二十数年ぶりに「薔薇の名前」を観た。
あの堅牢な要塞のような建物が、いつまでも印象に残る。
初めて行ったイタリアの旅行で、なんとなく入ったデリカテッセンのショーケースにあってわからずに頼んだソーゼージがある、「ブーダン」だ。
ちょっとどす黒い色をして、切ると中はゼリー状のものが混じっていて、味に鉄っぽさを感じた。
そのときは、そのソーセージの正体がわからずじまい。
あとで見たなにかの本で、血入りソーセージとわかって驚愕したものだ。
そして、その作る始めの工程を見たのがこのい映画のワンシーン。
屋根のある土間の作業場で、生きた黒豚を吊るし、その咽喉下を掻き切って生き血を絞り出す。
ブーダンを作るには、栄養価の高い新鮮な豚の地が必要だから。
何にしてもショッキング。
修道院で、そのようなものを作ることも驚きだった。
だが、自分の無知さゆえで、本来修道院とは中世ヨーロッパにおいて最先端の技術を開発する頭脳と専門家の集まりで、ただ神に祈ることだけがその務めではない場所だっただけのこと。
ベルギーのビール醸造に長けていたのは、やはり修道院。
お菓子のマドレーヌは修道女が考案し、最近はやりのエッグ・ベネディクトはグルメだった修道士ベネディクトの名を冠しているではないか。
もちろん、薬を作ることや、古今東西の名著の翻訳や修復保管も重要な役目であった。
修道会の会派にもよろうが、王侯貴族に民衆の喜捨ばかりが収入源ではなく、こうしたさまざまに特化した技術を使って収入を上げていたのだ。
さて、この作品の重要なモチーフは「本」である。
知識の集約である「本」は、宗教にとってエデンの園にある「リンゴ」である。
従順な信仰の妨げになる、毒を含んだものだ。
舞台の修道院の盲目の長老ホルへ長老は、信仰の邪魔になる「本」を封印しようと必死なのだ。
特に機知の効いた本がもたらす「笑い」を嫌悪している。
人の持つ好奇心を刺激する「本」の存在が、ヘビの誘惑となって人々を巻き込んでゆく。
今のような印刷技術のない頃、本は手書きのために非常に貴重なものであった。
この修道院には、要塞のような文書館があり、多くの写本を収容している。
しかも、その文書館は、確か五角形の形をし、各頂点に当たるところが塔のような形で書庫になって、各塔をつなぐ階段が複雑に交錯し、まるで迷宮のようだ。
エッシャーの不思議な世界に迷い込んだかのような具合。
本好きで迷路好きの自分は、この場面だけずっと見ていたい誘惑に駆られる。
そこに追い詰められたホルへ長老の様子は、ある意味本に憑依された人のようである。
この様子に、なにかもやもやとしてはっきりしないがあるものを連想させたがっているよう感じていた。
あとでウィキペディアを見ると、ホルへ長老はホルヘ・ルイス・ボルヘスがモデルとある。
すとんと腑に落ちた。
なんと、結局のところ二十年の歳月を経てボルヘスに行きついた自分だが、すでにここで片鱗に触れていたのだ。
人の係わる世界の狭いこと。
映画を観た当時、フランシスコ会の修道士バスカヴィルのウィリアムに大いに共感できたけれど、今ではホルへ長老にも同じ気持ちを抱けるのだ。
あの堅牢な要塞のような建物が、いつまでも印象に残る。
初めて行ったイタリアの旅行で、なんとなく入ったデリカテッセンのショーケースにあってわからずに頼んだソーゼージがある、「ブーダン」だ。
ちょっとどす黒い色をして、切ると中はゼリー状のものが混じっていて、味に鉄っぽさを感じた。
そのときは、そのソーセージの正体がわからずじまい。
あとで見たなにかの本で、血入りソーセージとわかって驚愕したものだ。
そして、その作る始めの工程を見たのがこのい映画のワンシーン。
屋根のある土間の作業場で、生きた黒豚を吊るし、その咽喉下を掻き切って生き血を絞り出す。
ブーダンを作るには、栄養価の高い新鮮な豚の地が必要だから。
何にしてもショッキング。
修道院で、そのようなものを作ることも驚きだった。
だが、自分の無知さゆえで、本来修道院とは中世ヨーロッパにおいて最先端の技術を開発する頭脳と専門家の集まりで、ただ神に祈ることだけがその務めではない場所だっただけのこと。
ベルギーのビール醸造に長けていたのは、やはり修道院。
お菓子のマドレーヌは修道女が考案し、最近はやりのエッグ・ベネディクトはグルメだった修道士ベネディクトの名を冠しているではないか。
もちろん、薬を作ることや、古今東西の名著の翻訳や修復保管も重要な役目であった。
修道会の会派にもよろうが、王侯貴族に民衆の喜捨ばかりが収入源ではなく、こうしたさまざまに特化した技術を使って収入を上げていたのだ。
さて、この作品の重要なモチーフは「本」である。
知識の集約である「本」は、宗教にとってエデンの園にある「リンゴ」である。
従順な信仰の妨げになる、毒を含んだものだ。
舞台の修道院の盲目の長老ホルへ長老は、信仰の邪魔になる「本」を封印しようと必死なのだ。
特に機知の効いた本がもたらす「笑い」を嫌悪している。
人の持つ好奇心を刺激する「本」の存在が、ヘビの誘惑となって人々を巻き込んでゆく。
今のような印刷技術のない頃、本は手書きのために非常に貴重なものであった。
この修道院には、要塞のような文書館があり、多くの写本を収容している。
しかも、その文書館は、確か五角形の形をし、各頂点に当たるところが塔のような形で書庫になって、各塔をつなぐ階段が複雑に交錯し、まるで迷宮のようだ。
エッシャーの不思議な世界に迷い込んだかのような具合。
本好きで迷路好きの自分は、この場面だけずっと見ていたい誘惑に駆られる。
そこに追い詰められたホルへ長老の様子は、ある意味本に憑依された人のようである。
この様子に、なにかもやもやとしてはっきりしないがあるものを連想させたがっているよう感じていた。
あとでウィキペディアを見ると、ホルへ長老はホルヘ・ルイス・ボルヘスがモデルとある。
すとんと腑に落ちた。
なんと、結局のところ二十年の歳月を経てボルヘスに行きついた自分だが、すでにここで片鱗に触れていたのだ。
人の係わる世界の狭いこと。
映画を観た当時、フランシスコ会の修道士バスカヴィルのウィリアムに大いに共感できたけれど、今ではホルへ長老にも同じ気持ちを抱けるのだ。