湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆ラヴェル:ボレロ

2016年10月31日 | Weblog
コッポラ指揮グラモフォン・グランド交響楽団(LYS/EMI)1930/1/8初録音盤・CD

ラムルー管と自作自演レコーディングを行う直前のラヴェル立ち会いのもと録音された盤であるが、ラヴェル自身の演奏とはけっこう趣が違っている。最初はなんだかだらしない感じでリズムもしまらない。ソリストとオケがずれてくる珍妙な箇所も織り交ざる。これは録音のせいと信じたいが(無理あるが)、楽器が増えてくるにつれ、ソリストにもよるがとても懐かしい音色でヴィブラートをバリバリに効かせたり面白い。テンポに瞬間湯沸かし器的な抑揚がつけられているところがあるが、これなどラヴェルが認めていたとは思えないのだがどうだろう。EMI盤のライナーによると録音は終盤まではごく平穏に進んでいったという。だが終盤でラヴェルは突如コッポラのコートの端を掴み激しく抗議した。M&A自作自演集のライナーによるとコッポラがテンポアップしたことが逆鱗に触れたらしい。結局録りなおしになったそうだが、その結果は聞けばわかるとおり依然速い。但し15分38秒というタイムは自作自演盤とあまり変わらないので、このくらいがラヴェル想定範囲内だったのだろうか。単純に速いから非難したわけではなく、クライマックスで譜面に無いアッチェランドをかけたことに怒ったのだろうと思われる(それほど違和感無いが)。ちなみにラヴェル晩年のお気に入りだったフレイタス・ブランコの録音はラヴェルの指示をよく守ったものと伝えられるが(たぶん根拠なし)、史上最遅の演奏と揶揄されるおっそーい演奏。トスカニーニと衝突したという話もまさにコッポラと同じテンポが速くなりすぎるという作曲家のコメントからきたわけで(結局ラヴェルが納得し和解したが)、「速さ」に何かしらこだわるところがあったのだろう。ひょっとするとイダ・ルビンシュテインのための舞踊音楽という本来の機能を顧みるに、連綿と踊るには余りに速くなりすぎだ、という感覚が働いたのかもしれない。まあ単純に譜面に無い事をやるなということだったのかもしれないけど。ラヴェルは完璧主義者であり、試行錯誤を繰り返し悩み磨き抜いてやっと作品を仕上げることが多かった。そこに奏者が安易な解釈を入れてくることに抵抗があるのは当然のことだったのかもしれない。ラヴェルはのちにコッポラに、奏者は自動演奏機のように演奏すべきだ、とのたまったそうで、これはストラヴィンスキーの「奏者は奴隷である」という発言に繋がっていくわけだが、それほどに音楽が複雑化し、一方で演奏技術も向上して様々な表現が可能になった20世紀という時代の持つ矛盾を象徴するものであった。コッポラは元々速いテンポで感傷を排した演奏を行う即物的指揮者だったが、感情のままに突き進んだとしか思えない録音も少なからずあり、ラヴェルとは到底相容れないスタイルの持ち主だったとも言えるかもしれない。トスカニーニほどの説得力も持ち得なかったのだろう。話しがずれたが、最後の方で盛大に盛り上がる所では最初の音像の不安定さもなくなりラヴェル自身の演奏同様毅然としたリズムで威厳をもった旋律が進んでいく。このころのオケなので音色的なバラバラ感は否めないが、当時最高の録音技術によって録音されたこの盤は決して今のオケでは聞けない歴史的価値プラスの何かを持っている。といいつつ無印。オケはレコード社グラモフォンの専属オケでコッポラはこのタッグで精力的に録音活動を行い大量の骨董録音を遺している。,
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ラヴェル:クープランの墓組曲

2016年10月31日 | Weblog
コッポラ指揮パリ音楽院管弦楽団(lys他)1930/10/26・CD

1932年ディスクグランプリ受賞SPからの板起こし。内声が聞こえず、ラヴェルの仕掛けた多彩な響きや微細な動きが聴き取れないのは痛いものの、オケの(鄙びた音色はともかく)この時代とは思えない厳しく律せられた機能性、SP特有の事情もあったと思われるがやたらと速いテンポ設定、とくに一貫して揺れず、分節ごとにはっきり変化を付けるデジタルな感覚、醒めた器械的な音構成は、平板な録音であってもはっきり「ラヴェルらしさ」を感じさせる。旋律だけで充分にラヴェルを伝えられる、旋律を構成する楽器それぞれ、あくまでテンポは一定に保ちながら微細な謡い回しを徹底させ、時に独特の美質を与えている。終曲中盤の南欧風の歌い方は効果的だ。ピエロ・コッポラの録音芸術(この人は比較的近年まで存命だったが同時期一気に大量のSP録音をなしただけで実演も全くやらなかった)、技巧的で機能主義的な態度はもともとドビュッシーよりラヴェルに向いていたのだろう。内声が聞こえない内声が聞こえないと書いたが、この時代にしてはラヴェルの先鋭なひびきを収めようとして、ある程度成功している。そこが受賞理由の一つでもあるだろう。
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☆ブルックナー:交響曲第8番(1884-90)

2016年10月31日 | Weblog
◎ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(melodiya,BMG)1959・CD

まさに「構築的」で、どこにも漏れの無い、堂々たる演奏。速めのテンポで張り詰めるような演奏であるにもかかわらず、オーケストラの響きはどこか優しく、暖かみが感じられる。オブラートに包んだようなモノラル録音のせいでもあろうが(LPはもう少し鮮やかだった)、弦から木管から美しく研ぎ澄まされた音が絶え間無く紡ぎだされ、金管は厳かに時には高らかに、その感傷を音にして、音の粒は鮮やかだが全てが見事に調和しているゆえ不要にきらびやかな感じはしない。 ”ムラヴィンスキーの演奏ではしばしばあることだが、たとえば3楽章、禁欲的な雰囲気も漂わせながらも、無限の幻想に満ちた歌が遠く遥かに響き渡り、仄かな風の吹く柔らかな大地、どこまでも精妙なアンサンブルの中にゆったりと流れる時間は、極東の小国にてこの芸術の片骸に聞き入る私にも、個人的な記憶の中に潜む込み上げる感情を呼び覚まして止まない。ロシアとか北ドイツといった”地方性”なる卑俗な要素などミジンも感じさせ無い(奏法に起因する高音金管楽器の音色が唯一の例外)。そういう浅薄な個性を主張するレベルの演奏ではないのだ。他の曲でも書いたが、ムラヴィンスキーの演奏記録において崇高な迫力のあるフォルテ表現以上に特徴的なのが、ピアニッシモでの絶妙繊細なアンサンブルだ。レニングラードの弦楽器は反則と思えるほど巧すぎるのだが、最弱音でのピツイカートとVnパートソロの固唾を呑むような絡み合い、フルート、オーボエの必要以上に謡わずにして深い心情を描きだす絶妙な表現。恣意的なデュナーミクや色彩性の強調なくしてこれほど想像力を掻き立てられる演奏は他にあるだろうか。これはムラヴィンスキーの先人として立つトスカニーニすら得られなかった世界である。もっともトスカニーニはブルックナーなど絶対に振らなかったから(振るわけが無い※)、この曲では比較はできるわけもないが。終楽章もダイナミズムに満ちているが、譜面指示を決して強調しすぎることはない。野暮に引き伸ばさずそのままのテンポ(もしくは寧ろ速め)で断ち切れる結部は好みはあろうが、私は例外的に好きだ。曲の流れ上全く違和感が無いからである。・・・とにかく聴けば解かる。これは希有の演奏だ。,

※後補 尤も現在は7番のライヴ録音が復刻されている。
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☆プロコフィエフ:交響曲第6番

2016年10月31日 | Weblog
◎ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(RUSSIAN DISC)1959/4/21LIVE・CD

ムラヴィンスキーはプロコフィエフ嫌いで有名だったそうだが、このCDのジャケット写真がふるっている。ややくだけた表情で腰掛けるプロコフィエフ、その横に面白くも何とも無いような仏頂面のムラヴィンスキーが立ちすくんでいる。しかし演奏家としてはムラヴィンスキーは素晴らしいプロコフィエフの解釈者である。やや深みに欠けるかもしれないが爽快なテンポで突き進む5番の演奏は、その演奏史に名を残す録音であった。一方この6番・・・いくぶん謎めいた曲・・・でムラヴィンスキーはその即物主義的態度を徹底して崩さず、しかし結果として恐ろしいほどの迫真性をもった演奏をし上げた。この録音は一応ステレオで、ホールの残響は気になるがおおむね生々しい「オケに近い」録音であり、前記の2盤より古い録音にもかかわらず、とても聴き易い。終楽章の音楽の饗宴は余りに楽天的なお祭りでありそこに何か不気味なウラを感じさせる点で秀逸。二つ目の抒情的な主題はまさにプロコフィエフならではの素晴らしい旋律である。複雑な旋律を作ることなど簡単だ、難しいのは単純な旋律を作り出す事だ、という主旨のことを語ったプロコフィエフが苦心して作った単純な主題、その言葉が嘘ではないことを証明してくれている。プロコフィエフならではのリズムの「遊び」の表現はやや危なげなところもなきにしもあらずだがおおむね成功している。コーダで奇怪に歪んだ第一主題のリズムが破滅的な終わりかたを呼ぶのはショスタコーヴィチ的嗜虐だろう。「これでいいのだ!」的な開き直りを感じるのは私だけだろうか。まあ、音が近いだけに雑味が聞こえてしまう所がないではないが、とにかく名演。,
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コープランド:ピアノ協奏曲

2016年10月31日 | Weblog
ノエル・リー(P)作曲家指揮ORTF(ina配信)1971/6/30live

硬派なほうのコープランドではあるが、途中からピアノの不規則なリズムの下で管弦楽によりガーシュイン風の旋律が「しめやかに」流れ始めサブリミナル的に雰囲気が変わってゆき、そのあとはピアノがソロでジャズ風のフレーズを途切れ途切れで演奏したあとは、一気に耳なじみ良いいつもの世界で大団円、というふうの作品となっている。連続して演奏される。ノエル・リーはクラシカルな透明感を失わずノリを演出して巧い。聴衆はやや戸惑い気味か。ステレオの比較的良好な録音。
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コープランド:クラリネット協奏曲

2016年10月31日 | Weblog
フランソワ・エティエンヌ(cl)作曲家指揮ORTF(ina配信他)1955/5/28コープランドフェスティバルlive(29放送)

いきなり耳馴染み良い旋律から始まり、直前の「ステートメンツ」との対比が激しいが、ピアノや打楽器、特殊奏法を絡めた変則リズムの楽章が現れると一筋縄ではいかない。じきに新古典主義、特にストラヴィンスキーの骨張った協奏曲からの書法的な影響を感じさせるところも出てきて、ジャズのそれを含むリズム込の脳天気な旋律との組み合わせがかなり複雑となる。こういう曲になるとさすがにオケにも綻びがみられ、なかなかピッタリ揃わない(新古典主義だから揃わないと話にならない)箇所も散見される。ソリストはわりと一本調子。そのかわりミスはほとんど無いし音色は綺麗。amazon配信とina配信は同じ音源。
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コープランド:管弦楽のためのstatements

2016年10月31日 | Weblog
作曲家指揮ORTF(ina配信他)1955/5/28コープランドフェスティバルlive(29放送)

三楽章にならないと脳天気なコープランド節が出てこないしそれもイメージ通りとはいかない、そのあとも退嬰的に謎めいて終わる、これがコープランドの「硬派なほう」の作風である。晦渋なブラスの挽歌から始まり、基本的に木管はほとんど出てこない。ブラスと弦楽器が前面に立つ。確かにコープランドの好む和声は使われるが、リズムは複雑とわかるように複雑で、旋律は無調に近い。各楽器はわりと剥き出し、新古典主義的なからみをするところもみられるが、ユニゾンでメロディを推し進める箇所もあり、全般はとつとつとした音楽の感がある。同時代音楽と歩調を合わせた抽象的な五楽章制の組曲である。演奏はこなれており、軋みやミスもなく、よくまとまっている。録音瑕疵が気になる部分がある。amazon配信とina配信は同じ音源。
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コープランド:戸外のための序曲

2016年10月30日 | Weblog
作曲家指揮ORTF(ina配信他)1955/5/28コープランドフェスティバルlive(29放送)

掴みにはもってこいの聴きやすい曲。尖鋭なところもロデオなところも抑え気味で(リズムとか内部構造はともかく)、面白かったのはラフマニノフの3番終楽章から取ったようなフレーズがとてもわかりやすく柔らかく音楽を鞣し、ウォルトンをほうふつとさせる「一般に受けそうな音楽」になっているところだ。庶民のためにファンファーレをぶっ放しビリー・ザ・キッドのように複雑に踊りまくるコープランドっぽい音楽に飽きた向きに、むしろ勧めたい。といっても結局は思いっきりブラスと打楽器が活躍する。ストラヴィンスキーみたいに硬い指揮をする人のイメージがあるが、ここでは生き生きとしていて、オケの個性もきちんと作品の中に収まっており安心して楽しめる。
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ワグナー:タンホイザー序曲

2016年10月30日 | Weblog
マルケヴィッチ指揮ORTF(ina配信他)1955/6/9live

amazon配信はina.fr配信と同一音源。起伏がなく、ずっと大きな音がゆるいインテンポで鳴り続ける。この長さですら飽きる。構造的な配慮は当然なされているものの重心が軽く、オケの特性であることは間違いない(フランスのワグナーというとだいたいこういう響きである)が、高音域の旋律だけが強調され、それもロシアオケのように圧倒的にぶっ放すというまでもいかず、単にやかましい。うねるような情念の感じられる表現、底深い音というのはこのオケには無理なのか。中欧の演奏で聴かれる求心力ある凝縮された音楽はここにはない。マルケが向かないということかもしれない。かといって聴衆反応は悪くはなく、精度もライヴとしては悪くはないので、フランス好きならどうぞ。楽曲が悪いのか?
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☆バーバー:ドーヴァー・ビーチ

2016年10月30日 | Weblog
○フィッシャー=ディースカウ(B)ジュリアード弦楽四重奏団(sony)1967/4/8・CD

バーバーは本質的にロマンティストだ。アメリカ実験主義とは無縁な存在であり、コープランドでさえかれに比べれば前衛的といえる。アイヴズのことは大嫌い(”彼はアマチュア”)だった。古いLPにバーバーのインタビューが載っていたが、かれ自身そのことをかなり意識してロマンティストでいたようである。少なくとも、歌曲においては。(ちなみにその中でバーバーは「わたしはバイセクシュアルである、両刀だ」などとのたまっている。コープランドしかりバーンスタインしかり・・・アメリカって、まったく、もう。・・・いや、じつはこのインタビューには前後があり、バーバーは比喩表現で口にしたにすぎないのですがね。
インタビュアーがイギリスの批評家の「バーバーの音楽の”中核”には”人間の声への理解”がある」という言をひいて、あなたは何を書くときもつねに人間の声を思い描いて書いていますか、ときいたところ、バーバーはそんなことはまったくない、どんな旋律も頭から直接出てくるし、声によって曲を書くことなど全くない。つねにそれぞれの曲の編成を思い描いて書く。管弦楽を書くときに人間の声を想定して書く必要があるなどと考えていたならば、作曲家としてかなり窮屈な感じを受けざるをえない、と言う。そこでインタビュアーが、アメリカには声楽を意識的に避けている作曲家もいます、というと、彼らはおそらくそうするのがまったく正しい。たとえばウォルター・ピストンのような作曲家はまったくぜんぜん叙情的ではない。ピストン、セッションズ、コープランドは、まあ後者ふたりは声楽やオペラも手がけてはいるが、本質的にインスツルメンタルの作曲家なのだ。「その意味では、わたしはバイセクシュアルである、両刀だ」・・・というわけでした。でも、そんなところに本心が露呈することって、あるような)ドーヴァー・ビーチは比較的若書きの作品だが、弦楽四重奏に独唱といういくぶん渋い色彩によってえがかれた一幅の絵画である。バーバーの歌曲にはいろいろな過去の作曲家の曲を想起するところがある。サティの「ソクラート」、ヴォーン・ウィリアムズの「ウェンロックの断崖にて」などなど(と書いておきがてら前記のインタビューを読んでいると、インタビュアーが「あなたはドーヴァー・ビーチを確実にRVWに見せたでしょう」、バーバー「もちろん」。RVWがレクチャーしているところに押し掛けていって、歌いながら聞かせたとのこと。RVWはとても喜んで祝福してくれ、「ワシも何度もこの詩集にはトライしたんじゃが、きみがそれをなしとげてくれた!」と言ったとのこと)。つねにリリカルであり、またときにはニヒリスティックであったり、ノスタルジックであったり。人間の素直な感情を表しており、ゲンダイオンガクが人間のオクソコにネムるフクザツなケイショウをドウサツして奇妙奇天烈な音のカタマリを産み出していた状況とはおよそ遠く離れたところにいる。かといって俗謡作家ではけっしてない。マシュー・アーノルドの、海の形象によせて無情をうたう詩につけた「ドーヴァー・ビーチ」、これを少しでも耳にしたならば、そのそこはかとなく哀しい歌に、俗謡からは与えられるべくもない深い心象をあたえられるだろう。ディースカウはかなり雄弁だが、ジュリアードの美しくも暗い色調にのって8分20秒を歌いきっている。さすが、表現に瑕疵はなく、しいていえばそのそつのないところが弱みなのかもしれない。繊細な味わいをもつ曲に、雄弁さは少し鼻に付くかも。
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ドビュッシー:春の挨拶(1882)

2016年10月30日 | Weblog
ナディーヌ・ソトロー(sp)ロザンタール指揮フランス国立歌劇場管弦楽団、合唱団(Ades他)CD

パリ・オペラ座管弦楽団として近年SACD化もされた50年代後半のロザンタール最盛期と言われる(実際には70年代までは旺盛な指揮活動を行っておりあくまで録音では、という意味)ステレオ初期の大量の優秀録音に含まれている。ラヴェルに師事した最後の世代でありラヴェル録音集はその意味でも貴重だが、実演をよくやった指揮者のセッション録音にありがちな少し硬直したような(精度的には素晴らしい)印象もある。ただ開放的で浮き立つような、生気溢れる明るさは魅力的で、それはドビュッシー集においてより、はっきり現れていると思う。これはドビュッシーの音楽の性向からもきているのだろう。初期も初期、ローマ賞最初の応募作で過去あるいは同時代の作曲家を研究した結果のようなところはあるが、初期の代表的な作品である小組曲を思わせる伴奏音形など、無邪気で軽い楽想の中にも新鮮な動きや和声への嗜好があらわれている。ピアノ伴奏と管弦楽伴奏のどちらがオリジナルか知らないが後者としたらなかなか良くできていると思う(といっても単純だけど)。女声合唱を使ったところで音楽の華やかさをいっそう際立たせ、そこにロザンタールが生き生きとした表現をくわえて作品の生硬さを鞣している、これは聴ける演奏。
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ドビュッシー:劇付随音楽「リア王」ファンファーレとリア王の眠り

2016年10月30日 | Weblog
マルティノン指揮ORTF(EMI)CD

ファンファーレは清々しく美麗な、前期の香りを残した音楽で、ヴォーン・ウィリアムズ最盛期の作品と非常によく似た印象を与える。リア王の眠りは転じてドビュッシーらしさの前面に現れた和声が印象的で、多少ワグナー的なところのある官能的な音楽。マルティノンは明晰な録音に釣り合った明晰な演奏をこうじており、前者ではファンファーレを殊更に意識したぶっ放し方はさせず曇りの無い無垢なひびきを印象付け、後者では管弦楽のための夜想曲(雲)を想起させるような繊細な配慮を施している。
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☆ストラヴィンスキー:交響曲(第1番)

2016年10月30日 | ストラヴィンスキー

○C.アドラー指揮ウィーン交響楽団(CONCERT HALL他)

現代音楽の知られざる推進者として主としてウィーンに多くの録音を残したマーラーの使徒によるストラヴィンスキーである。ストラヴィンスキーは交響曲と名のつくものを5つくらい作っていたか、有名なのは三楽章の交響曲あたり二曲だが、これは初期も初期、学生時代のしかし大作である。オケはまあこんなものか。「らしい」演奏だ。終楽章の木管がへろへろなのは曲のせいもあるだろう。自作自演のコロンビア録音とはかなり違う印象。もっと生ぬるくでも聴きやすい。これは、まずはグラズノフのフォーマットで書かれた習作であり、初期ストラヴィンスキーのお勉強の結果が出たものである。そこにはグラズノフ的楽想にリムスキーやリヒャルト的和声の導入がはっきり聞き取れるが、構成的にはどうも気まぐれで今ひとつしっかりしていない。1楽章の展開部以降は教科書的構成観に基づいているくせに何かぐだぐだな感じがする。ぎごちないが清新な転調や「火の鳥」の萌芽を感じさせる魅力的な楽想、リズムも余り執着なく一つの要素として通過され、結局横長の音符による和声的な進行によって退嬰的とも思える感じをもたらしたりもする(これは3楽章の「イリヤ・ムーロメッツ」のような終わりかたにも通じる)。2楽章のアドラーのアプローチはロマン派を意識したものになっている。自作自演だと初期ドビュッシーを思わせるような精妙さをかもす新しさが感じられるのだが、譜面をいじっているのかもしれないが(版が違うのかもしれない)グラズノフの凡庸な模倣者が書いたような、それでもまあロシア国民楽派らしい魅力を保ったものになっている。グラズノフの影響から脱しようという気分は聞き取れる。そしてそれはある程度成功はしている(4楽章の軽やかさ)。3楽章にしてみてもしっとりして美しい、でも何か浅薄なグラズノフ的抒情というものから一歩離れたような感じがする。・・・でも、この演奏自体の「最初はわかりやすいが二度目以降は飽きて聞けない」的アプローチのせいか、正直余り惹かれなかった。美しさでいえば4楽章の簡潔で構成的な音楽がいちばんで、目まぐるしい転調などにフランスの香が感じられるが、そのわりにいささか「枠」に囚われすぎている感もある。この曲は「ロシア国民楽派のストラヴィンスキー」と割り切って聴くべきものである。メロディのグラズノフ性のみを楽しもう。1楽章コーダ末尾でのユニゾン主題再現にのけぞっておこう。演奏的には自作自演よりは面白い。○。

(後補)近年CD-Rか何かで復刻したと思う。
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☆グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)~短縮版

2016年10月30日 | Weblog
オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(RCA)1971/10/6

この曲の一番の魅力は妖しさにある。その点オーマンディの棒はいささか明るく即物リアルすぎて物足りない。また、音色が安定しすぎて変化に乏しい(あっけらかんとしているのはアメリカの楽団ならどこでもそうだろうが)。3楽章の美しい第二主題でバイオリンのポルタメントが僅かに聞こえるのは寧ろ奇跡だ。解釈もわりと一直線なので、たとえば1楽章など冗長に感じてしまう(じっさい冗長な楽章ではあるが)。キレの良さは2楽章の冒頭などに感じられるが、献呈者グラズノフの影響色濃い3楽章ではもっと鋭い刻みが欲しいところだ。力感がありすぎて鈍重なひびきになってしまっている。もっともこの盤ステレオ正規盤にしては録音が悪いので(国内盤のくせに音がよれたりしていてびっくり)その不明瞭さゆえそう聞こえるのかもしれないが。グラズノフをひきあいに出したが、グリエールはグラズノフより響きが開放的で聞き易い。4楽章の陰うつさは物語の酷い結末をあらわしているが、それまでの楽章の断片を巧く織り混ぜドラマティックな音楽に仕上げている。モダニズムふうの焦操感にまみれた闘争のすえ、長調に転じペットが高らかに凱歌をうたう場面は前半のクライマックスで全曲中もっとも効果的な場面だが、オーマンディはあまりに引っかかりなく過ぎてしまう。しかしそのあと3楽章などの断片がからみあって民族的雰囲気を高めたあと、再び弦が凱歌をうたう場面は比較的効果的にできている。オーマンディはやはり弦楽奏者だな、とヴァイオリンのポルタメントを聞きながら思った。そういえばこの曲は構造的で対位法的な組み立てを楽しめる場面も多いのだが、高弦と低弦がかけあうところで、高弦の音に低弦が負けているように感じるところがある。中低音域が今一つぐわんと響いてこない、と感じる人も多いのではないか(たとえばシェルヒェンのウィーン国立歌劇場管弦楽団の充実したひびきを思い出して欲しい)。オーマンディがヴァイオリニストだったということと関係があるのだろうか。録音のせいというのもありうるけれども。場面転じて1楽章の運命の動機のような警句が鳴り響き、チャイコフスキー的な劇的効果が煽られる。長短調性固定されないゆらぎの音楽は各楽章から抽出されたほの暗いフレーズの断片によって紡がれてゆく。終楽章に全楽章の断片をモザイク的に配してゆくこの手法はグラズノフのものだろう。暗さが薄まり2楽章の断片があらわれるあたりは特にグラズノフのシンフォニーのフィナーレを思い出させるが、グリエールはこれら断片を有機的に繋ぐのがとてもうまく、グラズノフの影響が大きいにしても、その技法の完成度は優っていると思う。最後に3楽章の無邪気なフレーズがうたかたの夢のように浮かんでは消えついには暗黒のうちに沈む。オーマンディは民謡ふうのフレーズより現代的なひびきを浮き立たせるように演奏しており、体臭が無く、サウンドとしてはとても聞きごたえがある。このいささか単純ではあるが構造的に出来ている楽曲を立体的に響かせる手腕は冴え渡っており、楽曲理解のためのソースとしても使える演奏だ。カット部分も比較的少ない。が、快楽派リスナーとしては熱狂的に盛り上がるような中心点がなく、ちょっと客観的すぎる感じがする。3時間で終えられたというレコーディング条件もさもありなんと思われる録音状態でもあるし、中間をとって○ひとつとしておく。,
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ルーセル:バレエ音楽「バッカスとアリアーヌ」第一組曲、第二組曲

2016年10月29日 | Weblog
ロザンタール指揮ORTF(ina配信)1968/9/5放送

見事な演奏で、舞台音楽をやると水を得た魚のようになるロザンタール(逆に四角張って前に向かないこともある)、色彩感がとくに抜群である。同時代のミュンシュが重量感あるルーセル特有のリズムに重点を置き、中欧的な重い響きを強調し色味に配慮しなかったのとは対照的で、ルーセルとは師弟関係にあったマルティノンのカラーに近いが、あちらはあちらで少し透明で無機質なところがあり、肉感的要素も兼ね備えた(ロザンタールに「肉感的」と言うと語弊がある…?)この長さを緩急すべらかににつけながら、ルーセルらしさはルーセルらしさとして明確に叩きつけつつ、印象派の残響的なところやワグナー的な法悦性はそれ相応の表現へ切り替えて見せる、じつに演劇的に手慣れたところをみせている。バレエ音楽というと場面場面でコロコロ変わる印象があるが、ここでは管弦楽組曲、さらに一種まとまった交響音楽のように聴くことができる。なかなか良い聴き物。
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