湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

シマノフスキ:交響曲第2番

2009年03月12日 | 北欧・東欧
○フィテルベルク指揮ポーランド国立交響楽団(LYS)1947/11/2・CD

時代なりとも言えないくらい茫洋とした音だが荒々しいこの指揮者の粗雑さが和らげられ「融合的な音響」が形作られており、調和して聴きやすく、より楽曲自体の本質と思われるものが見える録音となっている。これを聴いて思うのは必ずしもリヒャルト・シュトラウスではなく寧ろフランツ・シュミットの趣味に近似しているということである。もちろん実験性の方向(後者は楽曲形式的・和声的な実験にのみ向かっていたように見える)や嗜好性の違いはかなり大きいし、オーケストレーションにはおのおのの独特の部分がある・・・ピアニストであったシマノフスキのほうが細かく構造的密度が高くチェリストでもあったフランツは旋律とそれに寄り添う和音進行にのみ集中しているように聴こえる・・・が、ともに同じ空気を吸った、ロマン派の末期の水をとるような生暖かい雰囲気はなかなかである。
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オネゲル:交響曲第3番「典礼風」

2009年03月11日 | フランス
○ザッヒャー指揮バーゼル交響楽団(PAN CLASSICS/ACCORD)CD

オネゲルの「人受けを狙った作品」はずるい。とにかくこの人、職人なので芸術と商売のバランスの重要性を熟認しており(六人組出身ということもある)、音楽は「聴かれなければならない」という・・・普通の音楽ファンにとっては当たり前のことなのだが・・・大前提をもって、このような「あざとい」作品を作り、同業者に揶揄されたりもした。結局現代においてその中途半端な立ち位置ゆえか、演奏「されない」のだが、それでも学生団体や室内合奏団のようなところは密度の高い書法に惹かれるのかやらないわけではない。極東の島国においてそういう状況であるのだから案外本国近くでもやられているのではないかと推測する。

そのあざとさは晦渋に聴こえてそのじつ、「情緒的な作曲家である」バッハの模倣を基調にしっかりした旋律を徐々に出していって最後にはこれもよく指摘されるところだがRVWの「無難な音楽」に近似した美しい牧歌を、「希望」という看板を掲げて歌い上げ、形式的に再びバッハに戻りはするものの、最後には木管の響きに2楽章の情緒の再現をもって印象的に終わる。

ザッヒャーは即物的な処理が向かないと思ったのか個人的な思いいれのせいか、似つかわしくないくらいロマンティックである。といってもテンポ・ルバートや表情記号の過剰な強調をなしているわけではない、音色への配慮が繊細で、機械的なアンサンブルをやかましく聞かせるのではなく、十分に入り込ませるような壮大な表現になっている。むやみな構造偏重ではない。そもそも構造なんて一寸聴きで感じるほどには複雑ではないこともある。無難にも感じるし、現代の他の演奏家のものと置き換え可能な範囲のような感じもしなくもないが、それでも何かしら残る演奏。やはり二楽章の表現の美しさが肝要なのだろう・・・○。
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フォス:カプリッチョ

2009年03月11日 | アメリカ
○ピアティゴルスキー(Vc)作曲家(P)(RCA)

フォスが亡くなったとつい先ほど知った。2月冒頭のことだそうである。最近よく聴いていた作曲家・演奏家なだけにびっくりした。奇遇は終近くにかぎってよく現れるものである。この楽しい小品はチェロピースとしてよく演奏され、曲名に象徴されるとおり技巧的で簡単ではないという印象があるが、軽やかに、時にはジャズ風、時にはボロディン(グラズノフ)風といった背景を思わせるフレーズを織り交ぜながら、民族音楽のフォーマットをもって、牧歌的な情緒を振り撒きつつ春風のように過ぎ去ってゆく。アメリカだから民族音楽と言っても借り物である、しかしそこが我々のような異種民族にとっても入りやすく感じられるのだ。

フォスの作風は職人的で折衷性を感じさせるものだが聴く者に首を傾げさせない配慮が行き届いている。一方この人は同時代の作曲家の紹介者に留まらない演奏活動をもって著名だったのであり、ピアニストとしてはまさに50年代アメリカのドライなピアニズムを保ったような溌剌としたもので、どんな曲もさらっと弾きこなすような高い技量を感じさせる(一方ピアノという楽器の表現を突き詰めていく専業ピアニスト的な部分は少ない)。アンサンブルピアニストとしてさかんに活動していて、この演奏録音もその一つであろう。そしてここでも、作曲家だからということもあるだろうが、リズムを強く、しかし軽く感じさせるような残響の無い演奏ぶりで音楽を盛り立てていく。一方ピアティゴルスキーはというと、こちらは田園風景だの夜の酒場だのといった情緒的なものは持ち込まない。ここにはただクラシカルな表現による音楽だけがある。これはこれでいいのだろう。技巧が解れ音程がぶれている部分も僅かにあるがこの曲では仕方ないかもしれない。泰斗たるところを見せているといって過言ではないだろう。やはりグラズノフ風の楽想にて心象を与える。○。ご冥福を。。
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フランセ:四声と二台のピアノのためのカンタータ「ジュブニリア」

2009年03月01日 | フランス
○作曲家(P)他(A.Charlin)LP

11分。流行作家のようなところもある、委属ばかりのフランセの作品は殆どこんな長さだ。流行作家のようなところがあるからこそ、旧い盤になると一回しかプレスされなかったりして異様な高値がついたまま需要もなくどこかの蔵にしまわれているような状態だ。これは新しくて比較的入手がたやすいものだが、作品によって色が違うのが面白い。フランセというとあのマンネリズムの否めないタイプライターのようなピアノの走句が先導するスポーツ的世俗性が思い浮かぶが、声が入ると変わる、というか人声とそれに属する擦弦楽器の音が入るとフランセの音楽には立体性が加わり一気にクラシカルな価値が高まるように思う。アンサンブルの機械的な面白みだけで冒険がなけれは、聴き終わったら忘れてしまう。「縦に叩く音」だけではなく「横に流れる音」が重なって絡んでこそ、機械の体のピアニスト・フランセの醒めた芸風を流麗な音楽へと昇華させる鍵。この曲の四声はまさにこれがフランセの真骨頂だと思わせる。フランセをピアノの中核に絡んだ曲でしか知らない向きには新鮮に感じられるだろう。ここには不協和音が横溢している。初期に書くならともかく、いや初期ではカンタータがはっしのアンサンブルを繰り広げる背景に「いつものフランセのピアノ音楽」を重層的に流すようなわざは使えなかったろう。この演奏は劇性を孕みながらも比較的抑制的な表現で品のよさを示している。フランセ・デュオは殆ど前面に出ないが録音でバランスを整えているのかもしれない、丁度のバランスで不協和な流れに厭味を感じさせない配慮ととれる。○。フランセを知らない向きにもおすすめ。
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