湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆ミャスコフスキー:交響曲第21番「交響的幻想」

2017年01月16日 | ミャスコフスキー
○ラフリン指揮ソヴィエト国立交響楽団(COLOSSEUM)LP

イワーノフにくらべればボリュームがある。序奏の弦のコラールふうの重なりがしっかり響いている。録音のせいか(共にモノラルだがこちらアメリカ盤のほうが若干ピッチが高い)。アマチュアとききまごうバラけたアンサンブルや響きも指揮者によってはしかねないオケだが、ここでは許せる範囲ギリギリか。主部の躍動感もこちらのが上である(ヴァイオリンの薄さは否定できないが)。テンポ的に粘らないので垢抜けているが半面解釈の面白味はない。素っ気ないほどにインテンポ気味な流れよさだけを評すべきか。もちろんクライマックスはルバートするが、人工的というか若いかんじ。オケの音量変化まで統率が届いていない(録音のせいかもしれないが)。音への思いのなさはなんなんだろうか。ミャスコフスキーへの思いの問題?型通りには成功しているのだが、ちゃんとまとまってはいても、何か物足りない。聞けるレベルにはあるので○だが、ソビ響の悪さの出た演奏。原盤ソヴィエト版SPとのことなので音質のことはそこに起因している可能性大。
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ミャスコフスキー:交響曲第6番

2014年11月11日 | ミャスコフスキー
◯コンドラシン指揮モスクワ・フィル他(melodiya)1978/12/5live・CD

合唱まで加えたいささか大がかりな作品だがミャスコフスキーの癖のようなものが比較的抑えられ、美しい旋律や神秘的なムード、祝祭的なリズムなど聞き所は多く、コンドラシンによって引き締められ飽きずに聴き通すことができる。これはモノラルで出ていたものとは違うと思う。データが正しければコンドラシン亡命直前の録音ということになる。◯。
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ミャスコフスキー:交響曲第21番

2014年02月25日 | ミャスコフスキー
○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(SLS:CD-R)1944/10/28放送live

ノイズがかなりきついがこの組み合わせでは47年11月22日の名演が残されているので、三年遡ったこちらも期待してしまう。じっさいにはスタジオ盤と余り変わらず(録音時間は5秒しか違わない!)、しかし一部過大なデフォルメであるとかちょっと雑味が混ざるようなところがあるとか、確かに違いは認識できる。苦難の中に希望を見出し這い上がろうとするも最後は力尽きるというような、単一楽章で短いながらも充実した内容の作品、オーマンディはよくとらえて演じている。○。
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ミャスコフスキー:交響曲第16番

2014年02月12日 | ミャスコフスキー
○イワーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(melodiya)LP

引き締まった指揮ぶりが曲の魅力を最大限引き出した佳演。行進曲ふうの出だしから引き込まれ、美麗な旋律、古典風のフレーズと半音階的な内声のおりなすミャスコフスキー特有の不協和な響きが新しいのに古いという独特の音楽に結実している。意図的に挿入される民謡旋律はいささか浮いてはいるが、イワーノフは上手にさばいてそう感じさせない。三楽章制の大曲ではあるが、マーラーを聴くようにすんなり聴けるので、ミャスコフスキー入門にもオススメ。○。
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ミャスコフスキー:弦楽四重奏曲第13番

2011年10月16日 | ミャスコフスキー
○ベートーヴェン四重奏団(westminster/melodiya)1950年代・LP

大量にある作品中でも名作のカテゴリに分類される最後の作品。序奏こそ「また国民楽派の室内楽か・・・」という陰鬱さに聴く気をなくさせられるが、この作曲家としては驚くほど機知にあふれた音楽が展開されていくうちに引き込まれる。あくまでこの時代のソヴィエトの「風紀」の中で、ということにはなるのだが、構成力の高さ、和声展開の独自性、加えて構造の見事さがこの作品に見られる特長である。やはり大規模作品より小規模作品に自己の真実を投影していこうとしていたのだなとも思った。ベートーヴェン四重奏団は音色の郷愁性に惹かれるが演奏も破綻なく巧い。○。
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ミャスコフスキー:交響曲第19番

2011年10月16日 | ミャスコフスキー
○ペトロフ指揮ソヴィエト国立ブラスバンド(MELODIYA/MONITOR)LP

ブラスバンドのための交響曲としてミャスコフスキーの作品中でも異例の知名度を誇る作品。ペトロフは初演者でこれは初録音盤になる。楽団は恐らくソヴィエト国立交響楽団の管楽器メンバーだろう。抑制されたパワーがきいていて下品にならず洗練されている。一楽章の木管に課された超絶技巧は聴きものだ。弦の役割を木管に果たさせているのが無理があるのだがここではじつにそつない。ミャスコフスキーらしいマンネリズムの中にもカバレフスキーやプロコがやったように先進的なひびきや進行がしのばせられていて、半音階的な動きの精密な再現が難しいところもあると思うが、中間楽章の謎めいた表現から最後の盛大な盛り上げにいたるまで、弦がいるんじゃないかというくらい「オーケストラ」になっている。鮮明さの足りない録音が惜しいが、メリク・パシャーエフやエリヤスベルクを思わせる名匠ぶりが○。
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ミャスコフスキー:交響曲第25番

2009年04月24日 | ミャスコフスキー
○スヴェトラーノフ指揮モスクワ放送交響楽団(brilliant/melodiya)1957/10/9・CD

これは曲がやや弱い。晩年ミャスコフスキーの形式に囚われすぎた作品で、27番のような締まった様子が無くマンネリズムが気になる。ミャスコフスキー特有の濁ったハーモニーや半音階的にうねるフレーズに奇怪な転調が排除され、ただメロディとそれを支える他の要素、といった構成ではどんなに充実した書法でも飽きてしまう。チャイコフスキーを狙っても(狙わされても)チャイコフスキーは越えられない。3楽章制だが、楽想の弱さもあって曲の長さがあだとなっている。演奏はオーソドックスで現代の一流どころの演奏と変わらぬ真面目さ。後年の演奏とはちょっと緊張感が違う。同曲の旧録でスヴェトラ若き日の数少ない記録(スターリンが死んでまだ4年余り)、オケはボリショイ劇場管となっている場合もある。brilliantは包括的にライヴ表記がなされているが、リマスターが非常にしっかりなされモノラルだが残響により聴きやすく仕立てられているとはいえ、想定される原音が良すぎるので恐らく放送用スタジオ録音のお蔵か何かであろう(50年代くらいのソヴィエト録音だと特殊な再生方法が必要になり、そうなると非常に音質が上がることから、完全否定もできない)。brilliantの抱き合わせ商法は一枚頭が安いとしてもどうかというところがあり、このスヴェトラボックスもまとまった初CD化音源は少なく、再発もしくは記録データのみ違う同一音源とごちゃごちゃしたソヴィエトらしい雑曲が占めている。

スヴェトラーノフ・エディション(10枚組)


新録(全集収録)
Miaskovsky: Complete Symphonies & Orchestral Works / Evgeny Svetlanov, USSR State SO, Symphony Orchestra of the Russian Federation


単品
Myaskovsky: Symphonies Nos. 1 & 25
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ミャスコフスキー:交響曲第23番(交響的組曲)

2008年12月01日 | ミャスコフスキー
○スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団(warner他)CD

全集の一枚。スヴェトラのアンソロジー中の演奏水準でいけば後期にしてはかなり上。若干大人しめだが小音量部分での繊細な音響配慮、しんとした空気感が晩年の特質を示している。○

楽曲は交響的組曲とクレジットされることが多く、やや散漫ではあるが一応三楽章からなる交響曲の形骸は保っている。全般印象はきわめて伝統的なロシア・ロマン派音楽でありボロディンの国民楽派の伝統にのっとっているように感じるが、終(3)楽章は古典派に立脚点を求め西欧ふうの構造的書法が特筆すべき点として挙げられるが、終幕の不思議に気まぐれな場面転換ぶりは、その洗練ぶりがフランス的ですらありミャスコフスキーの個性を僅かに感じさせる部分となっている。2楽章は暗いだけ。全般薄い音楽の中で1楽章は印象に残る。「交響的幻想」を思い出させる構成にカバルタ主題(同時期行動を共にしていたプロコの弦楽四重奏曲第2番3楽章主題と同じ民謡を使っているのが印象的)を織り交ぜ、これもやや気まぐれではあるが何か哲学的というか暗示的な雰囲気を持ち面白い。少し混乱して長すぎるものの、清澄な音楽で聴きにくい部分は少なく、お勧めできる。
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ミャスコフスキー:交響曲第19番

2008年06月02日 | ミャスコフスキー

○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団他(OLYMPIA/仏WARNER・スヴェトラーノフ協会)CD


ミャスコフスキーの中では特異なブラスバンドのための交響曲である。そのまんまの意味でのオーダメイドに近いのだろう。しかし意外とこれがすんなり聞きやすい。旋律がいつにも増してわかりやすく親しみやすいせいもあるが、弦を使わないことでストレートに強靭なブラスの音で表現できていることがプラスと受け取れるせいかもしれない(コノ演奏にかんしてのみ言えばソビ響のバラケた独特の弦が入らないこと、世界一強靭なブラスがそのぶんのびのび全開なことも要因だ)。ミャスコフスキーは弦の人だが、ゆえにか弦の扱いが独特で、旋律表現にもクセがある。というか妙に機械的で単純なのだ。特に後期における単純さへの指向(もしくは体制側からの要望)がロシア臭をきつくさせている面も否定できない。

この曲は交響曲的な構成をとっているが1楽章はほとんどブラスバンドのための序曲であり、最初の上向音形からしてラフマニノフの交響曲第3番1楽章の有名な第二主題を想起せざるをえないあけすけさである。コノ曲だけ抜き出して軍楽隊が演奏しても誰も気がつかないだろう。構造的には交響曲であっても内容的に純粋な交響曲ではない。ただ、主題展開は末期交響曲特有の常套性があきらかにみられる。

2楽章もラフマニノフ末期の書法や旋律展開を思わせる明快さとジャズ的なちょっと洒落た和声展開やうらぶれた楽器用法の感じがあるが、これは交響曲らしい魅力的な間継楽章になっている。暗い第二主題などわりとRVWとかそのへんを思わせる西欧的な部分もある。これも含めミャス末期交響曲的な単純さである。さて3楽章制を旨としてきたミャスとしては異例な4楽章構成だが、この楽章も含め本人も言っているように行き当たりばったりな感じがするまま3楽章も緩徐楽章となっている。ベースとホルンの取り合わせがいかにもな出だしの暗さだ。

4楽章は楽想変化に終楽章らしさはあり、弦が加われば末期交響曲のそれとまったく同じ雰囲気だけれども、結局また祝典序曲な出だしから、スターウォーズの終幕のような音楽と言わざるをえない。ただ、展開部(というかロンド的に繰り返し祝典主題があらわれるの中の「継ぎ」)で旋律が音量の小さいソロの数珠繋ぎで痩せてパンチに欠けている。もっとも、この演奏ではソビ響のブラスや木管の独壇場が聴ける点ではいいけれども、曲的に4楽章がもっと盛大に盛り上がればもっと交響曲らしかっただろう。楽章全体がマエストーソという名前なところも変。結局同じような音量で平坦なまま、祝典主題の何度目か回想であっさり終わる。まあ、これもミャスの個性だが。ソロ楽器に任せる部分が多く、スヴェトラは楽だっただろう。○。


Miaskovsky: Complete Symphonie

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ミャスコフスキー:交響曲第21番「交響的幻想」

2008年05月30日 | ミャスコフスキー

スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団(OLYMPIA/仏WARNER・スヴェトラーノフ協会)CD


きわめて遅く沈潜した晩年スヴェトラーノフ的な表現で、ねっとりしたフレージングはきかれるけれども力がなく楽想変化もぎごちない。オケが余りにぼろぼろで迫力がまったく出ないのだ。弦のプロとは思えないバラケ具合にはスヴェトラーノフの傷心を想って余りある。求心力がないのは解釈のせいでもあろうが、この短い単一楽章交響曲はミャスコフスキー晩年の凝縮されたロシア節がもっともよく現れたものの一つであり、この雑で稀有壮大傾向な演奏では長所が殺されてしまう。スヴェトラーノフの響きは統制された冷たく透明なものを志向しておりミャス晩年の理知的傾向と合致した思想があるように思うが、テンポが弛緩しすぎているからオケがだらけて却って演奏の個性を殺すほうに動いてしまっている。無印にせざるをえない。のんべんだらりとした演奏。


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ミャスコフスキー:交響曲第6番「革命」

2008年05月02日 | ミャスコフスキー
○N.ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団、交響合唱団(DG)1998/8・CD

スヴェトラーノフの交響曲全集録音(ロシア音楽アンソロジー)がついに2008年6月再版される(後日修正:ワーナーの協会正規盤でした)。6000円台という値付けは昨今のロシアもの復刻の流れからすればいつかは、と予想されたものだとはいえ、高額な「ボックス限定版」や単発CDを買い集めた向きにとってはかなりショッキングだろう。9曲程度ではない、27曲もの交響曲全集の廉価復刻というのは大きい。しかしこれで晴れて皆がミャスの「とりあえずの」全貌を容易に俯瞰できるようになる。その耳で聴き、その頭で判断できるのだ。他人の言説の継ぎ接ぎで「聴いたフリをして」論じる必要もない。皆が「聴いて言える」ようになることが、逆に楽しみである。
Miaskovsky: Complete Symphonie

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ヤルヴィはやはり要領一番の指揮者である。今やネーメとつけないとややこしいことになってしまうが、依然としてかつてのようなスマートですぐれた技巧を示す演奏振りを見せてくれている。もちろんこのような「そつない」指揮者は実演で判断しないとならないのだが。この録音も引いた様な解釈ぶりが「つまらない」と判断されるようなところは否定できない(スヴェトラのアクの強い演奏に慣れていたら尚更)。前ほどではないが時おりライヴ放送や実演の機会もある指揮者だ。
Maskovsky: Symphony No. 6

Deutsche Grammophon

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1楽章。軽い響きで要領のいいこじんまりとしたまとめ方は、スヴェトラやロジェストの向こうを張って西側オケにより東側の珍曲を録音し続けた頃の夥しい音盤群から得られる印象とさほど変わっていない。ORFEOのグラズノフに非常によく似た聴感の演奏振りである。ハメを外さず中庸で聞きやすいが、音響的に拡がりがなく、ホール残響があってすらミャスの素朴な書法がどうしても露骨に聞き取れてしまう。この時期のミャスはもっと解釈者がケレン味を持ち込み血肉を盛り付け方向性を明確にしないと、単調でわけのわからないまま、形式的に骨ばった「交響的大蛇」を聴かされる気になってしまう。数少ない楽想をミャスコフスキーらしい文学的・劇的欲求を満たすべく極端に伸縮させ交錯させる音楽にあって(劇音楽的背景があるのならテキストを残して注釈すべき部分ではある)、アンサンブルは緊密であるのに、指もよく動いているのに、正直飽きる。珍曲を職人的演奏家がさばくときにありがちな感じというか、なまじ巧いだけに曲の悪い部分も思い切り聞こえる演奏になってしまい、価値を却って低く印象付けてしまう、ちょっと厄介なたぐいと言えるかもしれない。

2楽章は事実上スケルツォのプレスト楽章。曲がイマジネイティブで変化があるため1楽章より入り込める。三部形式のトリオでセレスタと弦が奏でるなだらかな音楽は澄み切った殆どRVWの教会音楽で、フルートが雰囲気を壊さないようにスラヴィックなメロディを奏で出すあたりはミャスの最良の部分をヤルヴィの音感とテクニックが忠実に繊細に紡ぎ出し成功している。スケルツォ再現で断片的なテーマが交錯しシンバルで〆られるあたりも実にスマートできっちりしている。

3楽章アンダンテは一番謎めいていて、陰鬱な1楽章末尾に回帰してしまう。1楽章第二主題の延長上に甘美な主題もあらわれるものの、2楽章中間部も含めての中から寄せ集められた断片が気まぐれに連ねられていく。難解でやや机上論的な音楽が進み、ミャスの緩徐楽章は独自の旋律が一本しっかり立てられていないとこうも散文的になってしまうのか、という悪い見本に思える。だがヤルヴィが力を発揮するのは俄然こういう「人好きしないのにロマンティックな音楽」である。そつなさが長所に感じられるところだ。独自のと言えば甘美なメロディがまるで世紀末音楽的に・・・書法的影響が指摘されるスクリアビンやよく言われるところのマーラーのように・・・現れて、2楽章のトリオに繋がるところは非常に繊細で美しく描かれている。

終楽章はまるでハリー・ポッターのように能天気な引用革命歌2曲から始まりミャスらしくもない明るさがあるが、虚無的な不協和音を軋ませる半音階的進行がハーモニーの下部に聞かれるのもまたミャスらしさだろう(スクリアビンやグラズノフのやり方に既にあったものだが)。暗さはミャスの多用する「長い音符の伸ばし(弾きっぱなし、吹きっぱなし)」の下に、「怒りの日」の主題がハープとバス音域のピチカートで挿入されるところで反転して表に出る。世界が暗転するこの部分でもヤルヴィは注意深いが、その洗練された手腕がややミャスの「匂い」を抑えるほうに行っているのが気にはなる。既に3楽章で暗示されていた「怒りの日」の主題すら耳をすまさないとちゃんと聴こえなかったりする(この終末論的な曲では重要な提示だ)。この楽章には他にも聖歌引用などが交錯し、音楽的というより文学的な分析を施さないとわからない部分も多い。とにかく音楽がどんどんおさまっていくことは確かである。「怒りの日」から美しい音楽が展開されていく。聖歌「魂と肉体のわかれ」がクラによって提示され、簡素なRVW的世界が回想されたと思ったらまた引っくり返され珍奇なパレードのような革命歌によって再現部が構築される。「怒りの日」をはじめどこかで聴いたようなフレーズも織り交ざり、だがどんどん低音になっていき、宇宙的な深淵の中に無歌詞合唱がムソルグスキーのような響きのバスクラを従えて入ってくる。聖歌の再現である。しばらく合唱曲のような状態が続いた後、その歌詞に沿ったような運命論的な結末へ向けて、1,2楽章からの美しい引用が余韻をたっぷり残した後奏のように響く。ヤルヴィは実に厭味なく清清しい音楽に仕立てているが、本来はもっと「気持ちの悪い感じ」の残るものである。○。
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ミャスコフスキー:交響曲第5番

2008年02月27日 | ミャスコフスキー
◎ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立交響楽団(revelation)1982/2/12・CD

非ロシア的な先鋭さをはなちシベリウスの交響曲に匹敵する霊感が独自の方法論とあいまって完成された見事な作品。1楽章冒頭より奇妙な揺らぎをもつ主題が、大きなハーモニーのよろめきの上でフランス風の不安定な魅力をはなっている。独逸墺太利の匂いが抜けたわけではないが殆ど感じさせなくなっており、ミャスらしい語法のはなつ体臭もここでは灰汁抜きされ、更にロジェストの手によって20世紀的な硬質な響きの中に聞きやすく昇華されている。アメリカ音楽的ですらある。オケの中低音がしっかりしているので楽曲の構造的な弱さも目立たない。2楽章は繊細なディーリアスのような楽章で(きわめて半音階的なメロディを使えば容易に作れるたぐいの音だが)、冒頭の高音トレモロからして美しく、主題がロシア民謡ふうの暗い筆致でかかれていても、音の少ない心象的な流れの上ではあくまで叙事詩的表現の最小限度の発露のようにとらえられるのみだ。ロジェストは弱音表現ではとても研ぎ澄まされた空気感を演出するが、クレッシェンド過程で少し雑味を呼び込んでしまっている。だからどうもペット以下とくにロシア的な楽器の主張とともに、せっかくの「汎世界的価値」がローカリズムに戻されてしまったような残念さが残る。終端でグラズノフ8番に通して使われとくに二楽章に象徴的に使われた暗い分散和音がちょっと入る。意味深だ。三楽章は民族的な舞曲だがやはりソヴィエトの素朴な民族音楽というよりはルーマニアの先鋭な作曲家の抽象化された国民楽派音楽を彷彿とさせる。ダイナミックで洗練された、アメリカ・アカデミズムのようなからっとしたもの。響きが新しい。終端の響きの美麗さはロジェストのわざのなせるところだろう。四楽章はあきらかにソヴィエト・アカデミズムに沿ったような曲想でロシア産交響曲の終楽章ということを意識した作りに見せかけており、いつものミャス節が顕露する。だが細かい音符で込み入った変化をつけ、けして先例と同じ方法論で片付けようとはしていない。皮肉な調子の行進曲主題は親友プロコを思わせ、闘争的で常套的な主題との対比を見せている。ブラスが無理やり「ソヴィエト」を主張するものの、何か腹に一物ある、そういった楽章だ。ほぼユニゾンの末尾はいつものミャスだが、ロジェストは臭くならないように開放感ある清新な響きを強調し、見事に収めている。
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ミャスコフスキー:交響曲第1番

2008年02月22日 | ミャスコフスキー
○ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立文化省交響楽団(REVELATION他)1986/3/10・CD

西欧折衷派らしい世紀末中欧ロマン派交響曲!書法はしかし単純なメロディ+ハーモニーで構造的なものはなく初期らしい生硬さをみせる。スヴェトラのように音響バランスの悪さや体臭がなく、曲そのものを客観的に聴ける。気持ちの悪い半音階的進行も目立つが清々しいミャスコ節が既にあらわれており、ワグナー+ブルックナー的な世界の中に初期シベリウス的な単純美が光る。言い淀んで先に進まない長長しい感じはいかにもロシア交響曲でもあるが、ロジェストヴェンスキーならではのリズムの強さと表出力で、通して聴かせる演奏にはなっている。
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ミャスコフスキー:交響曲第21番「交響的幻想」

2006年06月15日 | ミャスコフスキー
イワーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIA)LP

なぜか伝統的にソヴィエト国立系のオケが録音することになっているミャスコフスキーのシンフォニー。しかしこの録音は悪いうえにメリハリがなく地味である。音も薄くて迫力がない。わけわからない感じがする。スヴェトラも評判がよくないし、ロシアオケよりまとまりのよい西欧オケに向いているかもしれない。
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ミャスコフスキー:交響曲第5番

2006年05月25日 | ミャスコフスキー
○イワーノフ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP

ミャスコフスキーが半音階的なうねうねした音線と不思議に複雑?な和声とリズム等民族的要素のミクスチャーにより、独特の作風を確立した作品として特筆すべきものではある。ベートーヴェン指揮者で知られたイワーノフの力強い求心力と「やるときはやる」モスクワ放SOの実力がここに見事に結実している。作品的にもミャスコフスキーにしては(特に後半楽章)変化があり面白く、また冗長さも若干軽減されたものなのだが、こういうしっかりとした演奏で聞くとまるで別の作品に聞こえる。ミャスコフスキーの20番以前の交響曲はCD時代には無名指揮者かスヴェトラ先生(ロジェヴェン先生も録音してたかな)の演奏でしか知られることがなく、共に一発録りなどセッション時間がとれなかったせいか、乱雑だったり解釈に一貫性がなく(特にスヴェトラーノフの場合オケのソリスト重視の姿勢や時期的な弱体化はもちろん、独特の録音と特有の解釈ゆえ、曲の「本性」が見えず印象の好悪を分かつものになっている)拡散的な演奏になってしまっているがゆえ、不当な悪評価を与えてしまっていることが多いように感じる。イワーノフはミャスコフスキーをいくつか録音しており、私も全てを聞くことはできていないが、この作曲家についての先入観を覆す「意外と面白い交響曲を書く」印象に遷移することができた。発掘しがいのある作曲家であり、スヴェトラ先生が全集を録音で何とか残したがったのはわかる気がする。この曲について言えば西欧からの影響度を含めラフマニノフの1番の雰囲気によく似ている。フィナーレの最後などラフ3そっくりなフレーズも顔を出す。ラフマニノフの2番は別格にしても、他の管弦楽曲と比して決して劣るものではない。3楽章の民族的な浮き立つ雰囲気もペトログラード楽派風に前近代の常套手段に訴えるだけではなく複雑な要素をはらんでおり(やりようによってはわけがわからなくなるだろうが)、一筋縄じゃいかないところにプロコフィエフも共感したのだろうか。いずれにせよ、これは○だ。ミャスコフスキーというくくりで言えばオーマンディの21番に並ぶ◎。珍しく飽きない名演。
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