湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版)

2018年02月05日 | グリエール
○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1964live

モノラルなのに物凄くステレオ的な演奏で「あああ」と歯がゆさを感じる点の多い煌びやかな演奏。後年のものと余り変わらないが、やはりこのオケの音は拡散的で、末流ロマン派の肥大化した音楽をやるときに必要な構築的な身の詰まった演奏様式というのがないがゆえに、ちゃんと短縮版としてまとまっているのに、どこか散漫な印象をあたえてしまう。もちろんストコはフィラデルフィアでもこういう音を求めていたのだし、表層的で派手なのは(曲も曲だし)仕方ないのだが、まあ、NYPのほうが正直しっくりきた。まずまず。○。

※2006-10-31 17:56:09の記事です
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☆グリエール:交響的絵画「ザポロージュのコサック」

2017年09月22日 | グリエール
○ラフリン指揮ソヴィエト国立交響楽団(melodiya)LP

思いっきりロシアロシアした重厚な出だしから「シェヘラザードかよ!」というような旋律とハーモニー展開。リムスキー節を抜けるとロシア民謡のバレエ音楽的数珠繋ぎ。ラフリンは引き締まったアンサンブルを展開するがロシア劇音楽的な感情をいかにもロシア流儀のアゴーギグで表現している。一くさりカリンニコフかチャイコフスキーか晩年プロコかという民謡表現がすぎるといったんリムスキー主題が戻るが、このあたりのコード進行にグリエール独自の新しい表現が聞き取れる。グリエールはソヴィエト下で作風を穏健な方向に変化させてしまったとはいえ、リスト・ワグナーの衣鉢を借りて完成したロシア国民楽派の管弦楽の方向性を積極的に維持したという意味ではグラズノフ以上に右寄りな立場にあった。この作品も「穏健」というよりグリエールの世紀末的作風の昇華と聞き取れる。憂愁の民謡・・・チャイコだ・・・からふたたび冒頭主題に回帰して終わる。ラフリンはつかみ所の無い指揮者ではあるが聞いているうちになんとなくその立ち位置がわかります。いかにもロシアな人。○。

※2006/9/23の記事です
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☆グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版)

2017年09月13日 | グリエール
○ストコフスキ指揮クリーヴランド管弦楽団(vibrato/DA:CD-R)1971/6(5?)/19live

NYPはともかく他の比較的軽量級の音を出す職人オケになるとストコはいささか表面的でやかましい音作りだけをする人になってしまう。アメリカ交響楽団のモノなどまさにその面で賛否あると思うのだが、この演奏録音はステレオという点で比べて1長はある。しかしどうも放送ホワイトノイズが常に入り続け、放送ならではの左右の不安定さもあって、明晰なのに印象が悪い。聴感が軽くて、イリヤ・ムーロメッツの末流ロマン派的なドロドロがひたすらドラマティックで煌びやかな音楽に昇華されてしまい、帝政ロシア時代交響曲好きとしてもマーラー好きとしてもどうも腑に落ちない。また今更の指摘だが4楽章の大カットで「一番の見せ場」となるドラマティックな弦・ブラス転調の一節(スコアがないので明示できませんが、指摘箇所がどこかはてきとうに想像してください)が上り詰める直前でカットされ陰鬱な終盤にワープするという非常に「うわああああああ」というところがあり、これってストコ、前からそうだったっけ?とか思いつつも、これじゃちょっと4楽章聴かせどころ半減だよ、と結局○ひとつに抑えておくのである。気分的には無印。vibrato盤(裏青)には5月との表記あり。未聴だが収録内容がほぼ同じため同一と思われる(同レーベルはDAとよくだぶる)。

※2006/10/31の記事です
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☆グリエール:ハープ協奏曲

2017年07月28日 | グリエール
○ツォフ(hrp)ケンペ指揮ライプツィヒ・フィル管弦楽団(URANIA)1950・CD

じつに国民楽派的な協奏曲でドヴォルザークが書きそうな調子になんとも鈍重なハープが太い旋律をきざむ。しかしグラズノフほど個性というマンネリズムに籠囲されておらず、ハープの魅力を引き出すかどうかは別として、聴いていてストレスのない娯楽作品である。この演奏はひときわドヴォルザークを思わせる。オケの音色のせいか、ソリストの奏法のせいか。民族の生臭さがなく、だが、ロマンチシズムを濃厚に漂わせる。○。

※2010/2/24の記事です
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☆グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」

2017年05月08日 | グリエール
※2005年の記事です

○ゴロフチン指揮ロシア国立交響楽団(russian disc)1993/10・CD

ロシア盤の供給量は昨今不足してきていると言われてきた。

特に顕著なのは中古LP盤の世界で、値付けが勝手にできる手前、現在では本国業者へ買い付けに行くと日本の業者と見られた瞬間(こんな買い付けをするのは日本人しかありえないわけだが)足元を見られ法外な値段を要求されるものだから、余程高値がつく目論見のものでない限り手が出せず、一品一品選んでいく余裕のある個人副業者でもない限り、とても大量箱買いして輸入するわけにはいかなくなっている。国内の出物頼りしかなくなったのが現状だ。しかしLPマニアは「愛情をもって」音盤を抱え込むので、結果的に大した盤は流出しないから難しい。亡くなったマニアの遺族による処分頼りと言ってもいいかもしれない。

LPと並行してCDにも品不足の波が来た。これは旧ソ連体制崩壊によりメロディヤとその独占販売代理店(輸入代理店)という供給ルートもいきなり崩壊、国策頼りの経営が立ち行かなくなった供給元からの新譜が数年でガクンと減り、一方ロシア音楽家の海外活動が完全に自由になったから、特に亡命してくる音楽家を受容した欧米諸国では音盤に頼らずともロシア流儀のナマの演奏に簡単に触れられるようになったこと、更に世界的なクラシック音盤市場の衰亡がとどめをさしたのだった。

それでも室内鑑賞が主流であるマニアック金満大国日本での異常な(遅い)ロシア音楽ブームがしばらく持続していたため、それをあてこんで、混乱するロシア(+海賊盤大国)の群小俄かレーベルがメロディヤや放送局音源を安く手に入れ復刻して大量に送り込んできた時期が更に続いた。しかしわけのわからない演奏家や作曲家のものや古くて音の悪いもの・・・でもマニアには堪らない往年の名演奏家のものだったりもしたのだが・・・ばかり出てくるようになって結局、インフレ状態に陥り返品地獄、ほとんどの会社が企画も半ばで雲散霧消してしまった。中には計画的にいきなりばっと売って消える会社もあったが、とにかく10年弱前、そういったロシア音源の大量供給にいきなりドスンと緞帳が下げられてしまった。

その状態が産んだのがロシア盤CDの極端な高騰化である。それまでは余程のレアものでない限りCDにプレミアがつくなんて有り得なかった。複製の簡単な、元手のほとんどかからない安っぽいCDなんてバカげてる、どうせいつかまた誰かに簡単に復刻されるだろうというのが、そもそも元手もかかるLP(とその音質)に「愛情を持っている」古いマニアの見方だったのである。

だがそれ以前にバブル崩壊後の焼け野原にいきなり参入してきた大手海外チェーン店の仕掛けた大々的な輸入盤ブームがあり、そこで掴まれた新しい若いファンというのがいた。話が前後するが彼らが寧ろロシア盤CD需要の中心にいたと言ってもいい。彼らは生にせよ音盤にせよいきなり聞いて掴まれたロシア音楽ロシア演奏家に狂喜し、その音盤大量流入の渦で所謂「ムック本評論家」の言うがままに踊り狂い、その踊りに更に沢山の追随者が巻き込まれ、盛大なレイヴパーティが繰り広げられるようになったところにいきなり「ハイおしまい」と言われたものだから堪らない。この種類の人間は世代的にCDにプレミアがつく、ということに対しても余り抵抗感がない。僅か5年前、しかも大手チェーン店頭で発売されたCDであっても、その当時まだ「踊り」に巻き込まれていなかった遅れて来たマニアは、今現在まったく手に入らないという状況に戦慄し中古CD屋に走った。

マニアはそもそも自らの力量を省みない無謀な行動に出るもの、信じられないような高値にも手を出す輩が沢山出てきた。私も新しいマニアではないが「踊り」の時期にまったくクラシック音楽から遠ざかっていたためこの中に入ってしまったのであるが・・・。そこに決定打として現れたのは「ネットオークション」というシステムである。元手が1000円の盤に4万以上の高値がつく(大手レーベルのものであってもだ)こともざらなこの世界、金に糸目をつけない無謀なマニアは、売れなくて店頭から引き揚げられた類いのマイナー作曲家のマイナー曲でも、ただネームの大きい演奏家のものであれば食いつくほどに飢えていた。群小レーベルと言うには余りに大々的な活動を繰り広げていたロシアン・ディスクの端盤が1万円以上の高値で落札される時代になったのである。メロディヤ再発(CD化)レーベルであるレベレーションなど元々売れなくて企画自体が存続できなかったためレア度が高く、最低落札価格1万円でのっけてくるネットオークション業者まで出てくる始末だった。

だが。

やはりCDというのは水ものである。そんなマニアの存在を知り二匹目の泥鰌を狙う個人再販(再々販=転売)業者と、とりあえずあの時期に買っておいたが一回聞いてほっておいた類いの個人によって、逆に供給過剰の状態が来るのもそう遅くもなかった。でもそれでも、群小レーベルの時期にしか「CDでは」出ていなかったものにはそれなりの需要があった。もっとも、LPマニアの話でも触れたとおり、マニアが本当に欲しい真のレアものは全くといっていいほど出なかった。抱え込まれたままだったのだろう。

そこに遅ればせながら目をつけたのが大手業者である。ネット配信時代になってCD市場はもう全体的に衰亡、下手すると存続の危機にすら陥っている。クラシックのような元々衰亡の過程にある分野なら尚更だ。特に実店舗を構える小売店は切実で、CD-Rによる海賊盤的な再発モノの輸入開始に始まり、ロシアを含むほうぼうの国へ在庫買い付けの手を必死に伸ばした。その結果、掘り出し物が出てきた。

今年初め、ロシアからある意味朗報、ある意味ガッカリするニュースが飛び込んできた。

ロシア盤の大量在庫が見つかったというのである。しかも価値ゼロとみなされているから殆ど言い値で買える。日本の業者(海外チェーン店含む)はこれに飛びついた。買いあさった。そして店頭やカタログを飾るタイトル、それは

ロシアン・ディスクとレベレーションだった。

・・・販価は最低で700円、元々最初に売り出されたときには(当時一般的な輸入盤価格だが)2500円前後だったものだ。これは当時買わなかった人も買いである。それどころか、オークションで1万円もしたものすら、700円。尤も前記した「真のレアもの」はその在庫の中になく、また業者によって買えたタイトルが微妙に違うので、販価にもばらつきはあるのだが、それにしてもこれは、価格破壊というか、あの高騰期は何だったんだ、というところである。更に最近はヴェネツィア等の超廉価盤レーベルが破格の値段でロシア音源の復刻を続けており、今のところはオリンピア経由で出たような割合一般的なメロディヤ盤CDの復刻モノだけであるが、群小が出した類いのレア音源やマイナー作曲家にいたるのも時間の問題、というか、既にグローブのような個人レーベルに近いものが出したライヴ音源も含まれていたりする。個人ネットオークション業者が店じまいするのもさもありなん、更に、一時は騙り業者まで出たオリンピアやメロディア本体の活動再開、ロシアン・ディスクもぼつぼつ新録音だけではあるが販売を再開しつつある(名前だけ借りたアメリカ在の別業者という話もある)。しかも価格は1000円前後というナクソス価格だ。確実な販売を重視した結果の値ごろ感なのだろう。

私も自戒することしきりだが、変な流れに巻き込まれ吹聴に踊らされ、自分が本当に聴きたくて、「自分にとって」本当にいい音楽とは何なのか、マニアは冷静になって常に考えながら収集鑑賞をゆっくり楽しむ余裕を持つべきだな、とつくづく思う。

前フリが長くなったが、なぜこんな話をしたかというと今回取りあげるのはそのまさにロシアン・ディスクの再発盤だからである。1000円以下。指揮者はネームだけは轟いているゴロフチンだ。ナクソスの無闇な録音群のせいで、ヘタクソで愛情のないやる気ゼロの無能指揮者と誹謗マニアからのサンザンな評価を受けている指揮者だが、なんなんだろう、ロシア人はこういうものだ、と決め付けて、その狭い枠に納まらない解釈を得意とする指揮者を徹底的におとしめる、なんだかいかにもクラシックマニアの偏狭さを象徴するような言説でゲンナリである。

元々叙事詩的な壮大さが必要な楽曲だ。短絡的な起伏ある演奏であれば勿論面白いことは面白いのだが、そもそも一つ一つの細かい曲想が魅力に溢れているものだから、マーラーの作品でそれが当然のように受け容れられているように、客観的に響きの美しさと丁寧な造型を追求した演奏も許容する素質が十分にある曲である。それでもここで今まで触れてきた演奏の中にもあったと思うが、ほんとに客観的すぎてぼんやりとしただけののっぺらな演奏もあり、ここをいかに巧妙に繊細に聞かせるかが解釈とバトンテクニックの見せ所といったところだ。オケの力量もかなり要求される大規模な曲ではあるが、余りオケにがならせてしまうスタンスだと静かで長い楽章などは激しい楽章とのコントラストで飽きてしまう。ここの手綱さばきも単純には語れない。個人的には抑制も必要だと思う。

そしてゴロフチンだが、かなり落ち着いている。でもぼんやりとものっぺらとも感じない。美しいし、そこには威厳がある。叙事詩としてのまさに壁画的な壮大さと重心の低い響きのかもす迫力もある。このテンポで欠伸が出る、という向きは単に「解釈に向いていない」だけだろう。曲に向いてないのかもしれない。ゴロフチンも一応長々しい完全版を使っている。シェルヒェンの完全版による演奏の1楽章で欠伸が出た私は、ゴロフチンの1楽章ではちっとも欠伸が出なかった。

どういうことなのか。造りの妙なのである。物語であり劇音楽であり、楽劇的な楽曲構成をとってはいるもののこの音楽には印象派的な「雰囲気を楽しむ」という聞き方が要求される側面があり、主として意外と新しいハーモニーの揺らぎにかかっているわけだが、ゴロフチンはそれをよく捉えているのだ。シェルヒェンは即物的に盛り込んだドラマが却って単調さを感じさせる結果になっている。そうだな、ゴロフチンを貶める人にクレンペラー最晩年のどんな曲でもいい、ライヴ盤を聞いた感想を問うてみたい。クレンペラーにこの妙技ができただろうか。単純にテンポの遅さと単調さという面でも、演奏の不具合という面でも、ゴロフチンより更に分が悪くなったであろうことは自明だ。でもクレンペラーのほうが素晴らしかったはずだ、そういうふうに言う人がもしいたとしたら私はもうその人の言うことは信用できない(個人的に、と断っておく)。

音楽はマクロで捉えるべき部分とミクロで捉えるべき部分がある、私は意図的に最終的なマクロでしか語らないがそれはあくまで「聞く側にてっする」という前提でやっているからである。音楽作りは基本的にミクロの積み上げで行っていくものだ。それが結果、瞬発力だらけのガラクタの山になるのは単なるシロートである。どんな無名指揮者でもアマチュア指揮者でも、ミクロの積み上げを「マクロの解釈」の上に緻密に緻密に行っていく作業をオケに対して施す。オケの技量によりそのミクロのある段階までは既に出来上がっていることも多かろうし、これは回数が必要とか細かい指示が必要とかそういう杓子定規なものではない。

その「マクロの解釈」を構成するのがまた「ミクロの分析」である。交響曲は単なる一つの富士山ではない。解釈は山一つこさえればおしまい、じゃないのだ。音楽は一連の雄大に連なる山脈であり、そこには無数のキレットやピークがある。鎖場もあればザイルに頼る場所もあり、一歩一歩歩かなければ決して先へは進めない。地図読みを誤れば稜線を踏破することは不可能だ。その一つ一つの細かい機微を如何に鮮やかに自然に描き出していくか、これは非常に重要なのである。クライマックスはその山脈の盟主と呼ばれる一ピークにすぎない。富士山型で考えるのは聞くだけ主義のオキラクマニアだけである。ここでいう地図読みこそがスコア読みである。

体力と気力さえあれば地図なんて見ないでもおてんとさまと地形で乗り越えていけるわ、なんて言って事実やってしまえる者も中にはいると言われるかもしれないが、世に巨匠天才と呼ばれる人間でも殆どの人は寝る間も惜しんでスコアとにらめっこだ。聴く人間はもちろん、演奏する人間一人一人に或る程度の納得を与えなければならないし、かといって自分自身の理想もあり、そういった様々な観念的なことを、「至極合理的な論理に従って出来上がっているスコア」という設計図の上に具現化させていかねばならない。それはゲイジュツだとか何だとかいう前に非常に困難な「作業」である。クレンペラーに対する中傷的愛情を書いておいたが、そのクレンペラーでさえ全裸でマタイのスコアに没頭し来客にいきなりその話をもちかける、そういう人だった。指揮者マーラーが音楽のことを考え出すと他の何もわからなくなり奇行を繰り返す、その表象だけをもって精神的な問題を指摘するヤカラが100年たってもまだ多いが、本来音楽、しかも大規模管弦楽曲とはそこまで追い込まれるほどに、数学的にも美学的にも突き詰めて分析して構築していかなければとうてい造り上げることのできない大変に膨大な情報をはらむものなのである。テクニックと人心掌握術だけで切り抜けているように見える人だっているが、彼等の裏の努力を見抜く目のない人はまあ幸せである。唯いきなり指揮台に上がり腕を上下させて思うが侭に音楽を操ることができるのが指揮者、なんて幻想だ。もしくは想像を絶する長くて厳しい経験を積んだ老練な指揮者の「結果」だけを見て誤解しているにすぎない。ステージ上の全員が暗譜で指揮者も団員も歌手も裏方も皆知り尽くしている、そういった小曲や単純な曲でもなければ、増してや交響曲なんてどえらいものを音楽に纏め上げるのは無理である。

実際に音を出す演奏家にいたってはその五指をそれぞれ適切な角度で適切な圧力で絶妙なタイミングで鍵盤や弦の上に載せる、そういった一つ一つのミクロな作業を積み重ねないと音楽は作れないわけで(あたりまえだ)、しかも指だけではない、唇も喉も胸も腹も両腕も脚も体全体も同時に一つ一つ動かし全てを複合的に積み上げていくことが必要とされるのだ。個人個人パートパートセクションセクションソリストソリスト、全てのミクロをコンマスらの力を借りてまとめあげるのが指揮者の役目、晩年のクレンペラーにはミクロに配る気力体力が最早なく団員の記憶に基づく理解に支えられて演奏を進めなければならなかった。だが若い指揮者には気力も体力もある。ミクロなくしてマクロはなし、マクロなくしてミクロはなし、そういったことを考えたときに、ゴロフチンにその片方がない、ともすると両方共がないというような言説を投げかける人に、この演奏を聴いたうえではとくに、私は強く異議を唱えたいのである。

久々の更新なのでちと書きすぎました(w)この演奏にはオケのロシア的な雑味に関しても極力抑えようという意図が聞き取れる。音色やアンサンブルの「乱れ」に聞こえるものはロシアの演奏家の、特に古いタイプのものを聴いてきた人間であれば、彼等特有の「クセ」であり、この程度はむしろ全然許容範囲と思われるだろう。ゴロフチンのカロリーの低いのは認めるが、この曲にはあっていると思う。世紀末爛熟音楽に更にバターを乗っけてケチャップをかけるのは舌(耳)がバカな証拠、じじつこの曲に限って言えば、そこまでコテコテの演奏というのは無い。時間がなくなってきたので補記したくなったらまた補記するが、結果として、○である。聞き易い演奏、と付け加えておく。
Comments (2)
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☆グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(全曲版)

2017年04月21日 | グリエール
○ラフリン指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(RUSSIAN DISC)1974・CD

ラフリンはウクライナ出身のユダヤ系で、キエフを中心に活躍したソヴィエト時代を代表する指揮者の一人。ショスタコーヴィチの初演で知られる雄渾系指揮者だ。1933年ムラヴィンスキーに次ぎ第1回全ソ指揮者コンクール2位に輝いて後全国的な活動を始め、第二次大戦中はムラヴィンスキー後のソヴィエト国立交響楽団を率いた。1966年カザンにタタール国立管弦楽団を組織、1979年に没するまで音楽監督として指導にあたっていた。この演奏は前半が聞き物。1楽章から大変磨き上げられ引き締まった演奏ぶりでびっくり。ブラスの響きなどロシアそのものだが、例えば色気ムンムンであるはずの2楽章などこれがグリエールか、というくらい立派で清潔な音楽になっている。でも雄弁でダイナミズムは失われていない。民族性や爛熟ぶりを過度に煽ることがなく、非常に真摯な曲作りは胸を打つ。ワグナーからの影響を強調するかのようなドイツ指向なところもロシア臭さが感じられない要因であろう。3楽章はテンポが遅く客観的で美に徹しているかのよう。この最もロシア的なスケルツォをこうやってしまうのもラフリンの個性か。いずれにせよこんな3楽章初めて聞く。再現部になるとだいぶ盛り上がりが戻ってくるのだが。終楽章はロシアオケの響き全開でやってくる。だが肝心の所で音外しがあったり、うねるような曲想の起伏が今一つパッとしないなど、ちょっと落ちる感がある。締まった表現はいいのだが、全編のフィナーレとしてはいささか一本調子ではないかとも思う。回想シーンなどの聞かせ所が浮き立ってこない。長いからそれだと飽きる。それでも雄渾さと緊張感は最後まで持続し、人によってはしっくりくるとは思う。あとは色彩かなあ。ちと単彩。総じて○。
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☆グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版)

2017年03月21日 | グリエール
◎ストコフスキ指揮NYP(DA:CD-R)1949/10/23live

やや録音が辛いがNYPならではの覇気とボリュームのある音で前進的な演奏が展開される。この曲はこのくらいの長さが聞きやすい。ストコは常にわかりやすく、かつ劇的に音楽をドライヴしてゆく。それはマーラーを演奏するかのような態度だ。攻撃性という面がストコの演奏様式の中に確かにあるが、それは金管の追加とか打楽器の追加とかいった部分だけにとどまらず、弦楽器の演奏方法についてもかなり厳しく律しているようなところがみられる。フィラ管の艶やかな弦はストコが創り出したというのは有名な伝説だろう。イリヤ・ムーロメッツをNYPという一流どころで聞けるだけでも嬉しいではないか。チャイコを聴く感覚で聞ける作曲家公認短縮版。相対的に◎。
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☆グリエール:序曲「フェルガナの休日」

2017年03月08日 | グリエール
○コンドラシン指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP

まるでアメリカ音楽のようなけっこう清新な出だしからおっと思うが、すぐに伝統のロシア節に行く。コンドラシンらしい響きの派手さは冒頭でしか生きていないようにも思うが、ブラス陣のロシア吹きやヴァイオリンのロシア式フレージングがかなり明瞭に発揮される。一種コンドラシン・モスクワ放SOとは思えない、スヴェトラのような趣さえある磊落な演奏ぶりは、バラケ具合含め少し不思議だが面白い。それにしても私は多少飽きたが、曲想が豊かな展開を得て面白く聞ける曲ではあり、ロシア好きなら堪らない曲だろう。もんのすごくわかりやすい旋律がアメリカ的な明るい展開をしていく場面にはリムスキーの中央アジア節が根底にありながらも新しい世代の意地がまだ残っている点興味深い後期作品。最後のたたみかけはコンドラシンらしい。このあたりの妖しいコード進行も前期から途絶えずのグリエールの個性だなあ。
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☆グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」

2016年09月26日 | グリエール
〇ラフミロビッチ指揮ローマ聖チチェリア音楽院交響楽団(EMI)1949/3ローマ・CD

初録音盤とあるがアメリカ初演者ストックもストコも部分又は短縮版ではあるが戦前に既に録音を遺している。この指揮者は比較的若くして亡くなってしまったので余り知られていないが、アメリカ20世紀前半における俊英の一人としてそれなりに名のある存在である。ロシア出身であり極めて少ない録音記録のほとんどがロシアものである。キャピトルに遺されたのは何れも聖チチェリア音楽院管との録音で、結局イタリアからの帰途の船上で亡くなったためジブラルタルをのぞむ場所に葬られることになったのだが、このオケには珍しいレパートリーは演奏史上独特の位置を占めるものといえる。

演奏スタイルは剛速球型でガウク的な突っ走りかたが楽しいが、復刻によってはその力感が伝わりにくい。何せ元が戦中戦後の古いものであるから復刻のさいの雑音除去によって生々しさが大きく害われかねない。このCDはまさにそのたぐいのものであり、できれば音量を最大にして短距離走的な烈しく揺れないスピードや2楽章のむせ返るような弦の音色の饗宴に耳を傾けていただきたい(イタリアのスクリアビンってこうなるんだ!)。颯爽としたテンポは感傷がなくスマートで清潔、だが力強く推進する音楽は、トスカニーニとも違うロシアの荒々しさを(人によってはだらしないと言うかもしれない縦の甘さ含め)内に秘めており、「人ごとではない」思い入れも意外と感じさせるところがあり、なかなか聞かせるのだ。歌心は輝かしさを放ちイタリアオペラでも演歌でもない美しい命を感じさせる。線の細い音が曲の迫力を減衰させている面は否めないが、非常に構造的に演奏しているため薄さは感じない。対位的な動きを鮮やかに浮き彫りにしてみせた3楽章後半は聞きものだ。短縮版を使用しているため物足りなさを感じるところもあるがこれも演奏の余りの充実ぶりの裏返し、もっと聞きたかった、である。響きの凝縮ぶりはモノラルだからというだけではない。曲への理解の深さと高度なテクニック、コントロールの上手さ、アメリカの指揮者と言って馬鹿にしたら損をする。この指揮者がタダモノではなかった、ということ、もっと円熟した演奏を(いささか一本調子で飽きる箇所もある)、いい音で聞きたかった。〇。
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グリエール:弦楽四重奏曲第4番

2011年10月16日 | グリエール
○ベートーヴェン四重奏団(WESTMINSTER/MELODIYA)1950年代・LP

ロシア盤は実際に出版されたか不明。ベートーベンQがミャスコフスキーとのカップリングで出したもの。演奏は緊密だが過度な緊張はなく暖かく楽しめる。初期グリエールはグラズノフの影響が強く、この曲の前半楽章においては和声や拍節構造にまるまるグラズノフ初期のカルテットと同じものが聞かれる。そしてグラズノフが初期にたまに新鮮な和音を投入してはっとさせた、それもそのまま、グリエールは倍量くらい新鮮な音を投入している。半音階的な音線にはもっと西欧寄りの洗練された感じがあり、後半チャイコフスキー的なバリエーションが綴られていくあたりでは西欧志向が随所にあらわれる。佳作ではあるがグラズノフをさらに拡大したアマルガム作曲家という性格がまだまだ強い作品。
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グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」短縮版

2010年09月05日 | グリエール
○ストコフスキ指揮シカゴ交響楽団(PASD)1958/1/9シカゴデビューコンサートLIVE

PRISTINEのWEB配信。録音は悪い。作品は十八番である。短縮版はストコフスキの依頼で編まれた作曲家自身によるもの。二楽章にシカゴの弦の鋭さが感じられる。ライナー時代のロマンチックな美しさと厳しさがそのままストコフスキに受け継がれ、とくにチェロが素晴らしい赤銅色の音を出している。フィラデルフィアなどと違った中欧的な響の厚みがとても安定した聴感を与える。木管も非常にうまく、抽象化された表現が逆に作品のワグネリアン的な部分をはっきり浮き彫りにしている。スケルツォなどややばらけてしまった。やはり中欧的な鈍重さがある。いい面もあるが。しっかり立体的だ。○。
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グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版)

2010年04月11日 | グリエール
○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(SCC:CD-R)1967/11/19LIVE

録音はややノイジー。だがストコフスキの力強さと粘り腰が活きるのはやはりロシアものなど後期ロマン派の大曲だと思わせるボリューム感と勢いをかんじる演奏で、フランス系でまとめた前中プロとくらべて説得力は強い。オーマンディのようにゴージャスながら厳しく(オーマンディはセルのようなところがあると思う)整えるよりも、拡散的な自発性を促し上手くドライブしていくため、録音としてはだらしなさや雑さを感じさせるが、ライブ感においては凌駕して強く訴えるようなものを持っている。短縮版委属者としてのストコの自信あふれる板についた表現が更にプラスされる。リヒャルトの影響の強い緩徐楽章の木管アンサンブルからコンマスソロのあたり、このオケとは思えない精度で法悦的な豊饒を示すとともに、けしてだらだら流されないテンポ、アタックの強さに鋭さが感じられる。○。
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グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版)

2008年11月12日 | グリエール
○ストコフスキ指揮ヒューストン交響楽団(EMI、ANGEL)1957/3・CD

ステレオ初期ならではの録音の不安定さがみられ、音場が左右に完全分離したり位置が混沌としたり、左から低弦が聞こえ出し次第に右に移ってくる1楽章にはのけぞった。ストコならやりかねないが単純な録音操作の綾だろう。スタジオ録音ならではの客観性、一種素っ気無さがあり、音はあっけらかんと明るく開放的な半面、憂いが無く思い入れも感じられない。直線的で山っ気がなく、爆発的な迫力もうねるような楽想の波も感じられずライヴに比べてはテンションが低く感じる。特に気になったのは緩徐楽章のスクリアビン的な妖しさが一切排されていることである。音色にもフレージングにも一切ワグネリズムの影響が出てこない。あっけらかんとしすぎて感動を得られないのは短縮版であるせいだけではあるまい。初心者には聞きやすいだろうが、民族性を求める向きには余り薦められない。
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グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版)

2008年10月10日 | グリエール
○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(DA:CD-R)1971live

エアチェックなりの録音状態。演奏精度の余りの高さと環境雑音の無さに同年の正規スタジオ録音の放送ではないかと疑ったりしたが、終演後には拍手とナレーションが入っているので(3楽章後にも拍手が入ったのをカットしたように聴こえる)いちおうライヴなのだろう。とにかく楽団が反則である。技術的にも、編成の厚さ的にも贅沢極まりない。オーマンディは1楽章においてはブラームスを思わせるリズムの引き締まった充実した響きをみせ、2楽章では初期リヒャルト・シュトラウス張りのトリッキーなソロヴァイオリンをまじえた法悦的な音楽を力強く感情的に表現する。演歌には決してならず、つねに立体構造を意識したまとめ方には西欧的なセンスを感じる。ソロ、実に巧い(超高音の音程くらいは目をつぶれ)。

3楽章からはテンポがかなり前のめりで速く、細部にはほつれらしきものも聞かれるが、録音状態がやや悪くなるのでほんとにほつれたのかどうかよくわからない。ステレオではあるが低音域が伸びず浅薄な録音になってしまっているのも惜しい。ダイナミックな終楽章はもっと鮮やかな音で楽しみたい・・・演奏がじつに鮮やかで煌びやかなのは感じ取れるのだから。近視眼的にならず全体設計をしっかり立てた上での「流されない解釈ぶり」はやや不恰好なこの終楽章をきちんと自然に盛り上がるように構成し、魅せるものになっている。ロシア音楽というよりハリウッド映画音楽のような感じがするが、むしろ聞きやすさへの配慮と前向きに捉えましょう。ひどく退嬰的な終幕もまた西欧的で泥臭さの無い洗練ぶりが聴いてとれる。オーマンディのフィラ管は野暮な崩しや下手なブヨブヨ感がなく、かっこよかった。ブラヴォが飛ぶ。
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グリエール:序曲

2007年02月17日 | グリエール
○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA)LP

これはとにかく派手!!ガウクの録音状態はかなりいいものが多いので、安心して愉しめる。曲がまたファンファーレから始まるクーチカの伝統、グラズノフの弟子たるグリエールの人好きする曲感、意外とまっとうにとりまとめてみせるガウクの手腕、なかなか面白いです。○。
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