湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

フランク:交響曲

2008年04月24日 | フランス
○ミュンシュ指揮フィラデルフィア管弦楽団(DA:CD-R他)1961live

左右のチャネルが分かれすぎだが良好なステレオ録音。現代の放送エアチェック録音に近いクリアな音質なので却ってミュンシュのライヴが「現代ならどう聴こえたか」がわかる・・・わりとメロウだったりするのだ。各パートの厳しく統制されたさまは聴き取れるものの、音楽総体は徒にアグレッシブなものを指向してはいない。あれ、こんなライヴ今もありそう、というような響きの中庸さはホールが音を丸めているせいだろうが、フィラ管の開放的な響きはブラスにこそ聞き取れるものの弦は一歩引いて聞こえる。もちろんこれもホールとマイクの問題が大きいだろう。実演の音量バランスなどこんなもんだし、フランクの単純な書法なら尚更である。ミュンシュの下品な音が下品な演奏も得意とするオケをしても目立って聞こえないのは長所と言うべきだろう。ほどよい娯楽性がわりと端整なテンポに乗ってブラスを中心に語られてゆく限り、この曲の押し付けがましさが苦手な私にも、清清しく聴き通せる。中間楽章の、あーフランスだー、というような典雅な落ち着いた表現にも着目すべきで、ドイツ・オーストリアやらロシアやらの方法論で解かれうるガチガチのこの曲に、和声以外にもフランス派を見出す要素があったんだなあと思う。本来は血湧肉踊になるべき三楽章においてもこの「整った録音」のせいでスタジオ並みの端整なフランクに収まっている。テンポの落ち着きぶりに顕著だ。相変わらず響きのバランスはいいし表現はメロウで爆発的なものはない。最後のファンファーレも下品さがかなり抑制されている。どうしちゃったのか。こうしちゃっただけか。○。
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ブラームス:交響曲第4番

2008年04月24日 | ドイツ・オーストリア
○ストコフスキ指揮ニュー・フィル(DA:CD-R他)1974/5/14ロイヤル・アルバートホールlive

NBCとの41年11月18日のライヴがGuildで出て話題になったが、一部で人気があるストコのブラ4である。私は「この曲は須らくこうすべし」という言説が嫌いで、ろくに楽曲研究も現場的な演奏論も極めていないライター系評論家や兼業売文屋が好みの妥当性を主張する上で根拠無くこのての論を書いていると、開きかけた財布の口を閉め書棚を去ることが多々ある。だが一方で「芸術作品は作曲家の手から零れ落ちた後は万人の共有財産となる」という理想主義的な言説を無批判に受け容れるのもどうかと思う。何でも自由にしたらいいわけはない。程度問題はしっかりある。その「程度」の線引きは難しいが、著作人格権の問題を置いておけば、それほど論理的な根拠が無くとも「音楽を作り出す側には」一定数の聴衆の共感を得ることができるような「改変」までは許され得ると思う。共感が継続的で拡大し続けるものであったなら、共感できない者が何を言ってもそこに鳴り響く「解釈」は一定の価値を有する本物の芸術行為なのだ。ここで初めて「作品は作曲家の手から離れた後は独立した価値創造物となる」説は成立する。当たり前のことを長く書いたが、改変系指揮者ストコの、特に実演における様様な「試み」がこれらライヴ録音によって個別に検証できるようになった今、再びファンを増やしつつあるということをよく考えてみる必要はある。

枯葉舞い散るさりげない一楽章から峻厳な古典的構造が高潔な感傷を呼び覚ます四楽章まで、40男のためのこの曲をストコは冒頭より、インテンポ気味の速いスピードで、メロディの滑らかな流れのみを重視し構造やハーモニーの堅固さは地盤として支えるだけのものと位置づけている。縦の意識が強くなくザッツは常にブラームスにしては雑と感じられる。木管の音色が素晴らしく綺麗なものの弦は少し野卑ている。ここまで書いて何だが私もこういうブラ4は得意ではない。バンスタを知らないがバンスタの方法論に近い気がする。わりと身の詰まった音響を組み立てたスヴェトラとは違う。そもそもブラームスで「縦を重視しない演奏」はありえないと思っている人間なので聞きづらく思った。しかし良録音ゆえかメロディの終始明るく美しい表現には否応無く耳を惹かれる。この抽象度の高い曲にはそぐわない方法をとっていると思うが、きっちり「ドラマ」を作り、それに沿った音楽を異様にせわしないテンポで煽っていく。アッチェルの止めを知らない一楽章最後では崩壊もあわやというあと拍手が入ってしまう(この狂ったような暴走は4楽章最後にも聞かれる)。

二楽章はがらっと落ち着くもののテンポは速い。テンポだけ言えばトスカニーニスタイルだ。だが一楽章に引き続きメロディの流れよさと軽い響きの処理の巧さが繊細な音彩の揺らぎをブラームスのシンフォニー瑞逸の緩徐楽章に反映させ、一番の聴き所としている。優しい演奏だ。ストコの弦楽合奏処理の巧みさが一番出ているところとも言える。

三楽章はこの曲中一番難しい「とっぴな」舞曲だが、とっぴさをならすように細かく楽想を分離し描き分け、飽きの来る感じや違和感を無くそうとしている。ただ平易にすぎ重みが無く、一貫性が薄まっているぶんぶよぶよしている、という感もあるにはある。ジャンジャンという終わり方もどことなくぶよぶよしている。その浅薄さを感じさせる要因が高音部に偏った響きの感覚(オケの特性のせいもあるか)と粘らず流れるテンポにある、と思わせるのは四楽章だが、全般的にはドラマチックな楽想を激しいアゴーギグで煽り、極端な音量変化でわかりやすく提示することに成功している。ストコは音を厳しく揃えないので速い音楽においては勢い任せの印象が強い。中間の穏やかな木管アンサンブルでは「ストコはやっぱりこういうところの美麗さだなあ」という非常に静かな音楽に沈んでいて、ブラームス特有の翳りが無い。結局つんのめり気味の「勢い任せ」がフィナーレを飾り、大ブラヴォが止まない状態はいつものとおり。いや、やっぱり現場でないと真価は見えないのだろうな。不可解なほどの盛り上がりに○にはしておくことにする。
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DEAD-MUSICS!

2008年04月23日 | Weblog
このサイト(ブログはあくまで未だ「出張所」です)にはかつてDEAD-MUSICS!という名前をつけていた。MUSICを複数形にしたのは単なる語感であり英語的には間違っている。だがDEADには意味があった。もともと音盤は「化石」である。わかりやすく言えば音盤は作りあがった時点ではとうの昔に「死んでいる」ものである。あくまで音楽はホールやスタジオで生まれている。もっと言うなら貴方の指の先や肩の上などから生まれ出ずるものこそ音楽である。楽譜が読めるなら、あるいは音楽的記憶力に優れているなら脳内でもいい。それら空気中に生まれ空中を伝わったものを符号として電気的に写し取ったもの、それを更に何人もの人間といくつもの工程をへて再現させるように作ったものが音盤である。だから死んでいる。そこには情報量の決定的な減衰がある。減衰していないように聞こえるのは死骸にサイボーグ手術を行ったからである。フランケンシュタインの怪物のようなものだ。

この「割り切り」が前提となっていた。

したがって、ここで扱うものは原則「死んだ作曲家の作品」を「死んだ演奏家が演奏した音盤」としていた。まだ元気でライヴが聴ける音楽家についてはライヴを聴きに行きなさい、ということだ。

最近なんでもありになっているので誤解されるかたもおられるようだが、基本的には今も現役演奏家は対象外である。人生の、つまりは芸術世界の完結していない音楽家について安易に論じることへの抵抗もある。

・・・しかし、私自身の楽曲の好みが完全に19世紀後半から20世紀の作品に偏っていたため、海賊盤が大してなかった頃は音盤自体が限られており、サイト(これも大元は情報カードに手書きしていたデータなのでネット以前に書いたものも含んでいるが)のデータとしてはすぐに枯渇するのが目に見えていた。だからなんでもありになったのだが、それでも原則部分はぶれないようにしている。物故した云々については20世紀音楽という言葉とすり替え、ひとまず外している。

だがまさか・・・こんなCD-R海賊天国になろうとは・・・地獄と呼んでしまおうか。枯渇なんてしそうにない。枯渇しても掘り上げられた資源を「消費」するだけでこっちの人生が終わってしまいそうだ。エアチェックの習慣のない人間であるために寝耳に水の音源が後から後から殖えていく。うーん。

海賊ライヴ盤を違法性を鑑みず何故聴くかといって、サイボーグ手術がなされていない可能性が大きいからだ。サイボーグ手術は私の脳内でやる。今の正規盤はメジャーマイナーに限らず余りに、サイボーグとして出来すぎている。誰しも音盤は脳内変換して自分好みの音として聴いているものである。その脳内の部分を別の知らない誰かにやられてしまうのは厭だ。たいてい、そういうものは識別可能なくらい「やりすぎている」。気持ちが悪い。だから敢えて正規を持っていても、海賊盤に手を出したりもするのだが・・・

・・・でもま、そろそろ、今度こそやめたい。まこと音楽は安易に取り組むと死にいたる。

※ホームページは閉鎖しました
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ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」

2008年04月23日 | ショスタコーヴィチ
○バーンスタイン指揮ボストン交響楽団(Lanne:CD-R)1948/12/22ボストンlive

壮年期のバンスタらしいアグレッシブで、やや浅薄とも取れる「らしい」演奏である。力で押し切った、旋律の魅力を強く押し出し音楽を単純化する方法はのちのNYPとのライヴを彷彿とするが、NYPほどに音色に表情が無く、「いかにも面白そうな解釈振りであるのに」最後までなんとなく乗れない。面白いんだけど、乗れない。○にはしておくが、まだ「バンスタのレニングラード」は完成していないんだなあ、と。
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マーラー:交響曲「大地の歌」~Ⅵ.告別

2008年04月23日 | マーラー
○ディースカウ(T)クーベリック指揮ベルリンRIAS放送交響楽団(Lanne:CD-R)1963/3/24フリッチャイ追悼コンサートlive

追悼の慟哭が聴ける演奏ぶりで、特にこのオケの、名シェフに対する鬼気迫るというか、悲しみを情念としてぶつけたような表現ぶりに圧倒される。フリッチャイ的な引いたような整えた演奏では決してなく、壮年期クーベリックの生命力溢れるライヴそのままの解釈で、ディースカウの違和感バリバリだが巧さと力強さは認めざるを得ない表現とともに純粋にアグレッシブな50年代ふうの告別として聞ける。だがやはり最後は詠嘆の雰囲気を漂わせ、沈黙のままに終わる。個人的には追悼コンサートの最後の演目という前提条件無しに、こういうマーラーは好きであるし、また、こういう解釈であれば逆説的に、9番ではなく「大地の歌」こそ「本来生命力溢れる独裁者であった」マーラーの白鳥の歌にふさわしい作品であった、と思った。

かつて壮年クーベリックの実演を聴いた人が殆どおらず、特にマーラーに関してはDGのスタジオ録音しか聴かれていなかったころ、この人は中庸の指揮者として、8番は例外的に持ち上げられることもあったが、他は、可も無く不可も無くといった評をつけられていた。バンスタが強烈な輝きを放ち続けていた時期でもあり、提灯の脇の輝きに見向きもしない評者が多かったし、何よりマーラーを全曲個別に検証して、この曲はこう、この曲はこう、といった因数分解をする当然の評法すら避け全集としてまとめて「中庸」「中途半端」「ボヘミア的」といった単語だけで片付けることもまかり通っていた。だがクーベリックの演奏はあきらかに主情的なものが支配しており、それはDG録音にも萌芽は見えていて、異常なテンションで押し切るライヴ録音が海賊盤含め出だしたとき、それらが突然変異ではなく、延長上にあるものだと感じたマニアは多かったと思う。だが「前記のような論評を前提に」聴いていたとおぼしき若手ライターに、余りに違うとして堂々と「偽演認定」していた者がいた。評本にもそのように記述していたと思う。

今そのようなことを言う者はいない。

ネットに一時期多かったが、「偽演認定」をやっきになって行う向きがいる。特定の指揮者や演奏家に固執する「特化型マニア」がそういったことに熱をあげるのはしょうがない。だが、そういったマニアがとことん検証して追及して、更に様様な生きた意見を照らし合わせて認定するのとは異なり、たいていがスコアすら参照せずに一人で主観的に判断、もしくはあやふやな状況証拠に基づく邪推を安易に受け容れて判断している。私は敢えて明白でない限りは偽演うんぬんの記述は避けている。盤に記載されているものをそのまま受け容れ、そのときどきの印象で記述している。このサイト(ブログ)は前置きに書いているとおり全く同じ盤ですら10年の間をあけて全く違う感想を書いていたりするわけで、それが少なくとも「評を生業としない」「生きた人間」が網羅的に盤評を行おうとするさいには仕方ないことだと割り切っているが、なおさら偽演や、極めて録音状態が異なるものを識別してどうのこうの、なんてことを追求するのはめんどくさい。

詰まるところ今の私は「音盤コレクター」ではないからなあ。コレクターなら、固執する点なのかもしれないな。なんてちょっと余談。
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リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード

2008年04月21日 | リムスキー・コルサコフ
ラフリン指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA)LP

なんとも鈍重で、薄い響きの目立つ弛緩したような始まり方をするが、ソリストは正確にやっており、オケも進むにつれ情緒テンメン節を忠実に表現しようとし始める(板につくまでに時間がかかっているということだ)。人工的な、ドイツっぽいガチガチしたシェラザードだ。ぶつ切り継ぎ接ぎ録音編集ではないか。モノラルだがこのオケの怜悧な音だと更にモノトーンに聞こえてしまう。2楽章でもしっかり型にはめ正確に吹かせようとするごときラフリンのやり方に青臭い不自然さが漂う。前のめりの感情的な盛り上げ方をしないから、少し飽きる。テンポ的な起伏がなく実直な遅さもロシアらしくない。終盤前に間をたっぷり使ったハープとフルート等のアンサンブルが幻想的で美しい。こういう印象派的表現はガウクも得意としたところだが、たんにゆっくりやっただけとも言える。素直な3楽章はゆっくり時間をかけてちゃんと歌っている。重いけれども。テンポが前に向かわない中間部ではあるが附点音符付きのリズム感はよくキレていて、バレエ音楽的な処理である。旋律の歌い方が未だ人工的なのは気になるがそうとうに神経質に整理されたさまが伺え、細かい仕掛けが聞こえる楽しさはある。スケールはでかい。4楽章も実直さが気にはなるがソリスト含め表現に荒々しさがあり民族臭が強くなる。全般褒められた演奏ではないが、精度を気にしためずらしい演奏ではある。
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更新しないときは

2008年04月18日 | Weblog
クラシックを聴いてないだけですが(書く音源が尽きるということは一年買わなくても無い状況)、ネットというのはちょっと更新しないと飽きたとか死んだとか言われるメディアなので更新しとこう。楽器の調子も腕も絶不調で、週に一回弾くのが限界か。遂にスケールなんてやってみたりするようになった。過去の自分では考えられないことである。もちろん教則本なんてどっかにいってしまったので、うろおぼえで。

クラシックを聴いてない理由はPerfumeのアルバムが出て中田ヤスタカ熱が再燃しただけ。しかしアルバムは聴いていない・・・テレビでライヴを見て「歌も踊りもレトロ新しいし、やっぱりパワー巧いなあ」と思っただけ。シングル二、三枚あるし。

Swingoutsisterのライヴなど他にもいろいろあったのだがそれは今回はこちらにはアップしないでおいた。クラシックの聴衆とは雰囲気が違いすぎる。別ブログにはセットリストやその他音楽がらみの出来事などアップしてる。泉谷しげるさんのちゃんとしたライヴを聴いてみたいなあ。

まあそのうちクラシックも聴くと思います。時間の問題もあったりなかったり。
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レーガー:弦楽四重奏曲

2008年04月16日 | ドイツ・オーストリア
◎ブッシュ四重奏団(新星堂EMI)1951/2・CD

この曲の演奏としては一級のものである。重厚長大頭でっかちのイメージで語られるこの人のスコアをオトにしたとき、軽やかさすら感じる自然な旋律の流れ、清々しく闇の無い純粋な音楽となる、それを皮肉にもゴリゴリの独墺団体があきらかにしている。録音は今一だが。◎。
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ブルックナー:交響曲第9番

2008年04月09日 | ドイツ・オーストリア
○ワルター指揮NYP(CLASSICAL RADIO VAULT:CD-R)1957/2/10LIVE

即物的で性急。この頃までのワルターライヴに多い。トスカニーニ風に凝縮し明瞭なリズムにのって突進する。ロマンティックな旋律のボリュームと動きを強調するためのものとしてハーモニーを位置づける。オスティナート風の装飾音形も表現は機械的に単純化され旋律に沿うのみ。ブルックナーにはこういうデジタルな処理は意外にあうのであるが。圧倒的な表現の幅をみせるのは3楽章で、それまでのフルヴェンやトスカニーニ風の「音塊による説得力」から「音による説得力」というワルターの世界へ回帰する。最弱音では非常に綺麗な音を一糸乱れず、最強音は天地轟かんばかりに重く破裂する。デュナーミク変化こそ悪録音のため差は大きく出ないが、音色変化にはっとさせられる。

ただ基本アプローチはアグレッシブで変わらない。そのため最後には飽きてしまう。ブルックナーの交響曲自体「飽きる音楽」、カトリックのミサ曲のようなものだ。だがワルターの「飽き」は、録音の悪さと平板さ、並びにアプローチのワンパターン即ち「通俗的なロマン性の再現に終始する」ところにあることは否めない。初心者向きではあるが録音の悪い、まあ、嫌いではないけど。
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チャイコフスキー:マンフレッド交響曲

2008年04月09日 | チャイコフスキー
○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA/ARLECCHINO)1948・CD

チャイコフスキーには珍しい叙事詩的標題交響曲で、後期作品としてはいささか異色のアカデミックなマンネリズムと冗長さを持っている。だからこの録音も含めかつてはカット版が主流であった。実演だと両端楽章で寝てしまうこと請け合い(中間楽章はグラズノフのバレエピースのようだ)、それでも原典にこだわるなら筋書きとスコアを首っ引きで聴くべし。ガウクはバス音域の強いブラスを中心とした組み立てで英雄的な1楽章を仕立てている。ロシア楽団の音色の特質を活かしながらもわりとフレージング以外に強い作為はなく、中間楽章もすんなりスマートに通っている感がある。ガウク特有の繊細な音響操作がフランス的。4楽章は短くまとまりすぎてドラマが盛り上がらないきらいもあるが、録音が平板なせいかもしれない。それでも「怒りの日」の断片が運命論的な結末をもたらすまで、アッパー系の演奏で個性を主張している。案外トスカニーニあたりと近いかなあ。○。
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ストラヴィンスキー:ペトルーシュカによる三つの楽章

2008年04月05日 | ストラヴィンスキー
○メイエル(P)(EMI他)CD

さいきんはメイエと表記するようだが、昔はメイエールと呼んでいた。廉価ボックス化されているので入手もしやすかろう。メイエルの録音はいずれもモノラルで分離が悪く、同時代の近現代音楽の演奏が多い人だけに細部が聞き取れないのは悔しい。ただ、細かい部分に拘泥せず強い打鍵で即物的に演奏していくスタイルで、打鍵の余りの強靭さにややテンポが揺らぐようなところもある。ただ、このバレエ音楽に力強くスピードとリズムの粒だった、ヴィニェスのスタイルによる演奏法はじつにハマっている。意外にドビュッシーの影響があるのがわかる編曲だけれどこのスタイルでも何気ない音の表情にその香気が漂い、さすがの表現である。ラヴェルが似合いそうでいて、叙情的な曲のほうが似合う、メイエルはそういう時代感覚にある人。○。
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グラズノフ:交響曲第6番

2008年04月05日 | グラズノフ
○ポリャンスキ指揮ロシア国立交響楽団(brilliant、chandos)2002・CD

Glazunov: Symphonies (Complete); Cantatas; Famous Ballet Music; Violin Concerto [Box Set]

Brilliant Classics

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闘争から勝利へ、その過程で田園に、という曲で、勝利のあとの驚くべき(?)マエストーソで大笑いか納得するかがグラズノフ適性の有無の指標となる(もちろん大笑いすべきである)。この演奏は正直粗いが、オケのせいだろう。弦の薄さはスヴェトラ当時に既に目立ってきていたものだし、ロシア臭の消滅とともに迫力も消失してしまったというのもこの演奏にかぎったことではないだろう。素朴で率直な演奏ぶりだし、録音が何より明るく透明で明瞭なため聞きやすさはあるが、冒頭でのべたマエストーソが余りに張子の虎、こけおどしに聴こえるのが象徴的な、今ふうの軽い演奏になってしまっている。聞きやすさと印象的かどうかは相反するもので、これは印象に残りづらい。初心者向き。○にはしておく。
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マーラー:交響曲「大地の歌」

2008年04月04日 | マーラー
○ロスバウト指揮バーデンバーデン南西ドイツ放送交響楽団、ホフマン(CA)メルヒェルト(T)(stradivarius/andromedia他)1960・CD

新しい再発がいくらでも出ているがリマスターはあくまで好みなので私はCD初出のstrで聴いている。一楽章はどんなに室内楽的な細かいアンサンブルも乱れを許さないロスバウドだが堅苦しさは感じない。良い音ならどんなに多彩な響きを再現していたことだろう。陶酔的なアーティキュレーションは歌唱に沿ったものでもなさそうだ。二楽章は暗さより美しさが印象的。歌唱によりそうオケが絶妙で、マーラーの響きがする。うーむ、池畔で陽光のボートの動きにちらつくさまを見ながらきいていると、ケン・ラッセルになった気がする(うそ)。音は潔癖なのに表情が耽美だ。三楽章はしっかりしたテンポで規律正しくドイツ風。歌も奇をてらわず真面目だ。四楽章はピッコロに少し乱れがみられるものの基本三楽章と同様均整感のあるしっかりした表現。リズムがキレたロスバウトらしい激しい音表現が嵐を呼び込む。だが一部演奏にみられるキッチュな崩しは無い。歌は終始真面目なままだ。嵐の後もさらっと流すように過ぎていく。五楽章は三、四と違い味付けが濃い目となる。曲自体がそうとも言えるがリズムこそ律儀なもののアーティキュレーションがじっくり付けられている。陶酔的なテンポルバートも印象的だ。コンマスソロが巧い。

「告別」は怖い。長い休符の間に余計な音が一切入らないのが怖い。ホールが恐怖で静まり返っている。虚無感はそうとうなもので、そこからマンドリンが鳴り出したりすると荒地に一気に花が咲きだすような眩暈をおぼえる。とにかく音に雑味がない。この純粋さが怖い。思いいれで演奏していないのに(歌なんて殆ど素直)ルバートやアーティキュレーションは部分的だが思い切りつける。ウィーン風の味をこのオケの「音」ではなく「表現」で出そうとしたのか。ewigまでの歌唱とオケの融合した味は他の「歌曲的演奏」とは一線を画する。歌唱がついえたあとのシロホンの即物的な響のほうが印象に残るのだ。ワルターなどとは全く違う。しかし紛れも無いマーラーがここにはある。

<記載データが違うもの>

1957スタジオ録音
Hans Rosbaud Conducts Mahler & Bruckner

Vox

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ホフマン、ヘフリガー、ケルン放送交響楽団 1955/4/18
Mahler: Das Lied von der Erde

Phoenix

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ブラームス:交響曲第1番

2008年04月04日 | ドイツ・オーストリア
○D.オイストラフ指揮モスクワ・フィル(melodiya/revelation)1968/10/14・CD

録音が悪く低音部の分離が悪いのが難点。何この分厚さ、このテンション。ヴァイオリニスト指揮者というとバランスの悪い音響のイヤーな予感がするが、ウィーンでも人気のあった指揮の腕は伊達ではなかったのだ。ハーモニーも的確にバランシングされている。チャイコなんかよりずっと堂に入っているように思うのはブラームスの緻密なスコアのおかげかもしれない。重厚で力強い二楽章はオイストラフらしさと言えるかもしれない。コンマスソロにやや不安定さがあり音の細さが気になる。三楽章は内声をよく作り対位的な構造がしっかり聴こえる。テンションは相変わらず維持されている。それゆえ「ロシア乱れ」が特にヴァイオリンに散見される。モスクワ・フィルらしい雑味でもあるが。ロシア乱れはひたすらトスカニーニスタイルで突進する四楽章で更に明確になる。展開部でヴァイオリンがしょっちゅう走り、周りもそれにつけるといったことの繰り返しだ。結局ロシア式のアバウトさと強引さがフィナーレを飾る。これは好悪あるだろう。全般憂いが無くブラームスらしさが半端かもしれない。
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マーラー:交響曲第2番「復活」

2008年04月04日 | マーラー
○シューリヒト指揮シュツットガルト放送交響楽団、マック・コサック(sp)テッパー(a)(hanssler)1958/4/17live・CD

放送マスターからのCD化だがモノラル音源に大幅に残響が付加されており不自然な拡がりを持つとともに少し撚れもみられ、私は余り好まない音。シューリヒトはマーラーに興味がなかったものの2、3番および管弦楽付歌曲伴奏のライヴ録音が複数残っている。したがってマーラー的にやろうという気はさらさらなくあくまでブルックナーやブラームスをやるとき同様、そつなく流麗に進めていく。この大仰な曲でさえ軽くハイテンポな表現を進めていくさまはまさにシューリヒト。絶妙のリズムを維持しながら常時歌謡性を重視しスマートなカンタービレを織り交ぜ、スムーズな流れを作っている。

二楽章などこの指揮者にあったとても心地よい牧歌だが、三楽章冒頭の打撃からリズミカルに進む音楽はなかなか扇情的でデモーニッシュ。それにしてもけして途切れない「流れ」を作るのが本当にうまい。こまかいアーティキュレーションもびしっと揃って雑味を混ぜない。連綿とつづく軽くも鋭いスタッカートが鮮やかに構造的書法を浮き彫りにしている。弦のレガートにみられるこまかな抑揚の変化はじつに説得力がある。ただ、マーラーという作曲家はモザイク状に楽想を継ぎ接ぎするのが特徴とすればこの余りに自然な繋ぎっぷりは意趣に反するのかもしれないが。

終楽章はさすがにオケに綻びが出てくるが依然精度は高く厳しい(その厳しさを感じさせないのがシューリヒトだ、ケーゲルとは違う)。ただ、行進曲主題が提示されるところで意外とテンポが落ち着き、ブラスの表現ぶりからオケ指示の客観性を強く感じるようになる。よく知られたとおり「幻想」の影響の強い「復活」においてのこの主題の役割は「断頭台への行進」に思える私には、抽象楽曲としてのドイツ・シンフォニズムの意識が強すぎるように思えた。余りに縦重視のリズムと整えられたテンポにライヴとしての「流れ」が失われた感は否めない。ここからは均整感が重視されているのだ。威厳はあるが軽やかさも明るさも維持される。

舞台裏オケの響きあいはじつに立体的に捉えられているが、録音操作が入っている可能性は高い。合唱が意気を張るあたりからは、意外と常識的に盛り上がり、計算どおりに終演するといった風情である。
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