泉 1917年
人を喰ったこの作品は、20世紀美術というより、芸術に引導を渡したフランス人のマルセル・デュシャンの思想そのもの。
ダダイズムの先鋭といえるだろう。
絵画作品のほとんどは30歳前半に制作され、以降は既製品に少しだけ手を加えた”レディ・メイド”が中心になり、芸術家が選んだ既成品などのものをどう見せるかという思考とその意図をにおわせるタイトルが、芸術はかくあるべきという固定概念を打ち砕くものになった。
それにしても、鑑賞者にとって至極厄介な芸術家とその作品である。
観た者の知性と感性を試す、意地悪な査定者。
私が初めてデュシャンの作品に触れたとき、絵画作品はキュビズムや未来派の範疇で、暗い時代を反映したアンバー系の地味なものとの印象を受けた。
”泉”や”自転車の車輪””ビン掛け”に見られるレディ・メイドは、物が本来持つ機能美を展示することであえて晒し、人の既成概念を揶揄するニヒリストなのだと感じた。
知人のバーボンが好きな人は、よくデュシャンを褒め称えていた。
特に、”大ガラス”については熱弁をふるっていた。
製作過程において付着する塵や埃が形作る偶然性と、堆積する時間を定着させたという4次元性が、芸術に新風を吹き込ませた・・・といっていたような記憶がある。
若かった私は、仲間達と共に聞いていたけれど、人を煙に撒くデュシャンのやり方に鼻持ちならないと心服することはできなかった。
ただ今にして思えば、クラシック音楽界におけるジョン・ケージの出現と同じく、デュシャンは、ある表現の領域での局地なのだろう。
それ以後、美術の世界も音楽の世界も、ウェーブというものが絶えたように思う。
サブ・カルチャーの隆盛は、領域をずらしてのウェーブなのだと見ている。
美術のニーチェともいうべき彼は、チェスの腕前がセミプロだったという。
幾通りの数手先を読まなくてはならないチェスの名手は、チェックメイトを自分の手で成し遂げてしまったのかもしれない。
大ガラス「彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも」 1915~1923年
階段を下りる裸体 1912年