りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

臆病と達観。

2012-11-13 | Weblog
先日、20年来の友人が突然入院し、手術した。

当初は病名を明かさなかったが、退院後、某snsに自身の日記をUPし、
その日記の中で自身が患った病名が「ガン」だったことを告白した。

日記を読む限り、幸いにも初期のガンだったそうなのだが、それでも
この年(友人はボクと同世代)でガンの告知をされた時の恐怖は想像
を絶する。
友人は、本当によくがんばって自分自身と闘ったと思う。

40歳を迎える数年前あたりから、少しずつ少しずつこういう話がボク
の耳にも届くようになりはじめた。

最初は友だちの友だちとか、知り合いの兄弟とか、そういった、いわゆる自分自身
と直接関わりがない人の話だった。
それがいつ頃からだろうか。
まるでそれこそ城郭の外堀から徐々に埋められてゆくように、自分と
直接関わりのある同世代の大切な友人の中から、こういう話を聞くよう
になりはじめた。

「人間、死ぬ時きゃ、死ぬんだからさぁ~」

酒や煙草を片手に安易にそうのたまっていたのは何歳の頃だっただろうか。
おそらく最もそういう言葉を口にしていたのは、学生時代だったと思う。
今思えば、そりゃあ、当たり前だ。
何ひとつその手に持っていないし、何ひとつ成し遂げていなんだから。
誤解を恐れずに言えば、そんな存在が死のうが生きようが、世間はもちろん、
周囲の人間の生活にも大した支障はない。
命の重さは、今より遥かに軽かった。

その言葉は嘘ではない、と今でも思う。
人間、どんなに生に執着していても、生きている限り必ず“死”は訪れる。
今でも頭の片隅には、その言葉は確実に残っている。
しかし、20数年が過ぎた今でも同じ言葉を同じような口調で言えるかと尋ねら
れたら、正直言って分からない。
今の自分の生活の前後左右を眺めれば、安易に同じ口調で言うには、あまりに
もいろんなモノを持ってしまった。

臆病になったのか?

そうかも知れない。
死ぬのが、怖い。
しかしそれは、子どもの頃に思っていた「痛い」の延長線上にあった心情とは、
ちょっと違う気がする。
肉体的ではない、どちらかといえば、精神的な怖さとでもいうのだろうか。

老人が「ワシは死ぬのは、な~んも怖くない」的なことを口にするのを、たまに
耳にすることがあるけど、たぶん、それは様々な経験を積んで「死ぬのが怖い」と
いう気持ちを乗り越えたところにあるのだろう。
いわゆる、達観というヤツか。
さすがにまだまだそんな気持ちになったことはないし、今の自分がなれるとも
思えない。

いわば、“死ぬのが怖くない”というのは、若者と老人の特権だろう。
若者は何も手にしてないし、老人は手にしたものを捨ててきたわけだし。
だから、もしも自分と同世代の人間で、若者や老人のようにそんなことを口にする
輩がいたら、ボクはそいつの人生観を疑う(笑)
達観するには若すぎるし、無知にしては年を食いすぎている。

まぁ、何はともあれ、ボクも気をつけよう。
我が家の家系も、明らかにガンの家系なのだから。

・・・といろいろと講釈をのたまいながら、2年前から10年ぶりに吸いはじめた
煙草に火を点けるのであった (-_-;)
コメント (4)
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