湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

グラズノフ:5つのノヴェレッテ〜Ⅳ.ワルツ

2017年08月31日 | Weblog
グラズノフ四重奏団(CCCP)SP

グラズノフの代表作の中でも著名な作品で、冒頭からの跳ねるようなワルツ主題はチャイコフスキーの次を見せるような美しくも儚い名旋律だ。幾つかの旋律をわたり再びこれに戻っていくが、やはりこの主題をどう聴かせるか、とくに単品で出てこられると(おそらく全曲あると思うが)期待してしまう。グラズノフ四重奏団はその名に恥じず、懐かしい音とフレージングでこれこそ聴きたかったものだ、というものを与えてくれる。といってもほとんどファースト次第でもあるが四本とも表現が揃っている。裏面の暗い主題あたりは原曲がつまらないからまあこうなるなというかんじだが、盛り上がって勢いを取り戻す腕は円熟している。なかなか。
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☆ショスタコーヴィチ:交響曲第10番

2017年08月31日 | ショスタコーヴィチ
○ヴォデツコ指揮ワルシャワ・フィル交響楽団(ETERNA)

LPでモノラルのものを持っているが恐らく元はステレオ録音。演奏はアンチェルに似るか。引き締まった演奏振りにこの指揮者の厳しい統制が聞いて取れる。緩急をそれほどつけないが全般にテンションの高いところで演奏を続けており、激しく斬り込むような表現でこの緊張感を高めている。弛緩のシの字もないがかといって面白くない渋い演奏というわけでもなく、アンチェルまではいかないが、適度に楽曲の深刻さと娯楽性のバランスをとりつつ高尚さも保った佳演といっておこうか。聴きやすいが個性的ではない。

※2007/1/12の記事です
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☆マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)(クック補筆完成版・決定稿)

2017年08月30日 | Weblog
<通常ほぼ完成していた1楽章アダージオのみ演奏される。音楽の地平を見据えたその涅槃性は、マーラーの脇をすり抜けて行った新ウィーン楽派の面々をして振り向かせた新鮮な音楽。3楽章も草稿レベルでは出来上がっていたため、しばしば奏せられる(娘婿クシェネク補筆版の場合が多い)。故デリック・クックによる補筆「完成」版で全曲演奏されることも多いが、最近別の補筆完成版が出るに至り牙城も崩れたようである。クック版の管弦楽配置は時折違和感を覚えるが、突然襲う太鼓の打撃(アメリカ時代に聞いた、窓下を過ぎる消防士の葬送音、とアルマが伝えている)、続く遠い想い出のように霞んだ密やかな旋律の美しさは、この版で初めて味わえたわけで、価値あるものであったことは確かだ。完成版の是非については当時論議紛糾し、アルマやワルターらマーラーの使徒には完全拒絶された。バーンスタインも否定派だった。嚆矢として世に出たオーマンディ盤、2稿を含めコンサートにてクック版の知名度向上につとめたマルティノン、そしてクック版を世に広く知らしめることになった極めて美麗なウィン・モリスの盤は、歴史的価値がある。>

モリス指揮ニューフィルハーモニア管弦楽団(SCRIBENDUM他)1973・CD

最近CD化した。マーラー専門指揮者ウィン・モリスの有名な盤。これが出るまで10番の補筆完成版の盤はほとんど知られていなかったため、改めて賛否両論を巻き起こした。モリスは決定稿(3稿)の初演者であり、これは直後の初録音盤である。初稿の初演はBBCの記念行事として60年に行われたが、アルマ夫人のお墨付きを得て更に改訂をくわえ、2稿はオーマンディが録音している。モリス盤は一般に不器用だが丁寧と評されているが、とくに終楽章、ひたすらに綺麗な彫刻といえよう。2番といい8番といい、モリスは大曲の終焉を氷細工のように透明で儚く表現することのできる、独特の指揮者だ。

第一楽章は一応のフルスコアが残されたもので、これだけをマーラー自作と認める向きは多い。原典(クシェネック版)とクック全曲版とで少し異なるようだが(確か昔の音楽雑誌で詳細な検証がなされていたと思う)、じっさい大交響曲の「第一楽章」として聞くのと、単品の「アダージオ」として聞くのでは印象が違う。不安定な調性のもとに紡がれる音線。不協和音の炸裂。クライマックスでの、離れゆく妻アルマを象徴する「A」の強奏。大地の歌そして9番で静かな諦念を描いたのちに、だが結局人間的な苦しみに立ち戻ったかのような曲。
この演奏では引きずるように重く終始超遅のインテンポが保たれ、しかし音はどこまでも透明で低音のくぐもりすら底まで透けて見える海のように涼やかだ。最後までドラマはさほどの起伏も作られず壮大さだけを浮き彫りにするが、”予兆”としての第一楽章の位置付けを明確にした風でもある。

第二楽章は補筆部分の多い楽章だが十分聞ける。ここでは一楽章から一変して速めの出だし。客観性は保たれるものの、ブラスの咆哮などに激しさがまざりだす。”警鐘”の趣。緩徐部の牧歌はいかにもマーラー的なメルヒェンをよく演出した演奏振り。はっきり現代的な響きをひびかせる個所、高弦のポルタメントなど、次第にドラマが盛り上がっていく予感がする。二度目の緩徐部は美麗の中に劇的というモリスの特質を示している。このあたりから演奏が非常に流れ良くなってきて、スコアの穴もうまく隠されている。最後の上向音形のスピットなアッチェルは格好いい!!

第三楽章プルガトリオ(煉獄)はマーラーのほぼ完成したショートスコアが残されており、アダージオと併せてクシェネック補筆版でしばしば演奏される。すごく静かに開始するこの演奏、やがてくるブラスの咆哮とのコントラストが鮮やかに描き出されている。牧神と悪鬼の交錯はごく短い曲中でさっと演じられ、そのまま終わる。第四楽章はフランツ・シュミットの4番交響曲に似た響きをもち、ブラームスに似たメロディがあったと思うが、それでもなお「クック完成版」の聴き所のひとつといえる。3番あたりを彷彿とさせる10番中間楽章の中でも独自色を感じさせる(マーラー自身の色とは言えないが)。悲劇的な曲想は打楽器群により殺人的衝撃をともない、弱音部とのコントラストは激しく演じられている。オケの音はここで必要となるケレン味に欠けるが、モリスの音響操作によって適度な劇性を保っている。テンポは遅いインテンポを保っているから、好悪分かれるかもしれない。途中のヴァイオリンソロの典雅さがまったくマーラーらしくないふしぎな安息を与えるが、クック版を嫌悪する向きには特に猛毒だろう。そして、バスドラムの突然の打撃。6番クライマックスで英雄が打ち倒される木槌とはまた一味違う、深刻な打音。アルマによれば、ニューヨークで、窓下を通った名も無き消防士の葬列より響いたドラムのエコー、これにより中間楽章のまるで先祖がえりしたかのようなメルヒェンの趣が断ち切られ、再び第一楽章の「現実」に引き戻される。悲痛な書き込みの混ざるショートスコアの残された第五楽章、この演奏のドラムは殊更に響かない空虚な音で、表層的な衝撃のさまよりも、突然わけのわからない悲劇に見舞われた者の、宙に浮いたような呆けた心を描きだす。そして次に、10番白眉の名旋律といわれるものが、ピッコロにより提示される。さすがロンドンのオケのことはあり、木管ソロ楽器の優しい響きは他に替えがたい。美しく心に差し込んでくるなつかしい日差し。高弦のやわらかな音もそくっと染み入る。ここまでの楽章の印象がはっきり言って薄かっただけに、ここにきてはじめてモリスの真骨頂を見る思いだ。弱音の響きの指揮者、面目躍如。神への祈りというよりどこまでも人間的な、あたたかくもはかない夢の世界・・・これは誰にでも振れるというものではない。このあとのドラマは調性がうつろい、明るく透き通った音響のもとに劇的な展開を示す。

第一楽章の回想(Aの咆哮から始まる)から全オーケストラをもって再現されるテーマあたりは、明るさが無くなり、果てしなく長い絶望感を、やがてついえた暗闇の中に幻想として立ちのぼる遥かな野の光へいざなうさまが素晴らしく感動的に描かれている。ここがモリス盤一番の聴き所。モリスの良さをわかりたければこういうところを聞くべきだ。やりきれなくも平穏な心地の中に深く沈潜して、ヴァイオリンの思い切った跳躍(ブルックナーの9番や自身の9番終楽章冒頭のよう)をもって曲はおわる。

同演奏、他人の筆の入った曲にこう言っては何だが、指揮者によってさらに手を加えられているのではないかと思わせるところもある。のちの他演とくらべて聴感が若干違うのだ。検証せねばわからないところではあるが・・・(まあクック版は多かれ少なかれ指揮者によって手を加えられるものらしいのだが)。

※2004年以前の記事です
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☆マーラー:交響曲第5番(1901-02)

2017年08月29日 | Weblog
◎シェルヒェン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(westminster他)1952・CD

シェルヒェン唯一の正式録音。ライヴと比較すれば冷静な解釈だし、カットもほぼ無い。練り上げられたものだ。だが同時にライヴ的な感興もあわせもっている。バーンスタインを思わせる熱い演奏だ。

素で聞いているときと、スコアや楽譜を片手に聞いているときに、ギャップを感じる事はないだろうか?根本的に音楽を見る視点が変わるのである。もともとこの録音が大好きだったのだが、あるとき5番の演奏に参加する機会をいただいた。そこで改めて楽譜を片手に聞いたところ…のけぞった。これは作曲家に対する冒涜か?旋律線の偏重、細かい仕掛けの無視、フレーズ処理の乱暴さ、etc…聴けなくなってしまった。そして私が手にしたのは、普段余り聞かない、新しいマトモ系の録音だった。…音楽観賞という面では後者は邪道だと思う。やはり耳で判断するのが正しい。たとえ録音というかりそめのものだったとしても。それがわかったのは、ほとぼりもさめて再び何枚かのレコードを、無心で聞いたときのことだった。…やはり、この盤が一番感動したのだ。

理由は明確。粗雑さ、過度の恣意性というリスクを越えた強い表現意欲。整えた音響では表現できないナマの音楽を表現することに殉じた姿勢。高尚な芸術に一方的に仕える「司祭」としてではなく、「人間」としてこの巨大なものにどう立ち向かってゆくかをひたすらに考えたような…ちょっと考えすぎだけれども、そこに強く惹かれた訳である。一旦離れ、再び見返したときに感動するものは、その人にとってホンモノである。これは少なくとも私にとってホンモノの演奏であった。

※2004年以前の記事です
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☆ラフマニノフ:交響曲第2番(カット版)

2017年08月28日 | Weblog
○ゴロワノフ指揮モスクワ放送交響楽団(BOHEME他)CD

カットの嵐。解釈も嵐のよう。音が悪すぎ、独特の「読み」も裏目に出、すこぶる聞きにくい。他の曲の録音に比べてもかなり激しい表現で、それはそれでかなり面白いのだが、録音バランスの悪さが、同曲のききどころである各声部の掛け合いをわかりにくくしてしまった。マニア向けである。

※2004年以前の記事です
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☆ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ(ロ調)

2017年08月28日 | Weblog
ストーン(Vn)スレルフォール(P)(PEARL)

私が最初に触れたディーリアスの譜面は、なぜかこの習作(といっても作曲家30歳の作品)ソナタだった。第一印象は全体的にはフランクのソナタ、旋律線はドイツ・オーストリア系のリヒャルトとかそのあたりのもの、そして、かなり冗長(3楽章制)といったところ。音源などなく、自分でかなでてみて、いかにも習作的で合理的でない曲、今思うとドビュッシーの初期作品に非常に近いと思うのだが、とにかく後年のディーリアスの隙の無い楽曲に比べ、スカスカな感じがした。だが、何度かかなでてみて、旋律の半音階的なゆらぎ、五音音階の奇妙な軋み、これらが同時期の「レジェンド」のいかにもあざとい
前時代的な旋律に比べて、ずっと新しいものを示していて、しかもかなりすがすがしく気持ちがよく思えてきた。今無心でレコードを聞く。じつに雄弁なヴァイオリン、印象派的な音色のうつろい、習作は習作なのだが、捨てておくには忍びない美しい楽曲。これは技巧的にはそれほど難しくないので、もし触れる機会があったら演奏してみてほしい。きっとディーリアスの秘められた宝石を発見した気分になるだろう。この盤はヴァイオリンが心もとない。この曲は雄弁に太筆描きで弾いて欲しい。無印。

※2004年以前の記事です
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☆ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ第3番

2017年08月28日 | Weblog
ウィウコミルスカ(Vn)ガーヴェイ(P)(CONNOISEUR SOCIETY)CD

この曲も盤がまったく手に入らなくて、民音でコピーしてきた譜面をもとにつらつらと弾いていた。ディーリアスの白鳥の歌(のひとつ)で、全面的に使徒フェンビーの手に頼っており、たしかに1、2番の脂ののりきった充実した書法の作品にくらべ、音符の少ない平易な旋律と最小限の伴奏という、非常に単純な構造の作品になっている(但し短いながらも三楽章制にはなっている)。だが、これはディーリアスの最後の境地がどのようなものだったか、知らしめてくれるものだ。枯れに枯れきって、目もみえず手足も動かず、しかしそれでも最後の「うた」を、命を振り絞って吐露する、これはまさに「瀕死の白鳥」の、かなしい歌なのだ。この曲を弾くとき、私の頭の中には、シゲッティ晩年のかすれた音があった。ぼろぼろのフィドルで、毛のいっぱい抜けたぼろ弓を使って弾いてみたい。1楽章からもう退嬰的な、夕日のようなかなしくも美しい旋律が流れだす。やさしい、とても優しい旋律。2楽章は若干民謡ふうのラプソディックな曲想になっている(でも譜面づらは平易だ)。そしてふたたび緩徐楽章の3楽章、なつかしい民謡のしらべ、それこそ「最後の作品」にふさわしい、そこはかとなく懐かしくかなしい音楽がはじまる。「もっと生きたい!」という叫びのようなクライマックスも、やがてついえて、音楽はとおい追憶となって、消える。言ってしまえばピアノはいらない。無伴奏で描くのがもっともふさわしい表現の仕方ではないか?私は今でもそう思う。私はウィウコミルスカ盤を評価しない。ウィウコミルスカはこういう意味の曲であることを理解しているとは思えないほど「雄弁」だ。線の太い、乱れの無い音は生命力に満ち溢れ、無遠慮になりひびくピアノ伴奏ともども、「おしゃべりすぎ」だ。もっとデリケートな盤の出現を、期待したい。

※2004年以前の記事です
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☆コープランド:庶民のためのファンファーレ

2017年08月21日 | アメリカ
作曲家指揮ハンガリー国立管弦楽団(DA:CD-R)ブダペスト音楽祭1973/9/28日本での放送音源

萎縮したように生硬で心もとない吹奏だがアメリカオケと比べるほうが悪いか。アメリカ音楽特集の端緒として取り上げられた代表作。

※2008/10/7の記事です
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ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」

2017年08月17日 | Weblog
ザンデルリンク指揮ベルリン放送交響楽団(harmonia mundi)1966/10/3live・CD

最良のステレオ。好戦的だ。上手いオケ。やや統制が甘い感もあるがそれも引っくるめて主情的に盛り立てていくロシア伝統の演り方からこの人も影響を受けているのだなとわかる。激しい発音が耳を突く(ショスタコの好戦的なフレーズは非常に魅力的だがたいてい敵のテーマで、だらだらと流れる挽歌がメインテーマなので、「かりそめの空疎な盛り上がり」が「かりそめ」に聴こえない。総体的な演奏効果を考えると困るとこがムラヴィンスキー批判(あくまでヴォルコフ「証言」の中の話)にも通じてはいるのだろうけど、このまだザンデルリンクが意欲的な演奏をこうじていた時期のものを聴くと、作曲意図はどうでもよくて、こういう曲はドラマチックに盛り上げればいい、と思ってもしまう。作曲意図を重視しても耳だけで聞く側はなんだかよくわからなくなるだけのリヒャルト・シュトラウスの緻密な音楽が良いとは思わない。前半楽章はとにかく、圧倒的に戦闘意欲に満ちている。少しマーラーぽい響きもあるが、それまでの楽章のカウンターとなる三楽章にはマーラー的な陶酔がより強く出てくる。情的、しかし曲自体が単純な旋律と響きによる流れで出来上がっており構造的には醒めているし、さほど臭く感じることもない。ザンデルリンクらしく甘さのないドラマティックな歌が数珠繋ぎされてゆく(しかしまあ「革命」なる題の卑俗さよ)。四楽章はいきなりのスピードでコントラストがすごい。弦のアタックが甘くなったりブラスがギリギリだったり、変化についてけないオケの反応が気になる冒頭だが力で押し切るうちノリが合ってきて新即物主義的なスピードと力の音楽が派手に打ち鳴らされる。最初のクライマックスが潰えて初めて落ち着いて音楽を楽しめる、といったいきなりさがあるが聴いていて胸がすくのは間違いない。このあたりから構成のうまさと楽器の扱いの上手さが光る。漫然と聴いてもわからせる。ただ鳴らし直線的に進める指揮者とは違う。音量変化をさほどつけなくても色調でフィナーレを印象付けるところ、解釈の妙だろう。拍手なし。
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ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」

2017年08月16日 | Weblog
ニコライ・マルコ指揮シドニー交響楽団(SLS)録音時期不明live

凄まじい録音の悪さで恐らく40年代のものか。ノイズに慣れていればマルコの調子良い時の音楽の力強さと元来この曲の持つ「ひたすらの」旋律の力で十分楽しめる。オケはショスタコならではのソロ剥き出しになると弱い部分もあるが、合奏は聞き取れる限りでは弱みはない。録音操作してこの音、である可能性もあるのでそれも錯覚かもしれないが、まあ、音盤は楽しめれば良いのである。ショスタコの非構造的な極度に単純化された書法を逆に強みととらえられるのは同じロシアの指揮者だからだろうか、ただの旋律とリズムと和音の筐体に、マーラー的な緩急をもって強靭な、もしくは柔らかく叙情的な表現を流し込んで、ショスタコという箱からははみ出ないが、期待される通りの革命であり、羽目を外すこともない。後年のBBCなどでやったようなきっちりした教師的解釈の部分は四楽章冒頭の固いテンポに現れてくるが、音は迫力があり前へ行かないからといってさほど悪い印象はない。最初の軽薄な盛り上がりより、その後の悲劇的展開に重点を置いているのは、オーソリティの見識だろう。緩徐部のテンポが冒頭と逆に早くて、木管が前のめりになってしまうのは初めてマルコ特有の解釈といえるところか、即興か(その後のまっとうな流れからして即興臭くもある)。ちょっとヴァイオリンが薄い感があるし萎縮したようなブラスの音も、フィナーレには惜しいが、これは単に録音のせいだろう。響きがいびつなのも録音のせいだろう。拍手は普通。
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ボロディン:歌劇「イーゴリ公」~だったん人の踊り

2017年08月16日 | Weblog
デルヴォ指揮パリ音楽院管弦楽団(EMI)CD

古い録音に耐性があればこれがあれば十分!踊りの部分は優美に聞かせにかかりリズミカルな舞踏になると小気味よい音楽が弾み音符の切れた素晴らしいアンサンブルがきける。やっぱりこのオケ好きだなあ。
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サティ:バレエ音楽「本日休演」

2017年08月10日 | Weblog
アントルモン指揮RPO(CBS,sony)1970/5・CD

序曲~1幕と2幕からなり、この蘇演は極めて珍しいのではないか。間に上映された無声映画「幕間」の音楽のほうが有名になってしまったが、これがサティ最後の作品で、あまりにもスキャンダルを狙いすぎたおかげで揉み消さなければならないほどの名声の傷~それは「舞台の見えない舞台装置」などダダイストらにとっても同じだが~になっていることと無関係ではあるまい。ただ、サティの曲はもはやどこにもスキャンダラスな要素はない。きちっと時間を測ってその通りにスコアを割ったような音楽で、しかもその中身にサティらしいごつごつしたところはもはや僅かしかなく、「ふつう」なのである。「飽きてしまう」と言ってもいい。才能の枯渇というより「幕間」の実験に興味を惹かれて、こちらは悔しくも身に着けてしまった処世術~凡庸な作曲技法~で仕上げた、アントルモンもさすがにこの長ったらしい曲を最後まで魅力的に聞かせることは困難のようだ。
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サティ:ジムノペディ1,2番(原曲3,1番)(ドビュッシー管弦楽編曲)

2017年08月10日 | Weblog
アントルモン指揮RPO(CBS,sony)1970/5・CD

ぶっちゃけて言ってしまえばサティの美学の粋に余計な音色をくっつけまくったドビュッシーの不恰好な編曲を「いかにならして聴かせるか」が主になる曲だと思う。アントルモンはソリストとしてサティに取り組んでいるだけあって、とくにブラスの音が世界観の邪魔をしないよう注意深く響かせている。そのうえでこの2曲を対比させるように明瞭に持ってくるような、もっとうまい指揮者はいると思うが、これなら大丈夫、という意味で一聴に値する。
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サティ:バレエ音楽「パラード」

2017年08月10日 | Weblog
アントルモン指揮RPO(CBS,sony)1970/5・CD

そつのない演奏になってしまったか。フランスの専門指揮者のやる透明感ある少々壮大すぎる演奏や、同時代指揮者にたんをはっした勢いとキッチュさを押し出した「いかにもサティのイメージ」の演奏様式からすると突出したものはなく、どちらかというと前者だが、イギリスの色に染まっていない手練れオケによる品の良いパラードの域を出ない。逆に悪趣味を好まない向きはこのくらいが一番入りやすいだろう。
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ドビュッシー:フルート、ハープ、ヴィオラのためのソナタ

2017年08月10日 | Weblog
ランパル(fl)ラスキーヌ(hrp)ルキアン(Va)(forgottenrecords)1957/6/18live放送

ラスキーヌ、ランパルが入ると荒くなる印象をもつが、これはライヴならではか。ラスキーヌ以外の音色が無いように感じるのは録音の荒さもある。ルキアンは少し音が激しすぎて掠れる。最晩年に回帰した響きの繊細さをじっくり味わうのには向かず、「ソナタ」の即物的なドラマを疾走して楽しむのには向く。モノラル。
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