旋律が浮き立たないのだ。アレグロ・ヴィバーチェはそれでも例外的に楽しめる面白い音楽だったけれども、それ以外は・・・うーん、私はまだまだ修行が足りない。

室内オペラ「ア・ハンド・オブ・ブリッジ」

○ゴルシュマン指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア他(NBC交響楽団)(VANGUARD)


ピアノ独奏から始まる意表を突いた極めて短い室内オペラで、ゴルシュマンは弦を増強しゴージャス感を出している。古びたジャズ風のリズムにバーバーが時折見せる無調的なパセージ・・・ベルクを思わせる・・・が乗り、人好きしない表情になりがちなところを歌詞とゴルシュマンの派手な表現が救っている。
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バーバー (2012/3までのまとめ) 交響曲、管弦楽曲

2012年03月30日 | Weblog
<(1910~81))アメリカ20世紀ロマンチシズムの象徴たる存在。今でもアメリカでの人気は高い。25歳でアメリカ=ローマ賞とピュリッツア留学資金を獲得、ヨーロッパで研鑚を積み帰国後は一貫して保守的な立場を貫いた。重厚な音楽の中にもアメリカ的な感覚を持ち込んで広く親しまれた。同時代の指揮者の間でも評価が高く、ワルター、トスカニーニ、セルなどに演奏された。>

交響曲第1番(一楽章の交響曲)

○ロジンスキ指揮NBC交響楽団(WHRA)1938/4/2live・CD

原典版。バーバーの出世作だが、いまひとつわかりにくさがあるのは、スコアを整頓して即興に流れず山場を計算した演奏を提示する人が少ないということもあるのではないか。ロジンスキの素晴らしさはその点非常に計算された音楽を志向しきちんと緩急がつけられているから、ただの煩いネオロマンになりそこねた交響曲ではないことをわからせてくれるところだ。これはやっとこの曲に耳を向かせてくれた盤。録音マイナスで○。

ワルター指揮NYP(WHRA他)1944/3/12カーネギーホールlive・CD

改訂版。ワルターはこの曲を評価していたという名指揮者の一人。有名な録音だが、ロジンスキと比べて聴けばわかるのだが、勘どころがつかめていないというか、近視眼的で、流れで聴いていてもどこが聴かせどころで、最終的にどこへ持って行きたいのかわからない。それほど乗った演奏というわけでもなく、ワルターがどうしたかったのか・・・録音も悪い。無印。

○サバリッシュ指揮バイエルン国立管弦楽団(FARAO)2003/7/12live・CD

高精度でライヴならではの緊張感をもった締まった演奏。ただ、この曲はもともと1.5流くらいの、時代性の強い作品ゆえ、近視眼的にロマン性を引き出しつつ基本客観的に整えていくだけのやり方では、連綿としているだけで、聴く側のモチベーションが持続しない。もちろん生来の技巧派バーバーだから非常によく書き込まれており、重量感に軋みをはっしない職人的なわざが冴え渡っている作品、しかしながら楽想が弱いことは否定しようがない。そこが原因となり構成感が明確でなく技に偏った、演奏家受けだけする作品に感じられてしまう・・・この頃アメリカや西欧に多かった。部分的にシベリウスの合奏法の影響がみられ新古典的な立体的な書法が織り込まれた緩徐楽章(形式上単一楽章ではあるが連続した4楽章制ととってよいだろう)に魅力があるが、終演部すらはっきりしない、これはクーセヴィツキーやミュンシュといった(整え方には問題があるが)強引に盛り上がりをつくっていく指揮者でないと活きて来ない曲である。SACDでわざわざ出すような演奏ではないと思うが、音のよい録音はこのバーバーの出世作には非常に少ないこと、しかもサバリッシュ80歳記念公演記録とあっては音楽外の理由もあろう。○。

交響曲第2番(1944/47)
<航空隊に献呈されたマエムキナ戦争の曲。アメリカを飛び立つB29。ファットマン。>


作曲家指揮ロンドン新交響楽団(EVEREST/PEARL)

~かつてはこの曲、結構好きだった・・・
この曲戦争末期に航空隊を称える主旨でつくられたらしいが、その後47年に改訂が加えられている。ウィンドマシーン等描写的な表情付けが特徴とされているがこの古い盤からは余り聞き取れない。そこはかとない哀感と悲痛な表情が入り乱れ、・・・混乱している。冒頭コープランドかとききまごうような中音域スカスカの高響き。以後も何かショスタコーヴィチなどに似た清新な響きが連なる。どこも何か他の作家を思い浮かべてしまう。バーバーの純管弦楽はヴァイオリン等旋律楽器の独特の跳躍(下降音形でも跳躍というのだろうか、それも含む)と、半音階的だが清らかな感傷を催す憂いに満ちた旋律に特質があるが、反面閃きに乏しく個性的な旋律や響きに欠けているところがある。この曲を聞いても1番を聞いてもそうだが、20世紀初頭前後の末流ロマン派作家たちの流れを固持し続けただけのようにさえ思えてしまう。突然ふっとわいたように浮き上がる美質が、余り長続きせずどこかへ流れ去っていってしまう様には、マーラーをふと思い浮かべる。バーバーの歌曲は良い。個性的ではないが、詩のよさとあいまって諦念やノスタルジーといったオンガクお得意の世界を、これでもかというくらいに(でも密やかに)提示する。小曲に魅力ある作家が交響曲のような大きい曲を書くとこうなるのだろうか?とも思ってしまう。無論曲を選べということもあるのだが。この曲がマイナーなのにはわけがあるようだ。ここでこの曲のききどころを唯一つ挙げる。それは1楽章第二主題だ。オーボエ・ソロによる夢見るようにたゆたう提示、次いで重層的にリフレインする弦楽器、山の木霊のように遠く儚くうつろう旋律は、それと判別できる部分は短いが(半音階的に変容してやがて消えてしまう)耳に残る。 CD化済み。

○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ASdisc他)1944/4/4初演LIVE・CD


この曲が有名になったのは空挺部隊への従軍経験をもとに作曲家がラジオ・ビーコンの音やプロペラ音などを採り入れて作り上げたといういささか珍奇な出自によるところが大きいと思うのだが、この初演ライヴを聞いても自作自演盤を聞いてもそれらの要素は殆ど目立ってこない。というかはっきり言ってこの演奏からはそういう表層的な効果を狙ったところが微塵も感じられず、純粋にバーバーのメロディメイカーとしての才能の輝きが(とくに1楽章の緩徐主題!!)、実に流れ良いクーセヴィツキーの棒に乗って深い抒情を歌い上げているところに惹かれる。47年の改訂前の演奏ということで尚更「作曲家自身によって弄繰り回されない、作曲当初の構想に忠実な楽像」が浮き彫りにされ、より真実味をもって迫ってくるのかもしれない。独特のコード進行、重厚な響きも鮮やかに描き出され、時折感じられる無理の有る展開も、ここではクーセヴィツキーの作り出した直線的な音楽の奔流に乗ってそうと感じさせない。この曲は1番にくらべ落ちると考えられているようだが、メロディの美しさや手慣れた管弦楽法にはたとえばウォルトンの2番に感じられるような円熟味が染み出して来ており、聞き込めばそれなりに感じる所もある楽曲ではある。これはクーセヴィツキーに敬意を表して○。冒頭の空虚な響きなど、コープランドらのアメリカ・アカデミズムに通じるところもあってそれはそれで面白く思った。録音はクーセヴィツキーのライヴにしてはとても良い。

~リハーサル

○作曲家指揮ボストン交響楽団(WHRA)1951/4/6-7live(6/23放送)・CD

25分余りのリハーサルだが迫力のボストン響による本番を聴きたかったと思わせるだけのものはある。バーバーはメロディーが重要だが、綿密なリハの中でしばしば作曲家自身が歌って指示しているところ、バーバーの聴き方、というものが改めて提示される。一楽章。

弦楽のためのアダージォ
<映画「プラトーン」でもお馴染み、バーバーの代表作。荘重な擬古典風の悲歌はもともと弦楽四重奏曲の中間楽章として書かれたものの弦楽合奏版であるが、作曲当初から抜粋して取り上げられるなど人気を博した。テレビなどでも頻繁に使われているので聞いた事がある方も多いだろう。>


◎トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R/WHRA)1938/11/5初演live・CD

日々湯水のように音楽を浴びる私でも心底感銘を受ける演奏に出会うのは半年に一度あればいいほうである。これは以前紹介した同じDAのライヴ音盤ではカットされていた曲目で、一緒に演奏されたエッセイ第1番のほうは既に書いた。だが、これが素晴らしい。初演というのは後世の演奏スタイルとの違和感を感じさせることが多くある。これも味付けが濃く分厚い音響に貫かれ、透明感の重視される後世の演奏とは違った、かなり「強い」調子の演奏ではあるのだが、トスカニーニの作り出す強靭な流れ、という他に特徴的な「ドライさ」が感じられない。まだせっかちな老年スタイルに至っていないせいもあるのかもしれないが(時期的には完全に即物スタイルだが)オケがひょっとすると「トスカニーニのカンタービレ」という枠を超えて、自国のこの上も無くロマンティックで悲痛な曲に対し濃厚なスタイルを指向した結果生まれた表現なのかもしれない。

クライマックスの叫びはこの曲本来の(原曲の)「祈り」、という生易しい形式を越えて訴えかける人間の苦しみ悶え、だがそこから這い上がろうとする強い意思への共感に満ちている。実にアメリカ的だ。時代的にも実に示唆的。余りの素晴らしさにあっという間に聴き終わるが、一つ残念なのは2曲目が間髪入れず演奏され拍手も入れないところ。余韻に浸る隙がない(構成的にもクライマックス構築後は余韻を持たせずきっちり打ち切る)。最終音と次のエッセイ1番冒頭の共通した雰囲気からの意図だろうが、聴衆は2曲の差がわからないために静かなのか。現行版とやや違う気もするが元が編曲作品なので詮索は意味無いか。◎にします。トスカニーニ最良の演奏記録の一つだと思う。

<同日の他曲目>

前プロ・・・まだ書いてないだけ、マイナー曲
中プロ・・・バーバー新作2曲;後半が管弦楽のためのエッセイ第1番
メインプログラム・・・新世界
アンコール・・・イベリア

(以上DA盤の感想)

言わずもがなのトスカニーニのアダージョだが、さすがに古く、音がくぐもってしまっている。演奏は感動的なので○はつけておくが。

(以上WHRA盤の感想)

○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(GUILD)1940/5/14LIVE・CD

これぞトスカニーニの美である。人声の厚い響き。このバランスは明らかに歌唱であり、合唱である。弦楽合奏は精妙な重なりの彩により、とくに録音ではしばしばコーラスのようにきこえることがある。偶然の産物であることが大方だが、トスカニーニにかんして言えば、合唱を越えた合唱、というような響き合いを求めているように思える。人声そのものにはきこえないのだが、ハーモニーが厚みを増し単純で力強いアンサンブルを背に音量的に昇り詰めていく、時にはかなりデフォルメされた表現をまじえ一糸乱れぬ調子で真摯な祈りに結実させていく。この感情を歌と言わずして何と言おうか。ケレン味なき芸風に対し真実を伝えるレベルの録音に恵まれたとは言い難いトスカニーニには、私もそうだが響きの美しさやカンタービレの滑らかさよりも、明確なテンポとリズムの快楽的な即物性を求めがちである。だがこう単純でもしっかりと骨太の作品においては、録音が最悪であっても、トスカニーニが何より誇ったとされる歌謡的な美しさがやはり自ずと伝わってくる。数々ある録音でもこれは一際真に迫ったものを感じる。まさにプラトーンの映画の世界に近い、卑近でもずしっと響く解釈表現。録音のせいで○にはするが、トスカニーニの同曲録音でも白眉か。

○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(RCA,BMG)1942/3/19カーネギーホール・CD

震える音色、ポルタメント、透明というより重厚な太い感情のうねり。曲を完全に自家薬籠中にしたトスカニーニのひたすらの「歌」。テンポ的には速く淀みないインテンポだけれども音量やデュナーミクや奏法にはかなり大きな変化がつけられており、歌い廻し的な起伏がダイナミックに付けられている一方、静かな場面では録音のせいか弦楽器の音ではなく最早人間の声、歌そのもののような響きがしていて心を揺さ振る。最後のまるでマーラー9番終楽章の末尾のような途切れ途切れの呟きは余りに切ない。トスカニーニの心底からの共感が伺えるし、新即物主義の権化としてのイメージから大きく外れた、ロマンティックな、しかし峻厳な演奏である。トスカニーニの提案により弦楽四重奏曲二楽章より改変された弦楽合奏曲である。早熟の天才バーバー若き頃の傑作擬古典的瞑想曲。

○カンテルリ指揮NYPの弦楽セクション(DA:CD-R/ASdisc)1955/3/27LIVE・CD

これは印象的。カンテルリは重厚に演奏しており、表層だけをなぞったお涙頂戴演奏になることを避けている。純粋に音楽の力だけで感動できる演奏だ。バーバーの作品にしてはダントツでわかりやすいと同時にメタクラシック的になりやすい曲ではあるが、カンテルリの品位ある音楽作りは純度の高いクラシック音楽であることを宣言しているかのようだ。○。この盤では一番よかった。。(2005以前)

ややテンポが速すぎるが、求心力とブレのない直線的なテンポ、バランスの整えられた響きが見通しよく聞きやすい。パレーを思わせるところもある。ただ、録音は悪い。○。 (2008/10/7)

○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(TAHRA)1956/9/21シャルトル聖堂live・CD

見事なレストア・リマスタリングがなされているが原盤(テープ?)の傷はどうやっても補えないところがあり、音像が不安定に聴こえてしまう。だが、「ミュンシュの凄み」は伝わる。アメリカ的な合理性の行き届いた技術と、もともとの持ち味としてある中欧的な磐石な響きを持つボストン交響楽団弦楽セクションの、異様な大編成にしても張り詰めて一糸の乱れも無い表現は、米国での演奏とは違う緊張感に溢れ、一期一会の瞬間の記録を聴いているのだ、という感覚に囚われる。ミュンシュらしい前のめりのテンポと自由にうねる野太い流れ、ライヴ感溢れるもののライヴ的な雑味が無い、それが特徴的。クーセヴィツキーの作った「BSOの芸風」を取り戻し、プロフェッショナルなわざで進化させたミュンシュ。ここに聴かれるロマンティシズムは原曲の古典的で密やかな佇まいからは遠く離れたレクイエムのそれではあるが、肉のついたロマンではない、宗教的な祈りでもない、現代的な「音楽」である。戦争犠牲者への餞であっても、それは叫びでも嘆きでもないのだ。しかしこれは原盤そのままではとても聴けなかった代物だろう。リマスタリングでそこまで想像させることができる程になっている、盤としての評価は高いが、原盤状態の悪さから○一つにしておく。

○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA/BMG)1957/4/3・CD

もう濃厚なアダージオである。うねりまくるアダージオである。肉汁の垂れるようなアダージオである。独特だ。クセになるか、嫌になるかどっちかであろう。でも多分、ほんとうのアダージオはこんなじゃない。独特さを買って○。

○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団?(DA:CD-R)1958/12/26live

感情的なうねりが激しくクライマックスでどんどんテンポが前に流れていってしまうのは気になる。だがミュンシュらしいと言えばミュンシュらしい。かなり速い演奏だが50年代まではこのくらいのテンポが普通だったのかもしれない。ミュンシュは正規でもライヴ含め二種ほどあったかと思う。お勧めはしないが○にするに不足は無い。

○パレー指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1961/12/28live

こんな歌謡的なアダージオは初めて聴いた。高音域中心で流麗に歌われる哀歌。響きも輝かしく美しいが、祈りの雰囲気はまったくなく、ただ悲劇の追憶にまなざしを遠くする。録音は余りよくないし、パレーはこの曲をほとんどやっていないが、個人的にはトスカニーニとは別種の感銘を受けた。ちっとも祈ってなんかいない、でも名演には違いない。いつもどおりあっさりと速いながらも、歌の流れに従い自由に細かい起伏がつけられそこはかとなく哀しい雰囲気を盛り立てる、これこそパレー節なのだと理解させられる。◎にしたいが正統ではなかろう、○にしておく。

この演奏が非常にわかりやすいために気づいたようなものだが、クライマックスやその周辺のコード進行でふと、アイヴズの調性音楽を思い出した。これはわかりやすいところで言えば交響曲第4番の3楽章、それに第3番に似ている。アイヴズは宗教的作曲家であったが、バーバーもまたそういう地盤の上にいた。音楽的には対極でいながら同じ方向を向いている。クラシック音楽におけるアメリカニズムというものがしっかりこの時代に共通地盤として存在していた、ふと感慨深く思った。

◎クレツキ指揮フランス国立放送管弦楽団(KARNA:CD-R)1952

何か尋常じゃない思い入れを力と祈りのかぎり音にして歌い尽くしたような、何とも言えない演奏。力強く分厚いオケはクレツキの精緻な操作によってその感情を説得力溢れる大きなうねりに変え、これは先の大戦を経験した者だけが持ちうる感情なのだろうか、何も言わせず、ただひたすら灰色の地の上より、届かぬ雲間の一条の光に向け腕を突き伸ばす。何も、それ以上も以下もなく、ここにはただ慟哭だけがある。

○テンシュテット指揮フィラデルフィア管弦楽団(POA)1985/11/21放送LIVE

感情的な演奏である。録音が若いためちょっとゴージャスな感じがしなくはないが(この曲にゴージャスは似つかわしくない)、フィラデルフィアの弦楽合奏の噎せ返るような音色と威力は印象的ではある。もっと深い思索が欲しい向きもあるかもしれないが、こういう演奏もアリだと思う。○ひとつ。終演後のブラヴォー拍手は盛大。

○ストコフスキ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(M&A)1958/5もしくは6live・CD

弦楽合奏には定評あるストコのソビエト公演。最初のワンフレーズで既にテンポルバートしているのが違和感。音も生生しすぎてやや野暮だがオケがこれだから録音ではなく元々か。以後も物凄いルバートのかけかた、アーティキュレーションの豪快な付け方で殆どソリストの演奏のようだが、合奏は一糸とて乱れない。やや雑音が入るのはロシア録音のつねだから仕方ないだろう。非常に力強く、旋律のロマンティックな面を強く押し出した演奏振りは、ここまでくると感動を催さざるをえない。高音重視の音響バランスはクライマックスの絶唱に素晴らしく生きている。最後になって低弦が強く個性を主張して終わる。違和感しきりだが不思議な感銘を受ける演奏。モノラル。

○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1969/10/6live

これはちょっと緩やかさが無いハッキリした起伏のついた演奏になってしまっており、感情的でも客観的でもなく、ただヘンないわゆるストコフスキの悪い癖が出てしまった演奏に聴こえてしまった。特別な日の特別な曲だから演奏が悪くなるわけは決してないのだが、ちょっと違和感。○。

○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(SCORA,ARTE)1958/5/30ロシアLIVE

フィラ菅の弦の圧倒的な馬力が感じられる演奏。モノラルだがレンジ幅が比較的広いので、クライマックスの畳みかけるような表現と異様な音量、その頂点は凄絶でイヤがオウでも感動を呼びさます。ライヴならではの迫真性が感じられる録音。逆にライヴならではの綻びは皆無。凄すぎる。ブラボー飛びまくり。

オーマンディ指揮ボストン交響楽団(aulide:CD-R)1983/5/24live

これほど何の思い入れも感じられない演奏は無かろう。ほぼスタジオ録音レベルの精度とほどほどの音質でありながら、非常に速いインテンポでさらさら流れていき、そのまま終わるのだ。オケがまた近年のボストンだから精緻さが薄味をかもし、ほんとに何をやりたいのかわからない。個性的だがこれでは、どうにも。

○ゴルシュマン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(Capitol)LP


モノラルの「アメリカ現代音楽集」から。曇っているぶん充実した響きの「アダージォ」を聴くことができる。比較的中欧風の重心の低い音のするオケだが、締まった表現で自然に曲の起伏に従い盛り上がりを作っていく。トスカニーニ風の即物的な個性は無く、無駄な思い入れのようなものもなく、しかし曲自体の暗く重いロマンティシズムを程よく引き出しており、聴きやすい。透明感のようなものはなく祈りの音楽ではないが、分厚い合奏が時代を感じさせてそこもよい。ゴルシュマンのヨーロッパ的な側面の出た演奏。

○チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(EMI)1992/1/19、20LIVE・CD

ゆっくり荘重と思いきや、すっきり明るい演奏になっていて意外。かなり美しいが同曲の感傷性が抑えられ純音楽的に聞かせるものとなっている。かといって根底に流れる宗教性も余り引き出されていない。教会音楽的な響きの厚さも余り感じられないのだ。チェリにしては不思議というか意外でもある。それにしてもこの短い曲を切り貼りする必要はあったのかなあ・・・EMIのチェリ・エディションは切り貼りや補正が多すぎてライヴらしい一貫性が無いと感じさせるものもままあるが、これも正直その類のようにも思えた。○。

○リットン指揮ロイヤル・フィル(放送)2011/8/16プロムスlive

バックスの大曲あとチェロのソリストによるアンコールならびに休憩明けでしめやかに始まる。これまたアクがなく聴きやすい。過度の感情も冷たい純音楽志向もなく、何かしらの素直な祈りを感じさせる。○。

悪口学校序曲

◎デ・サーバタ指揮ニューヨーク・フィル(NUOVA ERA)1950/3/18live

バーバー21歳の作品。耳馴染みがよく、適度にスペクタルである。管弦楽の充実ぶりにはウォルトンを思わせるところがある。この曲はシェリダンの喜劇のために書かれたものだが無論随所にアメリカ的なわかりやすい旋律や垢抜けた響きがきこえるものの、分厚い音響は西欧的でもあり、バーバーの作風を非常に象徴している。デ・サーバタの水際立った指揮は曲にマッチして、この滅多に演奏・録音されない、しかし魅力的な小品のよさをはっきりと伝える演奏になっている。晦渋なところは少しも無いから、ご興味があればぜひ。

○ヤンッセン指揮ヤンッセン交響楽団(WHRA/victor)1942/3/11・CD

明るく楽しげな様子で縦というかアタックは甘めだが達者な演奏だと思う。ヴァイオリンのポルタメントがなつかしい。バーバーは弦楽器が分厚くないと魅力が出ないが、SP音源にしては、音は割れるが、聴けるものとなっている。ヤンッセンはこの時代の音盤ではよく聞く名前。○。

カンテルリ指揮NBC交響楽団(ASdisc)1953/12/20live

デ・サーバタの演奏と比べるといくぶん落ちる。オケの統率力が弱いとまでは言わないけれど、いまひとつノリきれない。やや散漫な曲の弱点もくっきり浮かび上がっている。全体構造の把握がいまいちなのだ。推薦はできない。

○シッパース指揮ニューヨーク・フィル(SONY)1965/1/26

情熱的で息の長い旋律、ウォルトンのような華麗なオーケストレーション、いい曲だ。このように良い録音で聞くと、曲構造が透けて見えてわかりやすい。作品番号5、このころのバーバーはとりわけ前時代的でなかなか良い。ニューヨーク・フィルは巧い。さすがだ。いささか唐突な終わりかたはここでも若干違和感を感じる。ところで、私は意地でもこの曲の題名を「スキャンダル学園」としているが、じっさいは「悪口学校」という名で呼ばれるもの。でも、スキャンダル学園のほうが安手のドラマみたいでいいけどなー・・・

管弦楽のためのエッセイ第1番

○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R他)1939(38?)/11/5放送live

放送エアチェックで恐らく38年の放送初演時のものだと思う(ラジオアナウンサーは38年11月5日と言っている、但しいっしょにアナウンスされた「弦楽のためのアダージオ」は収録されておらず、拍手の入り方からしてもアダージオ(記録上は同じ11月5日の放送で編曲版初演されたことになっている)が放送上カットされている可能性が高く、39年に再編集放送でもされた記録なのかもしれない)。トスカニーニはアメリカにわたった指揮者が半ば使命であるかのように新作初演を旺盛に行った渦中で、同じようにこういった新作の初演をほとんどヤケのように乱発していた時期があり、解釈的には引きしまったいつものトスカニーニ流儀で通しているのだがオケはかなりきつい演奏をしている場合もある。この異常に速い演奏にしてもさすがに少しバラケが混ざったり、余りに即物的な解釈のせいか余韻のない終わり方でばらけた拍手を呼んでしまったりする。もっとも曲自体が情に溺れすぎない男らしい抒情をかもす、新ロマン主義でもヨーロッパ指向の強いしっかりした作品であるため少しくらいのブレや解釈の素っ気無さ(いい言い方をすればスポーティ)によって揺らぐたぐいのものではなく、30年代昭和初期の時代においてこんなにモダンなアンサンブルがギチギチと生でこうじられていたことにちょっと驚かされる。ピアノの響きがかっこいい。○。メインプロは新世界だったようだ。別項に書く。

○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(WHRA)1938/11/5live・CD

きびきびした動きがはっきりとらえられ、アダージョと同時録音とは思えない。これは食い気味で拍手入るわな、というみずみずしいアンサンブル、鍛え上げられた楽団の性能が発揮されている。曲もバーバーの代表作のひとつ、おすすめ。○。

◎トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1942/1/24放送用スタジオ録音

正規でも出ていそうな音源。トスカニーニの中では素晴らしく録音がよく、演奏精度も極めて高い。わりと細かい動きでばらけるNBCオケの弦楽器が細部までぴっちり揃って圧倒的な技術を見せ付ける。ここまできちっと出来ていると逆に、楽曲の何も言わないうちに終わってしまうような、あっさりしすぎた感じ、きつく言えば底浅さに気づかされる思いだ。ブリテンのシンフォニア・ダ・レクイエムに似た曲ではあるが前提となる深慮も構成にも創意はあまり感じられず、技術的才能だけで作った感じが否めない。前半の重厚でロマンティックなメロディと後半のちょこまかした細かい動きのパセージがただくっついている、それが余りにあからさまにわかってしまう。演奏精度が高すぎると、曲が剥き出しになってぼろが出る見本のようなものだ。ただ、演奏者と録音に敬意を表して◎。(2005以前)

ライヴではないため演奏精度は非常に高い。プロコフィエフ張りのヴァイオリンの走句もブレなく揃い丁々発止のアンサンブルが繰り広げられる。ほとんど判で押したような演奏ぶりで他録と代わり映えのしないものではあるが(当時の演奏会やラジオ放送でのクラシック音楽の視聴状況を考えると、時代の特徴として生演奏であっても「素晴らしかった録音」と同じ演奏がむしろ求められることもあったわけで、社会的状況次第で責められないところもあるのだが、アメリカでは)、42年という時期を考えると録音もよく、細部まで引き締まった「まだまだ元気なトスカニーニ」が聴ける面で価値はあろう。(2008/10/14)

セル指揮ニューヨーク・フィル(NYP)1950/12/10放送LIVE

セルはよくバーバーを取り上げたようだが、この曲ははっきり言って手堅い凡作といったところ。シェフとしてセルは最大限の努力をしているようだけれども、録音の悪さも災いして、記憶に残らない演奏になってしまっている。7分ジャスト。無印。

○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(BIDDULPH/VICTOR)1940/8/20


さすがアメリカの曲だけあってオケも指揮もノっている。フィラ管の分厚い音が重厚な作品の雰囲気を盛り上げている。バーバーらしい暗い曲だが、華やかな管弦楽のおりなす綾が美しい。ブラス陣の充実は言うに及ばず、速いパッセージではフィラ管の木管・弦楽器の鋭いアンサンブルが楽しめる。素晴らしく颯爽とした演奏だ。セルの演奏ではピンとこなかった私でも、これは面白いと思った。オーマンディの性向と曲の性向が一致したということなのだろう。ブリテンの管弦楽曲を彷彿とする佳作。録音は戦前のものとしてはいい方。○。

管弦楽のためのエッセイ第2番

○ワルター指揮NYP(WHRA)1942/4/16カーネギーホールlive・CD


どうも弦楽器のキレが悪いのだが珍しい曲を少しマーラーチックに深みを持たせてロマンティックに流れさせていくさまはまあまあ面白い。トスカニーニがやっていれば、と思わずにおれないが。。楽団特有の鈍重さがバーバーの響きにはあっているかもしれない。○。

○ゴルシュマン指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア(NBC交響楽団)(VANGUARD)

90年代のハリウッドの映画音楽といったらこういう曲を思い浮べる人が多いであろう、といういわばブーランジェ的アメリカ音楽を中欧指向の重厚確固たる構造の上に組み込んだ折衷的音楽のなかに、ドラマチックなロマンチシズムを展開させていったバーバーの「表の面」が巧みに発揮された起伏の激しい一曲で、ゴルシュマンもすっかりアメリカニズムを体言すべくこの上ないオケ相手に完璧にこの曲の理想的な姿を演じきっている。細部まで隙なく造りこまれた造形の見事さを明瞭なステレオで重すぎず暗すぎず聴きとおすことができる。詩的な側面が技巧的先鋭性、とくにベルクなどを目したような理知的な語法に反映させられ、編成の小さい曲だと露骨に現代性があらわれて非常にわかりにくくなることもあるが、よく整理され綺麗にまとめられた演奏、フランスでもゴリゴリのアメリカ・アカデミズムでもないバーバーの特異性と、異国人にとっての聴き易さを引き出した名演。ゴルシュマンてこんな人だったっけ?つか、このオケ凄いね。

○モートン・グールド指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1978live

旋律らしい長さを持った旋律を使用していないにもかかわらずロマンティックな流れが終始保たれるネオ・ロマンチシズム。ワルターが好きそうな曲だ。コケオドシ的ともとれる映画音楽的表現によって聴かせ通すバーバー力づくの技が聴ける佳曲。正直いろんな作曲家のハイライトの寄せ集め感もあり、あれ低弦のピチカートに低音ブラスを重ねる印象的な方法はRVWだとか、弦とブラスを対位的に絡ませ派手にかます方法はヒンデミットだとか、この分散和音的フレーズはウォルトンがよく使う、とか、でも、そういう音楽が好きな向きにはたまらないんですよね。グールドは作曲家としても通俗小品の指揮者としても知られ長生したが、こういう曲ではさすが。オケが力ある明るいオケなだけにバーバーの暗さが陰鬱に落ちず直線的に聴けるのはうれしい。優秀ステレオ録音で環境雑音まで極めて明瞭。

メデアの瞑想と復讐の踊り

○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA/BMG)1957/4/10・CD


なんだかんだいってアメリカ・アカデミズム一の才者であり、最も成功したネオロマンティストである。この鮮やかな手腕には無駄も隙もない。個性もないと言ったら語弊があるがクセのあるロマンティストなんてちょっとハンパなわけで、クセはないほうがいいのである。素晴らしいオーケストレイションの腕、音楽は踊る。あきらかにストラヴィンスキーを意識しているがRVWのように決して踏み外すことはなく、職人性という意味ではオネゲルを彷彿とさせる。ミュンシュもフランス的な一種耳馴染みよさを持った曲にはうってつけの指揮者だろう。○。

○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(ALTUS)1960/5/29live・CD


来日公演の演目だが珍しかったろう。当時のこの組み合わせのレパートリーであった。その全記録中ではこれは録音がクリアで抜けがいいから聴く価値はある。バーバーというと重い響きだがここでは必要な音しか重ねず旋律的にもヨーロッパ的な古臭さは無い。演奏は達者だ。聞き応えあり。○。

コマンド・マーチ

○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(WHRA)1943/10/30live・CD

快演・・・といわざるをえまい。戦争絡みの曲、演奏ではあるが、前向きで、歌詞でもついてそうな勇ましさ。クーセヴィツキーがまたよく軽快に響かせる。○。

シェリーによる一場面のための音楽


○ゴルシュマン指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア(NBC交響楽団)(VANGUARD)


まさに映画音楽!暗い初期作品だが旋律の魅力と既に確立されたアカデミックな手法の清々しさで聴き通せる。見通しのいい演奏・録音もすばらしい。

○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(TCO)1956/10/25・CD

セルの近現代はしばしばオケをまとめることに専念し過ぎて人工的でぎくしゃくしたものになることがあるが、この演奏はバーバーの西欧的で前時代的な、しかもいい意味で個性のない聴きやすいものであるがゆえ、成功していると言えるだろう。音場が狭いとはいえ何とステレオでこれまた聴きやすい。暗い音楽を暗いまま演奏してしまっているが、当時のこのオケがアメリカでも西欧的過ぎることで有名な重苦しいスタイルを持っていたこともあるし、また曲的にこれでいいのだろう。○。

弦楽のためのセレナーデ(もしくは弦楽四重奏のための)

○ゴルシュマン指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア(NBC交響楽団)(VANGUARD)

作品番号1、19才のときの作品で、擬古典的であきらかにカルテット向きの小品だが、ゴルシュマンは非常に引き締まったオケの技術を生かし、大編成で稀有壮大にやり放っている。三楽章制で中間に「弦楽のためのアダージオ」を予感させる緩徐楽章をはさみ、手法の古さは否めないがこの年の作品としてはきわめて完成されたものの感がある。というかおじいちゃんである。おじいちゃんが筆をすさばせたような擬ハイドンに山葵を僅かに挟んだような。まあ、特に・・・

クリスマスに

○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(WHRA)1960/12/23live・CD


クリスマスへの前奏曲、という説明のとおり、クリスマスにまつわる童謡や賛美歌からの旋律が引用されメドレーのように管弦楽により綴られてゆく。いわば編曲作品だ。バーバーの職人的な仕事はかなりの技巧を要求する一筋縄ではいかないもので、そここそが聞き物である。バーバーはメロディストではあるが、このように聞き知ったメロディを使ったほうがその作曲手腕の見事さが明確になり、魅力的に感じる。ミュンシュは案外曲にあっている。勢いで突き進むだけでも曲になるわかりやすさゆえ、かもしれない。楽団の即物性が余計な色付けをしないのも聴きやすい。○。

キャプリコーン協奏曲

チェリビダッケ指揮ベルリン・フィル(AUDIOPHILE)1950


フルート、オーボエ、ペットに弦楽合奏という小編成の曲。キャプリコーンは作曲家の山荘の名前だそうだ。バーバーは至極わかりやすい曲と晦渋な曲の両極端の作風を使い分けていたようだが、この曲はおおまかには晦渋。しかし僅かに夢見るような美しいメロディが織り交ざり、これだからバーバーはやめられない。アタマのいい人の作ったアタマでっかちな曲、と言った感じもしなくはないが、同時代の前衛作曲家に比べればましだろう。この演奏はとてもまとまっていて楽しめる。

つづく
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カバレフスキー (2012/3までのまとめ)

2012年03月30日 | Weblog
<ソヴィエト社会主義レアリズムの象徴。体制迎合的な作曲家の中でも最も才能に恵まれ、作風は必ずしも伝統的民族主義には留まらないモダニズムの後波も残しているものの、極めて平易な管弦楽曲の数々で世界中の子供の運動会に貢献した。大規模な歌劇や歌曲でも名声を博し「レクイエム」の自作自演録音は有名。ミャスコフスキーの弟子であることは知られているがゴリデンヴァイゼルの弟子でもあり、ピアノ協奏曲は技巧的バランスにすぐれ今も演奏される。>

交響曲第2番

トスカニーニ指揮NBC交響楽団?(協会盤)1942・LP

非常に音の悪い協会盤であるがリマスターした復刻があればぜひそちらを聞いてほしい。冒頭の和音だけでもう聞くのがイヤになる野暮ったいロシアン晦渋だが(これがなければ国家(某女史)が許さなかったのだろうが)、まあ前半楽章はなんとか我慢するとして(よく1楽章最後で拍手が出たもんだ、逆に感動する)、後半楽章で軽やかで楽しいカバちゃん風味が出てくるので、コラ・ブルニョン的感興はそこまで待ちましょう。トスカニーニ自体は凄いですよ。こんなのトスカニーニじゃなければまともに弾きたくないでしょう、お国ものでもあるまいにアメリカ人。最後まで雄弁にしなやかに突き進む。音響が小さくまとまるのはこの時期のライヴ録音では仕方の無いもので、決してトスカニーニ自体が小さくまとめる指揮者ではないとは思うが、まあ、スケール感は期待できない。純粋に運動だ。好意的に聞いて○、しかしあんまりにも音が悪いので無印。いっしょに入っている43年録音コラ・ブルニョン序曲なるものは英国のCD化音源と同じと思われるが非常に音は悪い。

トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1942/11/18(8?)LIVE


録音が籠もりまくりで非常に聞き辛い。この音は聞き覚えがあるので既出盤かもしれない(後注:11月8日のものとされる音源がweb配信されている)。没入しない引いたスタンスの音とテンポをとっているが、退屈な緩徐楽章のあとフィナーレがやけに速く、その中にひそむイマジネイティブな瑞々しい曲想を鮮やかに浮き彫りにして、まるでジョン・ウィリアムズの映画音楽のように爽やかな主題が暗い一楽章の主題再現を押し退け、すっぱり抜け出たまま綺麗に締める。ドラマはないが客席反応もいい(一楽章最後に拍手があっても)。録音がよければじつにカラフルな南欧的な明るさを味わえたかもしれない。トスカニーニの適性がどこにあるのかはっきりわかる演奏。

トスカニーニ指揮NBC交響楽団(放送)1942/11/8LIVE

音が悪すぎてよくわからない。曲はちょっとショスタコの1番を思わせる簡素な構造を持っているが、ボロディンやカリンニコフを削ぎ落とし骨にしたようなじつに古色蒼然。新しさと古さの自然な同居ぶりがカバレフスキーの特長なんだろう。ただこれは、音が悪すぎてよくわからない。

トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CDーR)1945/3/25LIVE


録音が非力すぎる。かなり乗って演奏しているみたいだが想像で補完しないとこのわかりやすさの極致のような曲でも解析がつらい。トスカニーニがなぜにこの恥ずかしい曲を何度もやっているのかわからないが、ロシア国民楽派嫌いに陥っている私でも引き込まれる瞬間はあった。アンサンブルと集中力。おそらく協会盤LPと同じ。

○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1946/3/9live

快演で、この若干脇の甘い曲を引き締まったオケによりきびきびと演じている。トスカニーニが比較的よくやった曲だが、なにせオケが違う。ボストンは寄せ集めNBCオケなどと違う。合奏のボリューム、大きなデュナーミク、響きの底深さ、2楽章など曲が緩いのでどうしても弛緩して聴こえてしまうものの、両端楽章の迫力は十分に買える。身の詰まった演奏。冒頭テープヒスが痛ましいなど悪録音だが、○。

○ラフミロビッチ指揮ローマ聖チチェリア管弦楽団(EMI)CD

早世が惜しまれる名手だが、このミャスコフスキーをあく抜きしてプロコの手口を付けたしたような余り受けそうにない曲目のリズムと旋律の魅力を引き出し、技術的に完璧ではないものの俊敏で洗練されたスタイルを持つオケの表現意志を上手く煽って聞き応えのあるものに仕立てている。二楽章はそれでもキツイが、速い両端楽章はとにかく引き締まってかつ前進力にあふれ、力強くも透明な色彩感を保った音がロシア臭をなくしとても入りやすい。即物的だがトスカニーニのように空疎ではない、古い演奏では推薦できるものだろう。○。

交響曲第4番

○作曲家指揮レニングラード・フィル(MELODIYA)

まあ新古典主義の影響を受けたマイナー交響曲という感じで、いささか冗長感のある曲である。終楽章などけっこうかっこいいが、旋律の魅力はそれほど強くないし、響きの面白さもソヴィエト楽界の最大公約数的なところに留まっている。メロディヤ録音の常で響きがスカスカに聞こえるのも痛い。悪くはない。アメリカあたりのアカデミックな交響曲に比べれば段違いにスマートでわかりやすい。でも聴きおわって終楽章以外の印象が残っていないことに愕然とした。おまけで○ひとつ。CDで出ていたが現在入手可否不明。

○ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(NICKSON)1957/3/11LIVE・CD

ミトロプーロスの勢いに圧倒される。このプロコフィエフとショスタコーヴィチを足して4で割ったような作品に対して、つねに旋律を意識しそれに絡む音を巧く制御しながら流れ良い音楽を生み出している。1楽章などかなり面白いのだが、2楽章あたりでちょっと飽きてくる。それでもさすがミトプー、曲の弱さは勢いでカバー。結果として3楽章以下面白さを巻き返し、大団円につなげている。ほんと聴いているとプロコフィエフ、それも晩年の穏健なプロコフィエフを思わせる旋律、コード進行、楽器法のオンパレードで、それはそれで面白いけど、借り物のように座りの悪いところがある。全般にこの作曲家にしては少し暗さを感じさせる所があるが、そこはショスタコーヴィチの11、12番シンフォニーの雰囲気と物凄く良く似ている(民謡旋律のとってつけたような使い方も似)。但しこちらは56年作品、ショスタコの11番が57年作品。まあ同時代の空気に同じように反応したということなのだろう。○ひとつ。

コラ・ブルニョン序曲

○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R/DELL ARTE)1943/4/11LIVE・CD

プロコフィエフを灰汁抜きしてショスタコーヴィチの通俗曲とかけあわせたような作風、というのが私のカバレフスキー観だが、そうはいってもそうとうの数の作品を長い人生の中で書き綴ってきた作曲家であり、いろいろな作風の作品があることも事実である。単純ではない、ソヴィエトの作家は。プロコフィエフの影響は否定できないけれども、プロコフィエフの遺作のオーケストレーションを行ったりして恩返しをしている。歌劇コラ・ブルニョンは若きカバレフスキーの代表作であり、台本がロマン・ロランであり、フランス民謡を用いていることからしてロシア大衆のための作品としてかかれたとは思えないものだが、無心で聴く限り非常に平易で洒脱、まさにプロコフィエフの毒を抜いて食しやすくしたような曲で、結果として大衆受けしたことは想像に難くない。外国でも受けて、トスカニーニも序曲を振る気になったのだろう。ジャズふうの妙なリズムもカバレフスキーらしいものだが、そういった世俗的で下卑た癖を、トスカニーニは颯爽とした棒によりうまく取り去っている。歴史的録音として○ひとつ。(2005以前)

比較的落ち着いたテンポで楽しげにこの一種諧謔的な楽曲をリズムよく表現している。屈託なく躊躇もなく、慣れた調子といえばそうだ。今も名前がのこる楽曲というのは例えどんなにキッチュで後ろ向きであっても何かしら他とは違う魅力をはなっているもので、この率直な解釈では余り面白くない演奏にもできてしまうところ曲想と管弦楽の響きの面白さだけでどんな演奏でも聴かせる力は元々あるのであり、トスカニーニだからどうこうということはないかもしれない。しっかりした演奏ではある。 (2007/3/9)

作曲家指揮ボリショイ劇場管弦楽団(COLOSSEUM)LP

いささか弱い。音量が少ないせいもあるが、溌剌とリズミカルに演じるべきこの曲を、妙にぎくしゃくだらだら振ってしまっている。折角の名曲にもったいない。ジャズふうのフレーズにも遊びが欲しい。無印。モノラル。

○ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(NICKSON)1955/8/5LIVE・CD

きわめてクリアな音質で驚く。耳にキンキン響いて却って耳障り。派手で盛り上がる曲だが、派手すぎて少々疲れる。勢いは買おう。○。

チェロ協奏曲第1番OP.49

◎シャフラン(VC)作曲家指揮ソヴィエト国立管弦楽団(VANGUARD)


名曲。かなりプロコフィエフっぽいが、プロコフィエフのように晦渋で偏屈なところがなく、素直に楽しめる曲だ。ウォルトンのチェロ協奏曲を思わせる冒頭からぐいっと引き込まれる旋律の力は強力。チェリストがひたすら旋律を歌いまくり、カバレフスキーだからかなりせわしない動きがあるのだけれども、シャフランは唖然とするほど弾きこなし、大家らしさを見せている。ロストロといいシャフランといいこの国のチェリストはどうなっているんだろう。圧倒的な1楽章、カバレフスキーの抒情が臭くならない程度にほどよく出た緩徐楽章、これまたせわしない曲想だが非常に効果的な終楽章、とにかくわかりやすさが魅力の第一ではあるが円熟したカバレフスキーの隙の無い書法に感銘を受けた。オケはソヴィエト国立だがレニフィルのように緊密でまとまりがよく、カバレフスキーのそつない棒によくつけている。いい曲だなしかし。。ぜひ聴いてみてください。この組み合わせは最高だが、他の演奏家でもきっとうまく響くはず。◎。

○ジャンドロン(Vc)ドラティ指揮スイス・イタリア語放送管弦楽団(KARNA:CD-R)live

指が軽く冒頭から装飾音が音になっていなかったり音程が危うかったりちょっと安定しないが、2楽章カデンツァあたりから低音が力強く響くようになり安定してくる。3楽章は元がロシアのデロデロ節なだけに、ジャンドロンらしい柔らかくニュートラルな音で程よくドライヴされると聴き易くてよい。ドラティはさすがの攻撃的なサポートで前半ジャンドロンの不調(衰え?)を補っている。この曲のロシアロシアした面が鼻につくという人にはとても向いているが、録音特性やソリストの適性もあり決して最大の推薦はつけられないか。○。

チェロ協奏曲第2番OP.77

シャフラン(VC)作曲家指揮レニングラード・フィル(CELLO CLASSICS)CD

ショスタコの晦渋な曲パターンのまじめでつまらない曲。

ピアノ協奏曲第3番

○ギレリス(p)作曲家指揮モスクワ放送交響楽団(olympia)1954

恥ずかしさ炸裂の社会主義リアリズム節。当初より青少年向けに企画された曲だけに、ラフマニノフその他のわかりやすいロマン派ピアノ協奏曲を諸所で彷彿とさせる。旋律は全て明白、ロシア民謡的。終楽章最後で1楽章の主題が回想されるところなど穴があったら入りたいくらいだ。カバレフスキーは決して先祖回帰的な作曲家ではなく、モダニズムや新古典の空気をめいっぱい吸った作曲家でもある(2番を聞けばよくわかる)のだが、ここでは古臭い雰囲気を終始漂わせている。ギレリスはそつなくやっている。放送響も巧くこなしている。カバレフスキーの指揮は明快。そんな感じ。

ピアノ協奏曲第4番


◎ポポフ(p)カバレフスキー指揮モスクワ・フィル(olympia)1981


なかなか面白い曲。三楽章制だがこの演奏でわずか13分、簡潔だ。懐かしきモダニズムの時代を思わせる鮮烈な出だしから、プロコフィエフ的な新古典的展開。響きは清新な空気を振り撒き、部分的に非常に美しい。民謡ふうの旋律はまったく無く、新しい時代の曲であることをアピールする。終楽章はスネアドラムの焦燥感に満ちた音が面白いスパイスとなっていて、ジャズふうの曲想とからみ、耳を惹く。その響きはアメリカ的ですらある。ポポフが巧い。

弦楽四重奏曲第2番

ナウマン四重奏団(URANIA)

やわらかい音は好みだが戦闘的なソビエト音楽にはヤワすぎるか。全般迫力に欠け技術が足りないようにも感じる。とくにファーストのハイポジの音程が低いのは気になった。明快な和音もきれいに響かないのだ。団体としては一流とは言えない。曲については、わかりやすい。多分に漏れず通俗的で明せきな音楽である。かなりテンション高いタカタカした動きが目立つが、いかにもソビエト時代の大衆向け音楽の感じがする。ハーモニーも曲想もいたって古風だが、ショスタコっぽい旋律が多く楽しめる(この曲、全般にプロコの新古典的書法やショスタコの清明だが皮肉っぽい音楽を彷彿とするところが多い)。緩徐部、緩徐楽章はわかりやすい民謡ふう主題にちょっとクセのある転調をかましたりするところは師匠ミャスコフスキーを(僅かだが)思わせる。3楽章はどこどこどこ低い音域を駆け回るが、畳み掛けるような最後などやっぱりショスタコ。4楽章はアイロニカルな主題はちょっと面白くプロコふうだが(とくに暗い緩徐部の最後でちょっとずつ主題が戻るとこはあざといまでに効果的)、曲の流れはまるでショスタコのわかりやすいところを取り出して組み合わせたようで楽しめる。緩徐部の暗さはあくまで旋律性の上に成り立っておりやっぱりプロコ的。ちょこちょこした動きがダイナミックに交錯する後半~クライマックスはファーストが辛そう。このカルテットには厳しすぎるかも。曲の良さがうまく消化しきれていない感じがするが、曲はけっこう面白い。1945年作品(終戦の年だ)でカバレフスキーとしては比較的新しいほうの作品だ。プロコは2作のカルテットを既に作曲し終えているが、ショスタコは2番を前年に仕上げたところ(従ってカバレフスキーが逆にショスタコを予告した作品とも言える)。ソヴィエト国家賞を受けた3番(翌年作)が有名。
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リムスキー・コルサコフ シェヘラザード(2012/3までのまとめ)

2012年03月30日 | Weblog
シェヘラザード(1888)

<リムスキー・コルサコフの代表作。「千夜一夜物語」に基づく4つのエピソードを曲にしている。組曲ではあるが、シェヘラザードを象徴するヴァイオリン独奏旋律が全楽章を統一しており、交響曲的なまとまりが感じられる。各楽章の表題はほんらい付けられていない。ワグナーの影響下にありながらもエキゾチックな素材を利用して独自の色彩的な世界を描いており、効果的な管弦楽法はロシア国民楽派の到達したひとつの頂点を示している。>


ゴーベール指揮パリ音楽院管弦楽団(VOGUE)1928/7/6,1929/4

~品のいいおちょぼ口のシェヘラザード。私はこれくらいのほうが好きである。ゴーベールはこれ以前にも抜粋録音しているそうだが、雑音をカットしたおかげで茫洋としてしまった録音の奥からは、リムスキーの色彩的な管弦楽法を十分に生かした立体的な演奏が聞こえてくる。けっしてこなれた演奏ではないし、2楽章のリズム、3楽章の歌、終楽章の感興などもっとはじけてもいいと思うが、まるでラヴェルのダフクロあたりを思わせる香気立ち昇る雰囲気が全体を包んでおり、また颯爽とした指揮ぶりにも自信がみなぎり魅力を感じる。ただ、ヘタなものはヘタ。ヴァイオリン・ソロの高音の音程がアヤシイしボウイングもぎごちないのが何より気になる。管楽器のソロは割と安定してはいるもののミスが無いわけじゃない。アンサンブルもわりとばらけがちで集中力が散漫な感じがする。これは録音のせいという気もしなくもないが、それを割り引いても「ヘタ」という印象は変わらないと思う。でも、いい演奏ですよ(自己矛盾)。

○フリート指揮伝モスクワ放送交響楽団(DANTE,LYS)1928

20年代と古いのに録音はかなり善戦。40年代位の感覚で聞けるから嬉しい。オスカー・フリートがどうしてソヴィエトのオケを振ったのかわからないが、引き締まった演奏ぶりはフリートの「なんとなく中途半端」のイメージを覆すものとして目から(いや耳から)ウロコが落ちる思いだった。ソリストの音色も細かいところまでは聞き取れないが美しい。オールドスタイルな演奏法は意外にも目立たず、全般にけっこうシャープである。デロデロ節もなきにしもあらずだが、どちらかというと一本筋の通ったドイツ的な演奏だ。3楽章もけっこう歌ってはいるがよたってはいない。シェヘラザードが好きな人だったら一度試してみても面白いと思う。○。それにしてもモスクワのオケはこの時点ではロシア節炸裂爆演というわけではなかったんだな。。
(後註:オケはロシアオケではないとのことです。)

○シュヒター指揮北ドイツ交響楽団(MHS)LP

珍しい録音をいろいろ出していた新しい会員頒布制レーベルからのこれは再発か。オケ名も不確か。がっちりした構成でしっかり聞かせる演奏。まさに純音楽指向で艶や感興とは無縁。このストイックさにごく一部のマニアは惹かれるのだろう。N響時代のことなんて誰も覚えちゃいないだろうが、統率力の大きさと無個性な解釈のアンバランスさに、忘れられても仕方ないかな、と思う。いつも後期ロマン派以降の曲の演奏でみせる杓子定規的な表現は、この珍しいステレオ録音では意外と悪い方向へ向かわずに、曲が本来持っている生臭さをなくして非常に聴きやすくしている。はっきり言って「普通」なのだが、そのまま気持ち良く聞き流せてしまう、何も残らないけど気持ち良い、そんな演奏もあっていいだろう。〇。

○カール・ルフト指揮ベルリン放送交響楽団(LE CHANT DU MONDE)LP

覆面指揮者と話題になった、いかにもフルヴェン時代のドイツを思わせる強い推進力をもった威圧的な演奏。ソリストもものすごくソリスティックに個性をアピールしてくるのが印象的。ただ、私の盤質がものすごく悪いのと、やっぱりドイツだなあ、というような渋さがつきまとい、好みは分かれると思う。派手にリムスキーの色彩感をあおる演奏が好きなら南の国の演奏を聴かれるがよい、もしくはロシアの。○。

◎クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1946/4/6live


怒涛の剛速球、凄まじい名演。とにかく速く、カットがあるのかと思うほど。ラフマニノフのシンフォニー2番ライヴに近いスタイルで、これは弛緩した楽曲にはうってつけのやり方である。ボストン黄金期の機能性と馬力が最大限に発揮され、ミュンシュライヴと聴きまごうほど。統制が凄く、専制君主的な存在であったことを伺わせるが、聴く側にとっては清清しい。ミュンシュのような柔軟な統制ではなく一直線なので確かに単調な側面はあるのだが、ロマンティックなグズグズの曲やパズルのような構造をきっちり組み立てないとならない現代曲にはこのような直線的スタイルはあっている。ほんとにあっという間に聴き終わり、終演後の大喝采も演奏の成功を物語る。ロシア臭が無いというわけでもなく、濃厚な味がぎゅっと凝縮。3楽章ではねちっこいまでの自在なルバートが詠嘆のフレーズに織り込まれる。いや、私はこのシェヘラザードなら何度でも聴ける。録音がかなり悪いが、◎。

コンドラシン指揮コンセルトヘボウ管弦楽団(PHILIPS)1979/6

~コンドラシンらしい凝縮された密度の濃い演奏だ。クレバースのヴァイオリンソロが細いながらも美しい音色で一服の清涼剤たりえている。この人の演奏はその芸風からか小さく凝り固まってしまう場合も多いが、ここでもそんな感じがしなくはない。テンションこそ高いものの渋い演奏で派手さはなく、かといって哲学的なまでに内面を追求したわけでもなく、どことなく中庸な雰囲気が漂ってしまう。まあ、ブラスの鳴らし方などにロシア流儀が聞き取れるし、「中庸」は適切な言葉ではないかもしれないが、なぜか音色的に地味なのである・・ACOなのに。アンサンブル力や各セクションの素晴らしい表現力がコンドラシンの豪快な棒に乗ってとても高精度の演奏をやっつけているが・・・思わず寝てしまった。。録音のせいとしておきたい。

ラフリン指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA)LP

なんとも鈍重で、薄い響きの目立つ弛緩したような始まり方をするが、ソリストは正確にやっており、オケも進むにつれ情緒テンメン節を忠実に表現しようとし始める(板につくまでに時間がかかっているということだ)。人工的な、ドイツっぽいガチガチしたシェラザードだ。ぶつ切り継ぎ接ぎ録音編集ではないか。モノラルだがこのオケの怜悧な音だと更にモノトーンに聞こえてしまう。2楽章でもしっかり型にはめ正確に吹かせようとするごときラフリンのやり方に青臭い不自然さが漂う。前のめりの感情的な盛り上げ方をしないから、少し飽きる。テンポ的な起伏がなく実直な遅さもロシアらしくない。終盤前に間をたっぷり使ったハープとフルート等のアンサンブルが幻想的で美しい。こういう印象派的表現はガウクも得意としたところだが、たんにゆっくりやっただけとも言える。素直な3楽章はゆっくり時間をかけてちゃんと歌っている。重いけれども。テンポが前に向かわない中間部ではあるが附点音符付きのリズム感はよくキレていて、バレエ音楽的な処理である。旋律の歌い方が未だ人工的なのは気になるがそうとうに神経質に整理されたさまが伺え、細かい仕掛けが聞こえる楽しさはある。スケールはでかい。4楽章も実直さが気にはなるがソリスト含め表現に荒々しさがあり民族臭が強くなる。全般褒められた演奏ではないが、精度を気にしためずらしい演奏ではある。

○パシャーエフ指揮ボリショイ歌劇場管弦楽団(?)LP

ゆったりした雄大さはないが、パシャーエフの強力な統率力の発揮された熱演。そのリズム良さは速い楽章で発揮されている。3楽章などちょっとしっとりした抒情も欲しくなるが、コンドラシンらの乾燥しきった演奏とは違い「人間らしい音」が出ており、とても感情移入しやすい。いい音出すなあ、ボリショイ管。このオケを下手オケと思ったら大違い、指揮者によってはここまでしっかりやるのだ。アクの強い他のロシア系指揮者にくらべて決して特色のある指揮者とは言えないけれども、感心して最後まで聞けてしまうのは優れた指揮者である証拠。勢いのあるいい演奏です。○ひとつ。個人的には◎にしたい・・・。でも盤面悪くてそこまではつけられない・・・。CD-R化されたことがある。

スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)
○スヴェトラーノフ指揮ロンドン交響楽団(BBC)1978/2/21LIVE


~というわけでロシア系最後の巨匠スヴェトラ御大の登場である。とはいえ手元にはメロディヤの、ステレオではあるがやたら雑音の入るLP(CD化もしてます)と、外様のオケを使ったライヴCDしかないのだが(他にはあるのだろうか?)紹介ぐらいはできるだろう。前者はもうロシアオケにロシア式奏法にロシア式録音+スヴェトラ御大という組み合わせ、くどくなることうけあい。と思ったのだが、起伏には富んでいるものの案外いやらしい音楽にはならない。色彩感はぎらぎらと極限まで強調されているけれども、それはモザイク模様のように組み合わされる音のかけらの集積、けっして様々な音色が有機的に溶け合う生臭い感じの音楽ではない。現代的なシャープな感覚と過剰なまでのデフォルメをうまく使い分けてコントラストのきつい音楽を仕上げるのがスヴェトラーノフ流だ。この2盤に共通するでろでろのロシア節、3楽章冒頭からの旋律はこの曲でもっともロシア的な解釈を施されているが、音色をハッキリと決めてからテンポ・ルバートだけを思い切り自由に使っている。つまりテンポ的にはデロデロだが、音的には比較的あっけらかんとしている。まあ前者はそれでも「いやらしい歌」に聞こえなくはないのだが、なにぶんマイクが物凄くオケに近いためにヴァイオリンのばらけや雑味が思い切り聞こえるし、他にも些細なミスや突出した音が良く聞こえる状態だから、それがほんとうに「いやらしい歌」だったのかすら定かでない。巧い奏者だらけだけれども合奏がいかにも雑なオケ、というソヴィエト国立の悪い面が出てしまっている前者は、無印としておく。後者はロンドン響があまり敏感に反応しないのがイライラするが、おおむねソヴィエト国立と同じような解釈が施されていて、精一杯指揮にあわせて外様のオケとしては考えうる限り最善の演奏を行っているさまが聞き取れる。音のよさと盛大な拍手に敬意を表して○ひとつ。個人的には・・・やっぱりちょっとくどい。

ダヴィド・オイストラフ(Vn)伝アノーソフ指揮ボリショイ管弦楽団(IDIS/MULTISONIC)1950LIVE

~はっきり言ってロシア系の演奏は敬遠したい。ただでさえ体臭のキツいロシア国民楽派(といってもリムスキーはずいぶん洗練されたほうだが)の楽曲に、わざわざロシア系のこれまた体臭のキツい演奏を選ぶ気になれない。多分に夏のせいではある。暑苦しいのだ。だがまあ、このくらい古い演奏になると音色だのなんだのはどうでもよくなってしまう。せっかくオイストラフがソロを弾いていても、その分厚い音色はちっとも伺えず、ただむちゃくちゃに巧いボウイングと危なげない左手(とはいえわずかでも音程が狂わないかといえばウソになるが)だけが感心させるのみ。アノーソフはロシア臭もするがとても骨太でかつ合理的な演奏を指向しており、録音のせいで音色感はよくわからないが、普通に聴きとおすことができる。やはりと言うべきか、冒頭のシャリアール王のテーマ、ロシア的下品さとでも言ったらいいのか、ブラスの重厚だがあけすけに開放的な咆哮は、このアノーソフ盤でもしっかり行われている。まあ、ロシア国民楽派特有の「お定まり」である。色彩性のない録音がマイナス、無印。

(註)この演奏は現在はゴロワノフの伴奏とされている。ソリストがオイストラフに決まった理由はボリショイのコンマスが指揮者の要求に答えられず、「オイストラフを呼んでこい!」の一言で辞めさせられたためということだ。ちなみに私の手元にはゴロワノフと明記された別のCDもあるが、まだ聴いていない。恐らく同じ演奏なのだろう。

○ズーク(Vn)イワーノフ指揮モスクワ放送フィル交響楽団(THEATRE DISQUES:CD-R)1978/3/16LIVE

これはMELODIYAで流通していたLP原盤なのだろうか?何故か縁無いうちに裏青化したので買ったが、明らかな板起こしである。取り立てて名演ではないが何故中古市場にそれほど出回らなかったのか?

1楽章は落ち着いたテンポで足取りしっかりとドイツっぽさすら感じさせる。この人はベートーヴェン指揮者であることをしっかり意識して、余り拡散的な灰汁の強い表現をしないときのほうが多い(もちろんするときもある)。楽器の鳴らし方は全盛期スヴェトラとまではいかないが豪放磊落で倍音の多い分厚い音響を好む。だがこの頃のメロディヤのステレオ盤は盤質のこともあり心持軽く薄い響きがしがちで、これも例えばミャスコフスキーの新しい録音で聞かれたものと同じ、ロシア人指揮者にしては相対的に個性が弱く感じるところもある。中庸ではないが中庸的に感じられるのである。

中間楽章では1楽章ほどに遅さは感じず、でも常套的な気もする。ブラスの鳴らし方は思ったとおり、といったふうでロシア式。ヴァイオリンソロはすばらしい、D.オイストラフを思わせる安定感もあるし変なケレン味を持ち込まないのがいい。3楽章はでろでろしているのだが、生臭くない。これは不思議だが中低音域を強く響かせる少し中欧ふうの感覚の発露かもしれない。

4楽章は想定どおりの大団円をもたらしてくれる。これは勿論この人だけではなく同じような盛り上げ方をする人はいくらでもいるんだが、素晴らしく盛り上がる、とだけ言っておく。○か。強くインパクトを与える感じはしない。強いて言えばラフマニノフのシンフォニー2番と同じようなスタンスの録音と思った。

○ストレング(Vn)シェルヒェン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(Westminster)CD

非常に良好なステレオ録音である。演奏はこのコンビらしいコントラストをはっきりつけた飽きさせない内容。スタジオでは比較的マトモといわれるシェルヒェンだが流石に3楽章ではデロデロにテンポを崩し真骨頂を見せている。ただ、このコンビではしばしばあることだが音が醒めていて人工的な印象も受ける。CD復刻の弊害かもしれないので演奏のせいとばかりは言えないだろう。オケは達者なので総じては楽しめると思う。ちょっと弦が薄いのはオケ都合か。○。

○ベイヌム指揮ACO、ダーメン(Vn)(PHILIPS/IMG)1956/5・CD

20世紀の名指揮者シリーズで復刻されたモノラル末期の名録音。スタジオ。速いテンポを一貫してとり、流麗で色彩感に富む演奏を聞かせてくれる。木管ソロのいずれもニュアンス表現の素晴らしさは言うに及ばず、再興ACOの黄金期と言ってもいい時代の力感に満ちた素晴らしくスリリングなアンサンブルを愉しむことができる。ベイヌムは直線的なテンポをとりながらも構造的で立体感ある組み立てをしっかり行っており、同傾向の力感を持つクーセヴィツキーなどと違うのはその点であろう。もっとも録音状態が違いすぎるので(スタジオ録音は有利だ)安易な比較はできないが、リムスキーの管弦楽の粋を聴かせるにステレオでなくてもここまで十全であるというのは並みならぬものを感じさせる。

表現も直裁なだけではない、2楽章の変化に富んだアゴーギグ付け、その最後や4楽章の怒涛の攻撃はライヴ録音を思い起こさせるし(あのライヴは色彩感が落ち流麗さを強引さに転化したちょっと違う印象の録音だが)、ソロ楽器を歌わせながらオケ部には派手な情景描写をバックに描かせ続ける、そういった劇的表現が巧みだ。まさに絵画的な、オペラティックな印象を与える。人によっては純音楽的表現とし表題性を気にしていないと評するかもしれないがそれはあくまで全般的にはスピードが速め安定で構造重視、という側面だけで得られる印象であり、もっと表題性を無くした演奏はいくらでもあるのであって、これは十分表題を音で表現できている。たくさん褒めたが直感的に○。私の好みはクーセヴィツキーのような表題性無視完全即物主義シェヘラザードなのです。シェヘラザードが物欲女というわけではありません(謎)

◎ベイヌム指揮ACO(movimente musica,warner)1957/4/30アムステルダムlive

イワーノフのシェヘラザードを手に入れ損ねて不完全燃焼の状態にふとこの盤を手にとる(イワーノフはかなりリムスキーをいれているのだが復刻が進まない。時代が悪かった、スヴェトラ前任者でモノラルからステレオの過渡期にいただけに陰が薄くなってしまった)。びっくり。

物凄い力感である。そうだ、アムスはこんなオケだった。シェフ次第ではこんなに剛速球を投げる名投手だったのだ。もちろん音色的には必ずしも目立ったものはなくソリストも特長には欠ける(ヴァイオリンソロのとちりには目をつぶれ!)。しかしベイヌムという非常に求心力の強い指揮者のもとにあっては、ひたすらケレン味も憂いもなく、アグレッシブに(3楽章でさえも!)強烈な音力をぶつけてくる。録音も非常に強い。撚れなどもあるが生々しさこの上ない。とにかく気分を発散できる演奏で、まるでライヴにおけるドラティのように「中庸でも玄人好みでもない」ヘビー級の剛速球を投げつけてどうだ、と言わんばかりの感じ、もちろんリムスキーの色彩のフランスライクな側面が好きな「音色派」や、解釈の起伏を楽しみたい「船乗り型リスナー」には向かないが、単彩なコンセルトヘボウを逆手にとった「とにかくこれが俺のシェヘラちゃんなんだよ!オラ!」と言わんばかりの男らしい演奏、私は決してこれが一般的に名盤とは思わないが、個人的に◎をつけておく。飽きません。コンドラシンですらこざかしい。

○ストコフスキ指揮ロンドン交響楽団(LONDON)1964/9/22


この演奏に特徴的なのは旋律の極端な伸縮である。ソリストが自由に旋律をかなでるように、著しく伸び縮みするフレージングは、それがソロ楽器ならともかく、弦楽器全体が一斉に、だったりするので初めて聞くとびっくりする。また耳慣れない表現が混ざるのはスコアをいじっているせいだろうか(スコアを持ってないので確証なし)。明るくあっけらかんとした演奏ではあるが、とても個性的で、まさにストコフスキという人そのものを象徴するような解釈のてんこもりだ。それがちょっと人工的であまりスムーズに動いていかないところがあるのが惜しまれるが、オケは十分な力量を持っており、聞きごたえのある演奏になっている。ヴァイオリンのソリストが余り浮き立ってこないのは録音のせいか。それも解釈のうちかもしれない。こういうものは今の時代だからトンデモ演奏扱いされるわけで、かつて大昔にメンゲルベルクらがやっていた作為的な演奏様式に近いものであり・・・というか
ストコフスキもキャリア的にはその世代に属する指揮者なのだが・・・その点で貴重なステレオ録音であるといえよう。迷ったが○ひとつ。

○ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(DA:CD-R)1962/5/21live

非常に臨場感のあるステレオ録音で、いちいち楽器配置を変えて演奏しているのか、音楽が意表を突いたところから聞こえてきたりといった面白さもよく聞き取れる。多分、会場で聴いているアメリカ人に最もわかりやすいように、どぎついまでに表現を色彩的にしようとしたのであろう。ソリストのメドレーのようにメロディラインが強調され、それがまた物凄いうねり方をするために(スタジオ盤もそうだったが相手が最強のパワー楽団(しかもオーマンディ時代のボリューム・アンサンブルを誇ったメンツ)なだけに尚更!)1楽章くらいは「青少年のための管弦楽入門」のように楽しめたが、3楽章では「もういい・・・」と苦笑。しつつ結局いつものアタッカ突入で楽章変化すら定かじゃない流れで物凄い終局にいたるまで聴いてしまった。弦楽器はいくらなんでも反則だよなあこの力感。。まあ、会場は喝采だろうなあ。録音の限界というものを「逆方向で=どぎつさが更に強調されるようなキンキンした音で」感じさせられた次第。いや、ストコ/フィラ管のステレオでこの曲を聴けるというだけで最大評価されても不思議は無いと思う。○。

○ストコフスキ指揮モンテ・カルロ・フィル(DA:CD-R)1967/7/26live


オケは集中力が高くまとまっていて、各ソリストの技量も高い。ギトギトの脂ぎった光沢をはなつストコの音楽を実に忠実に勢いよく表現しきっている。拡散的で非常に色彩豊かな音響を作るストコの特徴が過度にならず出ていて面白い。ライヴなりに精度には限界があり、ストコらしい彫刻の雑さも耳につく。録音はエアチェックにしてはおおむねよいほうだが撚れや電子雑音が目立つ箇所もある。従ってけしてストコの録音として万全とは言えず、別にこれを取り立てて聴く必要はないが、ダイナミックで異様な迫力に満ちた派手派手なこの音楽が、80台半ばを迎えた老人の指先から生まれてきていることを思うと感動すらおぼえる。耳の確かさ、頑丈さは尋常ではない。これは手兵による演奏ではない。なのにここまで指示が行き届き実演にて統制がとれれば十二分である。下振りによる入念なリハや勝手な指示が山ほど書き込まれた譜面が配られていたにせよ。○。

チェリビダッケ指揮シュツットガルト放送交響楽団(DG)1982/2/18LIVE


~雄大にして緻密なチェリの美学が生きた演奏だが、まず録音状態が、新しいものにしてはあまりよくない。ホワイトノイズが入るし、オケの音は平板。チェリの気合声が気分を高揚させるものの、客観が優る演奏であり、それほどのめり込むことはできない。が、構築的な演奏はまるでひとつのシンフォニーを聴くようで曲にふさわしくないとも言える高潔さや哲学性まで感じさせる。響きの美しさは比類が無く、この時代のリムスキーが世界の最先端を行っていた事を裏付ける和声的な面白さもぞんぶんに味わえる。ハマればとことんハマりこむ演奏であり、私もその一人なのだが、好みで言えばロココ盤や同じシュツットガルトとの海賊盤のほうが自然で好きかも。無機的な感じも恐らくリマスタリングのせいだろう。録音マイナスで一応無印としておく。

◎チェリビダッケ指揮シュツットガルト放送交響楽団(GREAT ARTISTS:CD-R他)1980/2/29LIVE

~この演奏で私は目からウロコが落ちた。シンフォニックな組み立てが生臭い雰囲気を一掃し、格調高い「交響曲」を聞かせている。また非常にこなれている。少々異端ではあるが、名演。

○チェリビダッケ指揮シュツットガルト放送交響楽団(ARLECCHINO)1972LIVE


~モノラルで録音はやや悪いが、演奏はチェリ壮年期の覇気に満ちたもので共感できる。Vnソロに妖艶さが足りないのはいつものことだが、シンフォニックな演奏は物語性から脱却して純粋な音楽として楽しめる。まあ、以前挙げたいくつもの演奏と比べて大差ないのだが、しいていえばロココの盤に近いか(同じかも・・・)。チェリのかけ声が気合が入っていて良い。これも音楽の内だ。シュツットガルトはやや鈍いがおおむねしっかり弾き込んでいる。好演。2楽章に少し欠落あり(原盤)。シュツットガルト・ライヴには1975年のライヴもあるが未聴(ヴィデオも有るらしい)。

○チェリビダッケ指揮交響楽団(ROCOCO)?LIVE

~演奏時間がシュツットガルト(1980)のものと余り変わらず、音色的にも南欧ではなさそう。となると新しい録音のはずだが、ロココのこと、演奏団体名は伏せられ(一応このようなリリースを行う事に対する釈明文が添付されている)録音年月日も不明なうえに、モノラル。モノラルとしても決していい録音状態とはいえないが、曲の概要がわからないまでではない。ライヴ盤にしては見通しの良い精度の高い演奏で、シンフォニックな解釈が私のような表題音楽嫌いにも聴き易くしている。ソロヴァイオリンがかなり巧みで、殆ど1、2箇所くらいしか危うい所が無い・・・ここでシュツットガルトの演奏を思い出すと、音程がけっこう怪しいところがあった気がするので、別録音と判断したいが・・・のはこの演奏の価値を高めている。ワグナーの影響やボロディンふうのエキゾチシズムが横溢する楽曲を、チェリは敢えてそれらと隔絶した、唯「リムスキー」という個性の発現した楽曲として描いている。だからそれらに生臭い感じを覚えることなく、ただモチーフの数々~いい旋律を楽しませてもらった。佳演。拍手は通り一遍。

チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(METEOR/CULT OF CLASSICAL MUSIC:CD-R)1980'S?LIVE

~録音悪すぎ。激しいノイズはエアチェック物であることがバレバレ。これではチェリの目した完璧主義的な音響には遠く及ばない。とにかくこのことが気になってしょうがなかった。また、アンサンブルが緩みがちというか、固くて軋みを生じているというか、作為的な感じがして仕方なかった(1楽章は素晴らしかったが)。シュツットガルト放送響の演奏には強い集中力があり、音響も録音としては理想的であったから、それより後と思われるこの録音の出来は残念としか言いようがない。がんばって手に入れた盤だけに、拍子抜けも著しかった(泣)。ソロヴァイオリンもあまり旨みがない表現。盤評本ではシュツットガルトの録音よりこちらを推しているものもあるが、録音状態をひとまず置いたとしても、この盤がシュツットガルトに比べて更に壮大で迫力があるかというと疑問である(単純な時間の長短の問題ではない)。まあ、聞きたい人は聞いて下さい。私は無印としておきます。

○チェリビダッケ指揮トリノ放送交響楽団(HUNT)1967/2/24LIVE

~なんとステレオだから嬉しい。チェリの解釈のせいかラテンの雰囲気は極力抑えられているが、それでも十分熱気の伝わる演奏になっている。以前挙げたROCOCO盤と同じだと思ったのだが、雑音の入りかたが違うため、これとは違うようだ。チェリの剛直な解釈は客観的な態度も維持しつつ十分劇的で、迫力満天だ。まだ壮大さはないが、しっかりと地面に足をつけた演奏ぶりは後年の悠揚たる演奏を予告している。○ひとつとしておく。

○チェリビダッケ指揮シュツットガルト放送交響楽団(euroarts)DVD

恐らく70年代後半の映像か。見た目の「窮屈さ」と音にみなぎる覇気の間に少し違和感をおぼえるがテンシュテット同様そういうものだろう。まさかカラヤン方式(別録り)ではあるまい。スピードも縦の強さもチェリ壮年期のかっこよさを体言しており、スタジオ収録映像にもかかわらず掛け声をかけたり気合が入りまくりである。シュツットガルトもかなり精度が高い。まあ、チェリのシェヘラザードはたくさんあり、その芸風の範疇におさまる記録ではあるので、見た目にこだわらなければこれを入手する必要はないとは思うが、生気ある白髪チェリを拝みたいかたはどうぞ。モノラル。

◎フリッチャイ指揮ベルリン放送交響楽団(DG)1956/9


~実に男らしいシェヘラザードだ。男臭いと言ってもよい(誉め言葉です)。白黒写真のように単彩ではあるがメリハリの効いた演奏で、ギチギチで火花が飛び散るようなアンサンブルはとくに終曲において圧倒的な迫力を見せつける。楽曲のはらむ生臭い部分はすっかりアクを抜かれており、そもそも「情感」というものを排したものとなっている。スヴェトラーノフなどとは対極の演奏だ。それでもなおたとえば3楽章のアンダンテ主題はかなり作為的にテンポが揺れ動くが、ただ揺れるだけで歌っているわけではない。そこがまた独特の美しさを見せる。計算ずくであることは言うまでもない。テンポ、というのはフリッチャイの演奏に欠かせぬファクターである。この曲でも速いテンポで突き進むところ~終楽章など~は基本的にはタテノリなのだが軍隊行進曲のような心地よい前進性を持っており、耳を惹きつけて離さない。これはフリッチャイ会心の出来だ。言ってみれば表題性を押し退けて、まるで「合奏協奏曲」のように演奏させているといえる。極めて高度な構成感を持った演奏であり、とくに民族音楽的な部分を精緻なアンサンブルの中に昇華させているところはバルトークの演奏法を思わせる。こういう演奏で聞くとリムスキーの現代性が浮き彫りになり、エキゾチシズムや民族性といった生臭い部分は影をひそめる。私はそういう演奏が好きだ。オケは(最高とは言わないが)機能的であり、色彩感はないが、総合の合奏力はそれを補うものがある。このソロヴァイオリンはいたずらに情感を呼ばないところが好きだ。

◎クアドリ指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(WESTMINSTER)

いやー、派手です。爆発してます。しかも響きの重厚さも持ち合わせている。三楽章をはじめとして弦の深く美しい音色の魅力が炸裂。録音もいいので(私の盤は雑音まみれだが)大きな音で浸りきりましょう。とにかくケレン味があって面白くてしょうがない。鮮やかな解釈だ。音もじつに鮮やか。と言っても過度に変な解釈や改変デフォルメのようなものはない。ただ発音の仕方、フレージング、デュナーミク変化などにとても説得力があり、耳を掴んで離さないのだ。繊細さとか、柔らかな響きには欠けているかもしれない。また、表現主義的な厳しさもない。しかしここにはあきらかに息づいている音楽そのものがあり、音を楽しむ以外の何物も表現されていない。リムスキーはこれでいいのだ。今までで一番感動した演奏です。◎。

○ロジンスキ指揮クリーヴランド管弦楽団、フックス(Vn)(COLUMBIA /LYS)1939/12/20

筋肉質で速い演奏だ。いやー、力強いのなんの。クリーヴランド、巧い巧い。細かいパッセージまでしっかり棒に付けてくる。細かい動きまでびしっとあっているアンサンブルのよさに驚嘆。このコンビ、じつはあまり好きではなかったのだが(NYPのほうが好きでした)これは聴くに値するダイナミックな熱演。3楽章のスピード感、4楽章の畳み掛け、緩やかな部分が無いのが弱点といえば弱点だが、休む間もなく40分強。CD化していたのかもしれないが見たことは無い。モノラルだから単品では出難いかもしれないが、ドキュメントあたりでボックス化したさいは収録必至の演奏です。○。イタリア盤で一回CD化している。

マルケヴィッチ指揮シュタッツカペッレ・ドレスデン(EN LARMES:CD-R)1981/2/25LIVE

地味な演奏である。ドイツ臭さも感じる。だがリズミカルな楽想においてはマルケヴィッチの本領発揮、弾むようなテンポで心を沸き立たせる。付点音符の表現が演歌寸前ギリギリの感覚で面白く聞かせる。さすがディーアギレフの目にかなった音楽家だ。4楽章など月並みだが面白い。また、3楽章は意外に情緒的で美しく、この盤の一番の聴きどころと言える。低音の安定した音響が聴き易い。オケの技術はそこそこといったふうで、とくに特徴的なところはないのだが、音色はさすが綺麗。ソロヴァイオリンも1楽章で失敗?しているが全般に歌心に溢れた演奏ぶりで美しい。総じてこの曲の演奏としてはやはり地味だが、マルケ好きは聴いて損はなかろう。ロシア臭やロマン派臭が嫌いな向きにはおすすめ。録音にぱつっという音が入るところが二個所ある。無印。

○クレツキ指揮フィルハーモニア管弦楽団(HMV)

このシェヘラザードもいい!ステレオのいい録音のせいもあるが、名人芸的な揺らぎの美学が働いていて、これぞシェヘラザード!という派手な音楽をぶっちゃけちゃっている。3楽章の歌い込みも痛切ですさまじい。4楽章にくると少々そういうのにも飽きてはくるが、それでもたぶんきっと、これは爆演と言っていいのかもしれない。凝縮力はないものの、アクセントのしっかりした発音で鳴るべき音をしっかり鳴らしている。クリアな演奏ぶりが曲に立体的な厚みを持たせていて秀逸だ。○。

○ロヴィツキ指揮ワルシャワ・フィル(LYS他)1960-67・CD

この指揮者の荒っぽく派手好みで耳障りな音楽作りが私は耳にきつくて余り好きではない。LYSの復刻集成は加えて板起こしのやり方が荒々しくフォルテでの雑音や音色の汚さが聴くにたえない。しかしこの演奏も辛抱強く聴けば感情を揺り動かされないわけではない。聴き辛い部分と聞き込ませる部分がモザイク状に配置されている、といったふうだ。東欧的な硬い音色がとにかく気に入らないし雑味も気に入らない、でも、まあ、○にはすべきだ。

○シュミット・イッセルシュテット指揮北ドイツ放送交響楽団(ACCORD)1957・CD

この指揮者らしくケレン味のない音により端正に組み立てられた立体的な演奏だが、純管弦楽曲としてダイナミズムを存分に発揮するよう意思的な起伏がつけられており、つまらないドイツ式構築性のみの聞き取れる演奏ではなく、制御された熱情が鋭敏で安定した技術感のあるオケにより巧く音楽的に昇華されている。ヴァイオリンソロなど安定しすぎて面白くないかもしれないが、音色感があり、3楽章など弦楽合奏含め珍しく感傷的な雰囲気を十分に感じさせる。リムスキーの管弦楽法の粋をそのまま聴かせようという意図(色彩感が非常にあるが生臭くならず透明で美しい・・・構築的な曲では無いのであくまで数珠繋ぎされるソロ楽器の音や交錯するハーモニーにおいてということだが)がうまく反映されている。テンポにおいて特にアッチェランドのような短絡的な熱狂性が無いのが気に入らないロシア人もいるかもしれないが、合奏部の迫力、凝縮と爆発のバランスが絶妙なところ含めこれで十分だと思う。いけてます。まあ、ロシア人には向かないけど。録音もよく演奏にあった綺麗な音で、◎にしようか迷ったが、オケの雑味に一流というわけではない感じを受ける人も多いかと思い、○にしておく。録音が高精細すぎるだけだと思うけど・・・放送オケはこれでいい。廉価盤でロザンタール指揮の小品2曲と共に再CD化。

○ハラバラ指揮チェコ・フィル(SUPRAPHONE/Columbia River Ent.)1953・CD

今はシャラバラと呼ぶのか?ずっとハラバラと呼んでいたので・・・ここではハラバラと呼ぶ。シェラザードだってシェヘラザードと呼んでるのでいいんです。千夜一夜物語と書いたら誰にも伝わらないし。LP時代の名盤で、数多い同曲の録音、とくに旧東側の録音としては聴き応えがある。お国ソヴィエトの演奏のようにばらんばらんに豪快でソリストが主張してばかり、でもなくかといって緊密すぎて面白みがなくなることはない、ソリストは誰もかれもオケプレイヤーとして非常にすぐれて必要な機能だけを発揮しており、ケレン味は必要なだけ盛り込まれ、ふるい録音なりの録音の雑味が山葵となってきいている。デロデロの甘甘になりがちな3楽章が重くも軽くもなり過ぎず音楽としてよく聴かせるものとなっていて印象的だった。ハラバラはリズムもさることながらテンポ運びが巧い。ルバートをルバートと感じさせないスムーズさで独自の揺らしを加えてくる。それがすれっからしの耳にも好ましく響く。4楽章がいささか冗長で、トータルでは○だが、いい演奏。ネットでは手に入るよう。

○スタインバーグ指揮ピッツバーグ交響楽団(capitol)LP


最初は余りに端整で制御された演奏振りにビーチャムのような凡演を想定していたが、楽章が進むにつれ異様な表現性とシャープなカッコよさが高度な調和をみせてくる。三楽章のハリウッド音楽張りのうねりには仰天した。しかも生臭さは皆無の程よい音色に、ピッツバーグがまた素晴らしい技術を見せ付けている。デモーニッシュなものが要となっているハルサイなどは私は余りにスマートすぎてピンとこなかったのだが、楽天的で開放的なこの楽曲には求心的でまとまりのよい演奏ぶり、ドライヴ感を実はかなり激しいテンポ変化と制御されたルバートの中であおり続ける。後半楽章の流れは大喝采ものだろう。録音のよさもある。前半余りピンとこなかったので○にしておくが、曲が人を選んだのだなあ、とも思った。ロシア人がロシア曲をやったところでロシア踊りになるだけだ。ロシア踊りに飽きたら、こういう大人の演奏もいいだろう。

グーセンス指揮LSO(everest)


とにかく野暮ったい。最初から何かだらしないというか、下手なシェヘラザードの見本のような解釈でどっちらけてしまう。ただ、ステレオなこともあり終楽章は派手にぶち上げてそれなりの聞かせどころを作っている。だが全般やはり凡庸で野暮だ。無印。

~Ⅰ抜粋、Ⅲ

イザイ指揮シンシナティ交響楽団(SYMPOSIUM)CD


しかし変な盤だな。イザイ晩年(昭和初期ね)のアメリカオケの指揮記録だが、粘らずさっさと進むだけの軽い1楽章後半抜粋、テンポは遅くついているが何故か重い響きの(速い場面はなかなかリズミカルだが)3楽章、お世辞にもプロらしさはなく、まあオケのアメリカぽさのせいもあるがシェヘラはこんなんか?というところもある。3楽章は速いとこはいいんだが、ロマンティックな揺れを入れようとして人工的になっちゃってるんだよなあ。コンマスソロが意外とうまいがイザイじゃないだろう。○。

(作曲家によるピアノ連弾版)

○ゴールドストーン&クレモウ(P)(OLYMPIA)1990・CD

シェヘラザードという曲の本質が浮き彫りにされる演奏だ。とどのつまり、ここには「旋律しかない」のだ。全ての楽章が旋律の流れだけで構成され、和声的な膨らみを持たせるがためだけに4手を必要としているだけで、結局単純なのだ。だが単純さの中に本質がある。単純で強く訴えられる音楽を書けるというのは並み大抵の才能じゃない。複雑にして音楽の本質を誤魔化している作曲家もいるが、リムスキーのやり方はここまでくると逆に清々しい。もちろんいい旋律ばかりなので、旋律しかないからといって面白くないというわけでもない。1、4楽章冒頭の強奏部にやや物足りなさを感じるがピアノでは仕方なかろう。19世紀末の段階ではまだエジソンがやっと蝋管蓄音機を発明したばかりで、新作を普及させるためには演奏会で取り上げてもらうことはもとより、聴衆に手軽なピアノ譜面を販売して試演してもらうことにより広めていくという回りくどいやり方をするより他なかった。この編曲も楽曲普及のための一手段として組まれたものと見るべきものだろう。これがはなからピアノ曲として構想されていたとしたらきっともっと複雑になっていたに違いない。シェヘラザードがわからないという人にはお勧め。かなり音が少ないので、アマチュアでも弾けるかも。
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カリンニコフ (2012/3時点でのまとめ)

2012年03月30日 | Weblog
<1866.01.13~1901.1.11、チャイコフスキーとならびモスクワ折衷派を代表する作曲家。しかし早世しており作曲数は極めて少ない。1884年モスクワへ出、イリンスキー並びにモスクワ・フィルハーモニー音楽学校でブララムベルグに師事。1893年よりイタリア歌劇場副指揮者を勤めるが病を得てクリミアへ引退。以後死にいたるまで作曲に専念した。代表作は交響曲第1番、「杉と椰子」。しかし前者が圧倒的な人気を誇り、戦前よりしばしば演奏会の演目を飾っていた。ロシア歌謡の哀愁とロシア歌劇の劇的表現を取り入れた名曲である。>

カリンニコフ:交響曲第1番(1894-95)

<カリンニコフ唯一の有名作と言っていいだろう。この一曲でカリンニコフはメジャー足りえている。>

○セヴィツキー指揮インディアナポリス交響楽団(RCA)1943・SP

同曲最古の録音として知られるが、カリマニアにはほとんど看過されている代物。でもどう聴いても相対的に悪い演奏には思えない。とくに1楽章はトスカニーニをしのぐ迫力のある高速演奏で特筆できる。トスカニーニは大した録音を残していないから同じような芸風として楽しめる。プロオケの正規録音にしては走り過ぎ流れすぎだけれど昭和初期の演奏なんてそんなものだ。中間楽章はちゃんとしてはいるが平凡。4楽章が序奏後テンポを遅く整えてしまう演奏はよくあるが、この演奏もそのとおりでクライマックスまでいかないとフォルムの崩れた攻撃性は現れてこない。でも悪くはない。繰り返すが、無視するほど悪い演奏ではない。webに音源が出回っているがノイズリダクトされたなるべくいい音でどうぞ。○。

○コンドラシン指揮モスクワ・フィル交響楽団(MELODIYA他)CD

~言わずもがなのロシア国民楽派孤高の作曲家。夭折したがロシア民謡のロマンスと瑞々しいオーケストレーションでマニアの注目を浴び続けている交響曲2曲でのみ知られている。ここにあげた1番は特に人気の逸品だ。戦前よりコンサート・ピースとしてしばしば演奏されてきており、最近はアマチュアも無謀にも挑戦するほどだ。さて、演奏である。コンドラシンの水準からすると、ややオケの統率力が弱い気もしなくはないが、奇をてらわず正攻法で行ったところはいかにもコンドラシンらしい。オケ、とくにヴァイオリンがマイクに近いせいか至近の奏者の生音だけが出てしまって、薄くてスカスカな音響になってしまっているところがあるが、これは録音のせいであり、演奏自体の欠陥ではないだろう。1、3、4楽章は客観性を保ちながらもきっちりと縦線のあったアンサンブルでタテノリのリズムが心地よい。イケイケで感情の赴くまま演奏するとすぐバラバラになる危険性をはらんだ曲だから、ある程度客観的になるのは仕方ない。あのスヴェトラーノフでさえ終楽章の怒涛の盛り上がりもそれほどテンポを上げずあえて客観的に演奏している。1楽章は第二主題のボリュームのある表現が雄渾でいてしかも憂愁に溢れ特筆すべきところだ。ただ、祝祭的に盛り上がり全オーケストラが鳴り響く場面では、元来この曲の持つ構造上の欠陥ともいうべきものが、演奏の勢いでカバーしきれずに、各声部がバラバラにばらけて聞こえる部分がなきにしもあらず(粗雑で分離が良すぎるステレオ録音のせいかもしれない。同様の状態はスヴェトラーノフのショスタコーヴィチ5番旧録でも聞かれた)。でも同曲の数々の演奏録音の中では高い位置に置けるとは思う。大抵の録音は、古いロマンティックな時代のものであっても、テンポ維持とアンサンブルの整合性を意識するあまりしゃっちょこばったぎごちない演奏になってしまっている。この演奏はよくできているほうだ。一方2楽章のような情緒的で繊細な音楽はいまひとつ感情が盛り上がらない(感情のもともと希薄な演奏がコンドラシンの売りでもあるのだが)。このあたりなどを聞いても、名盤で知られるスヴェトラーノフには水をあける。この曲は至極古風な国民楽派の交響曲である。同時代の現代曲が得意だったコンドラシンにはやや本領発揮しかねるところがあるようだ。この演奏でいちばん印象が薄いのが2楽章だった。全般的には、○ひとつ。

◎スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)1975


幾度となく複数のレーベルから組み合わせを変えて再発されてきた同曲の決定盤。集中力が高くそれでいて雄大な表現はこの指揮者の最良の形を伝えるものだ。終楽章の力感・熱気は並々ならず、リムスキー的な対位構造を一糸の乱れも無い強固なアンサンブルで鮮やかに演出し、カタルシスの連続で最後まで離さない。一方2楽章のような静寂の演出も、しんしんと降り積もる雪景色の中で暖かな夕べを迎えるといった夢想を抱かせる。とにかくこの演奏を聞いてからはどんな演奏も生ぬるく間延びして聞こえるだろう。・・・もっとも、終楽章などスヴェトラの粗雑な面も顕れているのだが。

○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(KARNA/WME:CD-R)1982LIVE


荒いがなかなか高揚する演奏で、音色的にも適性的にもこのロシアロシアした演歌にはあわない気もするのだが、細部に拘らなければ面白く聞ける。テンポも速く(二楽章は逆に遅い)、スポーツ的感興が得られるという点ではスタジオ盤より面白いといえるだろう。細部のことを書いたが確かに1楽章からして弦のアンサンブルが乱れたり音色が冷たく単調になってたりするのだが、茫洋と聞くと面白いのだ何故か。だからうるさいこと言わずにライヴのこの曲を楽しみましょう、なるべくヘッドフォンよりスピーカーのほうが、細部の荒さが目立たないからお勧め。ブラヴォ凄いね。スヴェトラ全盛期はこのころまでなのかな。

○スヴェトラーノフ指揮NHK交響楽団(NHK)1993/2/3LIVE

肝心の弦楽器に弱みを感じるが、名盤であるソヴィエト国立との録音に見られる美質が諸所に感じられ比較的穏かであるものの十分に楽しめる演奏。

◎ラフリン指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA他)

最近はもっぱらHDプレイヤーに落として聞いているのだが、機種によって操作方法が違うので混乱する(何台も使い分けているのです)。2番も落としたはずなのに楽章が欠けていた。うう。わいいとしてラフリンである。余り上手くない指揮者としてロシア好きにも評価されてこなかった人だが、録音は夥しく遺されており、イワーノフ同様演目によって出来にだいぶ差がある。これは「すぐれていいほう」だ。遅いめのテンポでひたすら情緒てんめんに歌いあげてゆく。音のキレがよく発音も男らしくはっきりしているので全然ダレない。テンポが全く流されない。こんなに感動的な旋律だったのか、情感たっぷりなうえに四楽章では派手な祝祭音楽とのコントラストが見事に決まっており、最後は感涙すら禁じ得ない素晴らしいフィナーレを迎える。豪放にぶっ放すブラス、一体化し繁雑な装飾音も乱さぬ集中力で力を尽くす弦楽器、とっぴさはないが上手い木管、もちろんロシアオケならではの乱暴さやバラケもあるがそれがまったく気にならないのは解釈の芯がしっかりしているからだ。所々国民楽派やグラズノフを彷彿とする場面では確かにこの作曲家がロシアの連綿とつらなる山脈の一角に聳える秀峰であり単独峰ではないのだということを実感させる。どうして最近はこういう感情的に揺り動かされる演奏が無いんだろう?こういうふうに引き締めればカッコ悪くなんかないのに。あ、こんな馬力のオケ、ロシアにももうないのか。アナログならではの、瑕疵を埋没させるふくよかな音響がCDのリマスタリングじゃ失われてしまうため受けないと思われているのだろうか。カリ1録音史上に残る特徴的な演奏だと思った。◎。国内マニア向けマイナーレーベルでCD(R?)化。

○ラフリン指揮モスクワ放送交響楽団(SERENADE:CD-R他)


MELODIYA原盤、そちらは別項にあげた。同一録音と思われる。セレナーデは単純板起こしのはずが強調処理やノイズリダクトの感じがして、いかにもロシアなアナログの巨大なぶよぶよした音響を、少し乾燥させ主観的にわかりやすく彫刻しなおしたような違和感をおぼえた。元が悪い録音とはいえスケールが落ち、デジタル圧縮音源の復号化した音みたいにも感じ、単純勉強用にデュナーミクやテンポの変化だけを拾うには向くがとくに弦楽器のニュアンスや厚みの変化を読み取るには不足をおぼえる。まあ、細部を無視し大局的な解釈だけ正確に聞き取れるゆえ、あー、ラフリンも大局的にはたいした解釈を提示してないんだな、ということを認識できたぶん価値があった。

○ラフリン指揮ボリショイ歌劇場管弦楽団(vista vera)1949・CD

国内プライベートCDでも復刻されていたスタジオ既出盤とは別録音とのことだが、きほん解釈は同じ。旋律の起伏にしたがって伸び縮みする典型的なロシア演奏様式は、しつこくて違和感しきりだが、一回はまると他が聴けなくなるもの。後半楽章が重くがっしりしすぎていて、さすがに終楽章はテンポが立ち止まりがちで遅く、何度もクライマックスを築くから早く転調して終われよ、と思うところもあるのだが、オーケストレーションからハーモニーからチャイコフスキーの影響がとても強く現れていることをしっかり確認することはできる(小ロシアくらいのシンプルなものに留まるが)。重心の低い、沢山のトロンボーンに支えられたフィナーレの盛大ぶりには、この曲がほんらいこういった野卑た雄大さを示す、けして洗練された西欧折衷派作品として扱うのは正しくない、と思わせるに十分なものがある。しょうじき木管以外はボロボロで、ブラスがペットを除いては詰まらなそうとか、弦楽器がばらんばらんで録音バランスも悪いとか、でもこれはラフリンにおいては普通である。○。

×ゴロワノフ指揮ボリショイ劇場管弦楽団(SEVEN SEAS/BOHEME他)1945

録音悪すぎ。バランス変。ゴロワノフ好き向けの演奏だろう。

○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(SEVEN SEAS他)

万全の演奏ではない。スヴェトラーノフを別格として序列を付けるとトータルで次点につくということ。トスカニーニの表現様式に対して録音の悪さは大きなマイナスだ。

○アーベントロート指揮ライプツイヒ放送管弦楽団(tahra)1949/11/16

ドイツ的カリンニコフの希な例。個人的には重厚なカリンニコフという新鮮な姿に惹かれた(3、4楽章)。総じて神経の行き届いた演奏になっている。

シェルヒェン指揮チェコ・フィル(tahra)1951/6/5

オケのせいもあって“らしさ”は希薄だが、良く聴けば悪い音の中から表現意志の片鱗が伺える。終楽章はやや面白い。録音やや悪し。ちなみに映像もあるが(グレート・コンダクターのシリーズ、チェコ・フィルの百年他に収録)、ごく短い。

○ネーメ・ヤルヴィ指揮ロイヤル・スコティッシュ国立管弦楽団(CHANDOS)1987/4/14-17・CD

スヴェトラーノフ盤と双璧をなす名演だ。うーん、ヤルヴィのこの巧さはなんなんだろう。オケから力強い表現を引き出し、一つの方向に纏め上げる力は今現役の指揮者の中でもずば抜けている。このオケは結構出来不出来があって、雑味も多いのだが、この演奏では非常に纏まりがよく、全ての楽器が絶妙のバランスで組み合っている。ドラマティックな表現も十分だが、踏み外すことがないから一定の品格を感じさせる。カリ1は構造的に単純なだけにけっこう粗が目立ち易いのだが、ヤルヴィの演奏はどこにも隙が無い。1楽章はロシアの演奏に馴れた人は食い足りないかもしれないが、音色的にはかなりロシアだ。弦楽器の迫力有る音はこのオケらしからぬ凄みを持っている。ヤルヴィはどんな曲でもそつなくこなすが、ここでは「そつがない」以上のものが感じられる。とにかく一種確信をもって表現しているため、どことなくロシア性が足りないと思いつつも、文句の付けようが無い。2楽章の寂しさはどうだろう。遅めのテンポで軽い諦念を感じさせる陰影有る表現を行っていて秀逸である。音響に対する優れたバランス感覚は3楽章のスケルツォで明瞭に発揮されている。ボロディン的な舞曲のリズムは中間部の憂愁の旋律で寧ろ明確になる。リズミカルなテンポ廻しはこれがたんなるエキゾチックな旋律ではなく、民族舞踊の音楽なのだ、ということを認識させてくれる。意外なほどにロシアの香りが強く感じられる楽章で、オケに少し弱みも感じるし、やや客観が優る解釈ではあるものの、有無を言わせない完成度の高さがある。終楽章はスヴェトラーノフ盤以上に盛り上がる。どぎつさが無いぶん物足りないと感じる向きもあるだろうが、結構田舎っぽい音色が(意図的なのか無意図なのかどうかわからないが)やはりロシア的な匂いを感じさせ、これはこれで十分にカリンニコフしていると思う。ヤルヴィはいくぶんテンポを引き締めて音楽がダレないようにしているが、とくに終盤でスヴェトラーノフ盤が落ちついてしまうのに対し、テンポを引き締め敢えて速めに持っていって緊張感を煽っており、圧倒的なクライマックスを演出している。最後の最後でマエストーソという感じでテンポを落とすところが心憎い。まったく、設計の巧さは天下一品だ。ブラスがやや及び腰ではあるが全体のバランスの中では巧くはまっており許容範囲だろう。デロデロの抒情を歌う感動的な熱演ではないが、カリンニコフの鮮やかな管弦楽法と斬新なコード進行がよく描き出されており、より深くこの曲を知ろうとする向きには勧められる。ロシア臭が嫌いな向きにも、もちろん。◎にしてもいいのですが、個人的な感覚で○としておきます。

ドゥダロワ指揮ロシア交響楽団(OLYMPIA/KNIGA)1992

左右がかなり分離してるわ・・・って崩壊してんじゃん、なにこれ?シロートだったら許されるだろうけど、仮にもロシアの名を頂いたオケが・・・とくに弦・・・こんなばらけた緩い演奏してしまったらしょうがないな。。1楽章で既にこうなのだから、集中力の強い爆演は最後まで望むべくもない。単調なテンポ廻しを含め、いろいろと文句が言い易い演奏だ。こういうオケが2楽章をやったら案外上手だったりするのだが、ドゥダロワはじつにさらっと演奏させており、それに木管ソロの音が良く載る。薄いヴァイオリンも薄いなりに高音の音色に拘っているようだ。対位法的なパッセージもドゥダロワの交通整理によって良く噛み合っている。冒頭と最後はやっぱり雪の夜のきらきらした雰囲気をかもし期待を裏切らない。幻想味がよく引き出されて秀逸である。3楽章もヴァイオリン方面にやや綻びが見られるが、まずまずのテンポ感。そして大団円の4楽章とくるわけであるが、これがなんとも遅い!異常な遅さで、これはこのオケがきちんとしたアンサンブルを保てる限界の速度なのか、と思わせる。あながち外れてはいまい。もっともスヴェトラーノフの有名な盤でもバラケ感が出てしまっているような楽章なので、仕方ないといえば仕方ないのかもしれない。最後まであまりに遅いので笑みがこぼれてしまう。これは、奇演だ。

交響曲第2番(1895-97)

○ラフリン指揮VRK交響楽団(DGGSY)LP

キリル文字ではB.P.K.で瞭然であるがモスクワ放送交響楽団の略称である。この録音をきくにつけロシア録音は収録ホールやマイクセッティングなど録音状態を加味せずに安易に巧い下手などと言ってはならないなと思う。これは余りにマイクがヴァイオリンに近いのだ。舞台上前方でファーストのフォアシュピーラーに接近しておかれているのだろう。こういう録音はメロディヤでは多い。よく無邪気なロシアファンが「自嘲的に」言う音色のバラバラ感や一部奏者の突出というのは、必ずしも外れてはいないがこんな演奏外の部分で誇張されてしまっている節もある。バラバラということは薄く聞こえるということである・・・ハーモニーの整わないオケの音量が弱く感じるのと同様。アナログ盤では音響全体が何かしらの微音で詰まっているので余り気にならないが、デジタル化されるとまるでロジェスト/文化省管のグラズノフのCDのようにスカスカに聞こえるものだ。そういった状況がメリットに響く場合もあり、絶対きっちりとは揃わないたぐいのソリスティックで技巧的なフレーズや装飾音を合奏部分に多用する「困った」作曲家のときは、「一部奏者の音だけが細かく聞こえることによって」救われる。ただ、この曲は決して技巧的ではない。1番同様ヴァイオリンに細かい音符の刻みが多いが、ラフリンのやや弛緩したテンポの中では皆十分に雄渾に弾けており、だからこそ残念なのは最初に述べた様な録音「瑕疵」なのである。この演奏は音楽のロマンチシズムを引き出せるだけ引き出そうとしている。そのためにテンポの沈潜も辞さないし、これでもかと言わんばかりに歌う。1楽章はまったく名演であり、ここまで雄渾でドラマティックな2番の演奏を初めて聞いた。オケのやる気も十分である。しかしここで思うのはカリンニコフの才気の衰えである。2楽章でいきなり魅力は薄まり、3楽章も第二主題あたりには明らかにボロディンやリムスキー的な民族の雰囲気があるもののどうも精細に欠ける。

4楽章はまるでエルガーの2番かグラズノフの8番だ。とくに後者の状況とよく似たものを感じる(スケルツォと終楽章に近似性を感じるのだが)。才気は衰えてしかも体力が最終楽章までもたない、しかし技巧的には高まり演奏者は演奏しやすい、もしくは演奏したくなる。1番は各楽章のコントラストが極めて明確で旋律もこれ以上ないくらい才能に満ち溢れたものである。しかし単純だ。演奏者はただ面倒なばかりで魅力的な旋律も飽きてきてしまう。2番は構造的により作りこまれてはいるし、グラズノフ同様以前の作品では才気のまま書き進めそのまま出したような、一方で「お定まりの型式の中で出来ることを精一杯やった」といった清清しい風情を持っていたのが、才気を型式の中に抑えこみ独創性は主として思考の産物として盛り込もうという方向に行ってしまい、技術的にはある種アカデミックな指向をもった「山っ気」がでてきたがために、却って中途半端な出来になってしまっている感がある。スヴェトラの有名な録音があるが、あれで聞くと録音が遠いだけに尚更薄ーいぼやけた印象が否めない。ここではリアルな肉感的な音で楽しめるので、1楽章とスケルツォの一部だけは楽しめるが、終楽章は1番みたいにオペラティックな大団円で終わらせればいいものを・・・とか思ってしまう。演奏的にははっきり言って今まで聞いたどの2番より面白かったが、1楽章以外をもう一度聞くかというと・・・。

○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(russian disc/melodiya他)1953・CD

録音が古びて遠い。細部が聞こえてこないのは辛い。また、比較的ムラヴィンスキーの若い時期を彷彿とさせる、未だロシア様式といってもいいような派手めの演奏で、オケもレニフィルにしては拡散傾向をとくにブラスあたりに感じるから少し異色だ。円熟ムラヴィンファンにはそれほどアピールしないのではないか。曲がやや構成的に弱いところもあってどこを焦点にきいたらいいのか、3楽章で終わっておけばよかったんじゃないかとか考えさせられるが、この演奏もやはり3楽章をまるでスヴェトラのチャイ5のように盛り上げている。交響組曲ふうの内容はバレエ的ではあるがムラヴィンはそこまでロシア式におもねってもいず、小粒な印象もあるが精度はこの曲のディスコグラフィの中ではなかなか上のほうだろう。

スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団 (MELODIYA)1967

△ドゥダロワ指揮ロシア交響楽団(OLYMPIA/KNIGA)1992


この曲にみられる構造的な部分をよく聞かせるために敢えて揺れがなく遅い、しゃっちょこばった演奏にしているのだ、と好意的に言うこともできるし、ヴァイオリンを中心としてどうしようもなく薄くてダメな弦楽セクション、これではカリンニコフは歌えない、と批判的に言うこともできる。個人的には前者の可能性はないと思う。唯一面白いと思ったのが1楽章でのあきらかに古典音楽を意識した表現である。カリンニコフが意図的に採り入れたいわゆる新古典主義(といってもプロコフィエフのそれではなくブラームスのそれ)的な書法は、かえって瑞々しいカリンニコフの感性が損なわれてしまっているきらいもあるが、しっかりした構成感の中に民族的要素を散りばめた、地味ではあれどとても充実した作品に仕上がっている。・・・は楽曲の話。演奏はお粗末。解釈もしてるのかしてないのかできないのかわからないが、無いも同然、一本調子。1楽章の序盤からもうだめです。△
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ハワード・ハンソン (2012/3までのまとめ)

2012年03月30日 | Weblog
ハンソン:交響曲第2番<ロマンティック>(1930)
<レスピーギの弟子としても知られるハワード・ハンソンのアメリカ・ネオ・ロマンチシズムに基づく代表作。>

○作曲家指揮ニューヨーク・フィル(NYP)1946/1/20放送LIVE・CD

名曲解説全集にも載ってる20世紀ロマンチシズムの名作。
放送エアチェック盤のようで雑音がかなり気になる。音も平板でパワーが無い。この録音はいかんともしがたいものだが、演奏内容がいいだけにじつにもったいない。自作自演盤はイーストマン・ロチェスターオケなど比較的マイナーな楽団のものしか出てこなかったのだが、そこに天下のニューヨーク・フィルを振った録音が新たに加わったわけである。ドライで即物的な印象のある指揮者だけれども、ここではしっとりした情感の篭った表現を行っており独特だ。モノトーンではあるが、それだけに音楽的な深みが感じられる。ヴァイオリンあたりに頻発する短いポルタメントがもっとばっちり入っていれば(そして最強奏部の音量がしっかりとらえられていれば!)さらにその印象は強くなったことだろう。この曲はブラスがよく咆哮するが、ホルンの重みのある表現が美しい。とにかくこの盤ホルンの歌いまわしが巧くて曲の印象自体ちょっと変わってしまった。クライマックスのボリュームが足りないし、音楽的な起伏が不明瞭で全体の流れが読みづらい、といった問題点も挙げることができるが、これは90パーセント録音のせいだろう。○としておく。何度も聴く気は起きないが・・・。ニューヨーク・フィル自主制作の「アメリカン・セレブレイション」というボックスに収録。直接NYPから入手可能ですのでご興味があれば。

作曲家指揮モルモン・ユース・シンフォニー(CITADEL)1972/3/11LIVE・CD

citadelレーベルより1995年CD発売のライヴ録音。1972年3月11日ソルトレイクシティで行われたコンサートをまるごと収録しています。自作自演盤としてはマーキュリーの録音がありますが,同レーベルの特徴でしょうか生々しく各楽器の音の分離がくっきりしている分、音楽的にややせせこましさを感じてしまいます。言いかえるなら全てのパートの音が等しく明瞭に聞こえてしまうため、大規模な曲では音響の拡がりに欠けて聞えるように思います。その点この盤は壮大で情感に優れた指揮ぶりがちゃんと聞けますから存在価値は大いにあると思います。ただ、仕方ないのですが、オケがあまりにアマチュア的でカスカスなので、特に終楽章での各楽器の息切れがかなり耳障り。終楽章で最後に1楽章のテーマ(というか全楽章を通じての主題)が再現されるところのルバートは、イーストマン・ロチェスターのスタジオ盤よりずっと大きくかけられていますが、弦の消耗が激しくちょっと残念な形になっています。

この部分はリドリー・スコットの「エイリアン」の最後で使われていましたが、旋律の素晴らしさもあって実に爽快な気分にさせてくれる全曲の白眉です。興味ある方はスラットキン盤などで堪能してください。ジョン・ウィリアムス(作曲家)の”ET”のサウンドトラックなんかもこの曲の影響バリバリです。ただそういうことで「ハリウッドSFX映画音楽」と断ずる人がいましたが、それはどうかと・・だってこの曲が書かれたのはそんな映画が作られるよりずっと昔なのですから。本末転倒。ハンソンの爆笑トーク付き。

作曲家指揮イーストマン・ロチェスター管弦楽団(BIDULPH)1942/5/7・CD


旧録。ビダルフ・レーベルにて復刻されている。後年のオヤジぶりとは全く異質の好青年顔ジャケットを見ながら聴いてみよう。。。

重々しく意味深げ!マーキュリー録音の即物的な音と比べると、ちょっと意外かもしれない。流れを引きずるような雰囲気の中で、盛り上がりを演出していくさまは、同時代他の作曲家が編み出した暗く苦悩する交響曲に通じるものを感じる。時代性が録音にあらわれているようだ。とにかく何か暗く重い(録音も)。終楽章など弦楽を始めとするオケに少し技術的弱みが見えるが、概して感動的な旋律も何故か煮えきらぬものを感じた。録音の不明瞭性に起因しているのか?同曲の垢抜けた演奏に浅薄さを感じる向きは、古い演奏でよければこの盤を聴いてみるのも悪くはないだろう。

ロマンティックという題名は、クラシック音楽が一般大衆から離れてプロ・コミュニティ内でのみ煮詰まってゆく様相に(それはそのあともずううっと続く現象だけれども)反旗を翻し、大衆性を芸術の上に置く”アメリカン”(笑?)として、「俺はロマン派ー!!」と突き出した挑戦といわれる。1930年のことだ。スウェーデン系の血筋、同じ北欧シベリウスの与えた重大な影響のうちに、人間としてのほんとうの言葉を伝えることに自分の本質を見出していたのかもしれない。ハンソンはアメリカ社会(or音楽界)にありがちな非常に早熟の才能の持ち主で、20歳でカレッジの作曲科等の講師(事実上助教授)となり、教壇に立つ。やがてイーストマン・ロチェスター校の教授として、オーケストラを長年にわたり鍛え続けてゆくことになる。但しこの曲はボストン交響楽団の初演だ。無論親密であったクーセヴィツキーの依属であったからである。創設50周年記念コンサートのための作曲であった。それはハンソンの最も著名な曲となったが、全作品の中でも図抜けて印象的な傑作といえるだろう。第1番「ノルディック」と比べると歴然(同盤にも収録)。ロマンティックといえばブルックナーだが、例の2拍3連のエコーが1楽章冒頭に下降音形として顕れているのは御愛敬。ビダルフ盤のライナーには書かれているが、映画「エイリアン」に使われたことで、再び脚光を浴びるようになった。ちなみに名曲解説全集の交響曲編にも載っている曲なので興味があれば参照されたい。クーセヴィツキーは恐らくこの曲は録音していない。3番等は残っている。

○作曲家指揮イーストマン・ロチェスター管弦楽団(COLUMBIA)1950年代?・LP


アメリカ交響曲史上に大きな足跡を残すハンソンのネオ・ロマンチシズムを高らかにうたう名作・・・1回目はシベリウスみたいと思う、2回目はドはまりする、3回目は飽きる・・・だが、モダニズムからポストモダンという時代にあって強烈に単純な保守性を押し出したイデオロギー的色彩の強い作品でもあり、結局のところハンソン自身の指揮による録音が最も多い状況がある。この盤は旧録として知られ、mercuryの有名なステレオ録音とは別とされる。実際音や表現は更に古いとされる自作自演盤に近いものを感じるが、そちら(CD化されている)は40年代以前とされ、50年代という非公式情報が正しければ別となる。いずれスタジオ録音であること、自身が教授であった学校の手兵によるという「厳密な」状況下のものということで、ブレがないと思われ、完全なる判別は難しい。mercury録音はクリアだが音場が狭く、良く言えば凝縮された、悪く言えばかなりせっかちでせせこましい直線的解釈が今一の印象を与えるが、旧録はいずれもモノラルでクリアさも無い半面もっと大きく一歩引いた、ただ少したどたどしいテンポどりの演奏になっている。この盤は技巧的に振るわない感もある。アクセントが弱く楽想のコントラストがすっきりしない。これはのちの自作自演ライヴ(アマチュアオケ)でも聴かれる傾向でハンソンの解釈指揮の問題もあるのかもしれない。○にはしておく。プライヴェートCD-R化されている。

作曲家指揮イーストマン・ロチェスター管弦楽団(MERCURY)CD


マーキュリーの録音は音場が狭くスケールが小さくなりがちである。即物的な感じもして、あまりお勧めではないが、作曲家のいちばん有名な自作自演盤として価値は(若干)ある。

○スラットキン指揮セント・ルイス交響楽団(EMI)1986/4・CD

佳演。この曲にあたるならまずこの演奏で楽しんで頂きたい。自作自演盤のせせこましい録音と違い、雄大なスケールをもって描かれる北国のロマン、時代柄コンパクトにまとまりすぎているきらいもある曲だが、スラットキンは透明感にスケール感を併せ持った指揮者であり、曲のそういった欠点をうまくカバーしている。私もこの演奏で曲を知りいたく感動したのだが、だいぶん経って再びこの盤をかけたとき、その印象が全く変わらないことを確認した。アメリカ20世紀前半におこったネオ・ロマンチシズ
ムの旗手ハンソンの最高傑作を、無名曲の名シェフスラットキンによる演奏で、ぜひご賞味ください。聴きおわったあとのすがすがしさはなかなか得られないものだ。

○チャールズ・ゲルハルト指揮ナショナル・フィル(RCA)LP

もうちょっとオケが艶めかしい音でも出してくれれば面白かっただろうに!なにぶん特徴的なところのない、それなりに機能性だけはあるオケといった感じなところはいかんともし難い。ゲルハルトはこの曲の演奏にしては珍しくかなり恣意的な解釈を加えており、テンポの伸び縮みやルバート、フレージングの克明さは興味深いものがある。終楽章も最後のクライマックスで通奏主題が再現されるところなど、前に大仰なリタルダンドをかけて、大見栄を切るように盛り上がりを作っていてにやりとさせられた。ここまで面白くやっている演奏は他に知らない。曲に特別な思い入れのあるであろう演奏ぶりで楽しめた。アンダンテ楽章のしっとりした情緒もいいし、1楽章も安定していて楽しめる。途中ハープのグリッサンドがとても克明に捉えられていて美しい。録音はまあまあ(新しい演奏ですし)。ただ、編集痕のようなものが曲中に結構聞かれるのはちょっと・・・。編集といっても切り貼りしているのではなくて旋律の音量を強調するような類のものだが。

×ウィリアム・ジョーンズ指揮全米フィルハーモニック管弦楽団(MARK CUSTOM RECORDING SERVICE)1990/2/10土曜日4:00PM・LIVE・CD

へなちょこだ。凄い脱力する。こんな演奏があっていいのだろうか。ロマンティックの演奏にはけっこうイタタ演奏が多いのだが(アメリカの楽団が多いせいもある)ここまでイタタなのは無いだろう。中古だが400円損した。そのぶん昼の焼肉カルビにしとけばよかった。もう最初から最後まで壮絶なスカ演奏。唯一ゆっくりな2楽章だけは感傷的な雰囲気に若干感動。ここまで吹けないブラス、すぐ落ちる弦、そして全ての楽器がばらんばらんな音色というのは聴いたことがない。アマチュアだとしても失格。×。 1

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ハンソン:交響曲第4番「レクイエム」(1944)

<ピュリッツアー賞受賞作品。>

○ストコフスキ指揮NBC交響楽団(GUILD)1944/1/2live・CD


ハンソンが父親の追悼のために書いた作品で、いわばシベリウス2番の前半楽章を再構成したような曲(だが4楽章制)。もっともハンソン的なブラスや木管の使い方、リズムの創意はみられるが、それ以上にブラスでも低音域のもの、木管ならオーボエやクラリネット、そして弦楽器にみられるシベリウス的な表現が気になる。むろん意図してのものもあろう。だからといって面白くないこともなく、「ロマンティック」に聞かれたキャッチーな趣の旋律や管弦楽の響かせ方もあり、そこに初演指揮者として優秀であったストコの引き出す情緒、拡散的にならず緊密に演じていくNBC響があいまって、古い録音なのに結構聴けるものとなっている。意外とよかった(自作自演よりも)というのが正直な感想だ。しかし、終わり方がぱっとしないな。。○。

*****************************************************
ハンソン:エレジー

パレー指揮デトロイト交響楽団(DA:CDーR)1960/10/13LIVE

清々しいアメリカンロマンチシズムを振りまくハンソンの楽曲はロマン派回帰をうたう余りワンパターンに陥ってしまうきらいがある。確かに感動を催させる要素を盛りに盛った追悼曲ではあるが、オケが全力で表現しようとすればするほど、録音の悪さとあいまって眠くなってしまう、いや録音のせいだ、無印。
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グリフィス(グリフェス):「4つのローマのスケッチ」OP.7~白孔雀

2012年03月30日 | アメリカ
○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(放送)1943/2/7LIVE

オールアメリカプログラムをしばしばやっていたトスカニーニだが、これもグランド・キャニオン組曲の前に組んでいたプログラム。曲は生ぬるいオリエンタリズムを盛り込んだ印象派的といえば印象派的な小品で、トスカニーニは決して手を抜かずそつなく仕上げている。余り聴き映えはしない。○。
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シマノフスキ:交響曲第2番

2012年03月30日 | 北欧・東欧
○スティリア指揮ポーランド国立フィル(marcopolo)CD

今でもweb配信販売されている全集の一部。オケはそれなりといった感じで決して上手くない。雑味が多い。曲自体にも演奏が悪くなる理由はあると思う。とにかく前衛的なまでに半音階的な旋律は全て弦楽器を中心とする一部パートが担い構造的に振り分けられることは殆どなくグズグズ、初期シェーンベルクやツェムリンスキーあたりの影響が物凄く強いわりにブラームス的なかっちりした部分が少ない。構成や和声には工夫がありこの曲がウィーンで受けて出世作となったのもうなずけるところはあるが、短いので耐えられるけれども、当時の通常の交響曲並みの長さだったら途中で飽きてしまったろう。ただ新しい音でないと曲の工夫が聞こえないので、数少ない録音という希少性をかんがみて○。
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ドビュッシー:三つの交響的エスキース「海」

2012年03月30日 | ドビュッシー
○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(altus)1960/5/29来日live・CD

録音はホワイトノイズに塗れ決してミュンシュの海として上等の出来でもないのだが、ケレン味たっぷりの表現は揺れ動く海の情景描写としてはうまく機能していてそれなりに楽しめる。最後も爆発はしないが客席反応は上々。○。
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ドビュッシー:三つの交響的エスキース「海」

2012年03月30日 | ドビュッシー
○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(放送)1948/3/27live

オールドビュッシープログラムの最後を飾る大曲。引き締まった表現であるがゆえにスケール感が無くなっている感もあり、そこは録音のせいのような気もするが、ここまでの他曲の演奏と比べてそれほど魅力的には聴こえなかった。美しいアンサンブルは最後までその音のきらめきを失うことはなくブラヴォも飛ぶ終演後。○。
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ドビュッシー:管弦楽のための夜想曲~Ⅱ.祭り

2012年03月30日 | ドビュッシー
○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(放送)1948/3/27live

リズム系の楽章になると俄然強い指揮者だ。付点音符付の伴奏が溌剌として、引っかけるような表現は胸がすく。余りにスピードが速くつんのめっていく様子はたまにトスカニーニの演奏で聞かれるものだが、珍しい乱れといえば珍しい(ここでは走ってるとまでは言わないけど)。ブラス陣がやや窮屈か。楽章単独演奏。○。
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ドビュッシー:牧神の午後による前奏曲

2012年03月29日 | ドビュッシー
○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(放送)1948/3/27live

夢幻的な雰囲気をかもす「印象派」の代表作だが、トスカニーニはその霧をウィンドマシーンで吹き飛ばして牧神を叩き起こし、筋肉のビリビリするような緊張感ある踊りを舞わせている。これはこれで一つの見識だ。ただ、個性的だとか、面白いとかはなく、旋律だけが頭に残る演奏。
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ドビュッシー:管弦楽のための映像~Ⅱ.イベリア

2012年03月29日 | ドビュッシー
○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(放送)1948/3/27live

オールドビュッシープログラムの最初の演目として放送されたもの。はっきり言ってこれが現代の明晰な録音で提示されていたら寄せ付けるもののないダントツの名演として一位に挙げることができる。残念ながらトスカニーニの放送音源なりのノイジーさで○にとどめざるをえないが内声部までちゃんと聞き取ることができ、リズムや伴奏音形を担うパートの隅々まで行き届いた配慮が確かなアンサンブル能力と各個の技巧に裏付けされて明晰。ドビュッシーのスコア特有の構造的弱みというのが演奏側の配慮によってまったくカバー可能であることをはっきり示している。ブラスに一部弱みがみられるが弦楽器など脱帽の精度だ。とにかく両端部のリズム!このリズム感は旋律「以外」の声部が如何にしっかり音符を音にできているかを示すものだ。旋律はその上にのっかっていくだけでいい。いや、ここでは旋律も自主的にリズムを主張し、その間に一縷の隙もない状態であるのが奇跡なのだが。。
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マーラー 交響曲第6番「悲劇的」(2012/3時点のまとめ)その2

2012年03月29日 | Weblog
ブーレーズ指揮ウィーン・フィル(DG)1994
○ブーレーズ指揮BBC交響楽団(ARTISTS)1973LIVE


それにしてもウィーン・フィルの音は随分変わった。同じDG盤のバーンスタイン/ウィーン・フィルと立て続けに聞いたが、音は隅々まで無個性なほど全く同じ。機能性は格段にアップしているからそれはそれでいいのだが、冷たい印象を与えてしまうのはいかにも残念だ。ブーレーズのDG盤はかつてのライヴとは全く異なり、非常にまろやかだ。言ってしまえば常識的な演奏に落ち着いてしまった。でも聞き心地は悪くない。1楽章のアルマの主題の展開がバーンスタインのテンポ設定と似ており、面白いと思った。緩徐部での響きの感覚はさすが鋭敏な耳を持つブーレーズならではの繊細さで、印象派的。3楽章の美しさも特筆すべきだろう(旧盤とは全く解釈が異なっているが)。終楽章、思わぬところでハープが響いたりして、そういうところは(少ないのだが)個性的な部分を遺している。個性的、と書いた。旧盤、イタリア盤のライヴは素晴らしく個性的で、一期一会の迫力を持っている。事故も多いが、震幅が大きく、しかもその付け方が特徴的で(以前書いたようにバルビローリをちょっと思わせる)、冷徹な印象のあったブーレーズの「熱気」が、ふんぷんと伝わってきた。録音は悪いものの、ここでは円熟したがゆえ「薄く」なった新録より、お勧めとしておく。終演後のブラヴォーも凄い。昔ブーレーズのマラ6ライヴが聞きたくてたまらなかった折、「ブーレーズ・フェスティバル」で同曲が取り上げられると聞いて飛び上がって喜んだものだが、じっさいはティルソン・トーマスが振ったのだった。まあそれはそれで興味深かったのだが(面白かったとはいわない)。ちなみにHMVでブーレーズの「大地の歌」(DG)が990円で投げ売りされていた。果たして今現在のブーレーズ・マーラーの評価はいかがなものなのだろうか。関係ないが秋葉原石丸電気でALTUSのコンドラシン・ライヴシリーズが1枚950円で同じく投げ売りされていてショックだった(私は全て原価で買っていたし、悲愴にいたっては間違って2枚買ってしまっていた)。たまにレコード屋めぐりをするとこんな発見もあったりして。(2003/1記)

(BBCso 追記)

ブーレーズ、ドイツグラモフォン盤でないライヴ録音です。私は偏見もあって、最近のブーレーズは指揮者として巧くなった替わりに閃きや鋭さがなくなったと思い込んでいるのでご容赦を。CDが出た7年くらい前に書き留めておいた文章をそのまま載せます。

ブーレーズの悲劇的を聞いた。ブルーノ・マデルナ張りの珍妙な表現も多かったが、何より驚いたのが対照的とも思われるバルビローリのライブ盤との近似性。3楽章(バルビローリは2楽章)終盤の急激なアッチェランドなどはこの二人をおいて他に見られないものだ。通常ブーレーズとバルビローリにとって、ライヴとは別の意味を持つものであったろう。おおむねスタジオ録音に近い精度の演奏を求めるブーレーズに対して、バルビローリはスタジオの入念で神経質なものとは異質の、一期一会の激しい演奏を行う。スタジオはバルビローリにとって余り重要な存在ではなかったのかもしれないとさえ思う。ニューヨークフィル時代のチャイコフスキー5番の録音はその最たるものだが、悲劇的のベルリン・フィル定期の記録もそれに迫るものがある。チェロ奏者から始めやがて徹底したプロ指揮者として生涯を尽くした演奏家バルビローリと、アグレッシヴな活動家として音楽界を席捲したあとに指揮に手を染めた作曲家ブーレーズが、ここでこんな近似性を見せるのは面白い。尤も4楽章でブーレーズはおおむね一般的表現に落ち着くのに対し、バルビローリは益々度を越してきている。このへん乖離してきてはいる。(2005以前)

○ブーレーズ指揮グスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラ(EN LARMES:CD-R)2003/4/13LIVE

1楽章繰り返し有りで73分というのは速い部類に入るだろう。さっさと進む乾いた解釈はブーレーズらしいが、いかんせんオケが弱い。あちこちで事故が起きているしリズムに鋭さがなく雑然としている場所も少なくない。1楽章などテンポがたどたどしく感じる。また奏者の技術にもばらつきがあるようで、弦は薄く一部奏者が突出してきこえる。ソロをかなでるコンマスも固い。オーボエなど妙に巧い奏者もいるが管楽器もまとまりがいいとは言い難い。ただ、3楽章アンダンテから4楽章へむかって流れが良くなってきているのは確かで、4楽章などなかなか聞きごたえがある。余り揺れない解釈であるがゆえに揺れたときのインパクトは凄いし、また響きが完全にマーラー的になっているのはすばらしい。粘らないあっさりしたテンポにも関わらずとてもロマンティックに聞こえるのはそれゆえだ。豊穣なひびきが確かな聞きごたえを感じさせる。最後のハンマーの打音はかなりリアルに捉えられており、腹の底にズシンとくる。日本でもこれをやったブーレーズだが、かつての解釈と微妙に変わってきているようであり、一流オケでやったらどうなっていただろうか、と思わせるところがある。若いオケということで多少大目に見て○。

○ベルティーニ指揮ケルン放送交響楽団(EMI)CD

ベルティーニの名を世間に知らしめた佳盤。私もこれでマーラーにハマりました。

◎ベルティーニ指揮ドイツ・ベルリン交響楽団(WEITBLICK)1973/4/30live・CD

戦慄を覚える名演。音のドイツ臭さとベルティーニらしい鋭さ精度とライヴならではの引きつるようなテンションがまったくケーゲルに生気とスピードをあたえたような硬質のダイナミズムをはっして、これは録音もいいのだけど、ベルティーニのみならずのことで、「指揮者は晩年ではなく壮年がいちばん面白い」の見本である。オケがほんとに指揮者の恐怖政治に迎合し、シカゴみたいに組合作って生気なくやさぐれるではなく、戦々恐々としながら命だけは助けてと抑制し叫び、アンサンブルするのである。ぐわ、最初はドラティ系だな、「往年のマーラー解釈」らしい演奏だなと思ったんだけど、もっとぐいぐいと抉り深層にまで迫る音楽の彫刻の周到さが背景にあるように思う(あくまで録音のうえでの話だが)。ベルティーニ晩年の異常な演奏精度に裏打ちされた静謐さや哲学はないものの、そもそもマーラーに晩年はなかったのであり、50台で頓死した作曲家を描くのに80台の美学は必要ないのである(暴論)。とくに6番のような激情とロマンの交錯する音楽においては。フランスものや現代を得意としたベルティーニであるが、ここでははっきりロマン派のマーラーをドイツ流儀で残酷にぶった切っている。それは冷徹ではない。凄まじく迫ってくる。焦燥感溢れる1楽章はこんな演奏けっこうあるが(提示部繰り返し無し)、物凄いリズム表現の2楽章と物凄いアンサンブルの繰り広げられる4楽章が圧巻だ。テンション高め安定だからしっとりした抒情は求められないものの、音楽にめくるめく翻弄されるのが好きな向きには堪らないだろう。こうも盛り上がるとコーダは単なるクールダウンである。◎。拍手カット。

ホーレンシュタイン指揮ストックホルム・フィル(UNICORN-KANCHANA)1966/4/15・17LIVE

はじめに言っておくと録音状態悪し。ただ、この時代にこのような非情緒的な演奏は特異で、ある意味先見的であったから、その価値を認めておく必要はあるだろう。ホーレンシュタインの独特のスタイルは、この曲の構造を解体し、四角く巨大な構造物へと組み直すものである。オケは弱いし指揮者も求心力にやや欠けるから、その意図が巧く表現できていないところも見られるが、たとえば弱音部で、ブーレーズを彷彿とさせる繊細で印象派的な音響を産み出している所などなかなか面白い。聞き込めばいろいろと見えてくるだろう。

○ホーレンシュタイン指揮フィンランド放送交響楽団(WME,DA/CD-R他)1968/9/21live

悲劇的の演奏には定評のあった、マーラーの大曲ではクレンペラーと肩を並べる堅牢で構築的な録音を遺したホーレンシュタインのこれはかなりいいほうの演奏。後年けっこう間延びした緩い演奏もした人だが、ポテンシャルの高いオケを使っていることもあり集中力の途切れない厳しく男らしい音楽が続く。中間楽章にはやや潤いが足りないが両端楽章の威容は聳え立つような、1楽章は特にこなれた解釈が冴え渡り聴き応えがある。人工的な構成でテンポ設定など難しい音楽だが緩徐主題など無味乾燥にもロマンチシズムにも偏らず違和感の無い模範的な表現でぐいぐいと引っ張っている。VOX録音のVSO時代はまだウィーンで活躍していた頃の情趣が別の魅力を発揮していたが、ここではとにかく冷徹な峻厳さが支配しており、そこで更に何かを言っている、クレンペラー的と言ったのはまさにそこのせめぎあいが「ここでは成功している」というところで、クレンペラーでもライヴ録音では失敗があるのと同様ホーレンシュタインでも正規録音では詰まらない地味な演奏に堕しているものもある、この演奏の終演後の反応のよさはムラのある指揮者のここでは成功していることを裏付けている。ただやはり、緩徐楽章など平板で魅力はない。○。webで配布されている音源は日付が明確ではないが同じと思われる。

マゼール指揮ウィーン・フィル(sony)1982

比較的客観的な演奏である。テンポの揺れも作為的であり、基本的には一歩一歩確かめるようなタテノリで、横方向への柔らかい広がりは少ない。第一楽章で特徴的なのは第二主題(アルマの主題)を思い切り急激にテンポを落として奏でている所。作為的な感は否めない。クライマックスの重量感ある足取りは面白い。スケルツォ楽章には余り特徴的なところはないように感じる。アンダンテ楽章は悠揚たるテンポで男らしい感傷をえがき特筆できる。終楽章はゆっくりとした歩みで思わせぶりな出だし。序奏がおわりアレグロ主題が姿を現すと依然重々しさは残るがテンポアップして旋律の流れを作っている。しかしイマイチひたりきるほどの感情の高まりが感じられない。このチクルスでは良い位置に置かれている6番の演奏ではあるが、おすすめするほどの魅力的なところは感じられないというのが正直な感想である。分析的な演奏という特異な位置にはあるので、人によってはハマってくるかもしれない。

○マゼール指揮バイエルン放送交響楽団(EN LARMES:CD-R)2002/3/8LIVE


1~3楽章はとにかく退屈。特筆すべきは1楽章第二主題のテンポ設定、たぶん今まで聞いたどんな演奏よりも遅いと思う。第一主題から急にスピットで遅くなるそのコントラストが非常に奇異に感じた。それ以外はいわゆるマゼール流というべきか、音を磨き上げ演奏精度を極限まで上げる、ただそれだけの無機質な感じ。特筆すべきはけっこうレガート気味なところ、カラヤンまではいかないけど、スタッカートもレガートで流すような横の幅を感じさせる表現がまま見られる。それは4楽章においてよりあきらかになる。この4楽章は名演だ。アレグロ主題の速いスピード、ガツガツというアタックの強さに耳を奪われ、これが1~3楽章とは一味違うものだと認識させられる。音は磨き上げられているものの、その上に強い意志が感じられ、アンサンブルが不揃いになりそうになるのも厭わず、明確な創意が見られるようになる。クレッシェンドの頂点でわざとレガート気味に弾き崩させたり、妙に内声部を際立たせて面白い音響バランスを産み出しているところなどある。雰囲気もそこそこに焦燥感があっていい(強奏部での張り詰めた響きは1~3楽章では見られなかったもの)。個人的に惹かれたのは最後のほうでコンマスがかなでるソロ、二番目のパッセージでの跳躍が通常はA線→E線と普通に1stポジションで遷移するところ(音響的にも開放感の有るE線で弾くのが正しいと思う)、なんとsulAでポジション移動している。そうすることでポルタメントがかかり音色に面白い艶が出る。反面響きが開放されず篭ってしまうのだが、それでも私はつねづねsulAの演奏を聞いてみたいと思っていたので、感動した。マゼールの良さはこういうマニアックな仕掛けがあるところ、表面的には詰まらない無味乾燥な演奏に思えるが、あるていど譜面を頭において聞くと面白味が出てくる指揮者、私はそう思います。木槌の音がはっきりガシンと入るのでお聴き逃しのないように。4楽章だけの評価として○。

○マゼール指揮NYP(NYP)2005/6/22-25live

NYPサイトから有料配信されているチクルスの中の一つ。相変わらず「壮大な」マーラーなわけで、弛緩とはいわないものの余りに遅すぎてついていけない部分がいくつかあるし、何故かきちんと(失礼)悲劇的ぽい気のあおり方をしている場面ももちろんある。きほん「詰まらない系」の悲劇的ではあるが、響きは的確で、「マーラー的なるもの」の本質をよく浮き彫りにしている。「ああ、マーラーの音ってこうだよね」ということを思い出させる。中声部の空疎な響き、半音階的な進行の中で微妙な不協和音の醸す特異性、そういった部分部分の再現へのこだわりはある。デフォルメに過ぎるところはあるが、全般はわりと「マーラーに忠実な演奏」だと感じた。1楽章提示部は当然繰り返す。2,3楽章は逆。

○ミトロプーロス指揮ケルン放送交響楽団(HUNT他)1959/8/31LIVE

何度かCD化されているライヴ録音。恣意的表現の嵐で、オーケストラの集中力も凄い。余りの印象の強さにしばらくこれ以外聴けなかったときもあった。「ここでこうイってくれ」というところで予想以上にやってくれる類の演奏。6番の録音史でもやりすぎランキング一位を争う演奏だ。好き嫌いはあろう。今では私も少し眉をひそめたくなるところがある。だが決してその場の思い付きで伸び縮みさせているのではない。その証左にオケが最後の「一撃」に至るまで、全ての解釈を完璧にこなしている。プロ指揮者としては当然、しかも驚異的なスコアリーディング&記憶力を誇ったミトロプーロスであれば当たり前のことなのだが、この大曲を完全に自家薬籠中にし、その上で的確なオケトレーニングを行ったようだ。オケに共感させる力もまた驚異的であったというが、さもありなんと思わせる演奏である。

○ミトロプーロス指揮NYP(NYP)1955/4/10LIVE

見事な演奏だ。NYPの量感ある響きは他に代え難い魅力があるし、ミトロプーロスの力強いアプローチに見事答えている。荒れ狂うケルン盤にくらべ表現の起伏はかなり抑制されているけれども、そのぶん雑味が混ざらずに済んでいて、アレグロ楽章(第1、4楽章)の緩徐部ならびにアンダンテ楽章(ここでは2楽章)では精妙とでも言うべき繊細な音響を創り出している。アンダンテ楽章の情緒てんめんさは特筆もの(音色変化に乏しいのは難点だが)。対してスケルツォ楽章の力感とスピード感にあふれる表現はミトプーらしいもので意外に楽しめる。無論アレグロ楽章(とくに終楽章)も一気に聞かせる力を持っており秀逸。録音もこの時代にしては聞き易い。おすすめ。

△ラインスドルフ指揮ボストン交響楽団(RCA)1965/4/20,21

はっきり言ってつまりません。とくに前半楽章、いや4楽章以外の無個性さといったらなく、こころなしかボストン響もふるわない。ただ、4楽章は次第に盛り上がるドラマティックな演奏で、ハンマーの打撃が入るところなどアドレナリン炸裂(とはいえ爆演系の指揮者の盤にくらべればやはり弱いが)。ボストンの弦もしまってくる。金管はどうも息が続かない感じ。ラインスドルフは職人肌の指揮者で、オケトレーナーとしては一流だったが、その演奏が取りざたされることは余り無い。あまりに職人すぎて、客を楽しませるという重要なことを忘れてしまったのか。ウィーン生まれなのに、それらしい柔らかさは皆無。かといって剛直でもなく、中庸。「強靭さ」の無い即物主義者、といった感だ。この盤、職人に鍛えられたとは思えない場面もあり、なんだかこの指揮者は得体の知れぬ存在として記憶されてしまいそうである、私にとっては。マーラーはほかに1、3、5があるが、私は1しか聴いていない。

○ドラティ指揮イスラエル・フィル(hilicon)1963/10/27live・CD

イスラエル・フィル秘蔵音源のひとつとして正規発売されたもので、ドラティの悲劇的としては初の正規CD化ではないだろうか。しかし、音はかなり悪く、モノラルで音場が狭い、撚れているところがあるなどいわゆる骨董録音好きにしか許容できないような要素満点で、気になるかたには薦めない。演奏自体はいつものドラティにも増して荒れ狂う。つんのめり気味でものすごいテンポをとり、非力なオケをぶんぶん振り回してシェルヒェンのようなばらけかたを見せる場面もある。このオケは弦が美しいはずなのだが、なぜこの曲でこの薄さなのか理解できない。おそらくマイク位置とか単純な別の理由からだろう。いつもより多く揺らしております、というところがもうマーラー好きにはたまらないところもあり、古いスタイルのよさ、というものも感じさせる。わりと全楽章がよいが、しいていえば両端楽章か。○。

○ドラティ指揮シカゴ交響楽団(DA:CD-R)1971live

正直3楽章まではまったくそそられない、余りに「普通」なのである。解釈もそのまんまで殆ど特殊なことは行っておらず、また録音が悪い。ステレオだがモノラルと勘違いしそうなエアチェックで、スケルツォなどかなり聴きづらかった。しかし終楽章の盛り上がりには驚いた。まるでここだけで一つのドラマを作るのが目的であったかのようなボリューム感とオケの合奏力が、あくまで奇をてらわない直球ではあるけれど耳を話さない。最後のブラヴォーの渦もうなずける名演ぶりだ。これは特徴的なものは何一つ無いけれど、実演だったら感動したであろう演奏。○。

○ドラティ指揮フィラデルフィア管弦楽団(DA:CD-R)1975live

普通。派手な解釈はなく、終楽章あたりにフィラデルフィアならではのゴージャスな音が男らしい一本木な展開の上に少し花を咲かせているが、基本的に渋く、解釈よりはテクニック系の指揮者であり、1~2楽章などはとくに全く特徴のない、揺れもしない「オシゴト的演奏」でどうかと思った。3楽章は若干の綾があるものの他の指揮者と比べて特徴的とは言えない。4楽章はドラティの他のもの同様ダイナミズムに溢れ・・・と言いたいところだが前半は少し客観的な感じがする。クライマックスが近づくにつれドラティらしい強いアクセントをつけて突き進む雄渾な表現が気を煽るようにはなるがヴァイオリンのテンポがずれてしまったりフィラ管らしくもない箇所があったりする。また録音は安定して良好なステレオなのだが、一部非常に聞きづらいエアチェック録音ミス・テープ媒体ノイズがある。音量に起伏が無いのは録音レンジの狭さゆえか。最後のコーダだけが特徴的に陰鬱さを示すほかは暗さがないのも気になるといえば気になる。こういうのが聞きやすいと思うときはあるとは思うので、○。

○ドラティ指揮クリーヴランド管弦楽団(放送)1977/3/31live

素晴らしい悲劇的の放送録音をいくつも残しているドラティの、最近CD化されたイスラエル録音を除けば殆どがアメリカオケとのもののひとつであるが、中でも名高いセルのオケとして、ウィーンの響きと高い機能性を誇ったクリーヴランド管弦楽団とのステレオ録音だ。状態はよいが内声はやや聞き取りづらい。基本的にトスカニーニを模したような直線的で乾いたドラマを描いていくスタイルで、マーラーでも保守的できわめてロマンチックな音楽であるのに、とくに緩徐部や楽章があまりに素早くまるで興味がないかのように音色も何も無く投げられていくのには唖然とさせられるが、ドラマティックな楽想、歌謡的な旋律の分厚い表現、スピード、それについていくオケ、ラッパは下品だしブラス走り気味だが、臨時記号だらけの細かい音階をひたすら高速で正確に刻み続ける弦が素晴らしい。セルのライブ録音にときおり聴かれた程度には音程ミスやアタックの甘さボウイングのずれなどなくはないが、ほぼブレイクなしに最後迄弛緩しない演奏ぶりは驚異的だ。クラシックを知らない人間がこんなライブをこの曲で聴いたら、圧倒され魅了されざるをえまい。精密で響きばかり気にする現代の演奏にはない熱いものがある。ハンマーがよく聴こえなかったがまあいい。○。

○ドラティ指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1978live

インホール録音(膝録)。不安定だが過不足ない迫力のあるステレオ録音。演奏自体は集中力は高いものの職人的で解釈に目立ったところはなく正直面白みはない。が、無心で楽曲だけを聞けるメリットはある。4楽章など細かくはより効果的にドラマを演出するためにいじっているような箇所もあり、楽曲だけ、といってもスコアが透けてみえるたぐいではない。とにかくこの曲によく慣れている人のどちらかといえば即物的なスピード感ある演奏。3楽章など凡庸で地味かも。オケはデトロイトだけに?鉄鋼製品のようなところがあるが巧い。よく制御されておりミスもない。実演だったら何度でも行きたくなる演奏だろうなあ。ブラヴォがわりと凄い。

○ロスバウト指揮ベルリン放送管弦楽団(DA:CDーR)1942放送


ドラティのあとに聴いたせいかこれぞマーラー!と膝を打つ思いだった。この赤銅色の響きがなくては!スケール感溢れ意外と正攻法でマーラーはこれだ!ときっぱりやってのけている。遅さなど気にならない、ロスバウトってこんなにはっきり覇気に満ちた演奏してたっけ、と一瞬疑うが4楽章の緩徐部のねっとりしたロマンチシズムから途方も無いスケールで憧れに満ちた演奏を繰り広げるあたり、ああロスバウトだ、と思った。歌曲の混信やら放送由来の雑味はあるが安定した聴きやすい録音。○。

ロスバウト指揮バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団(DATUM)1960?

全般に音のキレが良く、遅めのテンポでもだらしなくならず音響バランスを保ち、録音の悪さを我慢すれば、かなり聞ける演奏。1楽章冒頭から、行進曲のはずむようなテンポに引きこまれる。調子の良いときのワルターのライヴやシューリヒトを髣髴とさせる。アルマの主題の僅かなルバートも絶妙。とにかくこの1楽章は絶品。細かいテンポ操作や音響(譜面)操作が、新鮮なだけでなくぴたりとハマってくる(違和感を覚える向きもあるかもしれないが)。3楽章は直截ながらもオケの響きに透き通った美しさがあって、おだやかな表現が優しい。最後の盛り上がりが遅めにルバートするのは、バルビローリのライヴなどとは正反対だが、こういう朗々と歌う表現においてロスバウトは実にうまい。全般的に遅めの4楽章においても、盛りあがったところでの雄大な旋律の響かせ方、ニュアンス深さは絶品。彫りの深い情緒的な表現は現代音楽の紹介者としては意外に思えるかもしれない。現代曲指揮者や作曲家の棒の面白さは、常識に囚われない独自の解釈表現にあるが、この演奏は常識という土台を踏まえながらも、やはりロスバウトでしか聞けないものを持っている。そして造形的とも言うべき首尾一貫した哲学が感じられる。たとえば四楽章冒頭の引きずるような遅さはこれ以外に考えられないと思わせる必然性を持って響いてくる。この重さは3楽章の夢見るような軽さとのコントラストを明らかに計算してのものであると思う。盛りあがったらアッチェランド、歌うところはリタルダンドみたいな、その場その場のワンパターンな棒は決して振らない。音の悪さが実に悔まれる名演です。あえてケチをつけるとすれば、4楽章も最後のほうのコンマスソロ近辺は、あまりに歌いすぎ… (2005以前)

○ロスバウト指揮南西ドイツ放送交響楽団(movimento musica/WME:CD-R/DATUM)1961/4/7?(3/30-4/6、WMEは表記上1950年代)


ややこしいことにCD化以降データが錯綜しているが、恐らくいずれも同じスタジオ録音の板起こしと思われる。DATUM盤については既に書いたがこれも表記上のデータと実際の録音期日にはずれがあるようだ。正解は1961年3月30日~4月6日のセッションであるようだ(ちなみに私はLP含めこの三種全部持っている)。しかしロスバウトのセッション録音とは思えない演奏上の瑕疵が特に中間楽章に目立ち、最終テイクでないものが流出している可能性もあるかもしれない。WMEは最新の復刻になるが、DATUMと同様板起こしであり、なおかつ原盤の状態が非常に悪いらしく、盤の外周部すなわち各楽章の冒頭が必ず耳障りな雑音だらけになり、そうとうに聴くのに苦労を要する。更に馬鹿にしているのは3楽章であり、ロスバウトの雄大で情緒てんめんなマーラーの緩徐楽章が音飛びだらけ。はっきり言ってこれは販売に値しない盤であり、LPを探して聴いたほうがよほどマシである。

演奏の独創性はマーラーに対するロスバウトの思いいれによるものだろう。この冷徹ともされる指揮者が如何に起伏に富んだマーラーを描いたか、とくにテンポを遅い方にルバートするやり方を駆使した粘着質の情緒が、ドライで研ぎ澄まされた音の鋭さ・・・特に打楽器・・・と何故かマッチして、非常に美しい音世界を描き出している。詳細は前に書いた内容と同じなのでもう書かないが、現代音楽指揮者というイメージはそろそろ払拭されたほうがいいのではないかと思う。古典からロマン派から独創的な演奏を残しているのだ。演奏に対して○。録音がよければ◎にできたであろう演奏。(2007/11/9)

○ゴルトシュミット指揮BBC交響楽団(WME:CD-R)1962live

ゴルトシュミットというとデリック・クックとともにマーラー研究で有名な人だが指揮記録というのは珍しい。オケが現代的な機能性をもったオケだけにゴルトシュミットの見通しいい解釈をただ音にするだけではなく伸びのある表現で増強している。分析的な表現といえばそれまででホーレンシュタインのものに似ている。がっしりした枠組みの中に独自の変更(というか恐らく根拠はあるのだろうが)を加えたものでアナライズ好きにはアピールするだろう。普通に聴いてもまあまあ面白く聴けるし、しろうとではないことは確かだ。ただひたすら録音が茫洋としていて迫力も音量も無い。だからどうも、インパクトがない。解釈自体が熱情的でないだけに昔のブーレーズの演奏に似ていなくもなく、マデルナとまではいかないが、作曲家兼指揮者の解釈に近い不思議な表現を持っているところも賛否わかれるだろう。1楽章の提示部繰り返しあり、2楽章はアンダンテだ。○にはしておくが、音が悪いことと終演後ぷつりと切れてしまうところ(どこか欠落があるようだが気がつかなった)など盤としての瑕疵もあり、無印寸前か。

○ノイマン指揮チェコ・フィル(SUPRAPHON)1979/4/24-28・CD


牧歌的と思うなかれ。トスカニーニを彷彿とさせる突進するテンポの上に、粗野さもあるものの起伏の大きなダイナミックな音楽を、チェコ・フィルの未だ独特の表現をもつ技術力の高さが支えているさまはなかなかによい。弦楽器の東欧的な艶やオーボエをはじめとする美しい響きの木管、強靭なブラスがロシア的とも言うべき雑味の中にもバイエルン放送管のようなライヴ性溢れる魅力をはなっている。悲劇的が「劇性」を交響曲の峻厳な枠組みの中で表現したマーラーの型式音楽における極地とすると、ノイマンはその劇の部分をとても大事に表現している。若々しさすら感じるものゆえ円熟味は無いが、6番がとりわけ好きな人は好きな類の演奏だと思う。浅薄な部分もあるかもしれないが、録音のせいとも思える。名演とは言わないが楽しめる演奏。スケルツォの表現の面白さはノイマンとチェコ・フィルの丁々発止のやり取りに尽きるし、3楽章の美麗さも深い感傷性に裏付けられている。終楽章のハンマーの金属質の打音に戦慄せよ。○。1楽章提示部の繰り返しをやっている。

ノイマン指揮チェコ・フィル(EXTON)1995/1/23-26・CD

エッジが立たず穏やかゆったりの演奏である。丁寧でスケールが大きく、瞬間的な激し方はしない。悪く言えばのっぺりしている。ゆえに3楽章がしっくりくる。他は甘く感じる。4楽章は遅すぎてブラスが乱れる場面もある。粘りもないので案外すっきり流れる演奏ではあるのだが、3楽章は例外的に丁寧に大きく粘るようなクライマックスから結部はあくまで幸福感の中にドラマを感じさせる。ひっかかりがないので無印。

○プレートル指揮ウィーン交響楽団(WEITBLICK)1991/10/10放送live・CD


こんな中途半端な時期の稀曲演奏を復活させるよりもEMIのチャイ5などまっとうな、というかこの特異ゆえに評の長らく安定しなかった指揮者の盛年期の姿を伝える正規録音を復活させてほしいと思うのは私だけだろうか。恐らく2008年WPニューイヤーコンサート起因の人気沸騰を見込んでの発売だと思うが、正直それほど名演とは思えない。後半シェルヒェン張りの極端なディジタル・ルバートがテンポにかかるところは熱が入るが、とくに1楽章の凡演ぶりといったらなく、ああ80年代はこういうマーラーが多かったなあと思わせる。提示部の繰り返しが尚更冗長感を増す(この盤は80分超の収録時間を1枚に収めるという近年珍しいコストパフォーマンス重視の制作になっている)。非情緒的な(ショルティを思い出した)音色にインテンポ演奏、ただゆっくりする場面においては極端にテンポダウンして音響を確かめるのがいかにもこの人らしくVSOには珍しい純度の高い響きが聞かれるものの、基本的に音が篭りがちで(盤質か録音かホール起因か)開放感のないイマイチな盤であるから、少なくともファーストチョイスで推薦する気にはならない。著しく攻撃的なスケルツォは特筆ものだし、誰がやっても感動する4楽章にいたってはやっと表現主義的な極端なテンポ設定の解釈が板についてきて楽しめるが、それも一流のマーラー指揮者のものというより、現代音楽を得意とする指揮者の余技という感が否めない。個人的にマルティノンのマーラーを想定しながら聞いたが、プレートルは構造性よりも純粋に響きを重視した作り方をしているため、立体的とか色彩的とかいう感想は浮かばなかった、純粋な音響を指向しているという感じのみである。そこが面白みがないという感想につながっている。ウィーン交響楽団のシェフとしてならしたころの録音だと思うが、このオケの特質をいい意味で殺して違う魅力を引き出した、それはあのニューイヤーコンサートでの非ウィーン的ワルツと同じ性向のものである。面白いと捉えるか、受け付けないか、そこは聴く貴方次第。4楽章を買って○にしておく。

○アブラヴァネル指揮ユタ交響楽団(VANGUARD)CD

終始即物的なさっさとしたテンポ設定だが音響的にはじつにマーラーを感じさせるバランス感覚が働いている。計算する指揮者なので、細かい仕掛けは判ればおもしろいが、オケがいかんせん弱く、音色が鄙びて揃わず、細かい動きで弦が乱れすぎるのが気になる。3楽章みたいな楽想だとそういった雑味が感情表現の強みにはなりうるのだが、パワーがないのは如何ともしがたい。4楽章はスピーディで即物的な表現がプラスに働いて、めくるめくドラマの奔流に流されるままに楽しめる。録音含め音場の狭いリアルな音作りに賛否あるだろうが、古いスタイル~シェルヒェンなどといった~のマーラーのこれも典型のように思う。○。

N.ヤルヴィ指揮日本フィル(JPS)2000/6/23サントリーホールlive


オケが技術的に大変厳しい状態だし録音も何かぼやっとしているわりに弦のフォアシュピーラーがやたら強く入ったり距離感がちぐはぐなので無印にせざるを得ないが(管はいいんですよね)、ヤルヴィのとにかくさっさと進むドライヴぶりには古いスタイルの指揮者がイタリアあたりの放送オケを鼓舞しているような錯覚に陥るところもありちょっと懐かしい感じがする。とにかく弦は薄くてまとまりが今ひとつだし、3楽章など珍しく正攻法で情緒的なテンポ・ルバートが導入されても「これが精一杯」というような無個性的な音しかきかれないし、しかし、全編が焦燥感に満ちた非常に速いテンポで推し進められてゆくので、小コンドラシンという趣もなきにしもあらず。ヤルヴィ自身の演奏解釈もけっして奇をてらわないが正攻法でとにかく突き進むスタイルをもともと持っていたのであり、それを日本のオケが半分アマチュアぽくなりながらもライヴでやりとげたという部分ではいい演奏と好意的に見る事もできる。あ、パーヴォ氏じゃないですよ、さいきんはいちいち断らないと息子と間違われる。。ネーメ氏です。

◎ラトル指揮BPO(BP)1981/11/14,15live・CD

ラトルの「衝撃のベルリン・デビュー」をベルリン・フィル自主制作盤として再編集したもの。ベルリン自主制作シリーズは全般、海賊盤CD-Rなどに比べれば全然聞きやすいが期待ほどではなく、環境雑音も比較的入る(モノによってはエアチェックのような趣さえあるが、ほうぼうから掻き集めてきたものをシリーズで出したようなので仕方ないだろう)。しかも私の盤だけかもしれないが4楽章24分直前より26分くらいにかけて音飛びのようなものが聞かれる。短いがプレイヤーによってはかなりプチプチといわゆる「修復不能な劣化音」に近いものが聞かれ不安を煽る。いずれ自主製作ものとはそういうものなので仕方ない。

○ビシュコフ指揮BBC交響楽団(放送)2011/8/26プロムスlive

前半楽章の緩徐部が面白い。ねっとりと(ねっとりしすぎてずれそうになるところも)しかし計算ずくで盛り上がりをつくる。1楽章の提示部を繰り返しているがいずれもアルマの主題が再現したところの壮麗さには圧倒される。また裏で対旋律を吹くホルンソロの力強さ(あの遅さ!)が印象的だ。マーラーは肥大化したオケがどうこう言われるものの基本的にソロをとっかえひっかえ取り出しては線的に絡ませていく、室内楽的なアンサンブルが特徴的だ。決して構造的に複雑になることなく旋律で進行していく。だからこそ構造をグズグズにしてしまうと音楽にならず、テンションとスピードで無理やり押し切るか(構造も精度も無視)、ビシュコフもそうだが、基本線はきちっと仕上げ、局所的に個性を打ち出していく方法をとるしかない。前者だと「マーラー的な音響」を味わうことはできない、この曲などカウベルや木槌などといった視覚的なものまで含む空間音楽的な意図が入っているので、4楽章のコンマスソロが現れる神秘的で感傷的な緩徐部など、このような演奏じゃないと楽しめないのだ。まあしかし3楽章や、誰がやっても聴けてしまう長大な4楽章はビシュコフでなければならないという必然性を感じないが、とにかくブラスが無茶苦茶上手いということはわかる。いや他も、弦も非常に完成度の高い演奏をライヴで提示している。結論としては、オケ激ウマ!

○アンドラーシュ・リゲティ指揮ハンガリー(テレコム)交響楽団(自主制作)2001/2live・CD

とにかく冒頭からスケルツォまでつんのめるような異常なテンポ。ドラティみたいなドライさはなくウェッティなのが印象に残る。スヴェトラ的な姑息なわざとらしさのない絶妙のロマン性がシェルヒェンにも似た表現主義ばりの起伏を落ち着かせる。一楽章提示部を繰り返しておきながら1から大カット。しかし曲構造のバランスはいい。オーソドックスともいえる3楽章からドラマティックなフィナーレはスピードの違和感も減り、あとはスコアに加えたとおぼしき派手な音を楽しもう。太鼓の音が変。音符の数も多くないか。木槌もずしゃっという重いながらも変な音。ブラスは録音のせいかもしれないが強力。弦は辛いとこも多いが健闘。しかしどういう専制君首指揮者だ?2001年2月だそ。○。次第に盛り上がる拍手に足踏みがローカリズムを感じさせる。これはけして興行主が発見し世界引きずり回すべきじゃないオケだ。技術的にもセンス的にもすばらしいからこそ。あ、誉めすぎた。基本はライヴでこの芸風、今の聴衆にはぐだぐだにきこえよう。1楽章がねえ。振り回しすぎ。。
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マーラー 交響曲第6番「悲劇的」(2012/3時点のまとめ)その1

2012年03月29日 | Weblog
マーラー:交響曲第6番<悲劇的>(1903-06)

<最も充実した時期に書かれた純管弦楽交響曲三部作の中間にあたる作品。さすがに中身が濃く、マーラーの全交響曲中もっとも形式にのっとって書かれているためか案外よく演奏される。ウェーベルンがこの曲を演奏した写真が残っている。長大でドラマティックな終楽章の最後に英雄を打ち倒す木槌の音、2回聞こえるか3回聞こえるか?アンダンテ楽章はシェーンベルクに賞賛された美しくも哀しいマーラー節。1楽章の第二主題はアルマ夫人のテーマと呼ばれるちょっと恥ずかしいくらい甘いメロディだが、そこへ至るまでの音楽は葬送行進曲なのである。この時点でのマーラーは順風満帆だったはずだが、なぜ「悲劇的」なのか?通称ではあるけれども、「亡き子をしのぶ歌」もろとも、悲劇の予感はやがて的中するのであった。>

アドラー指揮ウィーン交響楽団(CONIFER/SPA)1952・CD(世界初録音盤)


チャールズ・アドラーは20代の頃にマーラーの8番ミュンヘン初演を手伝い、合唱指揮を行ったことで知られるイギリス出身の指揮者だ。ヒトラー前のベルリンで楽譜出版社を設立し、アメリカ現代音楽(アイヴズやカウエル)をヨーロッパに紹介したこともある。この演奏は決して器用な演奏ではないが、壮大で安定感のある解釈とウィーン響の美質が、ゆっくり感銘をあたえる。録音の難点として、ピッチが高すぎる。この点を乗り越えてきくことがまず第一。1楽章はかなりゆっくりだ。第二主題でのリタルダンドも余りしない。提示部の反復は行っていない。2楽章(アンダンテ)は往年のハリウッド映画音楽のような甘美な音が聴ける。ウィーン響の弦はちょっとばらける場面もあるが、その艶やかな美質をよく聞かせてくれている。クライマックス前の妙なアッチェルとか、他では聞けないものもある。この楽章は特筆もの。3楽章(スケルツォ)は重く引きずるような足取りで始まる。「重々しく」の指示どおり。1楽章と同様緩慢なテンポだ。細部に特徴的な解釈が聞かれるが、テンポ自体は一貫してほとんど変わらない。穏やかな雰囲気の中かなでられるウィーンの音に溺れるべし。マーラーの子供たちが遊ぶ姿が8ミリ映画の画像の中に浮かんできそうな幻影におそわれる。ふたたびスケルツォ主題が戻り重厚な音がかなでられる。このへんの音響、かなり「マーラーっぽい」。終楽章、チェレスタ、ハープの上向音形がいきなり鮮烈に響いて始まる。遅いテンポで丁寧に音響を組み立てている。イマジネーションを刺激する精妙な響きだ。アレグロ主題もやはり重くひきずるように始まるが、徐々にスピード感が増してくる。苦しいホルンなど技術的瑕疵がまま見られるが音楽の総体は損なわれていない。弦セクと管セクのテンポが完全に分離してしまっている箇所もあるが、なぜか最後にはつじつまがあっている。緩徐部での打楽器群の精妙な響きはなかなかイマジネイティブ。カウベルが遠い教会の鐘の音に聞こえてナイス。原譜にはないコンマス・ソロが聞こえたりする(たんにコンマス以外落ちただけかも)のはご愛敬。盛り上がりどころではややオケのパワー(&技術)不足が露呈するところもあるが、敢えてテンポを落として表現される音楽の異様な壮大さには圧倒される。このテンポのせいか旋律楽器以外の中低音の動きがじつに聞き取り易く、マーラーの特殊なオーケストレーションの秘密の一端が聞ける。ペットの音程がかなり怪しくなってくるが気にしないでくれ。後半やや音楽の起伏がなくなり飽きてくるところもある。英雄が打ち倒される衝撃が甘い気もする。

最後の打撃で英雄が打ち倒されたあとの挽歌のコントラストが少し足りない。不満点もままある、というのが終楽章の聴感だ。じつはこのCD買ってからすっかり忘れていた。一寸聞き余りひっかかりがなく、放っておいたのだが、今日なんのきなしにスコア片手に聞いたら、かなり楽しめた。ふだんスコアは見ないで聴くのだが(スコアなんかあると音楽に集中できない!)スコアがあったら逆に楽しめる演奏というのもあるのだなあ、と思った。

○ベイヌム指揮ACO(TAHRA)1955/12/7LIVE・CD

録音劣悪。覚悟がいる。ニュアンスの伝わらない平板な音に超ドライな解釈ではいくら力感に満ちていても聞くのが辛い。いや力感すら四楽章になるまで伝わってこない。緩徐楽章が二楽章にもってこられているがこれもつまらない。要所要所のテンポルバート以外に耳をひく要素がない。四楽章になると音楽そのもののせいかダイナミズムが結構伝わってきてやっと聞けるようになってくる。雄渾で男らしいマーラーに色もついてくる。弦の音のニュアンスがかなりしっかりつけられていることに気づかされる。引き締まった演奏ぶりに憧れのような感情もやどり、ベイヌムのライヴらしい烈しさが肉付けされて聞こえるようになってくる。ブラス陣の表現力にも感服させられる。起伏の伏のほうの表現がなかなか聞きごたえがあることにも気付く。独特の「リアルな」歌をかなでる。だがミスも目立つ。この演奏、案外危ういのだ。弦楽器が激しすぎて崩壊しかかる場面もミニマムではけっこうある。集中力がシェルヒェン的な方向へいってしまう、基本解釈が率直なベイヌムでそれは逆効果だ。それでも四楽章は興奮するし、この長さを感じさせないドラマティックな楽章は評価されてしかるべきだろう。録音マイナスで無印以上にはできない。

後日補記>よく聞くとかなり面白い面もあるので○に修正。けっこう短気な起伏もあり力強い。アンダンテ楽章のニュアンス表現がけっこう強くつけられているが全体的なバランスは崩さない。スケルツォ楽章のテンポ感には賛否あると思う。個人的には三拍子が均等に重くアクセントつけられている点にはちょっと違和感をかんじた。舞曲じゃなくて行進曲だ。行進曲として聞けば重々しい表現はしっくりくる。でも個性的な中間楽章である。ベイヌムには交響曲のほか、戦争直後のロンドンでの歌曲伴奏のライヴCDもある。

ボンガルツ指揮ライプツィヒ放送交響楽団(WEITBLICK)1969/6/30・CD


1楽章は正直期待外れ。遅くて揺れが少なくすこぶる客観的。またそういう演奏にしようとする作為が見え過ぎ、こういう解釈でオケは納得してやっているのだろうか、と疑ってしまう。情緒的なものが少なく冷徹に纏め上げていくやり方はやはりケーゲルを彷彿とさせる。ケーゲル流だと思って聞くと確かに聞ける所はあるのだが(情緒過多なマーラーが露骨なクライマックスなどは寧ろ聞きやすいしせせこましくならず壮大だ)。2楽章アンダンテはあっさり過ぎてひっかかりがない。流れはいいが音色が単調。録音のせいかもしれないが、純粋に楽曲そのものを味わいたい人向けにしても少し微温的過ぎる。音に迫力がない。ケーゲルのようなザクザクガシガシ斬り込むアタックの厳しさが無いのだ。3楽章も速めだが、比較的厳しめの発音と共に曲の性向にマッチした感じはする。まあつんのめり気味な一本調子といった感じだ。カットがどうにも痛い。4楽章になると芸風に一種の風格が備わってくる。量感はないし事故もあるが、音符のキレがよく、そこに確信のようなものが感じられ、遅くてバラケを生じるところもあるが(盛り上がり所は一段と遅くなる)聞きやすい。密度の高い書法が遅速により解体され、厳しく再構成されている。金属ハンマー2回だそうだが私の耳にはちゃんと聞き取れなかった。終楽章は小技も聞かれるし比較的面白く聞けるから、前半楽章がどうにも惜しい。無印。スタジオ録音。
*すいません、2点修正しました。(1)スタジオ録音だそうです。(2)ハンマーが聞こえなかったのですがちゃんと入っているとのことでした。

インバル指揮フランクフルト放送交響楽団 S61

カラヤン指揮ベルリン・フィル(DG)1977


ライヴ盤にくらべ心なしか落ち着いている。さすがに音は細部まで磨き抜かれている。細部まで聞こえるから、「へーここでこのパートこんなことやってんだ」的な感動がある。1楽章は面白かった。2楽章スケルツオは落ち着いている。4楽章も比較的ゆっくりだ。じっさいに演奏時間もライヴ盤より長いのだ。行進曲主題の溌剌とした歩みは心地よい。少しばらけたように聞こえる所もあるが。ブラスがちょっと武骨すぎるかもしれない。テンポの揺れは比較的少ないように感じる。だから少々一本調子な感じもしなくもないが、このへんは好みだろう。意外と骨太。弱音部の精妙さとのコントラストが面白い。聴後カタルシスはどちらかといえば少ない演奏だが、総体においてレベルの高い演奏たりえているのはさすがといえよう。

カラヤン指揮ベルリン・フィル(FKM:CD-R)1977/8/27LIVE

これは「解釈しない」演奏だなあ、と思った。とくに一楽章、アルマの主題があらわれるところの機械的なリタルダンドに音色変化の欠如など、たしかにこの人のマーラーが評価されない原因がわかるような気がする。ただ、スケルツオと終楽章は精妙なうえダイナミックで、聞きごたえがある。このスケルツオが面白い演奏というのは巧いオケの演奏しかありえないわけで、ベルリンの力に感動。弦やっぱり強い。強いといえば一楽章の行進曲主題も暴力的に強い。しかししょっぱなでペットが裏返っていたりも。この盤、音質に問題あり。音像がぼーっとしているところがあり、とくに中低音の動きが聞こえないのはきつい。拍手は通り一遍の、ってかんじ。1楽章の「繰り返し」は行われていない。

○クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(DG)1969

オケがよく統率されており、なかなかダイナミックな音楽を聞かせる。弦楽の充実ぶりは特筆できよう。解釈自体は奇をてらわず率直で模範的であるが、そのスタイリッシュな指揮ぶりは「ボヘミアのマーラー」という田舎くさいイメージとは隔絶したものとなっている。1楽章葬送行進曲の攻撃的な表現(テンポ)、アルマの主題のドラマティックな謡いかた(絶妙)、主旋律だけでなくその下で蠢く中低音の充実した響きが曲に深みをあたえている。クライマックスまで一気に聞かせる力感のある演奏だ。全てが一本調子かといえばそうでもなく、一部ではあるが面白い所でテンポ・ルバートがかかったりもしている。2楽章スケルツォも弦楽の強固な表現が印象深い。3楽章アンダンテは心根深い祈りの音楽。4楽章も速いテンポで始まるが、(多少武骨ではあるが)精妙な緩徐部をへて、闘争の音楽をかなでる主部へと突入する。個性的なものは余り無いが、雄渾な表現には引き込まれるものがある。「テンポ良さ」はこの演奏の特徴の一つだろう。豊穣な音響の中にうねりのたくるようなドラマが描かれていく。イマジネーションをかきたてられるようなところは薄いが、リアルな音作りには好感が持てる。
ずっとCD棚で埃をかぶっていた演奏だが、改めて聞き直してみてそのクオリティの高さに今更ながら驚かされた。佳演である。

○クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(audite)1968/12/6live

異様に即物的な演奏で独特だ。しかし、これがベルリン・フィル、せめてシェルヒェン盤のライプツイヒであったら、と思わせるほど、オケが駄目・・・である。弦は薄いし管はしょっちゅうミスる。第一楽章は異様な速さで始まり、第二主題初回でのテンポダウンを除けばかなりの高速演奏に終始するが、どうもつんのめり気味で、オケがついていっていない。クーベリックの若い棒は熱を帯びてくるとどんどん速くなっていくようで、それもオケのミスを誘っている。最後の下降音形で急激なリタルダンドをかけているのにはにやりとさせられた(スコア指示無し!)。スケルツオになるとアンサンブルは整ってきて、音楽の性格上からもかなり楽しめる。
アンダンテは抒情味の少ない演奏で個人的には余り好きではないが人それぞれだろう。終楽章も幻想の無い即物演奏に終始するが、行進曲主題の勢い良い音楽は耳を惹く。あと、英雄が結局打ち倒され、挽歌に入った最後の場面はなぜかかなり丁寧に演奏されており、そのリアルな音作りもあいまって面白かった。

コンドラシン指揮レニングラード・フィル(MELODIYA)1978LIVE・CD


これは余りにマイクに接近したクリアな音が災いしているのと、コンドラシンの単彩でストイックなアプローチが曲のロマン性を一切取り去ってしまったため、目茶苦茶弾けるオケがその運動性を誇るだけの「裸の演奏」に聞こえてしまうという結果を産んでしまった。決して悪い演奏ではないが…

○シェルヒェン指揮ライプツィヒ放送交響楽団(TAHRA)1960/8/4LIVE・CD


ライプチヒが巧い。シェルヒェンの無茶な要求がこの演奏ではけっこう実現している。計54分…これだけでも無茶はわかるだろう。無論繰り返しなしカットあり(スケルツオが僅か6分強!)の演奏ではあるが、聞き進むにつれ速さが必然性をもって響いてくる背景にはライプチヒの強固な合奏力も大きい。音色を損なうことなくドラマティックに弾ききっているところが凄い。特に終楽章聞きごたえあり。1楽章、暴力的なテンポによる力技の行進曲、アルマー!!と叫んで頭を張るような第二主題の強力な表現は特筆物。飽きる暇もありません。2楽章(緩徐楽章、通常は3楽章)がやや潤いに欠けるようにも感じるが、ライプチヒの渋い音が曲の湿気た情緒に合わなかったのかもしれないとも思った。とにかく、余り横広がりの無いタテノリ演奏で、情趣より音そのものに立ち返らせるようなドラマツルギーが大魅力。

○ショルティ指揮シカゴ交響楽団(LONDON)1970/4・CD


ストイックな演奏だ。贅肉が無く、現代的である。シカゴの音はそのずば抜けた機能性に比してけっこう無個性的だが、ここでもやはり情緒的なものに欠けた演奏をくり広げているように聞こえる。私はベルティーニやショルティからマーラーに入ったので、この演奏もそうとう聞いたのだが、いろいろと耳が肥えてくると、オケ・指揮共に技術的余裕がありすぎるせいか、あるいは単にその速いテンポのせいなのか、余りに軽やかに曲を進めていっているように聞こえて仕方が無い。冒頭の葬送行進曲など音自体が軽やかに感じるのは、ひょっとしたら録音のせいかもしれない。比してアルマの主題が朗々と歌われるのは印象深い。あまりに自然に行っているため耳にとまりにくいが、結構起伏のある演奏でもある(スコア指示のとおりだったりするけども)。目立たない低音域の楽器がしっかり鳴っているのには瞠目。このあたりがムニャムニャな演奏が多いし、じっさい目立たぬ書き方がしてあるのだが、シカゴの奏力とショルティの鋭敏さに圧倒される。
たぶん6番演奏記録中で最も技術的に高みにある演奏であり、精度を求めるなら聴く価値は十分にある。中期純管弦楽交響曲においてはショルティはとても評価が高い。

スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(ARTS&ELECTRONICS/MCA)1989/12/26LIVE・CD


これはソヴィエト崩壊当時に唐突に発売された旧録。弦楽器の弱体化が痛々しいが、この指揮者の大曲をまとめる類希なセンスが伺える佳演となっている。管楽ソロの表現力の凄みは諸所感じるが、弦の弱さ(プルト数の少なさ及びマイク位置のせいであろうか)はいかんともしがたい。雑味の多さはライヴのせいでもあるだろう。スヴェトラーノフ解釈は想像するよりはずっと率直で常識的な解釈である(金管の発声法だとか奏者側に依る要素は別)。終演後の拍手は暖かい(少々ブラヴォの声も混ざる)。ところで、昨秋まで店頭に並んでいたハルモニア・ムンディの新録が今(2003/1)どこへ行っても品切れである。入荷予定なしだと。この旧盤だけでとりあえずいいか、と思っていたが急に聞きたくなり、方々へ行ったが、どこもそんな感じだった。残念。再発を気長に待とう。

○スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団(harmonia mundi/saison russe)1990LIVE・CD


ARTS&ELECTRONICS盤より数段音が良く、演奏もバランス良く安心して聴ける。ぜひ大音量で浸っていただきたい。弦には量感があり、凄い気合が感じられる。少し雑味がある箇所も見られるものの総体では余り気にならない。骨太でありながら自在に動くテンポ、デュナーミクがとにかく、わくわくさせる。また、高音打楽器の音が強調されて響くのは面白い。カウベルは個人的に低く深い音のほうが好きなので、この盤の高音のベルのような音は少し不満だが、好き好きだろう。1楽章の行進曲で音を短く切り上げる作法は独特だ。気合が入っている。2楽章スケルツォの弦楽の強靭な表現は恐るべし。弦、調子良い(録音のせいもあろうか)。3楽章アンダンテは余りテンポが揺れず少々あっさりめだが、全曲を通じて幸福感のある演奏だ。クライマックスの「うた」はなかなか感動的。終楽章のドラマティックな強奏表現は圧巻。終端の寂滅表現もなかなか味わい深い。この盤、新宿HMVでやっと見つけたが、探して良かった。ちなみに池袋HMVには6番以外が全て揃っていた。生産中止だそうなので、興味のあるかたはお急ぎを。(2003/1)

○トーマス・ザンデルリンク指揮サンクト・ペテルブルグ・フィル(RS)1995/7/2,3,4

限りなく◎に近い○と思って下さい。これは聴き易いです。無茶苦茶わかりやすい王道的演奏。些末な部分を除けば多くの人がこの曲に期待するとおりの演奏を繰り広げてくれている。表現には適度に潤いもあってドイツの放送オケのようにキシキシしたところは見られない。録音がクリアで少々分離が激しいせいか打楽器要素が際立ってきこえるのと、ダイナミックレンジが異様に広い(弱音部はほんとに聞き取れないくらい小さくてオープンエアのヘッドフォンだときつい)のが特
徴的だ。1楽章は思い通りの演奏というかこれ以上もこれ以下もない決定版的演奏と言っておこう。提示部の繰り返しもきっちりやってます。第二主題のテンポ設定に拘るマニアもいるそうだがこの演奏は絶妙、ダレすぎも素っ気無さすぎもしていない。ある意味中庸的だがだからこそ聴き易い。展開部に入るとそれまでは割合と常識的だったのが少し面白い解釈が混ざってくる。奇妙なダイナミクス設定(突然スピット・ピアノがかかったり、ドラが不意打ち的にゴーンと響いたりしてびっくり)がちらほら。テンポは大きくは揺れないが有機的に微妙な変化をつけてきていて芸が細かい(漫然と聴いていればわからん)。終盤の畳み掛けでも面白い解釈が混ざるがそれを聞き流してしまうほど気分が高揚させられる。聴いていてトーマスがいいというかマーラーは何て完璧な曲を書いたのだろうと感服させられる。とにかくこの1楽章はスバラシイです。2楽章、ここではスケルツォ、3楽章アンダンテ、この二つの楽章は、平凡。私自身がいちばん嫌いな楽章といちばん好きな楽章の組み合わせなのですが、前者は退屈(フツーです)後者はあまりにそっけない。もっともアンダンテ楽章はトーマスならではのスケールの大きなテンポ設定を施されており、冒頭の味もそっけもないさっさと進むテンポとクライマックスでの悠揚たるテンポは大きく違うのだが、あまりに自然すぎる抑揚というか、表現主義指揮者がやっていたようなデジタルな変化を避け非常に自然な流れを創り出しているので、漫然と聴いていると気が付かない。感傷的な気分を煽る演奏はこの人の芸風ではないのでそれも仕方ないのだが、曲自体の持っている「センチメンタリズム」というポテンシャルを生かしきれていないような感じがして、個人的に食い足りなかった。
転じて終楽章、これは30分余りがあっと言う間の効果的な演奏だ。ぐいぐいと引き込まれる感覚をおぼえた。緩徐部における低く響くカウベルとハープのとつとつとした弾音、他高音打楽器の遠い残響のかもす雰囲気は、それぞれの音がクリアなだけに、純度の高い「真空的な」異空間を幻出している。これは巧い。もちろん盛大に盛り上がる所は盛り上がり、オケのパワーを感じる力演となっている。これまたやけに拘る人の多い最後の2回の木槌が個人的には少々弱く感じたが録音のせいだろう。音楽的にはぜんぜんOKだ。この盤私は最初ベルリン放響と思って聴いていたのだが余りに生々しく艶があるためおかしいなと思って見たらサンクト・ペテルブルグ・フィルだった。レニングラード・フィル時代に比べて凋落したとは言われるけれど指揮者によってはやるときゃやるのだ。久し振りに聞いたマーラーのせいもあるけれど、テンシュテットらほどの熱狂する凄みは無いが、安心して楽しめる万人向けの演奏である。総計81分強は遅いか速いか。まあ1楽章繰り返し有りだから妥当な長さだろう。優秀録音だし、おすすめ。

<後補>この演奏、父クルト・ザンデルリンク指揮と勘違いしてました、修正しています。

○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(sony/PASSION&CONCENTRATION:CD-R)1967/10/14LIVE


(註:ソニー盤とCD-R盤は同一演奏の異録音であることが判明した。)
これといった耳をひく点はない。非常にストレートな演奏である。音楽に妙な意味付けが無い点、初心者向けかもしれない。抜群のオケコントロールに緊張感の漲る演奏者というセル作品らしい魅力には溢れており、このような解釈を好む人にとっては名演といえるものだろう。

(CDーR盤:モノラルのうえ、ピッチが高い。最初はかなり違和感をおぼえる。原盤(テープ?)の回転数のせいか。また、録音自体も余り良好とはいえない。)

○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(VIRTUOSO)1967/10/12LIVE

有名なSONY盤の二日前のライヴだそうである。とはいえセルのこと、演奏内容はほぼ同じで、音質が若干悪い(客席等雑音も混ざる)ことと些細な事故(ブラスが外したり弦がずれたり)が聞かれること以外にはとりたてて違うところはない。セルのマーラーは粘らない。そこが物足りなさを産むのだが、この盤でも1、2楽章はかなりあっさり。3楽章アンダンテはなかなか情趣があるがクライマックスではバルビローリのベルリン・ライヴ並に高速運転になる。目玉はやはり長大な4楽章にあるだろうが、テンポはやはり速めで、じっくり浸る暇もない。うーん。ハイレベルな演奏ではあるのだが・・。比較的廉価で出ているが、まあセル・マニア以外はとくに聴く必要はなかろう。

レーグナー指揮ベルリン放送交響楽団(DEUTSCHE SCHALLPLATTEN)1981

いやー、
カロリーの低い演奏だ。透明で繊細な構築性をもち、至極客観的で、ひたすら響きを美しく鳴らせる事を重視したような演奏である。そのせいかライナーに書かれているほど流れ良いとは思えないが、かといって欠点とあげつらうほど気になるわけではない。これはこういう演奏なのだ。その音楽はやわらかに明るく、たとえばここでは2楽章に置かれているアンダンテ楽章にしても慟哭し激しく肩を震わせるバルビローリのライヴのような表現とは対極にあり、ノイマン的牧歌とでも言おうか、ほとんど穏やかな気持ちを崩さずに聞ける音楽になっている。3番の終楽章の柔らかな輝きに満ちた安息の音楽に近い(ちなみにレーグナーのこの楽章は名演である)。溯って1楽章は足踏みするようなリズム感と言ったらいいのか、緩慢なテンポで感情を音にあらわさない演奏ぶりが食い足りない。3楽章はたぶんこの盤の白眉、リズムがとても明瞭に刻まれ、交錯するアンサンブルに水際立った躍動感をあたえている。こういう鮮やかなスケルツォはけっこう珍しい気がする。そしてこの曲のカナメ、終楽章であるが、弱い。1楽章と同じ弱みを感じる。劇的で爆発的な演奏ができない指揮者なのだ。劇性の強いこれら楽曲にはそもそも向かないのか。見通しはいいが、マーラーの音楽は中音域スカスカであったり管弦楽が意図的に薄くなる部分も少なからずあり、下手に見通しが良くなると歯ごたえがなくなるところがある。まあ、構築的演奏でスピードも遅いからスコアリーディングには適していると思う。でも、熱狂するたぐいのロマンティックな演奏ではない。しいていえば愚直なほどスコア指示を守るがゆえのおかしなところ、たとえばヴァイオリンのグリッサンドを実直に、かなり粘っこくしっかり響かせており(しかも通常1、2本の音が突出するようなところ、全ての楽器が推移の動きまできっちり揃えて大きく聞かせているのだ。)4楽章では通常聞こえないような下降音形のグリッサンドも揃ってしっかり聞こえ、ちょっと拘っている模様。マーラーの現代性を浮き彫りにした解釈とも言えるかもしれない。そんなところか。

○フリプセ指揮ロッテルダム・フィル(PHILIPS他)1955/6/25オランダ音楽祭LIVE・CD

モリスの10番のカップリングとして8番(たしかなんかの初モノだったかと思う)がスクリベンダムから出ている指揮者の演奏。CD化した。スケールが大きい。近視眼的な揺れかたは絶対しない。「ルバートしどころ」でも決してルバートせずさっさと突き進む。そして大きな波が揺れるように、クライマックスにいたってはじめて雄大に歌う。オケがけっこうノっているのでそれほど気にならないが、ある程度は客観性のある演奏であり、ゆっくりした後打ちしっかりのリズム感含めクレンペラーに似ている(クレンペラーにはこの曲の録音はないが)。音響バランスの良さはこちらのほうが上かも。絶妙。モノラルで聞くと声部間の受け渡しがわからないほどだ。ライブ演奏にしては欠陥がなく、オケのやる気が音に出ていて清々しい。バイオリンが弓を大きく使ってアタマを付けて弾くところが個人的に好き。けして物凄く巧いわけではないが意外なところにポルタメントをかけたりと結構やっている。全般に音作りがリアルで幻想味はないが音楽的な凄みがある。ペットの下品な発音含め音響もとてもマーラー的。やりなれた感じがする。1楽章のアルマの主題の遅いテンポも独特絶妙だけど、4楽章がとにかくかっこいい(同曲どんな演奏でもかっこいいけど)。最後までダレないでイキのよさを保っている。ハンマーが殆ど聞こえないのがちょっと残念だが、末尾の葬送音楽まで厳しく律された音楽には説得力がある。あと、内声部に埋もれた木菅の何気ないパッセージが歌心たっぷりに歌われていたりするのも面白い。ぐいぐい押す勢いこそないが、一定の水準にある充実した演奏だ。○ひとつ。2楽章にアンダンテを置いている(あっさりした演奏であまり惹かれなかった)。あと、録音が悪い・・。前後の拍手入り。

○テンシュテット指揮ロンドン・フィル(EMI)1983/4,5

テンシュテットは熱狂的なファンを持つ。そのせいかライヴ盤(海賊?)が跋扈しており、全てを手に入れて吟味するのにはそうとう困難(と金銭)が伴うと思い、手を出すのを躊躇していた。・・・すると、いつのまにか店頭から綺麗さっぱり消えてしまった!結句探し回る羽目になってしまったのだが、やっとみつけたのが今手元にあるボックスセットで、6000円弱。全集だが「大地」は未収録である。さて、CDをてにとり、プレイヤーにかけてしばらく。・・・「さすがだ」。これは名演である。バーンスタインの新録のようにかなり恣意的な操作が加えられており、大きな起伏があるものの、音に重量感があり、非常に安定しており、また(リヒャルト・シュトラウスのように)じつに豊穣にひびく。解釈は奇をてらう一歩手前でおさえられ、まるでライヴ盤のような緊張感がある。とくに気に入ったのがアンダンテ楽章だ。この楽章は旋律を際立たせ、情緒を揺らす表現が通常とられるのだが、この演奏では(まるでクレンペラーの演奏様式のように)重量感のある音響によって古典的なほど荘厳な音楽がかなでられている。独特だ。終楽章のダイナミックな表現はかつてないほどの迫力をもって迫ってきた。嵐だ。あの温厚なロンドン・フィルがうなっている。フレーズの全てに意味付けがなされ、一分の隙もない。分析的な側面も垣間みえるが、このような素晴らしい結論に達せたのであれば、そこへ至る過程なぞどうでもいい。いまどきの録音とは思えぬような綻びがきこえなくもないが、かえってライヴ感があって好きだ。弱音部のぞっとするような冷気にもはっとさせられた。それにしても骨太で力感に溢れた、それでいて壮大で気高さすら感じさせる演奏だ。
・・・うーん、意外な誤算だった。これは聞いて損はない。但し、個人的にはカウベルはもっと低い音を・・・(もういいって?すいません)

テンシュテット指揮ロンドン・フィル(EMI)1991/11/4,7LIVE

私がこの人の演奏を聞きすぎたせいか、どうも恣意的で客観的な莫大演奏に聞こえて仕方がなかった。演奏的には最晩年にあたる演奏であるが、指揮者にありがちな最晩年様式に陥っているように聞こえた。

◎テンシュテット指揮ロンドン・フィル(sardana records:CD-R)1983プロムス・ライヴ
テンシュテット指揮ニューヨーク・フィル(rare moth:CD-R)1985live


というわけで6番だけはライヴ盤を買ってしまった。しかし、予想以上の出来だったのがプロムス・ライヴ盤である。スタジオ盤が大人しすぎるように思えるほど、張り詰めた緊張感と溢れるパッション、とくに終楽章の世界の雄大さには感激。アンダンテ楽章もスタジオ盤より歌心に満ちており、心を揺さ振る。終演後のブラヴォーの凄まじさはこの演奏の成功をつたえるものだ。文句無し、「悲劇的」のベスト。対して2年後になるニューヨーク・ライヴは録音自体に問題がある。音質が悪く、またレンジが狭い。大音量の箇所になると、音量がカットされてしまい、拍子抜けする。ニューヨークの音には独特の魅力はあるが、しなやかで美しいロンドン・フィル盤をさしおいて聴く必要はあるまい。

バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(SONY)1967/5/2,6

素直に聞けた。聞き易い。後年の演奏に比べ恣意性が表に立っておらず(無論萌芽は見えるものの)あの長い終楽章もそつなく聞き終えることができた。・・・つまり、そういうことである。平凡なのだ・・・「今」となっては。どれもこれも、新録の解釈と比べて弱い。あと、オケがやや雑味を帯びているというか、アンサンブルが整っていない感じもする。いや、聞き易いのだからそれだけで十分、価値を持つ演奏といえようか。

○バーンスタイン指揮VPO(DG/ユニテル)1976/10live・DVD

バンスタの残したライヴ映像全集の嚆矢に掲げられる(バンスタの動きが)ダイナミックな演奏である。視覚的にも非常に楽しめる。4楽章のハンマーにこだわる人には三回目のハンマーが見所といえる。非常にアグレッシブでテンションの高い1楽章から始まる演奏は「カッコイイ」のヒトコト。この速さはやはりカッコイイ。ウィーンとは思えぬほどの精度を伴ったテンションも特筆ものだろう。2楽章も攻撃的だがやや重いか。有機的に詳細に作り込まれた解釈ぶりは余りに板につきすぎているがゆえに違和感はない。しかしこれは独特の演奏であり解釈であり、バンスタの時代にバンスタしかなしえなかった演奏と言えるだろう。この相性のよさはウィーンの個性の薄まりとともに現れたものとも思えるが(音色的な魅力はそれほどないのだ)どん底まで暗い場面から天にも昇るような場面まで余りに劇音楽的な盛り立て方を施していて、好悪はあるかも、と3楽章を聴きながら思う。この緩徐楽章は確かにやや重い。重たいロマン派音楽の手法でまとめられ、マーラー独特の薄い音響の軽やかさ繊細さが余り際立たないので私などはちょっと余り好きではないが、素直に普通に感情を煽るブラームス的な音楽なので、普通好きだろう。4楽章は攻撃的にクル。これはいい。長いからこそ攻撃的テンポでいくべきなのだ。序奏部の地獄の暗黒世界から世俗的な闘争への展開はまったく、いかにもな煽り方が逆にすがすがしい。ウィーンはほんとにうまい。技術的問題など(ミスはあるが)ない。テンションの高さが物凄い。細かい音符の一つ一つまで物凄いテンションで弾き吹ききっているのが如実にきこえ、この時代の録音にしてはじつにクリアなのにも増して演奏自体すごいことになってるのがわかる。マーラーもここまでちゃんと細部のマニアックな音響的仕掛けを意図どおりに(?)やってくれたら本望だろう。それほどまでにバンスタは自分のマーラーを確立し唯一無二と思わせるまでにいたっている、まあすごいです。よく聞くと細かい改変もあるんだけど、それも全てマーラーの意図の延長上と思わせるところが凄い。もちろん、マーラーはバンスタだけのものではなく、他を聞けば他の魅力が出てくるし、確かにこの精度と音色のバランスを他の指揮者のウィーンオケものから引き出すのは恐らくもう無理かもしれないが(少なくとも音色については)、これはあくまで一つの素晴らしい見識とみなし余りのめりこまないようにしておかないと、という警句が浮かぶほどドラマの激しさは尋常ではない。起伏のつけ方テンポ変化とくに4楽章後半のねっとり感が極めて極端である。晩年様式にいたる前、NYPの一種マンネリ万能化した頃からの過渡期にまだ精力溢れる力づくの演奏ができたころの記録として非常に貴重である。後半弦楽器がややばらけてくるがこの音楽にバンスタだからそれもライヴの迫力のうちと捉えられるところがまた得している。うーん、これを基準にこの曲を他に聴き進めるのはなかなか難しい。卑俗にすぎる、わかりやすすぎる、何とでも言えるが、これは一時代前のマーラー像の権化である。よきにつけ悪しきにつけ、バンスタのマーラーはマーラーを聞くうえで避けて通れないものだし、画質の問題はあるがこの映像を見る見ないでは大きく違う。エポックメイクだったものの、最も精力溢れる記録として見ておきましょう。○。

バーンスタイン指揮ウィーン・フィル1988/9(DG)
バーンスタイン指揮ウィーン・フィル1988/8/25(FKM:CD-R)LIVE


グラモフォン盤だが、あまりにデジタルで明晰な録音がキンキン耳につき、聞きづらかった。CDーR盤のほうがまろやかな音で安心して聞けた。二つはほぼ同時期の録音(一部同じ?)のため、解釈はおろかオケの表現もまったく同じ。後者にはごく少しだがペットあたりに異なるとちりが聞かれ、恐らく違う演奏だとはおもうのだが、共に、「現代ウィーン・フィル」の硬質で機能的な響きは気合は入っているが決して感情的ではなく(だからバーンスタイン解釈の恣意性があからさまに浮き彫りになりわざとらしさを感じさせる)、没入して心酔しきった演奏というバンスタのイメージとは異なる。独特の震幅の大きい解釈もここまでくっきり彫刻されるといささか違和感を感じざるをえない。この曲が元よりかなりドラマティックであり、しかも奇異なほど明瞭な型式に基づいていて、さらなる恣意性を導入するに不利なところがあることは留意すべきだろう。1楽章の葬送行進曲の早いテンポと激しいアタック、対して独特にコントロールされたアルマの主題(第二主題)の息の長い歌い込みは印象的だった。あと3楽章(アンダンテ)が魅力か。

バルビローリ指揮ニュー・フィル(HUNT等)1969/1/22LIVE

今やほとんど見かけなくなったHUNT盤だが、やはり音はサイアクだ。HUNTをはじめとするイタリア盤はCDーRで随時復刻されてきているようなので、聞きたいかたは気長に待たれるといい(後日註:この盤もCDーR化した)。ベルリン・フィル盤は既にCD-R化されたし正規で改めて復刻される予定。ベルリン盤は瑕疵も多いが壮年のバルビらしい壮絶な記録である。対し晩年のライヴであるこの盤は、スタジオ盤ほどではないにせよ、だいぶ常識的になっている。1楽章のアルマの主題のテンポ設定は6番を聴く上で非常に興味深いとされるところだが、バルビはここでは余り緩急をつけずすんなりと通している。バルビはもっと大きな視点からこの楽章を構成しており、終盤の盛り上がり所にもってきて初めて歌心溢れるルバートをかけている。2楽章、ライヴでアンダンテ楽章をスケルツォ楽章と入れ替える指揮者は(昔は)多かったようだが(版を勘案しているわけではなく単に入れ替えているだけのことが多い模様)、バルビはここでもアンダンテを持ってきている。個人的にマーラーのスケルツォ楽章は苦手なのだが、6番はとくに1楽章と共通の気分に満ちているから、続けて聞くとけっこう飽きてしまう。このようにアンダンテ楽章が二楽章にきてくれると嬉しい。このアンダンテ楽章は私がマーラーにハマった最初の音楽であり、特別に思い入れがある。シェーンベルクが研究稿をのこしているほど良く書けており、5番のアダージエットより数倍憧れと諦念の入り交じった曲想は深い感動をもたらす。バルビはベルリンとの演奏に見られた破綻をこの演奏においては(やや穏かにした結果もあろうが)まったく感じさせず、最後は諦念というより肯定的な幸福な結論へと導いている。ニュー・フィルとの相性の良さを感じる楽章でもある。3、4楽章だが、はっきり言ってベルリン・フィル盤の解釈と余り差が無い。ベルリンを先に聞いていると無個性にすら思えるだろう。・・・全般の印象はこんなところである。
さて、バンスタやブーレーズ等新しい録音を立て続けに聞いたあと、この演奏を聞いて、1楽章の「繰り返し」が省略されていることに今更ながら気づかされた。昔のライヴはけっこう省略していることが多いようにおもう(ホーレンシュタインは繰り返している)。

○バルビローリ指揮ニュー・フィル(TESTAMENT他)BBC放送、ロイヤルアルバートホール1967/8/16LIVE・CD


バルビライブとしてはすこぶる調子がいい。演奏上の瑕疵は皆無で、スタジオでは絶対ありえない荒れ狂う50年代的芸風で押し進めていく。反面個性は薄まっている。緩急起伏が余りあおられず、職人的でもある。しかしそれら引っくるめて録音の悪さが痛い。エアチェックではないか。音場は狭い。マイク起因であろう特殊打楽器の変に高い音の近さ、安定しない音像。ノイズがひどいところはまるでHUNT盤のようだ。とくに一楽章と四楽章クライマックスというかんじんな箇所が聴いてられないくらい。音量幅のなく立体感のないのも録音のせいかもしれない。ステレオエアチェックの悪いところが出て、位相が狂ってきこえたり。二から四中盤までは悪いなりに安定して聴き易いのだが。しかしじっさい特徴に欠ける部分もあったのだろう、聴衆反応も穏やか。○。

バルビローリ指揮ニュー・フィル(EMI)1957/8/17,18

総演奏時間83分以上の悠揚たる演奏だ。「悲劇的」演奏史上特異な位置にある盤。一貫して非常にゆっくりとしたテンポをとっているが、音ひとつひとつの密度は高い。その速度のせいかテンポの揺れは殆ど見られず、やや客観的な印象がある。ライヴ盤とは大きく異なったものとなっているが、それはライヴではアンダンテを2楽章へ持ってきていたのが、ここでは通常通り3楽章に持ってきていることにも伺える。但し1楽章の「繰り返し」はライヴでもこのスタジオ盤でも行われていない(にもかかわらずこの演奏時間!)。1楽章の葬送行進曲はそのテンポとフィルハーモニア管のあたたかい音により牧歌的な趣さえある。厳しい発音にもどこか優しさがあり、穏やかな気持ちにさせる。第二主題(アルマの主題)でも殆どテンポは揺れず、最後に少しだけルバートするくらいだ。スケルツォ楽章もそれほど特徴的な変化はなく、ゆっくりとした足取りでひとつひとつ確かめるように進んでいく音楽だ。アンダンテ楽章はさすがに真情の篭った表現で特筆できる。やはり暖かな抒情に包まれており悲劇的な表情は薄いが、バルビの弦楽器へのこだわりが前面に押し出され、とくにクライマックスでのヴァイオリンの「うた」は美麗の極致だ。テンポも少し速めになっている。詠嘆の終端まで美しい音楽が奏でられる。フィナーレはさすがに少々悲劇的な趣を混ぜてきている。それにしても遅速だ。管楽器は堪らないだろう。密度の高い音の集積によるドラマティックな音楽が、壮大なスケールで語られていく。アレグロ主題の果てにははじめて意識的なテンポアップを行い気分を高揚させる。壮麗なクライマックスのあとに突然打ち倒される英雄、ティンパニの重々しい連打が効果的。・・・この演奏は好悪がはっきり別れると思う。私はどちらかといえば苦手。盤によってなぜか2楽章と3楽章が入れ替わっている(ライヴは2楽章を緩徐楽章にしている)。

○バルビローリ指揮ベルリン・フィル(HUNT他)1966/1/13LIVE

定期ライヴ。テスタメントから正規盤が発売予定(2003/9現在)である。録音は悪いが語り口の巧さでは抜群。スタジオ盤とは全く違うパッションと抒情味にあふれた演奏である。1楽章は比較的遅いテンポで始まるが、旋律の流れが自然にかつ効果的に浮き立っており、アルマの主題もテンポはそれほど変わらないが、有機的な柔らかい解釈で最後には感動的な盛り上がりを作っている。2楽章はアンダンテになっているが、暖かい抒情があふれた慈愛に満ちた演奏ぶりで、ヴァイオリンや、オーボエなど木管旋律楽器の情感にあふれる歌にはむせかえるような雰囲気さえある。ベルリン・フィルの弦の美質、効果的に引き立たされている。この楽章はかなりテンポが揺れ、その点でもスタジオ盤とは全く違うが、揺れに揺れるあまり、クライマックスで急きたつようにアッチェルがかかったとき(ブーレーズ旧盤に似た解釈)、若干崩壊しかけたりしている。クライマックスの高速演奏は最後に下降音形に入ったとき再度急激なリタルダンドがかかってつじつまがあわされている。最後は幸福な終わり方。3楽章スケルツォは遅くペザンテな出だしだが、若干テンポが前につんのめり気味。テンポの刻みが若干柔らかく、旋律に重点が置かれているのはバルビらしい。中間部で穏やかな弦のアンサンブルが聞かれる箇所では、リズム要素は二の次で、ひとつひとつの音をきれいに響かせる事に重点を置いたような美しい有機的な演奏になっている。テンポはやはり若干ユックリ気味だが、後半アッチェルがかかったりしてかなり揺れる。ここでも音楽の流れの良さには括目。終楽章は出だしが弱い感じもするが、そのあと沈潜するような陰うつな音楽の中から高音打楽器の清明な響きが強奏主題への活力を産み出す。闘争の音楽が始まると、若干テンポは遅めではあるが、各楽器の情熱的な表現は隅々まで計算されたように互いにうまく組み合わさっており、バルビの指示の確かさが感じられる。ドラマはつねにイマジネイティブであり、感動をあたえる。金管あたりに失敗も聞かれ、バルビの「甘さ」が出てしまっているが余り気にしないことにしよう。闘争の主題の展開していく途中はかなり速いテンポでドラマティックな旋律の勢い良い流れが耳をとらえて離さない。このあたりの音の奔流を聞いていると、うまくは言えないが、「非常にマーラー的」だな、と感じた。ハンマーが金属的な音がしたり、カウベルが高音だったり、個人的に残念な点もあるが人それぞれだ。強奏部での速いテンポはヴァイオリンのアルペジオやトリルにのって盛り上がる最後のクライマックスまであっというまに連れていってくれる。英雄が倒れ、再び冒頭の主題がよみがえり、挽歌になるとその陰うつさに気が滅入る。バルビは死んだような音楽を作っていて、しばしの沈黙の後、轟音、そしてピチカートで曲はおわる。少し時間を置いて、拍手が盛大に起こる。独特な名演だ。

つづく
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