○タウアー(Vc)マーツァル指揮チェコ・フィル(DG/universal,tower records)1968/3/28-29ハンブルク・CD
とにかく非力である。この心もとない音線。それは間違いなく意図解釈ではなくこの時点での力量の限界に聞こえる。弱弱しい指は非常に正確ではあり廻っている、まるでヴァイオリン向きで、たどたどしい(幼ささえ感じさせる)解釈しない解釈と単調な音色の連環による音楽っぷりには、しかしずっと聴いていると何か引き込まれる、訴えるものがあるのが不思議だ。論理ではなく、ジツが出ているからか。旋律的と書くと素朴で単純な旋律屋(ロマン派時代の演奏家もしくは現代世俗音楽系ソリスト)のように読まれてしまうから書きたくないが、「これは旋律的な演奏である」。旋律の美しさ、そして優しさが素直に引き出されているから魅力的なのだろう。頭初デュ・プレがチェリとやった盤を想起させたが、デュ・プレは豪快な「正統的ドヴォコン奏者」指向であるのに対しタウアーはまるで逆行する室内楽のような演奏を指向している。録音もだいぶ苦労したのではなかろうか。故杉浦日向子氏の作品に「YASUJI東京」という漫画がある。珍しく現代に場を借りた幕末明治初頭における末流浮世絵師の数少ない群像を断片的にえがいた佳作だ。私はタウアーのドヴォコンを聴いて(バックはいい意味でも悪い意味でもチェコであり現代の演奏解釈であるからこの文中はまったく無視して書く)ここに示された井上安治の姿を思い浮かべたのだ。「自我の覚醒をみ」る前の安治。写真画ではない、写真がうつしとれないものをうつしとった「写真的風景画」の安治。タウアーのドヴォコンは安治が「解釈しないまま景色をうつしとる」ことで写真よりも迫真的な・・・しかし限りなく静かな風景を描くことが出来たのと同様、「解釈しないまま音楽をうつしとる」ことで却って迫真的な・・・しかし限りなく静かな音楽を描くことが出来たのだろう。
朴訥とした演奏で、たぶん演奏家はおろかドヴォコンマニアにすら余り受けないのではないかと思う。しかし、それでもこの穴の多く感じられる録音からは何かが伝わるのだ。それは彼女の頬を伝わる涙なのかもしれない。杉浦氏が若くして亡くなったのは病によってであった。タウアーも若くして死んだ。安治は更に若く。
マイナルディとナヴァッラに習ったというのはよくわからない。そちらの芸風からの影響は余り感じられないが、どことなくフランス的なもののほうが向いている感じはある。私はタウアーのフランセとの共演盤を求めてこのCDを買ったのだが・・・LPがえらく高値に吊りあがるのは一回しか出なかったからだったのか・・・まだそちらは聴いていない。室内楽と管弦楽は脳におさまる場所が違う。